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初恋の怪獣とバラッドを

理想の王子の堕とし方

作者: 調彩雨
掲載日:2026/08/05

拙作『推して駄目だったので引くことにした』のコミカライズ配信記念で執筆したスピンオフです

本編ヒーロー視点のお話です

また、こちらより先にヒロインの姉と妹視点のスピンオフをそれぞれ投稿しています

単体でもお読み頂けますが先に上記三作をお読み頂くとよりお楽しみ頂けると思います


 ソレが、あの公爵家の娘だと知ったとき、よりによって、と思った。

 よりによって、ここまで完璧に、父親の血を継いでしまうものなのか、と。

 一度目に会ったとき、ソレは完璧な王子の顔をしていて、二度目に会ったとき、ソレは一筋の瑕疵すらない令嬢の顔をしていた。

 同じ年頃の他人より優れている自負のあった僕が、初めて負けたと感じた存在だった。そんな相手がよりにもよって、この上なく愚かな王女の産んだ娘で。

 屈辱だった。

 悔しくて、妬ましくて、恨めしくて。その、絵画から抜け出たような容姿すら、苦々しく感じて。

 だと言うのに、どうしようもなく高鳴る胸が、脳裡に焼き付いたその姿を消し去れない自分が、なにより愚かしくて憎たらしかった。


   ё  ё  ё  ё  ё  ё


 育てばボロが出るのではないか。

 僕を幻滅させてくれるようなボロが。

 しかしそんな期待を裏切って、その女は完璧であり続けた。滅多に姿を見せないその女が、珍しく公の場に立つたび、聞こえて来るのは賞賛ばかり。

 負けたくなくて、勉強も、運動も、立ち振る舞いも、徹底的に鍛え抜いた。

 けれど理想の王子の座は、変わらずあの女のもので。

 当然のように女のそのの頂点に君臨するその女が、ボロを見せることはなく。

 あまりにも色濃く父親の血を継いだあの女が、ボロを見せることなどないのではないか。

 僕が諦めかけた頃になってやっと、理想の王子はボロを見せた。

 他国との政略結婚を義務付けられた身で、自国の男に熱を上げていると言う噂を立てられたのだ。

 しかも、その熱を上げている相手とは、よりにもよって、僕で。

 無遠慮に掻き混ぜられたようにグチャグチャな胸中を、僕は真剣に持て余した。

 たかが噂。そう、切り捨てられればまだ良かった。

 だが、あの女が聖ハイペリカム女学院に入学すると聞いた僕は、聖ハイペリカム女学院と唯一交流のある男子校、セントローレルカレッジに入学することを決め、当然のように試験を突破し入学していたので。

 自分に向けられる、熱のこもった視線に、気付かないでいることなど出来なかった。

 あの女は、いままで、僕を眼中に入れることなどなくて。ただただ僕が見上げるだけ、僕が敵視するだけだった。

 だが、いまは、その瞳に、僕が映っている。温度を持った視線が、僕を追っている。

 僕のなかの、愚かしい部分が、歓喜に打ち震えていた。

 それを、心から、愚かで憎らしく思うのに。

 だが、同時に心の片隅の冷静な部分が、おかしい、と訴えていた。

 いくら愚かとは言え王族。二代続けて愚を犯させるような教育を、行うだろうかと。その上あの女は、僕を差し置いて理想の王子で在り続けたのだ。それが伊達であったなら、僕はそんなことも見抜けない愚者であったことになる。

 恋は盲目と言うけれど。

 僕も、そしてあの女も、盲目でいて許される立場にはない。

 否、あの女の母親である愚かな王女は、立場を無視して盲目なまま突き進んだのだが。

 しかしその愚行は国内に軋轢を生み、一度生まれた不協和音は簡単に解消されることなく、未だ思い出したように耳障りな音を立てている。愛だの恋だのですべてが押し通せるなんて、物語のなかだけなのだ。

 僕がずっと見上げて来た理想の王子は、物語の偶像ではなかった。ソレがいるのは現実の世界で、物語とは違い推敲する時間もないまま過ぎ去る日々を生きながら、夢と理想で出来たような王子で居続けることは難しい。だからこそ、そこで理想の王子で居続けたソレが、考えなしの愚か者とは考えられないのだ。

 なにか、思惑があっての行動なのでは。そして僕はその思惑の下、利用されているのでは。

 疑惑の答えは思わぬところからもたらされた。


   ё  ё  ё  ё  ё  ё


 アレの妹から聞かされた、あまりにも僕を馬鹿にした話。だが、聞いて浮かんだのは怒り以上に。

 気を抜けば獰猛な笑みを浮かべそうになる顔で、平静を装うのが大変だった。

 見込み違いではなく、狡猾だった理想の王子。

 家のおこりからして良いとは言えない自分の生家の評判を、上げるための策略。叶わぬ恋を諦めて他国に嫁ぐ、悲劇の令嬢に自分を仕立て上げて。母親とは違い、自分の心を殺して国のための縁談を受ける姿は、なるほど同情を誘うだろう。

 このままならば僕は、良いように踏み台にされて終わるだろう。そしてアレは、自分の思惑通りに他国へ勝ち逃げして行く。

 この、僕を、まんまと利用するような女を、みすみす他国にくれてやると?

 駄目に決まっている。

 ならば、どうする?

