三日目(1)
次の日も俺はトンネルの向こうへ行こうと、昼飯を食べた後、自転車を出しに車庫へ向かった。外へ出ると、まず一番最初にどんよりと曇った灰色の空が目に入る。蒸し暑いほどだった昨日とはうってかわって、気温も半そでだと少し肌寒いくらいだった。もしかしたら傘でも持って言った方がいいかもしれないな、なんて考えながら車庫のシャッターを開けると、そこには軽トラの運転席でこっそり煙草を吹かすじいちゃんの姿があった。じいちゃんはこちらに気づくと、いつものようににんまりと笑って手を振ってくる。
「じいちゃん、禁煙してるんじゃなかったのか。ばあちゃんと母さんにどやされるぞ」
じいちゃんは元々相当なヘビースモーカーだったが、何年か前の検診の結果が思わしくなかったせいで、ここ数年半強制的に禁煙させられているのだ。
「ばれなきゃいいんだよ、ばれなきゃ」
まったく悪びれる様子なく、じいちゃんは悠々と煙草を吹かし続ける。
「じゃあ今から言いに行くかな」
「お前なあ、そういうことやめろよ。煙草はなあ、男のロマンなんだよ、修一にだってわかるだろ?たまーに、ちょっと吸うくらい良いじゃねえか、なあ」
ちょっとなんて言いながら、運転席の灰皿には何本もの吸い殻が入っているように見えた。遠くからだから詳しい本数は分からないが、ちょっとでないことはわかる。
「もう年なんだから、いい加減体大事にしろよ」
「体ねえ……煙草吸わない方がイカレちまう気がするけどなあ……」
紫煙を吐き出しながら、しみじみとじいちゃんが言う。
「気のせいだって、馬鹿じじい」
「気のせいじゃねぇよ。煙草は俺の石炭だ!」
じいちゃんはそこで、何故か大声でカッカと笑った。どこが笑いどころか分からず、俺は首をかしげる。
「まあいいや、俺、もう行くわ」
「おっ、また自転車かあ?お前も飽きねぇなあ」
「まあね」
「まさかコレか?」
右手の小指をたてて、いやらしい笑みを浮かべながらじいちゃんが言う。
「なにそれ」
「女ってことだよ」
「はあ?」
ついつい俺は大声を出してしまう。半分図星だったからだ。俺は今日も昨日も、凪子との約束のために毎日トンネルの向こうに通っている。けれど別に、凪子は女とかそういうわけじゃないし、俺もそういうのを意識して凪子と接しているわけではない。ただ、その事実が少しだけ恥ずかしいというのが、心のどこかにあった。
「ち、違うし」
「嘘つけ、で、どんな子なんだ?」
「だから、違うって」
「この辺だったら……桜子さんとかか?かーっ、お前どんだけ熟女趣味なんだよ!まあ、桜子さんも五十年前はそうとう美人だったらしいけどなあ」
じいちゃんは勝手に盛り上がって、色々まくし立ててくる。こんな時のじいちゃんには何を言っても無駄なので、俺はさっさと出発してしまうことにした。
「違う!……もう行くから。あと、帰ってきたらばあちゃんと母さんに煙草の事報告するからな」
俺が自転車を車庫の奥から引っ張り出しながらそう言うと、じいちゃんはあからさまに慌てた様子を見せる。
「お、おいっ!待ってくれよ修一、じいちゃんが悪かった!な!」
じいちゃんの懇願を完全に無視して、俺は素知らぬ顔で自転車にまたがった。じいちゃんはそんな俺をみて、急いで煙草を灰皿になすりつけて、軽トラから降りてきた。
「修一、な、頼む!頼むよ!お前も男だろ?」
「男とか関係ねーし」
「じゃあほら、これやるから!」
そう言ってじいちゃんは口のあいたガムを差し出した。じいちゃんがいっつも、煙草の代わりに噛んでいる、普通のガムだった。いらない、と突っぱねようと思ったが、そこで俺は信彦の言葉を思い出した。確か、何か食べながら来いって言っていた気がする。今から家の中に何か取りに行くのは面倒だし、丁度いいかもしれない。そう思って、俺はじいちゃんの手の上のガムをつかみ取って、ポケットに突っ込んだ。
「わかった。今回だけだからな」
「すまねえな、修一!ありがとよ」
「じゃ、言ってくるわ」
そう言い残して、俺は自転車を走らせ始めた。じいちゃんは威勢よくいってこい!と言って俺を送り出してくれた。
相変わらず空は鈍色で冴えないけれど、きっと凪子といっしょなら、また楽しい時間が過ごせるだろう。そんな期待を胸に抱いて、俺と自転車はトンネルへ走る。