妊娠三か月。エコーには何も映らないのに、お腹の中では確かに何かが動いている
妊娠12週を迎えた日、夫の神代慧吾と一緒に、汐見市の産婦人科医療センターを訪れた。
神代家は、私たちの結婚を歓迎していなかった。地方の小さな食堂で育った私と、神代ホールディングスの後継者である慧吾では、釣り合わないと思われていたからだ。
そんな家の空気が少しだけ変わったのは、私の妊娠が分かってからだった。
だからその日も、普通の妊婦健診で終わるはずだった。
担当の片桐医師が、モニターを見たまま動かなくなるまでは。
「神代さん、以前の検査では、妊娠していると診断されたんですよね?」
「……どういうことですか?」
片桐医師がモニターをこちらへ向けた。
「今の画像では、胎児が確認できません」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
生理は三か月来ていない。吐き気も眠気もあった。妊娠検査薬には何度も二本線が出て、最初の血液検査でも妊娠していると言われた。
最近では、下腹部の奥が時々ぴくりと動くような感覚まであった。
12週では、まだ胎動とは言えないのかもしれない。
それでも私は、赤ちゃんがそこにいると信じていた。
「そんなはずありません」
お腹を押さえた。
「ちゃんと、ここにいます」
慧吾が別の機械での再検査を求めた。
けれど、二度目も何も映らなかった。
さらに病院が出してきた以前の血液検査では、hCG値までほとんどゼロになっていた。
私が見た結果とは違う。
データを替えられたのだと訴えても、証拠はなかった。
三度目の検査でも結果は同じだった。
義母は、私が妊娠そのものを偽っていたのではないかと疑い始めた。
そして、ずっと私を庇っていた慧吾まで、最後には答えられなくなった。
「慧吾。私のこと、信じる?」
長い沈黙のあと、彼は私の手を離した。
その日、私は神代家を離れることになった。
病院を出ると、冷たい雨が降っていた。
駐車場を抜けたところで、知らない男が後ろから近づいてきた。
手にはナイフ。
男は何度も同じ言葉を呟いていた。
「腹……腹を狙えって……」
刃物が身体に入った瞬間、頭に浮かんだのは一つだけだった。
私が本当に妊娠していないなら――
どうして、わざわざお腹を狙わせたの?
次に目を開けたとき、私はあの日の診察室に戻っていた。
1
「神代さん、力を抜いてくださいね」
片桐医師の声で目を開けた。
見慣れた白い天井。
お腹には、まだジェルも塗られていない。
ベッドの横には慧吾がいて、私の手をしっかり握っていた。
「千景?」
掌が熱い。
「汗すごいぞ。気分悪いのか?」
すぐには返事ができなかった。
雨の冷たさも、血の匂いも、刃物が身体に入った感覚も、ついさっきのことのように残っている。
けれど、ここには雨も血もない。
すべてが始まる前に戻ってきたのだ。
「千景?」
もう一度呼ばれ、ようやく慧吾の顔を見た。
三十四歳の慧吾は神代ホールディングスの専務取締役で、創業家と取締役会の双方から次の社長候補と見られている。そして神代家の中で、最後まで私との結婚を押し通した人でもあった。
私たちが知り合ったころ、私はグループ傘下のホテル開発会社で一般事務をしていた。
綾乃さんは結婚に反対した。
菜々美も散々嫌味を言った。
それでも慧吾だけは、ずっと私の側に立っていた。
前の人生でも、最初の検査では信じてくれた。
二度目も。
けれど三度の検査、血液データ、医師の説明が同じ結論を指すようになると、慧吾もとうとう揺らいだ。
あのときは、それが許せなかった。
でも今は、泣いて「信じて」と繰り返すだけではなく、自分で証拠を拾ったら何が変わるのか、それを確かめたかった。
「大丈夫」
私はゆっくり手を抜いた。
「始めてください」
片桐医師が頷いた。
冷たいジェルが塗られ、プローブが腹部に触れた。
前の人生では、モニターしか見ていなかった。
今回は医師を見た。
片桐は慣れた手つきで操作していたが、画面が立ち上がった直後、一瞬だけ腹部ではなく横の操作端末へ目を向けた。
右手もキーボードに触れた。
ほんの数秒だった。
意識していなければ、気にも留めなかったはずだ。
