三日目(2)
トンネルの周辺は、天気が晴れだろうが曇りだろうが、雰囲気にあまり変わりは無かった。あたりは不思議に静かで、その中で妙に存在感を持ったトンネルが、真っ黒な口をあけている。俺はその前で一度自転車を止めて、ポケットにしまいこんだガムを取り出して、一粒口に入れた。ありがちなミントのガムだったようで、口の中がスーッとする。信彦は、食べながら、と言っていた。それならガムを噛みながら、トンネルをくぐればいいはずだ。
俺は自転車のペダルに足をかけ直して、ガムを噛みしめながらトンネルの中に入って行った。暗いトンネルの中で自転車を漕ぎながら、俺はどうして信彦の言うとおり、ガムなんて噛みながら自転車に乗っているんだろうかと考える。俺の中で信彦は嫌いな人間ではないが、正直良く分からないだけの人間だ。そんな奴の言う言葉を素直に聞いてしまっている自分に、多少の違和感を感じていた。確かに、信彦の言葉には妙な説得力というか、そいうものがある。あったような、気がする。けれど、俺はそんな説得力とかあいまいなもので、言うことを聞いてしまう人間だっただろうか。
「そうかもな」
そうだ、きっと信彦が妙に偉そうだから、知らないうちにそういうものかと思いこんでしまったのかもしれない、昨日は一日忙しかったし。そうだ、そうに違いない。
そんなことをぐだぐだと考えているうちに、俺は結構な距離を進んでいたようで、いつの間にか出口がもうだいぶ近かった。出口には昨日のように人影があった。一瞬信彦か、とも思ったが、違った。今日のそのシルエットは信彦のものよりずっと小さくて、そしてなにやら帽子のようなものをかぶっているみたいだった。凪子だ、きっとそうに違いない。俺は慌ててその人影に向かって手を振った。すると、人影も俺に手を振り返してくる。昨日の帰りに見た、あのおかしい振り方で。
凪子がもう待っているとはっきりわかったので、俺ははやく出口へ到達すべく、立ち漕ぎをはじめる。するとスピードがいつものようにぐんぐん上がり始め、出口の光と凪子がどんどん近付いてくる。そしてほどなくて、凪子の所にたどりつけた。凪子は今日もまた、同じような白いワンピースに白い帽子を被り、昨日カステラと水筒が入っていた、大きなバスケットを持っていた。
「おはよ、修一」
「こんにちはだろ」
「じゃあ、こんにちは、修一」
上機嫌そうに挨拶する凪子につられて、俺の顔もついついゆるんでしまう。
「修一、今日はいっぱいお菓子持って来たんだ!」
「へー、そりゃまたなんで」
「修一さ、昨日テトラポット知らないって言ってたでしょ?だから一緒に見に行こうかなって思って。それで、そこでお菓子でも食べたら楽しいかなって。修一っていっつもお腹すいてるもんね」
「ここまで自転車ずっとこいできてるからなあ、腹も減るって。トンネルもやたら長いし。それにほら、俺成長期だから」
「成長期?」
凪子はまじまじと俺の頭の上の方をみる。俺はわざとらしくないくらいに胸を張って、少しだけ自分を大きく見せようと試みてみた。
「信ちゃんよりずっとちっちゃいけど?」
「うるせえ」
信彦と比べられては勝ち目は無い。だいたい、あんなデカいのはそうそういないと思う。ただ、凪子にそうやって言い訳するのはなんだか格好がつかないので、黙っておくことにした。
「あ、そうだ修一」
「なんだ?」
「なにか、食べてないかな?」
そう言われて、ギクリとした俺は口の中にあったガムを慌てて舌の裏に押し込んだ。吃驚した様子を悟られない様に、平静を装って言葉を返す。
「いいや」
「ほんとに?」
凪子は疑うような目でこちらを見上げてくる。丸い大きな瞳に見つめられ、俺は今更罪悪感を覚えた。どうして俺は、こんなくだらないことで嘘をついたのだろうか。別に凪子が恐ろしいとか、何か食べていたら怒られるとか、そんな事はないはずなのに。今からでも遅くないから、素直にガムを食べていると言ったほうがいいのだろうか。そう思って口を開きかけたそのとき、凪子の方が先に喋り出した。
「よかったー。何か食べてきてたら、お菓子いっぱい持ってきちゃったから困ったなって思ってたんだ。ほんと、よかった!」
「あ、そ、そうなんだ」
「うん」
大げさなリアクションでほっとする凪子に、わざわざ水を差すことはできなかった。それに俺が今食べてるのはガム一粒だけだし、凪子が心配しているようにガムのせいで他の菓子が食べきれないということはないだろう。
「じゃあ、修一。行こうか!」
「テトラポットはここから遠いのか?」
「ううん、すぐ近くだよ。だから私も今日は自転車じゃないでしょ。それに、砂浜の上をちょっと歩かなくちゃいけないから、自転車はどうせ置いてかなきゃいけないし」
「ああ、そっか。じゃあ、自転車は置いて言った方がいいな。どこに置けばいいかな」
「この辺においちゃえば?車も人も、どうせ通らないし」
「そうだな」
俺はトンネルの出口のすぐそばの、ガードレールの横に自転車を停めた。万が一に備えて、一応ガードレールと車輪にチェーンを通して鍵をかけておく。
「それじゃあ行こうか、修一」
そう言った凪子は、当たり前のように手を差し出してくる。そして俺も、その手をなんのためらいもなく取る。
空はトンネルの向こうもあいにくの曇り空だったが、海は不思議に青く輝いていた。そんな海のそばを、俺と凪子は海辺のテトラポットを目指して、笑いあいながら歩いて行った。