ちいさな夜
アニーはその日夢を見た。彼女は、初めて見た夢に驚き、また、夢を見る能力を持ち合わせていた自分にも驚いた。
彼女が立っていたのは、夜に浮き上がる街の中。そして世界はこの街だけで一つの球体となっていたので、全てのものがアニーより下に位置しているように見えた。頭上ではこの街よりも大きな満月が、その巨躯に似合わない、ほんのりとした輝きをふりまいている。
手を挙げれば指先にぶつかってしまうのではないかと思えるほどに、月は彼女の頭のすぐ上でのそりとも動かなかったが、実際に手を伸ばしてみても、結局触れることはかなわなかった。
ひたすらに巨大で、ひたすらに橙がかった発光を続けるその月を不気味に感じたアニーは、わずかに婉曲した煉瓦道を一歩、また一歩と辿り始める。しかし彼女が立つ場所は常に街の頂点となってしまい、満月も頭上にくっついて後を追ってくるので、脇を後ろへと流れていく街並みを横目に、
「夜のまんなかで、大玉に乗せられているみたい」
とひとりごとを言う始末であった。
よくよく見れば、街の住人たちはアニーの知る顏ばかりである。とは言えあくまでも夢の中の彼女としての記憶であるため、本当に会ったことがあるのかと訊かれれば、返答に困ってしまう程度の顔見知りでしかないのだが。
彼女たちもアニーのものとよく似たレースのドレスを着こなし、窓から植え込みから街灯の陰から、月を従えて(あるいは月に従えられて)通りを闊歩していくアニーに、透き通る無機質な視線を注いだ。それこそ三日月のような冷たさと、本物の月光の妙な生ぬるさに耐えきれなくなった彼女は、無意識のうちに煉瓦を蹴って駆け出した。
月は突然速度を変えたアニーに多少なりとも動揺したのか、ほんの少しだけ後頭部寄りに傾いたようだ。けれどそれでも必死に追いすがってくる。ゆったりしたつくりとはいえ、ロング丈のスカートはとても動きにくかったが、満天の星空だけを真っ直ぐに見据えて、アニーは速度を上げていった。
もはやこの丸みを帯びた地上においては、永遠に続く坂を下っているようでもあり、延々と坂を上り続けているような感覚でもある。
気が付けば彼女は、ぴかぴかに磨きあげられた赤い自転車の、ペダルを漕いでいた。状況の変化に驚く間もなく、これ幸いとばかりにアニーは漕ぐ足を早める。
満月は後方へ傾いたきり、頭上まで追い付いてこなかった。それなのに、彼女の目の端ではいつまでもあの黄金色の光が貼り付いて離れない。道沿いの灯や家々の玄関ランプ、道端に停車している自動車のライトまでもが全て満月の光と同じに見えてしまうので、横切るたびに首を回して睨まないわけにはいかなかった。そうして自転車の速度は更に上げられていく。
両脇の街が風のように流れていく頃になって、アニーはようやく、自分が自転車に乗った経験がなかったことを思い出した。止まろうにも止め方の見当がつかないのだ。だがこうも満月が追いかけ回してくるようでは、どちらにせよ、彼女に立ち止まる術などなかったのかもしれない。
植え込みの中から目の前に、いきなり小さな影が躍り出るまでは。
猫だ、ああ轢いてしまう。直感するやいなや、自転車の車輪はついにその黒い塊と衝突し、派手に横転した。
路面に投げ出されたアニーはすりきれて黒ずんだ両手や、自慢にしていた巻き毛を見つめ、
「こんなに汚れてしまっては、あのこにすてられてしまうわ……」
ぽつりと呟いてから体を起こし、背後を振り返る。間違いなく轢いたはずなのに、そこには猫らしき生き物どころか、血の一滴さえも残ってはいなかった。その代わりなのか、煉瓦の上にはブローチ大のレンズが一つだけ、ぽつんと落ちている。
片手でつまみ上げ、ずいぶんと遠ざかった月に透かしてみると、『かわいいアニー』という字が浮き上がって見えたのだった。
「なんなのかしら。これ」
「コンタクトレンズだよ。アニーの大きな瞳によく似合うだろう?」
声に驚いて視線を道に戻すと、先ほど激突した猫がアニーを見上げていた。片方の後ろ足が短く見えてぎょっとしたが、どうやらただ単に折り曲げているだけのようだ。
「でも、片方だけでは使えないじゃない」
「使えるさ。アニーは何でも見えるんだ」
猫は命を危険にさらされたというのに、自らを轢いたアニーへ、熱を帯びて今にも溶け出しそうな眼差しを注いでくる。
「こんな物、見えるものも見えなくなってしまうわ」
「その方がいい時もあるんだよ。人生というのはね」
アニーにはわからなかった。なぜこの猫は自分のことを庇護しようとするのかと。このように過保護極まりない発言までして。
「その猫は、アナスターシャ。君を愛しているのだ」
またもや、聞いたことのない声が頭の上で響き渡った。