十数秒後、片桐の表情が変わった。
「……神代さん」
言われる前に口を開いた。
「映ってないんですよね」
片桐が目を上げた。
慧吾もこちらを見る。
「千景?」
少し間を置いて、片桐が答えた。
「今の画像では、胎児が確認できません」
モニターを見る。
前の人生と同じだった。
慧吾が身体を起こした。
「どういう意味ですか」
「今の妊娠週数に相当する所見が見当たりません」
「機械は正常なんですか?」
「はい」
「なら、別の機械でお願いします」
片桐が困ったように眉を寄せた。
「機器を替えても――」
「お願いします」
慧吾の声は静かだった。
けれど、引く気がないことは伝わった。
「機械に問題がないなら、別の機械でも同じ結果が出ますよね」
片桐はしばらく黙り、やがて頷いた。
「分かりました」
私はゆっくり身体を起こした。
手はまだ震えていた。
それでも視線は、さっき片桐が触れていた操作端末から離れなかった。
2
最初の診察室を出るころ、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
綾乃さんと菜々美だった。
義母はこの日、財団の理事会へ出る予定だったらしく、濃いグレーのスーツ姿だった。
隣を歩く菜々美は二十九歳で、神代ホールディングスの経営には直接入っていないものの、家族財団と創業家の資産管理会社では役職を持っている。
前の人生では、ただ甘やかされた妹だと思っていた。
今は、顔の動き一つでも見逃したくなかった。
「何があったの?」
綾乃さんが慧吾に聞いた。
「画像がおかしい。別の機械で見てもらう」
「汐見市でも有名な病院なのに、そんなことある?」
菜々美が軽く笑った。
「菜々美」
慧吾が低く呼んだ。
「余計なこと言うな」
「変だと思っただけよ」
菜々美は義母の腕に軽く触れ、それから私を見た。
「千景さん、大丈夫? 顔色悪いけど」
その言葉を聞いた瞬間、一つの記憶が戻ってきた。
病院へ来る前、菜々美からノンカフェインのルイボスティーを渡された。
「妊婦でも飲めるって確認したから」
そう言われた。
前の人生では、飲んだあと妙に眠くなった。
今回は死んだ記憶のほうがあまりにも強烈で、そこまで意識が回っていなかった。
綾乃さんが私を見る。
「千景さん」
「はい」
「この妊娠を前提に、資産管理会社ではもう承継の話が動き始めてるの。あとになって『違いました』では済まないわよ」
「分かっています」
「ならいいの」
二つ目の診察室へ移った。
装置は違う。
けれど担当は片桐のままだった。
ベッドに横になる前に聞いた。
「先生も替えてもらえますか?」
片桐の目が一瞬止まった。
「私も、ですか?」
「機械の問題を切り分けるなら、そのほうが確実ですよね」
慧吾も頷いた。
「そうしてください」
片桐はすぐに答えた。
「もちろん可能です。ただ、今は他の医師も診察中ですので、まず私が確認します。結果が同じなら、責任者の医師に再検査をお願いします」
不自然とまでは言えない。
慧吾もそれ以上は言わなかった。
再びプローブが腹部に当たった。
片桐の手とモニターを交互に見る。
今度は、さっきよりはっきり違和感があった。
プローブの角度が変わっているのに、画面の変化が小さすぎる。
医学的におかしいのかは分からない。
でも、心の中に引っかかりが残った。
数分後、片桐は手を止めた。
「やはり、見えませんね」
綾乃さんの表情が変わった。
その横で、菜々美の目から一瞬だけ力が抜けた。
すぐに心配そうな顔へ戻る。
「どうして……」
慧吾が私の手を取った。
「千景、前の検査結果はある?」
「家に一部ある」
「病院にも残ってるはずだよな」
片桐へ向き直る。
「血液検査も含めて、以前のデータを出してください」
「分かりました」
片桐が部屋を出ていった。
その背中を見ながら、私は息を整えた。
前回は、この先ずっと相手の出す材料に追い立てられた。
今度は、同じようにはいかない。
3
十数分後、血液検査の記録が印刷されてきた。
一目で違うと分かった。
最初に検査したとき、hCG値は確かに妊娠反応を示していた。
でも今目の前にある数字は、ほとんどゼロに近い。
「これじゃない」
顔を上げた。
