二日目(2)
そして俺はまた、あのトンネルの前に来ていた。辺りには誰も居ない。木々のざわめく音と、蝉の鳴き声だけが聞こえてくる。そんな中で、トンネルは昨日と全く変わらない佇まいで俺を待っていた。ぽっかりと大きな黒い口を開けるそのトンネルに、俺はためらいなく吸い込まれていく。
トンネルの中は相変わらず真っ暗で、自転車のフロントライトは今日も意味を成していない。外は昨日にも増して暑苦しいほど明るいのに、トンネルの中はひんやりと暗い。その様子に若干の違和感を覚えつつも、俺は立ちこぎでトンネルの中を進んでいく。塗りつぶされたように黒い空間の中、自転車をこぎ続けていくらかの時間が経つと、やはり向こう側に小さく明かりが見えた。俺はその光にむかって、自転車を加速させる。
光がある程度の大きさになったころ、光の中に一つの人影があることに気づいた。あの肩幅の広いシルエットは、たぶん男のものだろうと思う。更に近づいてくと、その人物は白いワイシャツを着ていることがわかった。白いワイシャツが印象的な人物を、俺は一人知っている。まさか、と思いながら俺はだんだんと近づくその人物の顔を目を凝らして確認した。
信彦だった。
こちらがあちらに気づいたのとほとんど同時に、信彦も俺に気づいたようで、軽く手を振られた俺はそれを受けて、信彦の前で自転車を止めた。
「おい、ちび」
不名誉な呼びかけにカチンと来て顔がこわばるが、ここでくってかかっても仕方ないので、俺はと。
「なんか用ですか」
「お前さ、凪子と約束してここに来たんだろ」
相変わらず人の話を聞かない奴だ。俺はせめてもの反抗として露骨に顔をしかめた。
「……そうですけど」
「これ食っとけ」
信彦はそう言って、俺にまたキャラメルを一粒だけ差し出した。大きな手に一粒だけ乗っかっているキャラメルはしてどこかシュールだ。
「えっ、なんで……」
「いいから食え、早く。凪子が来ないうちに」
俺は少しだけためらったが、信彦の視線が痛いので、昨日と同じようにがしがし奥歯でキャラメルを噛んで、さっさと食べてしまった。
「食べましたけど」
「それでいい。……それと、お前は明日もここへ来るのか?」
「いや別に、決めてませんけど」
信彦はそこで一旦床に目を落としてから、ふたたび俺の方を向いた。信彦のこのトンネルみたいに真黒な瞳が、俺を見据える。
「明日ここに俺はいない。正確には今日の夜から明日の夜までだ」
「はあ……」
「明日ここに来るのなら、何かを食べながら来い」
「食べながら?」
「キャラメルでも、なんでも。必ずだ」
妙に真剣そうな信彦に押されて、ついつい俺はひとつ頷いてしまう。けれど、信彦はどうしてそんなことを言うのだろうか。そう聞こうとしたところで、信彦は俺に背を向けてトンネルの向こう、つまり俺が今来た方へ行ってしまう。俺は慌てて信彦の背中に叫んだ。
「何でそんなことしなくちゃいけないんですか!」
トンネルの中で俺の声と足音が何度も木霊する。けれど、信彦からの返事は聞こえてこない。
「ちゃんと説明して行けよ!」
今度はもっと大声で言ってみたが、やっぱり返事はない。それどころかトンネルの闇に飲みこまれて、信彦の姿さえもう見えなくなってしまった。俺はそれでも諦めきれずにしばらくトンネルの中を走って追いかけた。けれど、いくら追いかけてもついに信彦に追いつくことは出来なかった。
「なんなんだよ……」
荒い息のなか、ひとつ呟いて深呼吸をする。すると頭のすうっと芯が冷えてきて、そして俺は唐突に凪子との約束を思い出した。またあそこまで戻らなくちゃいけないのかよ、徒歩で。ああ、こんなことなら自転車で追いかければよかったんだ、というか元から自転車で追いかけていれば簡単に信彦に追いつけたんじゃないだろうか。いや、そんなこといまさら後悔したって仕方ない。俺は信彦を追っていた時とはうってかわって、のっそりと気だるく歩きだした。
自転車のところまで戻ると、そこには凪子がいた。相変わらず白いワンピースに白い帽子をかぶっている。トンネルの壁に寄り掛かってぼーっとしていた凪子は、俺の方に気づくと嬉しそうに近寄ってきた。
「修一、どうしたの?そんなに汗かいて、しかも自転車ここに置きっぱなしだし」
「信彦さんを追っててさ」
信彦の名前を聞いて、凪子は少しだけ眉をしかめた。
「信ちゃん? 会ったの?」
「うん、そうなんだよちょうどこのトンネル抜けたところでさ」
「あ、そっか。信ちゃん里帰り今日からだもんなぁ」
里帰りか、なるほど。この住宅地から外へ出るってことは、里帰りか、買い物かくらいだもんな。……いや、でも待てよ。
「……歩いて?」
「そりゃ歩くでしょ?」
いや、歩くのはまずいだろ。どのくらいの長さがあるかは正確に分からないけれど、このトンネルは歩いて抜けるとすればそこそこの時間がかかるはずだ。しかも、トンネルを歩いて抜けたとしても、トンネルから人が住んでいる所まで結構な距離があると思うのだけれど……。
「トンネルから近いのか? 信彦の実家」
「わかんない。そんなことより修一、お祭り行こう!」
「ちょ、ちょっと」
「きっとびっくりするよ、町が賑やかで!いっぱいお菓子食べようね!」
妙にはしゃいだ様子の凪子は自転車に乗って、振り返って笑う。俺もそれにつられるようにして笑う。そうだ、今日はお祭りなんだ。信彦のことなんか忘れて、思いっきり楽しもう。そんな気持ちをペダルに乗せて、俺は勢いよく漕ぎだした。