そう、月である。初めはあんなに大きかった満月が、今はいつの間にやら、街の向こうから顏の上半分をちょこんと出してこちらの様子をうかがっていた。
月の介入に畏れをなしたのか、猫は声と同時に文字通り飛び上がり、植え込みの中へと走り去ってしまった。
「あら、あなたもお話しができたのね」
怖がらせられたせめてもの仕返しにと、アニーは皮肉を言い放ったが、月は狼狽えることもなくにやりとしてみせる。
「もちろん。猫なんかに劣るとでも?」
「いいえ、とんでもない。……けれどわたし、あのひとを轢いてしまった」
アニーは手の中のコンタクトレンズに目を落とし、愛していたという猫を思った。
「君も見たはずだ。猫は君に轢かれようと、道の上に飛び出したのだよ」
「そんなことをされたって、わたしはちっとも嬉しくなんてならないわ」
ちくり、胸の内に痛みが走る。それは猫に対する罪悪感なのか、急に優しさを帯びた満月の、包み込むような輝きに対してなのか。
「それが彼の、愛というものなのだ」
「わたしにも、愛する権利はあるわ」
アニーはスカートのほこりを払いながら立ち上がり、彼方の笑顔と正面から向き合った。
「もうわたしには構わないでちょうだい。おかしくなってしまいそうよ」
すると相手は更に遠ざかりつつ、きり返す。
「僕は今この時も、街中の皆へ同じように語りかけているのだ。君だけを気にかけていると思ったら、大間違いだよ」
その言葉を聞いた瞬間、空から星の光が、瞬くように見せかけて一斉に消え去った。ような気がした。
「そう。そうよね」
「もうじき、朝がやって来る。レンズは持っておいき。それは人間ならば、誰しもが身に付けているはずのものだから」
街の明かりが残らず途絶え、夜の下から紺と紫が浸食し、アニーの背中を強い光が穿ち始める。徐々に輝きを失い、街の底に沈みゆく満月を、彼女は今や、黙って見ていることなどできなかった。
「ねえ待って、置いていかないで。逃げたことは謝るわ。わたし……わたしは」
「覚えておいで。元の世界に戻っても、君がこうして多くの思いを抱いて生きていること、僕達だけは知っているのだと」
「待ってよ、お願いだから……」
あんなに、近くにあったはずなのに、どうして自分は逃げ出したりしてしまったのだろう。
いや、むしろあのまま想いなど知らずにいたならば、このように悲しむこともなかったのだろうか。
「さよなら。かわいいアナスターシャ」
街を縁取る曲線に、満月のてっぺんがぴたりと重なる。その一瞬を見計らったかのように、アニーの夢も、緩やかな終わりを迎えた。
***
「おはようアニー。今日は何して遊ぶ?」
夢から覚めたアニーの目に飛び込んできたのは、彼女を日頃から特に大切に扱ってくれている少女の、無邪気な笑顔だった。
「おはよう」
と、返事をしようとしてみるも、現実のアニーにはやはり、唇の一つさえ動かすことはできない。彼女が意思を持っていることなど知るよしもない小さな主は、アニーの美しい巻き毛をいとおしそうに撫でてくれた。
「他のおともだちも後で出してあげなきゃね。アニーはもちろんヒロインよ」
女の子らしい趣向の人形や、ぬいぐるみの詰まった玩具箱から、少女の一番のお気に入りであるアニーは誰より先に外へと運ばれた。夢の中では棄てられてしまうやもと恐れもしたが、日頃と変わらぬ扱いに内心ほっとする。幸か不幸か、その安心感が顏に出でることもない。
「かわいいアニー、今日もたくさん遊ぼうね」
――さよなら。かわいいアナスターシャ。
空っぽの体の中で、満月の慈愛に満ちた声が反響している。
自力で動くこともかなわぬ小さな人形は昨夜、確かに小さな夢を見た。そうしてその中で、確かに歩き、走り、転び、愛され、愛したのだ。
彼女にとって、それは余りあるほどに膨大な経験であった。
「……さようなら」
「え、アニー何か……ううん、そんなわけないわよ」
そう言って、再び玩具箱の中身に没頭する少女の背を、アニーは驚きを隠せないまま、何食わぬ顔で見つめる。
そして今度は決して聞かれないように注意しながら、もう一度だけ、呟いた。
「わたし、ずうっと覚えているわ」
あのとき拾ったコンタクトレンズが、現実にまで残っていたというのだろうか。
この言葉と共に、アニーの右目からは水が溢れ、一筋だけ、その滑らかな頬を伝ったのだった。
以来、アニーの声が人の耳に入る機会は、もう一度たりとも訪れていない。
とにかく幻想的な話を書いてみたい、というのがこの作品の始まりでした
夢は何とでもなってしまうので便利ですよね、つい甘えてしまいます……
コンタクトレンズがちょっと大きくしすぎて浮いてしまったような気もしますが、まあ今回はこれでよしとする事にします(笑)
それでは、ここまでお目通しくださり、ありがとうございました