 勝ってやろうではないか。いままで、一度たりとも勝てたと思えたことのない、理想の王子に。アレが自分と僕を駒に組み立てた策を利用し、その策略の上を行くことで。

 アレの妹の思惑に乗ることにはなるが、そのくらいの不服は飲み込もう。情報提供者としては、この上なくありがたい位置にいる人間なのだ。それに。

「嫌いになれたら、どれほど楽だったでしょうね」

「嫌いになりたいのに、愛さずにはいられない」

 その、言葉に、胸を突かれてしまった。

 ずっとずっと、目を逸らして、名付けないでいようとしていたモノの、名前を突き付けられて。

 いや、違う、断じて、僕は。

「見逃してくれ。頼むから」

 懇願したのは、会話の相手にか、それとも、自分自身にか。

 けれど熱の昇る顔に、気付かぬ振りなど出来はしない。

「差し支えなければ、いつから?」

 いつから?そんなもの、そんなものは。

「黙秘する」

 知る前だ。アレが、愚かな王女の娘だと、知る前に、もう。

 この国の多くの子供と同じく、僕だって御伽噺を読み聞かせられる年の頃があったのだ。

 だからこそ、幼い頃に夢中になった物語から、そのまま抜け出て来たかのような姿と立ち振舞いに、目を奪われた。それが自分と同い年の、少女の演技と知って感服した。それから、その少女がよりにもよって、因縁の夫婦の娘だと聞いたのだ。

 最初から知っていれば。穿った目で見ていれば。また、違った結果に、

「嫌いだからと言って、愛していないわけではありません」

 またもや、胸を突かれる言葉だった。

「美しいものは、それだけで心を動かす」

「ええ。まして姉は"銀の君"ですから」

 そうだ。穿った目で追い続けて、それでも、瑕疵など見付けられはしなかったのだ。幻滅させて、貰えはしなかったのだ。

「宰相の息子として、逃す手はないと思います。僕個人として、逃したくない、とも」

 真っ直ぐな言葉に当てられて、本音がするりと口を突く。

 そうして結ばれた、奇妙な協力関係。

「今後の連絡は、彼宛にお願いします。わたくし個人に忠誠を誓った、信頼の置ける騎士ですので」

 協力者はそばに控えていた護衛を名乗らせ、用意してあった一枚のカードを取り出す。

「毎週木曜日の午後七時から九時には、必ずそこに彼がいます。用事があればそのあいだに。情報交換も必要ですから、毎月第三水曜日には、顔を出すようにしていただければありがたいです」

 カードに書かれていたのは、中流階級向けの酒場の名前と住所だった。用意周到だ。確かに、いくら交流のある学校同士とは言え、敵対する家の男女が何度も会うのはおかしい。対して、使用人同士であれば、たまたま酒場で知り合って親しくなっても、そこまで不審には思われないだろう。

 幸い僕の従者には、情報収集もかねて近隣の酒場を回らせている。その予定を多少変えることに問題はないし、それで誰かに疑われることもない。

 段取りを組み、別れる。

 寮の自室へ戻り、従者へも段取りを伝えたあとで、深々と、深々とため息を吐いた。

「エイジアさま?」

「お前」

 違和感を覚えていたし、納得もした。それはそれとして。

「あの女、シルヴァーナ・アスマントスの態度、演技だと思っていたか?」

 潤んできらきらと輝く瞳。温度すらあるのではないかと錯覚するほど熱烈な視線。だと言うのに僕が見返せば、頬を染めてパッと逸らす。それから隣の友人の腕を取り、なにやら感極まった様子で伝える。

 あれらの行動や反応がすべて、周りを騙すための、演技だと。

「お恥ずかしながら」

 前置きして、従者が答える。

「私には、とても演技だとは」

「僕もだよ」

 短く告げて、苦笑する。

「まあ、違和感はあったが」

「違和感、ですか?」

「去年一年間で、二十人、だ」

 頬杖を突いた僕の言葉に、従者が首を傾げる。基本的に、学内では王族でもない限り従者を常時張り付かせてなどいない。目の前のこの従者も、しばしば離れるときがあった。だから、知らなかったのだろう。

