三日目(4)
「修一、修一」
誰かが俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。いったい誰だろうか。
「ちょっと、修一!」
今度は体を揺さぶられながら、また名前を呼ばれた。そこで俺は気づく。ああ、この声は母さんの声だ。俺はそっと目を開いた。するとそこには、案の定母さんの顔があった。
「修一、もう心配させて!今何時だと思ってるの?」
母さんにそう言われてあたりを目だけで見回すと、もうどこもかしこも紺色に染まって、すっかり日が暮れてしまっているようだった。
「……夜?」
「馬鹿!夜は夜でも、もう九時すぎよ!」
「えっ!」
九時、その言葉があんまりにも予想外すぎて、俺は飛び起きた。改めてあたりを見回してみると、そこは例のトンネルの前だった。トンネルの前にはライトをつけたままの母さんの軽自動車と、トンネルの先に鍵をつけて置いてきたはずの俺の自転車があった。
「こんなところで、こんな時間まで何してたの?」
「何って……」
何をしてたのか、改めて問われて、俺は思い出す。凪子とテトラポットを見に行ったこと、一緒にお菓子を食べたこと、そして……そして、凪子が俺を突き落としたこと。それからどうやってここまで帰って来たのかは、記憶がすっぽり抜け落ちたように、全く思い出す事ができない。
「……忘れた」
「忘れた?!忘れたって、どういうことなの?」
「いやだから、トンネルの向こうに抜けて、それで……忘れた」
凪子の事はあえて言及せず、母さんにざっくりと説明する。母さんはそんな俺の説明を聞いて、盛大にため息をついた。どうやら納得できなかったらしい。
「嘘言わないの」
「本当だって」
「いいから、正直に本当の事をいいなさい」
「なんで嘘って決めつけるんだよ」
「だって、トンネルは途中でふさがってるじゃない」
「は?」
それはいったいどういうことだろうか。もう何度も、俺はこのトンネルを通っているはずなのに、それが、塞がっている?どういうことか理解できず、俺はトンネルの中に飛び込んだ。トンネルの中は、外の夜闇よりも暗かった。その中を俺は無心になって駆けた。しかし何十メートルか走ったところで、大きな石のようなものに突き当たった。暗闇の中目をこらしてみると、その大きな石はいくつもあって、確かにトンネルをふさいでいるようだった。けれど、俺はこんな石の壁を知らない。こんなもの、少なくとも今日の午前まではなかったはずだ。動揺する俺はとりあえず、とぼとぼと母さんの所まで戻ってくる。
「ほら、ふさがってたでしょ」
「……うん」
「で、本当は何してたの?」
「自転車、こいでた。このへんぐるぐる」
俺はトンネルの向こうに行っていたというのをやめた。トンネルがふさがっている以上、今までの事を母さんになんと説明すればいいのか、分からなかったからだ。それに、トンネルの先が無かったら無かったで、それはそれでいいんじゃないだろうか、という気持ちが俺にはあった。情けないことに、俺は凪子に突き落とされたのが相当ショックだったらしい。
「そう、やっぱり。それで、どうしてここに倒れてたの?」
「それで、ええと……」
俺は必死で考える。この辺をぐるぐる自転車で回っていた俺は、どうして倒れてしまったのだろうか。けれど、そんな理由なんて何も思いつかなかった。そんな俺に、母さんはやれやれという様子で何かを差し出した。手のひらサイズの、古びた紙でできた箱だった。印刷がかなり劣化しているため、模様などはほとんどわからないが、かろうじてキャラメルと読めた。
「これ、あんたの自転車のかごに入ってたんだけど」
「それで?」
「それでじゃないわよ、拾い食いしたんでしょ?それで、具合悪くなって倒れたと」
「はあ?」
違う、とついつい否定しそうになったが、俺は口をつぐむ。ここで否定すると、倒れた別の理由を考えなくてはいけなくなる。母さんがその理由で納得してくれているならば、多少不名誉でも、そのままにしておくのがいいだろう。
「……ふたつだけ、食べた」
「もう、ほんと馬鹿なんだから。こんな古そうなお菓子食べたら駄目だって、中二にもなって考えられないの?」
「ごめんなさい」
「まったくもう、どれだけ心配かけたかわかってる?」
「わかってます、ほんとうにごめんなさい」
素直に反省をするポーズをとると、母さんはひとまず満足してくれたようで、俺に車に乗るよう促した。俺は自転車をトランクに積んで、助手席に乗り込む。俺が乗ったのを確認してから、既に運転席に座っていた母さんはさっそくエンジンをかけて、車を走らせた。
古ぼけたトンネルが自転車よりもずっと速い速度で遠ざかっていき、あっという間に小さくなっていった。複雑な胸の内を抱えながら俺はその様子をずっと、ぎりぎりまで眺めていた。
***
そして、ついに出発の日。俺は母さんの軽自動車に乗って、真っ直ぐに伸びる道路をひたすらに走っていた。窓の外を見ると、まだ青い水田が無限に広がっていた。もう一時間以上同じような景色を見ている。
「母さん、あと何時間くらいでつく?」
「そうねー、あと四時間くらいかしらね」
「うわ、まじかよ」
まだ何時間もこんな狭い中でじっとしていなくちゃいけないのかと思うと、本当に気が滅入ってきた。箱の中に入って走るなんて、どうかしている。こんな窮屈な思いをするくらいなら、いっそ自転車で実家まで帰りたいとすら思ってしまう。
自転車。その言葉がきっかけとなって、急にあのトンネルの向こうでの思い出が浮かんできた。凪子と信彦に出会ったこと、駄菓子屋に行ったこと、お祭りに行ったこと、そして、海辺のテトラポットを見に行ったこと。ここ三日間の思い出は、すべて幻か何かだったのだろうか。そんなこと信じられないと思う気持ちと、そうかもしれないなと認める気持ちとが、俺の中にあった。
凪子。凪子はどうして、最後に俺を突き落としたりしたのだろうか。いや、それ以前にどうして泣いたりなんかしたんだろうか。凪子の真意を知る術は、俺には多分もう無い。けれど考えずにはいられなかった。たった数日間とはいえ、楽しく遊んだ友達だったのだから。
俺は車窓から真っ青に晴れた空を見て、テトラポットの上から見た海の青さを思った。