三日目(3)
最初に凪子と出会った場所とは反対側に五分ほど歩くと、変わった形の白いブロックが表れた。四足、というか一つの足に三つの足が生えているというかんじの、なんとも形容しがたい形のそれが、テトラポットというらしい。それが果てしなく乱雑にいくつもいくつも積み上げられていた。
「はじめてみたの?」
「うん、まあ」
「不思議な形だよね、これ。それに、思ってたよりおっきかったでしょ?」
「そうだな」
凪子の言うとおり、境内の奥の茂みから見たときは、もっと小さいサイズを想像していた。けれど実際には俺の身長よりずっと大きくて、多分二メートル以上はあるんじゃないだろうか。その白さと大きさは、どこか信彦を連想させた。いや、さすがにあいつだって二メートルは無い気がするけど。
テトラポットにを見ながらぼーっとそんな事を考えていた俺のシャツを、凪子がひっぱった。俺はそれに反応して、凪子を見た。凪子の顔はさっきと同様に明るく、とても機嫌がよさそうだ。
「さて、修一、登ろう!」
「は?」
さも当然そうに、笑顔で言った凪子に俺はとっさにそうとしか答えられなかった。
「だから、登ろう!」
「え、危なくないのか?なんか隙間いっぱいあるし……」
「もー、大丈夫だって。修一は怖がりだなー」
「怖がってないし。ただ凪子が心配なだけだし」
「はいはい」
生返事をしながら、凪子はワンピースのすそをひるがえしながらさっさとテトラポットの上によじ登ってしまう。ここ数日遊んで気心が知れているとはいえ、年下の女の子にそう侮られて良い気はしない。俺は、戸惑いながらもテトラポットを登り始めた。足をかける所の少ないため、最初こそ戸惑ったが、結局は凹凸の大きい形なので俺は難なくテトラポットの頂上に登ることができた。どうだ!そんな気持ちで凪子が居るはずの方向を見ると、凪子はテトラポットの海を渡り歩いて、遠くの方まで行ってしまっていた。
「おーそーい!」
小馬鹿にしたような声色で、凪子がはやす。俺は大人げなく頭に血を登らせて、凪子のあとを追うべく、一歩踏み出した。けれど、なかなかうまく凪子のところまでいけない。テトラポットたちはランダムに積み上げられていて、真っ直ぐになっている足場が極端に少なかったからだ。だから多少斜めになっている足場も利用しなければならないのだが、テトラポットの表面はつるつるしているので、そういう足場を使う時は慎重に行かなければならなかったのだ。しかも、テトラポットとテトラポットの間にできる深い穴が、俺の歩みを必要以上に慎重にさせていた。万が一あんなところに落ちたら、怪我なしでは済まないだろう。
それでもなんとかコツをつかみながら、結構な時間をかけて、俺は凪子の所まで到着することができた。ただ、喜ぶ気力もないほど、心も体もげっそりと疲れてしまっていたが。
「修一、お疲れ!」
元気そうに微笑む凪子の笑顔が、今回ばかりはたまらなく憎らしい。
「疲れたよ、もう、ホントに」
「もう、今からそんなんじゃ、帰るときもっと大変だよ?」
「帰り道……」
帰り道の事を思って、俺はさらに落ち込んだ。あといくらかしたら、俺はまたこんな罰ゲームみたいなことさせられるのか、と。本気で落ち込む俺を見て、凪子は慌てた様子でフォローし始める。
「あ、で、でもさ!もし辛かったら私がおんぶして帰るよ!」
「いいよ、凪子。俺、大丈夫だよ……」
「そ、そう?」
「ああ……」
本当なら軽口のひとつやふたつ言って、凪子を安心させればいいんだろうが、ひきつった笑いを浮かべながら申し訳程度に大丈夫だというくらいしか、今の俺にはできなかった。本当に情けないったらない。
「あ、そうだ!修一、お菓子、お菓子食べよう!」
「お菓子、ああ、そうだな」
凪子は立っていたテトラポットに何のためらいもなく腰をかける。俺もそれに倣って、おそるおそるなるべく平らなテトラポットに乗り移ってから、座った。
「お菓子食べれば元気出るって!」
凪子はいそいそと大きなバスケットを開けて、中から色々な駄菓子を取り出して、自分の膝に並べていく。というか、凪子はどうしてあんな大きなものを持って、あんな不安定な足場を歩けるんだろうか、本当に不思議で仕方がない。