 なぜならそうして僕から監視が離れる時こそ、狙われるからだ。

「僕に好意を伝えて来た、聖ハイペリカム女学院生の数。婚約者がいないから、良い獲物なのだろうな」

「それはまた」

「入学直後がいちばん多くて、その後は落ち着いたが」

 そう、ちょうど、あの女が僕に恋慕していると噂が立った辺りから。

 ついでに言えば、僕に交際を断られた女学院生の多くは、さっさと標的を変えて仕留めている。基本的に、したたかで計算高いのだ。貴族の令嬢と言うものは。

 そして、そんな気軽に好意を伝えて来る令嬢たちが当たり前にいるなかで。

「その、二十人のなかに、シルヴァーナ・アスマントスはいない。告白はおろか、やんわりと好意を伝えて来たこともない、と言うか」

 あれは聖ハイペリカム女学院の総代になっているから、交流校の総代として聖ハイペリカム女学院の誰より多く、セントローレルカレッジに来ている。にも、かかわらず。

「僕に話しかけてすら来ないよ、一切。遠くから見ているだけだ」

「それが、違和感と?」

「良いように考えれば、いずれ政略結婚をしなければならない身として、想うだけに留める分別がある、と言えなくもないが」

 あの女の妹の言葉を信じるなら、むしろ想いが通じては困るから寄って来ないのだ。

「少なくとも、僕を結婚相手と見ている令嬢とは、違うと感じていた」

 そう、あの女は、僕に熱を上げているような顔をして、その実、僕を夫にしようとは、これっぽっちも考えていないのだ。

「だから、そうだな。今日の話を聞いて、意外だとは、思わなかった。ただ」

 その、能力には、初めて見たときから気付いていたけれど。

「演技力は、相変わらず高いのかと」

 目を逸らし、名付けずにいた感情、ずっと認められなかった感情に、愛と名付けてしまうなら。

「あの、演技力の持ち主に、負けない演技をせねばならないなら、気は抜けないな」

 隠さなければならない。本人にはもちろんのこと、周りの誰にも。間違っても、エイジア・ヴァージンバウアーがシルヴァーナ・アスマントスに惚れているだなんて、噂されることがないように。

 そんな噂がもし立てば、そして噂が、あの女の耳に入ったなら、そこで僕らの策略は潰える。母親と同じ轍を踏まないことに、注力しているあの女が逃げるから。

 いままで、勝てたと思えた試しのない相手だが。

「今度こそ負けないさ。必ず、僕の手中に堕として見せる。みんなの理想の、王子さまとやらを」


   ё  ё  ё  ё  ё  ё


 そうして、もはや意地だけで耐える年月が始まった。

 振り向かない僕に、あの女は熱を上げる振りを続けて。

 ある日、あっさり、それを捨てて見せた。

 報せは木曜日の夜。ちょうど連休に入る前日。

 聖ハイペリカム女学院の校内新聞と、添えられた殴り書きに近い一言、『だから言ったでしょう』と。

 新聞の一面にはでかでかとシルヴァーナ・アスマントスの絵姿。その上の大見出しには『学院総代に縁談浮上、我らが総代を射止めるのはどの国か』と。

 グシャリと、手の中で新聞が歪んだ。

 人目のないところで良かった。とても、他人に見せられる顔ではなかったと思う。

 五年半、五年半だ。あの女は徹底して僕に恋する振りを続けていた。その徹底振りは圧巻で、聖ハイペリカム女学院でもセントローレルカレッジでも、シルヴァーナ・アスマントスの想い人を知らぬ者はなく、そして学生から漏れた情報が、国内でも知れ渡るほど。

 僕ですら、実は本当に想われているのではないかと、何度も繰り返し錯覚しそうになるほどだった。

 それが、シルヴァーナ・アスマントス以外の令嬢の行動だったなら、自分の役目を全う出来ない愚かな娘と醜聞にされ、持ち込まれる縁談が皆無になってもおかしくなかっただろう。

 けれど、あの女は"シルヴァーナ・アスマントス"だった。老若男女問わず見惚れさせる、絵画から抜け出たような容姿の持ち主で、立ち居振る舞いの隅々まで完璧な、我が国の誇る"銀の君"。どんな悪意も罵倒も、その美貌を前にすれば霧散する。

 なにをしても、それがまるで物語か舞台の一幕のような。かのひとの行動ならば正しいと思わせる、そんな説得力を持つ女。それが、シルヴァーナ・アスマントスだった。

 ゆえに奔放に見える行動を批判する者はなく、ぜひシルヴァーナ・アスマントスを伴侶にと望む声も、決して消えることはなかった。

 そんな女に五年半も、想い人とされていた。たとえ裏を知っていても、嘘だとわかっていても、まるで最愛のひとを見るような目を、向けられ続けていたのだ。

 絆されていない振りを、全く気のない振りを、続けることがどれだけ困難だったか。

 いまだ学生とは言え、宰相の嫡男。他国からの客人に会う機会はある。そのなかには、シルヴァーナ・アスマントスに求婚し、袖にされたり保留にされた者もいて。露骨に喧嘩を売られることこそ少ないが、嫉妬の視線やちくりとした厭味を、向けられることもあった。

 そんな彼らのなかには、この新聞に書かれた『他国の王族や高位貴族』も含まれるのだろう。いまごろ、僕に対する優越感でも覚えているのだろうか。

 何年も想われておきながら、あっさり捨てられた男と。

 この、怒りは、自尊心を傷付けられたことによるものか、それとも。

 だが、思い通りにはさせない。

 このときのために、コツコツと根回しを続け、このときのために、ずっと爪を隠し続けて来たのだから。

『万事つつがなく、あなたの望みのままに』

 端的にまとめた返事は、送られた手紙と負けず劣らず、書き殴りのような文字だった。

 逃してなるものか。本能と理性、ふたつの声が、初めて一致した瞬間だった。


   ё  ё  ё  ё  ё  ё


 連休明け、今度は学友の手により持ち込まれた聖ハイペリカム女学院の校内新聞に、やはりあの女の妹と協力体制を組んでいたことは間違いでなかったと思う。初見でないお陰で、学友たちの前でみっともなく感情を揺らさずに済んだから。