「私が見た検査結果じゃありません」
片桐が眉を寄せた。
「院内システムに残っているデータはこちらです」
「じゃあ、システムのデータが変わってます」
菜々美が小さく息を吐いた。
「千景さん、落ち着いて。そういうこと、簡単に言わないほうがいいと思う」
「覚えてる」
「でも、千景さんって、赤ちゃんが動いたとも言ってたよね」
視線がお腹へ落ちる。
「12週で、はっきり胎動って分かるものなの?」
言い返せなかった。
そこだけは正しい。
12週で明確に胎動を感じる人は多くない。
下腹部の奥が時々動くあの感覚も、本当は腸や筋肉の動きなのかもしれない。
それでも、あの感覚があるたび、私はこの子がまだいると思えた。
綾乃さんが検査結果を机へ置いた。
「千景さん」
「はい」
「妊娠したい気持ちが強すぎて、そう思い込んでいたとしても、責めるつもりはないわ」
「想像妊娠だと思ってるんですか」
「二台の機械で映っていない」
「検査薬は?」
「誤判定はあるでしょう」
「前の血液検査は?」
「今の病院の記録には、あなたが言っている結果が残っていない」
声を荒らげるわけではない。
だからこそ逃げ場がなかった。
菜々美が静かに続けた。
「自分を追い詰めないほうがいいよ。兄さんとの子どもが欲しくて、辛くなっちゃっただけかもしれないし」
私は彼女を見る。
「私が妊娠してなかったら、嬉しい?」
菜々美の笑顔が一瞬だけ止まった。
「まさか」
「そう」
慧吾が眉を寄せた。
「二人ともやめろ」
そのとき、下腹部の奥がぴくりと動いた。
思わず手で押さえる。
「また……」
慧吾が私を見る。
「何?」
「ここ」
彼の手を取り、お腹へ当てた。
「今、動いた」
慧吾はじっと待った。
数秒たっても、何も起こらない。
菜々美が小さな声で聞いた。
「兄さん、分かった?」
慧吾は答えなかった。
でも、その目に浮かんだ迷いは見えた。
私は手を離した。
「もういい」
綾乃さんが口を開いた。
「佐伯先生を呼んで」
「母さん?」
「部長に診てもらうわ」
スマートフォンを取り出す。
「検査記録も残してもらいましょう。あとから神代家が無理に結論を出したなんて言われても困るもの」
私は止めなかった。
三回目の検査が必要だった。
どうして、誰が診ても同じ結果になるのか。
今度こそ見逃したくなかった。
4
佐伯医師はすぐに来た。
五十代で、このセンターでは長く産科を担当している。
かなり急いで呼ばれたらしい。
前の人生で、ずっと疑問だったことがある。
片桐が事前に買収されていたとしても、数分前に呼ばれた佐伯までどうやって巻き込んだのか。
診察が始まった。
操作は片桐より慎重だった。
ただし、使用している院内システムも、接続された表示機器もそのままだ。
やはり何も映らなかった。
佐伯は血液検査のデータも確認した。
表示されたのは、さっきと同じ数値だった。
診察を終えると、手袋を外した。
「今確認できる画像と、院内に保存されている検査データからは、妊娠を裏づける所見は認められません」
すぐに聞き返した。
「一度も妊娠していなかったって、断言できますか?」
佐伯は少し考えた。
「断言できるのは、現時点で確認できる資料からは妊娠を診断できない、ということです」
私はモニターを見た。
佐伯は「妊娠していない」と言い切ったわけではない。
目の前にある資料を見て、そう判断しているだけだ。
「もういいでしょう」
綾乃さんが言った。
慧吾へ向き直る。
「千景さんには、いったん外へ出てもらいましょう」
「母さん」
「何回調べるつもり?」
声が少し強くなった。
「機械を替えて、医師まで替えた。以前の検査データも確認した。この件は株式承継の話にまで影響してるし、もう社内にも話が回り始めてるのよ」
菜々美が低い声で加えた。
「兄さん、これ以上長引かせたら会社にも響くよ」
慧吾は妹を見なかった。
私だけを見た。
「千景」
同じ質問をした。
「私を信じる?」
前の人生では泣きながら聞いた。
今回は違った。
慧吾は長いあいだ何も言わなかった。
「……分からない」
同じ答えだった。
私は小さく頷いた。
「そっか」
自分で診察台を降りた。
「じゃあ、触らないで」
伸びてきた慧吾の手が止まった。