「ほら修一、どれがいい?」
広げた駄菓子を示して、凪子が俺に言う。そこには思ったよりもいろんな種類の駄菓子があった。定番のスナック菓子やら、嘘ヨーグルトやら、この前の駄菓子屋で買ったのか、感じさせる年代はばらばらだった。俺はとりあえず目に付いた、小袋に入ったラムネを手に取る。
「これ、いいか?」
「うん、どうぞ。じゃあ私は……これかな」
凪子も自分の菓子を選んで、そしてさっさと食べ始めてしまった。
「ほら、修一もはやく食べなよ、全部食べちゃうよ」
「わかったわかった」
切れ込みから袋を破って、中身のラムネを取り出し、口に含む。適当に口の中で小さくしてから、あとはもう飲みこんでしまった。さて、次の駄菓子はどれにしようか。ああ、そうだあのパチパチするあめでも食べよう。そう思って手を伸ばした時、胃の中に妙な違和感を覚えた。だるいような、重いような。気のせいだろうか。
「なあ、凪子」
「なあに?」
「このお菓子さ、実はすげー古いとかない?」
「えっなんで?! そんなことないよ!」
「いや、なんか昔っぽいのとか結構あるし」
「それはほらー、あの駄菓子屋さんで買ったからだよ」
「だよな、まさか傷んでるとか、そんなことないよな……」
「大丈夫だよ! 絶対!」
せっかく俺の為にお菓子を用意してくれた凪子に、ちょっと胃の調子が悪くなったくらいでこれ以上色々言う気にはなれず、俺はその違和感を無視して、次のお菓子を手にすることにした。いかにも昔風のお菓子ではなく、最近のコンビニでも売っているようなものを探す。すると最近流行のアニメキャラクターが印刷されたマシュマロが目に入った。これなら間違っても傷んでいることはないだろう。
しかし、そのマシュマロを飲みこんだ次の瞬間、激しい嘔吐感が俺を襲った。あまりに気持ちが悪いので、何度も何度もえずいてしまう。
「修一!ちょっとねえ、大丈夫?」
心配してくれる凪子の呼びかけに、俺はこみ上げる不快感のあまり応えることが出来なかった。
「これ、飲みなよ。きっと気分が良くなるよ」
そんな俺に、凪子は本当に、本当に心配そうに俺に口のあいた水筒を差し出す。ほのかなはずの麦茶の香りが、何故か強烈に鼻につく。それがただただ怖くて、俺はしぐさで麦茶を拒んだ。
「どうして?」
眉間をわずかに寄せて、眉尻を下げて、不思議そうな顔をする凪子。
「飲みなよ、楽になれるよ、きっと」
諭すようなやさしい声色で、凪子は俺にそう言う。そう言って、白くて細くて小さい手で持った水筒を、健気に俺に勧める。
「い、いらない……」
「わがままいわないで、苦しいんでしょ」
「飲みたくない」
「なんで?」
「だって、それ、匂いが」
「匂い?なんにも変なにおいしないよ。飲みなって、ねえ」
体のパーツそれぞれが、どんどんだるくなってくる。座っているのも辛いくらいに、頭も肩も腕も何もかもがずっしりと重い。頭の中も鈍くなってきている気がする。俺はたまらずにこうべを垂れた。
「飲みたくない」
「なんで」
「やだ」
「修一……」
俺は項垂れていたので、凪子の表情を見ることはできなかった。けれど、彼女の表情はたぶん、悲しそうなものに違いない。だって親切心で差し出した麦茶の匂いが気に入らないと、断られたんだから。
「飲んで」
口のすぐそばに水筒を押しつけられて、それでも俺は素直にそれを飲もうとは思えなかった。麦茶の香りからどうにか逃れようと顔をそむければ、凪子は無言でまた、俺の口元に水筒を押し付けるのだった。そんなことをしている間にも、どんどん具合が悪くなる。内臓が体の中でぐるぐるうごめく感じがする、冷や汗が体中から噴き出す感じがする。口がぱさぱさに乾いて、変な味がする。そして俺は、舌の裏に隠していた食べかけのガムの存在を思い出した。
こんな時にガムの事なんか思い出してどうするんだ。そうも思ったが、そもそもこのガムは何で食べてきたんだっけ。そうだ、信彦に言われて、わざわざ噛んできたガムじゃないか。キャラメルでも、なんでも、食べながら来いとあいつは言った。ガムを食べながら……食べる?