 知っていたことに気付かれぬよう、身の内に荒れ狂う怒りに気付かれぬよう、そしてなにより、数年掛かりで組み上げた策略に気付かれぬよう、慎重に言葉を選ぶ。

 それでも怒りは隠しきれず、必要以上に冷たい言葉になったように思うが。

「エイジアはこのまま見過ごすのかい?あんなにもきみに好意を示していたシルヴァーナ嬢が、あっさり縁談を受けてほかの男に乗り換えるのを」

 許すわけがないだろう。そんな気持ちを押し込めて、そらとぼけて見せる。

「さてね。まあ、国益を考えるなら、どこか同盟国に嫁いで、関係を深めて貰うのが良いだろうね」

 逆だ。これだけ人身掌握にけ、演技力もある人間を、他国にやってはいけない。

 けれど周囲を騙さなければ。真の思惑はおくびにも出さず、隠し通して見せなければ。

 シルヴァーナ・アスマントスはやって見せたのだ、僕だってやり遂げて見せる。

「エイジア」

 その場をやり過ごし、授業ののち、生徒会室に身を落ち着けた僕へ、副総代が声を掛ける。

「ぼくに手伝えることがあれば、協力するよ」

 多くは語らず、ただ、それだけ。

 だから僕も苦笑を返し、諸々省いて端的に。

「半月後、ハイペリカムとの舞踏会があるだろう?」

「ああ、いつもの」

 交流校である聖ハイペリカム女学院とは、いくつか合同行事がある。年六回の舞踏会も、そのひとつ。

 とは言え生徒会役員ともなれば、呑気に踊ってなどいられず、開会の挨拶をしたのちは、ほぼ裏方で駆け回っているのだが。

「閉会までの一時間だけで良い。役目を放棄させてくれないか?その分、準備と片付けは倍働くから」

「一時間か。まあ、出来ないことはないな。良いよ」

 僕さえいなければ総代として君臨していたであろう男は、あっさりと頷いた。

「恩に着る」

「お礼は」

 にこにこと、副総代は続けた。

「きみの婚約者どのとのお茶会に、ぼくとぼくの婚約者を招待してくれたらそれで良いよ。ぼくの愛しの婚約者と来たら、"銀の君"にメロメロで、一度で良いから話してみたいってずっと言っているから」

「……僕に、婚約者はいないけれど?」

 喰えない男が、おや、と首を傾げる。

「エイジア・ヴァージンバウアーともあろう男が、狙った相手を堕とせないとでも言うつもりかい?」

 この男は、どこまで察しているのだろうか。

 深々と息を吐き、肩をすくめる。

「さてね。なんのことやら」

 なにがおかしかったのかクツクツと笑って、手強い好敵手であると同時に、掛け替えのない友人でもある男は、僕の肩を叩き、肩に腕を回す。

「玉砕したら慰めてやるさ。高嶺の花だ。きみでも手が届かないこともあるだろう。だが、個人的にはお似合いだと思っているから、上手く行って欲しいかな。ぼくの愛しの婚約者の、機嫌を取るためにもね」

「どちらの比率が大きいのやら」

 鬱陶うっとうしい腕を退けつつ、呆れた顔を作る。

「と言うか、お前はそれで良いのか?婚約者が、別の人間に熱を上げていて」

「どこの馬の骨とも知れない男と浮気されるよりずっと良いよ。偶像を崇拝しているようなものだから。そもそも、"銀の君"に叶う気がしないしね。ぼくの愛しの婚約者のみならず、この国の女性、いや、老若男女問わずかな?結構な割合を虜にしている、理想の王子さまじゃないか」

 ああ、この男ですら、アレを理想の王子、敵わない相手と、認めているのか。

「化け物だな」

「惚れた相手を表現する台詞じゃないね、それ」

「化け物だろう。下手したら、国を傾けかねない存在だ」

 傾国とは、ああ言う女のことを言うのだろう。せめて国王の身内で良かった。血が近過ぎて、王子の相手からは外されたから。さもなくば、妃に溺れる王が仕立て上げられていたかもしれない。

「その、"化け物"を堕とそうって言うきみも、なかなかに化け物じみていると思うよ、ぼくは」

「緑の目の怪物か?」

 自分の目を指差して問う。

 そんな僕の目を見据えて、副総代は苦笑した。

「確かにきみの目の色は金緑だけれど。きみが自虐とは、ほんとうに自信がないと見える」

 思わず、半眼になった。

「言っていろ」

 惚れた女から五年半もかけて踏み台にされようとしている男の気持ちなんて、相思相愛の婚約者のいる男にはわからないだろう。

「きみのことだ、人事は尽くしたのだろう?」

 もう、はぐらかすのも馬鹿らしくなって答える。コイツに隠すなんて土台無理で、どうせコイツは僕の味方なのだ。

「まあね。仕掛けは上々だよ」

 最後の詰めも、半月あれば十分だ。

「あとは天命を待つばかり、か」

 副総代の手で、無遠慮に髪を乱されて、顔をしかめる。

「なんだよ、やめろ」

「弱気なきみは珍しくて面白いなと思ってね」

 弱気にもなるだろう。五年半をあっさりと嘘にされれば。情けない話だが、怒りを燃やしていなければ、たちまち足場の不安定さに怖気付きそうになるのだ。

 自分を愛していないとわかっている相手を想い続けるなんて、正気の沙汰ではない。

「すべて巧く行くさ。そうなるように、積み重ねて来た」

「ならば、なにが不安なのかな?」

「なにも」

 そう、不安などない。僕は必ず、理想の王子を堕とせる。堕ちる以外に選択肢がなくなるように、道を敷いたのだから。

 そう、頷かせることは、ほぼ確実に、出来る。

「それでも不安なのが、恋と言うことかな。それともきみには、ぼくに見えていないものが見えている?」

「お前には」

 手元に目を落とし、問い掛ける。

「シルヴァーナ・アスマントスが僕に恋しているように見えていたか?」

「なるほど?」

 一を聞いて十を知る男が、納得したような声を上げる。

「きみ、銀の君の妹、カナイオーラ・アスマントス嬢と話したことがあったね。ぼくから見たら銀の君はきみの虜のようだったけれど、実の妹から見るとそうではなかった、と言うことかな。女性は怖いね」