綾乃さんは神代家の運転手と警備担当者を呼んだ。
「千景さんをホテルへ。今後は弁護士から連絡します。状況が整理できるまで、本邸には戻らないように」
菜々美はドアの近くに立っていた。
もう心配そうな顔はしていなかった。
病院を出ると、慧吾が追ってきた。
外では雨が降り始めている。
「千景」
傘を差し、隣へ来る。
「車で送る」
「いい」
「一人で行かせられない」
「どうして?」
慧吾が言葉を失った。
「私が最初から全部嘘ついてたかもしれないって、もう思ってるんでしょ」
「そこまで言ってない」
「でも、信じるとも言わなかった」
返事はなかった。
スマートフォンが震えた。
神代家から渡されていた家族カードが利用停止になっている。
生活費が振り込まれていた口座にも、新しい入金は止められていた。
自分名義の預金だけは残っている。
けれど、大した額はない。
続けて、神代家の顧問弁護士からメールが届いた。
別居と離婚について、今後の条件を協議したいという内容だった。
慧吾のスマートフォンも震えた。
画面を見た瞬間、顔色が変わる。
「俺は、ここまで早くやれなんて――」
「でも、止めないでしょ」
スマートフォンをしまった。
「慧吾、もういい」
そのまま雨の中へ歩き出した。
前の人生では、このあと数分で私は死んだ。
今度は死なない。
5
前回と同じ道は通らなかった。
正面玄関を避け、コンビニと駅がある方向へ向かった。
それでも、しばらくすると後ろから足音が聞こえてきた。
急がない。
離れもしない。
振り返る。
あの男だった。
三十代後半から四十代くらい。
伸びた髪に、汚れた服。
顔には古い傷がある。
前回は、すぐ近くまで来るまで危険だと気づかなかった。
今回は人のいるほうへ距離を取った。
「来ないで」
男が笑う。
右手を上着の中へ入れた。
「言われてるんだよ」
心臓が速くなる。
「何を?」
「腹」
刃物が出てきた。
「腹を狙えって」
男が走ってきた。
私は横へ避けた。
刃先が上着をかすめる。
勢い余った男は雨で濡れた路面に足を取られ、そのまま前へ倒れ込んだ。
ナイフが泥水に刺さる。
同時に、上着の内側からスマートフォンが滑り落ちた。
新しい機種だった。
男の格好には不自然なくらいきれいだ。
画面は点いたままで、LINEのトーク画面が開いている。
相手のアイコンを見た瞬間、息が止まった。
菜々美がずっと使っている横顔の写真だった。
最新のメッセージは、一分も前ではない。
「腹部を狙って」
「終わったら、通り魔に見えるようにして」
男が起き上がる。
「スマホ……返せ」
後ろへ下がりながら、自分のスマートフォンで撮影を始めた。
トーク履歴だけではない。
音声メッセージと、銀行アプリの入金履歴まで残っている。
前金は二百万円。
振込名義は、聞いたことのないコンサルティング会社だった。
トークには、成功したらさらに八百万円を払うと書かれている。
音声を一つ再生した。
菜々美の声が聞こえた。
「失敗しないで。お腹を狙えばいいから」
男がまた飛びかかってきた。
近くに倒れていた長傘を拾い、手首へ振り下ろす。
ナイフが落ちた。
私は人通りのある場所へ向かって走った。
背後から上着を引っ張られる。
振り向きざま、傘の柄を男の膝へ叩き込んだ。
男が崩れ落ちる。
前の人生で殺されたときの恐怖は、身体が覚えていた。
それでも、もう戦う必要はない。
距離を取ったところで110番した。
「刃物を持った男に襲われました。汐見ウィメンズメディカルセンターの東側、駐車場の出口です」
電話の向こうから、男には近づかず、刃物にも触れないよう言われた。
周囲にも人が集まり始めている。
男は警察と聞いた途端、逃げた。
追わなかった。
逃げる顔と方向だけを撮影した。
LINE画面や送金履歴、音声を撮った動画はすぐクラウドへ保存し、大学時代からの知り合いで弁護士をしている森川由紀にも送った。
遠くからサイレンが聞こえてくる。
雨に濡れた地面には、男が置いていったスマートフォンが残っていた。
もし本当に、私のお腹には何もないと思っているのなら。
一千万円もの報酬を約束してまで私を殺し、わざわざ腹を狙わせる理由なんてない。
6
警察はすぐに来た。