そうだ。食べたらいいんだ。ガムを飲みこめば、いいんだ。俺はのろのろ動く舌を動かし、隠れたガムを引っ張り出してそして、飲みこむ。ガムが喉を通り、それはやがて胃に達した、気がした。
するとどうだろうか、さっきまでの気持ちの悪さがどんどんなくなっていく。体は嘘のように軽くなって、頭もすっきりと冴えてきた。頭がはっきりしてくると、俺を心配して麦茶を差し出してくれていた凪子の事が気になりだした。いつのまにか麦茶の香りも気にならなくなっていたので、俺は目の前にあった水筒をやっと受け取り、それをぐいぐいと飲んだ。
「凪子、ごめん。あと、麦茶うまかったから、ありがとう」
顔を上げながら、俺は凪子にそう言った。そこに、ほっとした顔の凪子が居ることを期待して。けれど実際そこにいたのは、瞳いっぱいに涙を浮かべた凪子だった。
「いま、何か食べたでしょ」
「え、ああ、噛んでたガムが口の中にずっとあったんだけど、なんか飲んじゃって……」
「ガム、飲んだの?」
「えっと、うん」
「麦茶を、飲む前に?」
「だから、そうだけど」
俺がそう言うと、凪子はとうとう泣きだしてしまった。
「な、凪子どうしたんだよ?」
俺は慌てて声をかけたが、凪子は首を振るだけで何も答えない。ただ、嗚咽をこらえずに泣きじゃくるのだった。凪子の膝に広げられた駄菓子たちが、ぽろぽろとテトラポットの隙間に落ちていく。
「凪子、駄菓子が……」
「いいの!そんなの、もう……意味無いんだから!」
意味無いんだから。凪子のその言葉が奇妙に俺の頭の中で、何度も何度も反響した。
「それってどういう……」
その言葉の真意を知りたくて、確かめたくて、俺は凪子の震える小さな肩に触れる。いや、触れようとした。凪子が俺の手を強く振り払ったので、触れられなかったのだ。
「どう、して」
あまりの凪子の態度の豹変ぶりに戸惑いを隠せなかった。ひきつった喉で、なんとか凪子にそう問う。すると凪子はすっと両掌を俺に向けて、その手でためらいなく、俺の体を突き飛ばした。
不安定なテトラポットの上で、傾く俺の体。自分の力じゃ、もう戻れない。俺の体は、俺の意思とは関係なくテトラポットの隙間の奈落へと吸い込まれていく。曇った空、テトラポットの丸まった角、お菓子の入ったバスケット、そして、凪子。そのすべてがゆっくりと遠ざかっていく。
どんどん遠ざかる景色の中、凪子の口が動くのが見えた。けれど何を言っているか、俺の耳には届いてこなかった。
「みっつ、たべたのに」
「おともだちに、なれるって、ずっといっしょだって……」
「どうして、 ……」
景色は豆粒のように小さくなり、やがて消え、世界は真っ暗になる。黒く塗りつぶされた世界、この場所を俺は知っていた。どこだっただろうか、ここは、どこだっただろうか。
頭が重い。さっきのような不快な重さではない。眠りに落ちる直前の、心地よい気だるさが、俺の頭を支配しつつあった。ここがどこなのか、凪子はどうなったのか、なんだったのか、知りたかったが、頭が考えること自体を拒否する。
ゆるやかなまどろみのなか、俺は瞼を閉じて、眠った。