「シルヴァーナ・アスマントスを、妻にするだけなら簡単だ。アスマントス公爵は、そこまで賢くない」

「きみも怖いな。とんでもないことを言う」

 単なる事実だが、他人に聞かれれば不敬罪に問われかねなくはある。

 ここが他人の目のない場所で、相手が気の置けない友人だから、言えることだ。

「優秀なものでね。だが、万策尽くして相手を頷かせることは出来ても、心までは自由にならない」

 自分の心も、他人の心もだ。もしも心が自由になるなら、僕はとっくに、この愚かしい恋心を捨て去れていたのだから。

「我らが総代も、恋の前ではただの愚かな男か。それでも、ね、エイジア」

 微笑んで、信頼出来る右腕は言う。

「きみは自信たっぷりに笑っている方がきみらしいよ。なに、人生は長い。隣に立つ権利さえ手に入れたなら、心を奪う機会はいくらでもあるさ」

 目を閉じ、開く。仮面を着けることには、もうすっかり慣れきっていた。

「せいぜい足掻くさ。お前は高麗鼠コマネズミのように働きながら、高みの見物をしていれば良い」

 ふはっと吹き出して、副総代は僕の肩を叩いた。

「そうそう、それでこそ我らが総代だ。きみはそうでなくては」

 仮面であろうと、演技であろうと、虚勢であろうと、続けるならば周囲からはそれが真実に見える。シルヴァーナ・アスマントスの恋心を、誰も疑っていないように。

 手を伸ばして、副総代の額を指ではじいた。

「ほざけ。だが、そうだな。甘く見られたまま終わらせるわけには行かない。セントローレルカレッジ総代として、必要とあらば神すら騙して見せるさ」

「期待しているよ、我らが総代」

 差し出された片手は、痺れるくらいに強く叩いてやった。


   ё  ё  ё  ё  ё  ё


 そして来たる、下剋上の日。セントローレルカレッジと聖ハイペリカム女学院合同の舞踏会。

「アスマントス公爵令嬢、僕と踊って頂けませんか」

 舞踏会の主役に相応しい顔をして、その実、総代だからと裏方ばかりのその女。今日は医務室の補佐をしていたシルヴァーナ・アスマントスを、見付け出して声を掛けた。

 その瞬間、たった一瞬だけ浮かんだ愕然とした表情に、わずかばかり胸がすく心地を味わう。

 ダンスに誘われるなど、思いもしていなかったらしい。僕の演技も捨てたものではない、と言うことだろうか。

 案の定、無難な言い訳で断ろうとしたシルヴァーナ・アスマントスだが、校医が僕の味方をする。その程度、根回し済だ。

 言い訳を潰された上に、僕の友人の協力もあると聞いた理想の王子が、観念したらしく答える。

「喜んで」

 強く握ればガラス細工のように壊れそうな華奢な手が、僕の差し出した手に乗せられた。

 お互いに略式とは言え盛装。素手ではなく、手袋越しの触れ合いだ。

 だが、この女とは手袋越しですら、初めて手を握ると気付いて、浮かべそうになる自嘲の笑みを堪えた。ひた隠していた僕とは違う。あからさまに恋をする振りをしていたくせに、この女は。

 触れたい、と思うほどの情すら、僕に持っていなかったのだろう。

 総代同士だ。握ろうと思えば手を握る機会など、いくらでもあったはずなのに。

 思わず手に力がこもり、華奢な手を少し乱暴に引き寄せる。

 見た目には簡単に壊れそうな手はしかし、その程度の力では壊れなかった。

 誰も僕を阻む者はなく、広間の真ん中に立つ。始まる曲に、細い腰を引き寄せた。ふわりと、百合の花の香りがする。"銀の君"と言う品種の百合が開発されたのは、数年前だったか。香りまで、この女は手を抜かないのだ。

 まるで、物語から抜け出して来たような女。けれど確かにここにいて、僕の手を取っている。触れた手は、確かな柔らかさと、温度を伝えて来た。

 恋する女に、初めて触れて、踊っている。

 沸騰しかける頭をどうにか落ち着けて、澄まし顔の女に話しかけた。

「てっきり、断られるかと思いました」

 まずは軽く、小手調べの口撃を。

「総代として、役目がありますから」

「そうではなくて」

 無難な言い訳で濁そうとする瑠璃紺の瞳を、はっきりと見据えた。

「他国と縁談が、進んでいるようなので」

 動揺する様子はない。隠してもいない事柄だからだろう。

「学院の行事ですもの、誰かと踊ったくらいで縁談に響きはしませんよ」

「そうですね。あなたには価値がある。誰かを熱心に想っていると噂になっても、縁談が殺到するほどに」

 つい皮肉めいた口調になれば、弱ったように眉を下げて見せる。この顔で、何人を騙して来たのか。

「ご迷惑、でしたでしょうか。勝手に恋して、騒いだりして」

「いえ?あなたはよそでは大っぴらに騒ぐ割に、僕には節度を持った、いえ、壁のある態度で接していましたから。あなたの想い人と言うことで、無駄に言い寄られることも少なくて済んだので、むしろありがたかったですよ」