男は遠くまで逃げられず、別の警察官に確保された。
ナイフも、現場に落ちていたスマートフォンも、そのまま警察が押収した。
私は近くの医療機関で怪我の確認を受け、そのあと最初の事情聴取を受けた。
森川が来たころには、もう夜になっていた。
残りの説明にも付き添ってくれた。
男のスマートフォンは正式に解析へ回ることになった。
「千景、これもう夫婦喧嘩じゃないよ」
「分かってる」
「殺されかけてるんだから。病院の件も含めて、今夜は神代家に戻らないで」
「そのつもり」
警察にも行き先を伝えたうえで、森川と一緒に駅の反対側にある古いビジネスホテルへ移った。
神代家の車もカードも使わず、宿泊費は現金で払った。
部屋へ入って、初めて自分がずっと震えていたことに気づいた。
夜になると熱が出た。
下腹部も何度か痛んだ。
勝手に薬を飲むのが怖くて、診察先で説明された範囲の対処だけして休んだ。
布団をかぶり、何度もお腹を撫でる。
「お願いだから、頑張って」
自分の声を聞いた途端、涙が出た。
「今度は、ママが先に死んだりしないから」
翌朝には、熱が少し下がった。
スマートフォンを起動すると、ニュースとSNSの通知が一気に表示された。
「神代HD後継者、夫婦関係に亀裂」
「妻に“妊娠偽装”疑惑」
「夫婦トラブル当日に刃物騒ぎ」
動画を一つ開く。
映っているのは、私が傘で男の手を叩いた場面だけだった。
その前に男がナイフを持って襲いかかってきた部分は切られている。
コメント欄はすでに荒れていた。
「妊娠してるふりがバレて逆上?」
「神代専務、災難すぎる」
「この奥さん、大丈夫なの?」
画面を閉じた。
警察はまだ詳しい内容を発表していない。
それなのに、ネット上ではもう一つの「事件の筋書き」が出来上がっている。
森川は画面を見て、短く言った。
「誰かが先に話を作ってる」
地味な服に着替え、マスクをした。
神代家には戻らず、森川に付き添ってもらい、隣の市にある産婦人科へ向かった。
神代家とは何のつながりもない、小さなクリニックだった。
前日の経緯を話しても、女性医師は私の言葉をそのまま信じることはしなかった。
「まず採血しましょう。そのあと、もう一度超音波を見ます」
頷いた。
検査台へ横になる。
息をするのも怖かった。
プローブが腹部に触れた。
十秒もしなかった。
「いますよ」
反射的にモニターを見る。
「え……?」
医師が画面を指した。
小さな輪郭が、はっきり映っている。
「12週くらいですね。心拍もちゃんと確認できます」
部屋に速い心音が流れた。
目の前が滲んだ。
「本当に……いますか?」
「いますよ」
医師は別の角度からも確認した。
「今のところ、大きな異常は見えません。ただ、昨日襲われて熱も出ているなら、しばらく注意して経過を見ましょう」
涙を拭った。
それから、すぐに聞いた。
「先生、一つだけ教えてください」
「はい」
「薬を飲んだせいで、12週の赤ちゃんが超音波にまったく映らなくなることってありますか?」
医師が怪訝そうな顔をした。
「薬だけで?」
「検査の前に、眠くなるようなものを飲まされていたかもしれなくて」
「それなら、あなた自身がぼんやりすることはあります。でも、胎児が消えて見えなくなるわけではありません」
「昨日、本当に何度見ても何も映らなかったんです」
医師は少し考えた。
「そこまで違うなら、薬より検査そのものに問題がなかったか確認したほうがいいと思います」
私はスマートフォンを握った。
「今日の超音波画像と採血結果、全部残してもらえますか」
「もちろんです」
7
森川は検査結果を確認すると、その場で警察へ追加資料を送った。
超音波画像と血液検査の結果も、クリニック側で正式に保存してもらった。
そのあと、森川が言った。
「今日の午後、神代ホールディングスで緊急役員会議がある」
「私の件?」
「もう株価と会社の信用に影響が出てる。社外取締役も法務担当も集まるって」
「行く」
「一人では絶対に駄目」
「分かってる」
「スクショだけ持って乗り込んでも押し切られるよ」
「元のスマホは警察が持ってる」
森川が少しだけ笑った。
「それが一番強い」
いきなり会社へ乗り込むことはしなかった。