「壁のある態度を取ったつもりはないのですが、申し訳ありません、緊張していたので、そのように思わせる態度に、」

 この程度の棘では、理想の王子は小ゆるぎもしない。

 むしろ僕の方が苛立って、相手の言葉を遮った。

「べつに、取り繕わなくても構いませんよ。あなたが僕に恋なんてしていないことは、わかっていましたから。あなたは恋愛ごっこがしたかっただけだ。その相手に都合が良かったから、僕を選んだだけ。本当は、誰でも良かった」

 なじる言葉を投げられても怒ることなどなく、理想の王子は静かに問いを返す。

「そこまで、わかっていらしたなら、どうしてわたくしと踊ろうなどと?」

「さあ。どうしてでしょうね」

 わかりはしないだろう。この女は、

「言い訳にしか聞こえないでしょうが、本気であなたに恋していましたよ。誰でも良かったわけではありません。わたくしが選んで、あなたに恋をしたのです」

 どの口で。

 荒ぶる心を押し込めて、静かな口調を心掛ける。

「恋は選んでするものではありませんよ、ご令嬢」

「そうでしょうね。ですからこれはあなたの言う通り、恋愛ごっこです」

 認めた。ついに。

 自分で言わせたその言葉に、けれど傷付く愚かな心が、心底憎たらしい。

「あなたが僕を選んだのは、僕ならあなたに靡かないと思ったからだ」

「ええ。その通りです。だってあなた、我儘で馬鹿な女は嫌いでしょう?」

「そうですね。理性的でない相手とは関わり合いになりたくありません」

 そのはずだった。いま、腕の中にいる女に出会うまでは。

 曲が終わる。

 逃げ切れたとでも思ったか、わずか垣間見える安堵の気配。

 逃すものか。

「でもね、ご令嬢、あなたにひとつ、忠告しましょう」

「え?」

 手を強く握り込み、離れようとした腰をしっかりと引き寄せる。離しはしない。絶対に。

 離してなど、やるものか。許すものか。僕を、僕の世界を、変えた相手を。

 曲が始まる。次の、曲が。

 ぎょっとした顔の女の手を引き、腰を引き、ステップを踏む。

「ヴァージンバウアー侯爵子息っ?」

 非難の色の滲む声。当然だ。婚約者でも伴侶でもない相手と続けて踊ることは、本来この国ではあり得ないことなのだから。

「あなたは知っておくべきでした。男なんて、案外馬鹿な生き物なのだと」

「なにを、言って」

 ようやく乱せた表情。

 混乱している女に、とっておきの毒と笑顔を。

「あなたのような美人に熱っぽく見詰められて、落ちない男なんていないと言っているんですよ」

「わたくしと、あなたが、結婚しても、国に利は」

 この期に及んでそんな言葉で、退けられると思っているのか。ただの馬鹿ではなく、突き抜けた愚か者なのだと、そう言ったこの女の実妹の見る目を、改めて確かだと実感する。

「そうですね。ありません。むしろ山ほど来ている縁談をすべて蹴ることになって、損失です。だからどうした」

 虚実入り交ぜて丹念に、毒を塗り込んで行く。

「その程度、僕が埋め合わせて見せます。セントローレルカレッジの総代になれる男の技量を、甘く見ないで頂きたい。それに」

 あらかじめ用意していた言葉は、立板に水のごとく滔々と口から滑り出た。

「美しい妻は外交上価値があります。まして聖ハイペリカム女学院で、六年間総代を務め、在学生にも卒業生にも人気のある卒業生と来れば、間違いなく国内で一目置かれる妻です。国に利益がなくとも、僕と家には利益がある」

 次第に顔色を悪くして行く女に、なにも心配はいりませんと、形ばかりの優しげな声を。

「あなたは何もしなくて良い。すべて僕が根回しして、なにもかもお膳立てします。父の説得は済みました。アスマントス公爵と国王陛下も、僕が必ず頷かせて見せましょう。だから、ねぇ、ご令嬢?」

 思い知れ。お前が、踏み躙ったものを。そして囚われろ、僕に。

「諦めて、僕の妻になって下さい。政略結婚を受け入れていたのでしょう?誰の妻になろうとも、それがお役目だと。ならばその相手が僕でも、あなたは構わないはずです」

 構わないわけがないことは、わかっている。

 青褪めた顔色が、物語っている。

 それでも、シルヴァーナ・アスマントスを失うことが国にとって損失である以上、個人の思惑などいくらでも無下にする。そんな建前で、捨てることも出来ずに抱え続けた想いを遂げてやる。