森川から神代ホールディングスの法務部門へ正式な通知を送り、私が独立した医療機関で妊娠を確認したこと、前日の持刀襲撃が捜査対象になっていることを伝えた。
同時に、「妊娠偽装」を前提にした社内対応の停止も求めた。
午後、森川と一緒に神代ホールディングス本社へ向かった。
正面玄関付近には、すでに記者が集まっていた。
最上階の会議エリアへ上がる。
半開きのドアの向こうから、菜々美の声が聞こえた。
「これ以上、会社が千景さんの件でリスクを負う必要はないと思います。妊娠の件も、昨日の騒ぎも、もう外に出てるんですから」
綾乃さんが続けた。
「慧吾だって被害者です。夫婦の問題は弁護士に任せて、会社としては切り離すべきでしょう」
男性の声がした。
「資産管理会社で検討していた次世代への承継は?」
「子どもがいないんですから、白紙に戻すしかないでしょう」
菜々美が答えた。
私はドアを開けた。
「誰が、いないって言ったの?」
会議室が静まった。
真っ先に慧吾が振り返る。
「千景?」
一晩寝ていないような顔だった。
菜々美の表情も一瞬で変わった。
「どうしてここに……」
答えず、森川と一緒に中へ入った。
法務担当役員が森川に気づき、立ち上がった。
「森川先生?」
「神代千景さんの代理人として来ました」
午前中の検査結果を机へ置いた。
「まず、これを見てください」
慧吾がすぐに取った。
妊娠12週。
その下には超音波画像。
指先が止まる。
「これ……今日?」
「午前10時27分」
綾乃さんの顔色が変わった。
「どこの病院?」
「神代家とは何の関係もないクリニックです」
菜々美がすぐに言った。
「紙一枚で、本物だって証明できるの?」
森川がパソコンを開いた。
「原画像と検査結果は医療機関側で保管されています。必要になれば、警察や裁判所へ直接提出できます」
慧吾は超音波写真から目を離さなかった。
「千景」
声が掠れている。
「本当に……」
「いるよ」
それ以上は言わせなかった。
「まだ疑うなら、もう一度確認すればいい」
森川は、午前中の医師にも事前に事情を説明していた。
会議室の隣にある健康管理室へ、ポータブル超音波装置を持ち込み、私の同意のもとで再検査する段取りが整えられていた。
会議室に送られるのは、超音波画像と心拍データだけだった。
8
健康管理室は静かだった。
慧吾は入り口付近に立っている。
以前のように、手を握ろうとはしなかった。
医師がジェルを塗った。
プローブが腹部へ触れる。
十秒もかからなかった。
隣の会議室の大画面に、小さな胎児の姿が映った。
続いて、規則的な心音が流れた。
私は一度だけ目を閉じた。
検査が終わると、会議室へ戻った。
菜々美は顔色を失っていた。
綾乃さんも黙ったままだ。
慧吾が一歩近づいた。
「千景」
手を上げた。
「今はいい」
慧吾が止まった。
森川が次の資料を画面に出した。
昨日、私が現場で撮影したLINEのトーク履歴だった。
菜々美のアイコン。
襲撃犯とのやり取り。
そして最後に送られていた一文。
「腹部を狙って」
社外取締役の一人が顔を上げ、法務担当役員は無言で画面を見つめた。
菜々美が勢いよく立ち上がった。
「偽物よ!」
「千景さんが作ったんでしょ!」
森川は反論しなかった。
音声ファイルを再生する。
菜々美の声が、スピーカーから流れた。
「失敗しないで。お腹を狙えばいいから」
菜々美の身体が固まった。
慧吾がゆっくり妹を見る。
「菜々美」
「兄さん、違う」
「じゃあ誰だ」
「今はAIで何だって作れるじゃない。声だって――」
綾乃さんも口を挟んだ。
「録音と画像だけで、菜々美だと決めつけることはできないでしょう」
「ですから、元の端末は千景さんの手元にはありません」
森川が答えた。
「警察が押収しています。通信記録も音声も、送金元も解析中です」
次に表示されたのは、私が撮影した入金履歴だった。
前金二百万円。
トークには、成功報酬としてさらに八百万円を支払うと残されている。
慧吾の目が数字に止まった。
「一千万円も出す約束をして、千景を殺させたのか」
菜々美は黙っている。
「しかも、どうして腹を狙わせた?」
「私じゃない!」
そのとき、会議室のドアがノックされた。
法務担当役員が外へ出る。