 認める。認めるさ。愛しているのだ、愚かにも、愛してしまったのだ。この、理想の王子の皮を被った化け物を。

 新しい曲が始まる。手は離さない。離してなどやらない。

「……いつから」

 小さな呟き。

「なにがでしょうか」

 問えば、瑠璃紺がこちらを見つめる。女性にしては長身なシルヴァーナ・アスマントスが夜会用の靴を履けば、人並みの身長の僕とは視線の高さにさして差がなくなる。

 それでもかろうじて、僕の方が高いが。

「なにが……」

 頭が回らなくなっているのか、ぼんやりと呟いたあとで、ぱちりと目をまたたく。

「なにが……?」

 理想の王子の仮面が剥がれれば、こんなにも頼りない女なのか。

 どきりと跳ねる心臓に、自嘲の笑みを浮かべる。

 長年煮詰め過ぎた想いの前では、もはや痘痕あばたえくぼに見えるのだろう。

 冷静な部分で、それを愚かだと、滑稽だと、確かに思うのに。

「ところで、良いのですか?これで三曲目ですが」

「あなたが、それを言うのですか?」

 違いない。

「僕はあなたとであれば、何曲踊っても構いませんから」

「所詮、学校行事です。正式な場ではありません」

 その通りだ。どうやら、頭が回り始めたらしい。さすが、立ち直りが早い。

「それでもここは、小さな社交界です。この場にいるのは、いずれ国の中枢を担う者ばかり」

「そうですね。その通りです」

 頭痛がするとでも言いたげに、瑠璃紺がしろいまぶたで隠される。

 目を閉じてもステップが崩れないのは、さすが王女の娘だろうか。それだけ、徹底的に叩き込まれているのだろう。

 技術は認めるが、しかし。

「唇を奪われたくて誘っているのでないのならば、男の前でそう無防備に目を閉じない方が良いですよ」

「なにを言って、」

 顔を寄せて言えば、ぱっと開かれた瑠璃紺と、至近距離で視線がかち合う。

「ここが正式な場でなかったとしても、公衆の面前で唇を奪われれば、縁談どころではなくなるでしょう」

「馬鹿なことを」

「しない、と思いますか?」

 しなかったところで、こんなに顔を寄せて踊っていれば、親密さなど十二分に示せているのだが。

「しないでしょう」

 なにを根拠に。

「ヴァージンバウアー侯爵家継嗣としても、セントローレルカレッジ総代としても、その地位の重さを理解しているはずです、あなたは」

 こうして、ひとを誑し込んで来たのだろうな、この化け物は。

「そんなものをすべて吹き飛ばすのが恋だとは、思いませんか?」

「吹き飛ばして許されるのは、物語の中と舞台の上だけですよ」

「あなたが、それを言うのですか?」

 恋を理由に縁談を蹴った王女の娘で、自分も噂が広まるほどに恋に溺れて見せた女が。

 さきほどは相手に言われた言葉を、今度は僕が投げ掛ける。

「わたくしは」

「たとえ許されなくても」

 たとえ、望みのない気持ちだとしても。

「理性など捨て突き進めと、身体に命じて来るのが恋ですよ、ご令嬢。心ほど、言うことを聞かないものはありません」

「わたくしの、せいだと?わたくしが、あなたに、こんなことをさせたのですか?」

 その答えは是であり否であるが。

「もしも僕が、あなたに恋する多くの人間のように、ただ生きているだけのあなたに惹かれたならば、それをあなたの責にするのは誤りでしょうね」

 だが、自覚があるはずだ。ないとは、言えないはずだ。

「わたくしは、あなたに恋をして見せた」

 よく出来ました。

「そうですね。あなたの演技に騙された僕が愚かと言うなら否定のしようもありません。ですが、騙そうと演技した者に、非がないとも言えないでしょう?」

「それでも、わたくしは」

 一度伏せた目を上げて、シルヴァーナ・アスマントスが僕を見る。

「二代続けて、国と民を裏切るわけには行かないのです。この国の、王家の血を継ぐ者として」

 ご立派な心掛けだ。

「それならばあなたは、恋をしたいなんて思うべきではなかった」

 曲が終わり、また始まる。逃げようとした手を、身体を、けれど捕らえて離しはしない。

 もはや踊る者もいなくなり、ただ、僕らのために曲が奏でられる。

「恋がしたいなら縁談の、結婚する相手とすれば良かったのです」

 そうすれば、僕も、協力者も、こんなことはたくらまなかっただろう。

 まっとうな主張と思って発した言葉だったが、しかし相手は全く知らない言語で話しかけられたような表情を見せた。

「政略結婚の相手に恋をするなんて、許されるはずがないでしょう?」

 なにを馬鹿なことをと言いたげに、そう、反論される。

 むしろ、恋をすることが推奨される相手だと思うのだが。

 しばし無言で見つめ合い、お互い、相手と自分の常識が相違しているのでは?と気付く。

「夫に恋をして、いけないことがありますか?」

「夫にこそ、恋をしてはいけないでしょう」

 当然のごとく反論してから、付け足す。

「もちろん、普通の夫婦であれば、それも許されることでしょうが」

 実の妹から"政略結婚の駒として育てられ、その教育が巧く行き過ぎた人間"と評された、その、実態が見え始めた。

「政略結婚では、許されない、と?」

「立場と状況によるでしょうが、わたくしは」

 理想の王子と称される、女の園の頂点に立つ女が言う。

「王家の血を継いでいても、王女ではありません。お相手と対等な立場ではありませんし、結婚と言う聞こえの良い名前を付けているだけで、立場は売られた奴隷と変わりません。奴隷が主人に恋をするなど、許されるとお思いですか?」