しばらくして戻ってきたとき、一緒にいたのは片桐医師と、汐見ウィメンズメディカルセンターの法務担当者だった。
森川から正式な照会が入ったあと、神代ホールディングスの法務部も病院側へ説明を求めていた。
片桐は事実確認のために呼ばれていたらしい。
けれど、会議室のモニターに映っている超音波画像を見た瞬間、顔色が変わった。
慧吾が立った。
「片桐先生」
「……はい」
「昨日の検査、どういうことですか」
片桐は黙っている。
病院の法務担当者が眉をひそめた。
「片桐先生。病院に報告していない事情があるなら、今ここで話してください」
慧吾がもう一度聞いた。
「赤ちゃんがいるのに、どうして昨日は三回とも映らなかった?」
片桐の額に汗が浮かんだ。
長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「……モニターに出していた画像を、差し替えていました」
誰も動かなかった。
「何を表示してたんですか」
「事前に用意した、妊娠していない患者の画像です」
慧吾の顔が変わった。
「二回目も?」
「……はい」
「血液検査は?」
「院内システムのデータも変更しました」
私は聞いた。
「佐伯先生も知ってたんですか?」
片桐はすぐに首を振った。
「佐伯部長は知りません。部長が呼ばれた時点では、カルテも検査データも差し替えたあとでした」
慧吾が片桐を見る。
「誰に頼まれた」
答えない。
病院の法務担当者が低い声で言った。
「この先、警察がアクセスログも金の流れも確認します。今さら隠せる話ではありません」
片桐が目を閉じた。
「……菜々美さんです」
「嘘!」
菜々美が叫んだ。
「外部の会社を通して、金を受け取りました」
「でたらめ言わないで!」
「それと、飲み物のこともあります」
片桐の声が小さくなった。
「検査前に、少し眠くなる成分を入れてほしいと言われました。胎児を見えなくするためじゃありません。神代さんの反応を鈍くして、操作を細かく見られないようにするためです」
菜々美が震え始める。
慧吾が妹を見る。
「どうして」
「私じゃない」
「千景を殺そうとしたのは、どうしてだ」
「だから違うって!」
菜々美は最後まで否定していた。
会議室の外に二人の捜査員が現れるまでは。
彼らは中へ踏み込まず、会社の法務担当者へ身分証を見せたあと、菜々美を見た。
「神代菜々美さん。昨日の殺人未遂事件について、確認したいことがあります。任意で同行をお願いできますか」
菜々美が一歩下がる。
「どうして私が?」
捜査員は淡々と答えた。
「押収した端末の通信記録と資金移動について、一部確認が取れています」
菜々美の顔から血の気が消えた。
慧吾は動かなかった。
「どうしてだ」
その言葉に、菜々美が急に兄を見た。
「何で?」
声が尖った。
「何で全部、兄さんのものになるの?」
誰も口を挟まない。
「おじいちゃん、ずっと言ってたじゃない。兄さんに子どもが生まれたら、資産管理会社の株は次の代でほとんど兄さんの家系に継がせるって」
菜々美が私を指した。
「私はずっと財団にも資産管理会社にも関わってきた。何年もやってきたのに」
声が震える。
「この人が子どもを一人生むだけで、私は経営の中心から外されるの?」
「菜々美、もうやめなさい!」
綾乃さんが立ち上がった。
「どうして?」
「黙りなさい!」
「最初に言ったの、お母さんじゃない!」
綾乃さんの顔が白くなる。
「何を」
「この子は生まれないほうがいいって」
「私は慧吾に結婚を考え直してほしいと言ったのよ!」
「子どもさえいなければ、家の話はやり直せるって言ったじゃない!」
綾乃さんの手が上がった。
乾いた音がした。
菜々美が頬を押さえ、母親を見る。
「お母さん……?」
「黙りなさい」
けれど、もう遅かった。
9
菜々美は、そのまま警察へ同行した。
会議が終わってしばらくしてから、森川から続きを聞いた。
片桐医師は病院から自宅待機を命じられ、医療データの改ざんや金銭の受領について警察の捜査を受けることになったらしい。
前日に私を襲った男は、すでに逮捕されている。
押収されたスマートフォンの通信記録や送金履歴、病院システムのアクセスログ、外部会社の口座まで含めて調べられることになった。
綾乃さんについては、婚姻に反対していただけなのか、それとも菜々美の計画をどこまで知っていたのか、今後確認されるという。
会社側も、調査が終わるまで創業家資産の管理に関する綾乃さんの権限を外す方針だと、法務担当役員から聞かされた。
緊急役員会議が終わるころには、本社前に記者が集まっていた。
社外取締役や法務の担当者が次々と出ていく。
最後に会議室へ残ったのは、私と慧吾だけだった。
数歩離れた場所に立っている。
赤ちゃんが画面に映ってから、ずっと現実に追いつけていないような顔をしていた。
「千景」
声が掠れていた。
私は返事をしなかった。
慧吾が一歩近づく。
「ごめん」
「何に対して?」
足が止まる。
「病院で……最後まで信じられなかったこと」
視線を落とした。
「母さんのことも、菜々美のことも俺が片づける。もう誰にも、お前と子どもには触らせない」
「それで?」
「本邸には戻らなくていい。二人で別の場所に住もう。病院も替える。これからの健診は全部俺が行く」
手を伸ばしてくる。
「帰ろう、千景」
一歩下がった。
「帰らない」
慧吾の手が止まった。
「……どうして」
「まだ、問題は菜々美だけだと思ってる?」
「どういう意味だ」
「病院で、私が信じてって言ったとき、あなたは答えなかった」
「最初は信じてた。二回目までは、俺だって千景の側にいた」
「うん。知ってる」
私は慧吾を見た。
「でも、三回目の検査が終わったあと、あなたはもう調べようとしなかった」
「全部の結果が同じだったんだ。偽物だなんて分かるわけないだろ」
「私だって分からなかったよ」
「だったら、どうして離婚まで――」
「証拠もないのに、何でも私の言うことを信じてほしかったわけじゃない」
慧吾が黙った。
「疑ってもよかった。でも、あの時点であなたは、“私は妊娠なんてしてなくて、みんなを騙してた”っていう結論を受け入れた」
「そこまでは思ってない」
「昨日の記事を見たときも?」
返事がなかった。
それで十分だった。
「もし昨日、あの男に殺されてたら?」
「そんなこと言うな」
「慧吾はきっと悲しんだと思う。後悔もしたと思う」
「千景」
「でも、菜々美まで辿り着く前なら、私が妊娠を偽って、追い詰められて、最後に事件に巻き込まれたって思ったかもしれない」
「思わない」
「昨日は、もうそこまで行きかけてたよ」
慧吾は何も言えなくなった。
鞄から、森川に用意してもらった離婚協議書の案を出した。
机へ置く。
「サインして」
慧吾は紙を見た。
「本気で離婚するのか」
「うん」
「俺が最後まで信じられなかったから?」
「それだけじゃない」
首を振った。
「一度死にかけて、分かったの」
慧吾を見る。
「私とこの子の安全を、“次は慧吾が信じてくれるかもしれない”ってことに預けたくない」
慧吾の目が赤くなった。
「一回だけ、やり直させてくれ」
「この子に会わせないとは言わない」
「千景……」
「父親なのは変わらないから。養育費や面会のことは、これから弁護士を通して決めよう」
「そんな話をしてるんじゃない」
初めて声が乱れた。
「俺は、もう一度お前とやり直せないのかって聞いてる」
私は慧吾を見た。
この人は、本当に私を愛していたことがある。
菜々美のような人間でもない。
だからこそ、これは復讐ではなかった。
「慧吾」
「……」
「昨日、病院で私の手を離したときに、もう答えは出てた」
慧吾はその場から動かなかった。
私は会議室を出た。
後ろから名前を呼ばれる。
「千景」
一瞬だけ足を止めた。
振り返らなかった。
神代ホールディングス本社を出ると、正面にはまだ記者がいた。
森川が側面の出口に車を回してくれている。
昨日の雨は、すっかり上がっていた。
街に陽が差している。
私はお腹に手を当てた。
まだ見た目にはほとんど変化がない。
それでも、奥のほうがまた小さく動いたような気がした。
本当の胎動ではないかもしれない。
もう、それを証拠にする必要はなかった。
私はこの目で見た。
心臓の音も聞いた。
お腹をそっと撫でる。
「帰ろうか」
帰るのは神代家でも、慧吾のところでもない。
私が自分で選んだ場所へ。
この子と一緒に帰る。