「……なるほど」

 本気で、言っているのだろうか。

 いったいどんな教育をすれば、こんな考えの人間が育つのか。

 姉を愛していると言う妹が、政略結婚を止めたがるのも当然だ。こんな状態で下手な相手に嫁げば、どんな扱いを受けることか、わかったものではない。

 深く、深く息を吐いて、足を止める。

 曲が終わりを迎える。踊る者がいなくなった舞踏会の場で、音楽家も次の曲を奏でるべきか困ったのだろう。曲すらなくなった広間は、舞踏会にあるまじき静けさに包まれた。

 手を握ったまま腰は離し、一歩下がる。

 跪いた僕に、ざわり、と周囲が揺れた。

「シルヴァーナ・アスマントス公爵令嬢」

 その揺れも、僕の一言で水を打ったような静けさに戻る。

「僕と、結婚して頂けませんか」

 見上げた瑠璃紺が、大きく見開かれた。触れた指先から、震えが伝わる。

「そ、れを」

 じわり、と瞳に涙がにじんだ。

「わたくしの、一存で決めることは、出来かねます」

 さすが、こんな時まで、苛立つほどにブレない女だ。

「そうでしたね。後日、家から公爵宛に、正式な求婚を申し入れましょう」

 苦笑して立ち上がり、長身だが華奢な身体を引き寄せる。強張る肩に、そっと手を触れて。

「困らせて、申し訳ありません。控室までお連れしましょう」

「いえ、ひとりで、」

「その顔を、ほかの男に見せたくないので」

 どこかで小さく、悲鳴を上げた令嬢がいた。

 それで良い。しっかり外で囀って、国中に声を届けてくれ。

「ヴァージンバウアー侯爵子息」

 見かねたように、声を掛けて来る共犯者。

 やはり、他国にやるには惜しい優秀さだ。さすがに四女の縁談まで、退けるわけには行かないが。

「総代、あなたの姉君の体調が優れないようです。控室で休ませるので、後のことはお任せしても?」

「……わかりました。シルヴィ姉さま、あとはわたくしが取り計います。今日はもう、ゆっくりお休みになって」

「役目を、投げ出すわけには」

 聞き分けの悪い姉の頬に手を当て、姉を案じる妹の顔で、共犯者は姉の顔を覗き込む。

「顔色が悪いです。どうか、わたくしを信じて、委ねて下さい。それとも、わたくしでは頼りにならないですか?」

「カナイオーラが頼りにならないなんてことないわ。わたくしは大丈夫だから、っ」

 話が進まない。

 手を放し、ひょいと頑是ない女を抱き上げる。

 ぽかん、と、間抜けな顔で見上げられた。

「大丈夫に見えないから、休めと言われているのですよ?さ、良い子だから、大人しく従って」

「そんな、子供のように扱わずとも」

「苦情は後で聞きますから。では、カナイオーラ嬢、姉君をお預かりします」

「よろしくお願いいたします」

 シルヴァーナ・アスマントスを抱いたまま歩き出す俺のために、なにも言わずとも人垣が割れて道が出来る。

「暴れると、落としてしまいますよ、ご令嬢」

「ならば、人前でこんなこと」

「人前でなければ良いのですか?」

 そうは言っていないと、目が雄弁に語っていた。

 顔を寄せ、声を落として囁く。

「落ち着いて、考える時間が必要なのでは?失言が許される立場ではないでしょう?」

 姦しい歓声は、睦言にでも見えたからか。

「っ……あなたが、それを、言うのですか。わたくしは、大人しく、恋を諦めようとしていたのに」

 この期に及んで受け入れない。本当に、筋金入りの政略の駒だ。

「元々、諦めるつもりの恋だったくせに」

「それは、立場上、仕方なく」

「その"仕方なく"を取り払って差し上げたのですが?恋を諦めなくて良いことを、喜ぶ気にはなれませんか?」

 広間を出て、控室へ向かう。

「心配しなくても、なにか無体を働くつもりはない」

 ひたりと追い付いて来た、アスマントス家の従者に告げる。

「本当にただ、休ませたかっただけだ」

 言葉通り、控室の長椅子へ、華奢な身体をそっと降ろす。

 こちらを見上げる瑠璃紺は、不安と警戒に翳っていた。息を深く吐き、告げる。

「あなたが好きです。シルヴァーナ・アスマントス公爵令嬢」

「わたくしは」

「あなたの結婚に、あなたの意思は関係ない、でしょう?」

 微笑む。絞首台に立つ死刑囚の、背中を押してやるために。

「僕はあなたの夫と言う地位を得ます。持てる力のすべてで、どんな手段を使っても。あなたに恋をしてしまったから、あなたがほかの男の手を取るなんて、許せないのです」

 膝に置かれていた手を、掬い上げる。

 華奢な手だ。男に力尽くで抑え込まれれば、抵抗も出来ないだろう。

 けれどひとたび舞台に立てば、完璧に理想の王子を演じて見せる女だ。

 誰もが望む偶像を、現実にして見せる女。

 だと言うのに、僕の望みはなにひとつ、叶えはしない女。

 それならば。

「僕は僕の恋心の言う儘に、あなたへ手を伸ばします」

 取った手に、唇で触れる。手袋越しの触れ合い。あくまで、挨拶の範囲のもの。

「近いうちに、アスマントス家へ使いを出します。公爵の返事が、楽しみですね?」

 この程度の触れ合いならば、王妹の娘として受け慣れているのだろう。手袋越しに触れた唇など気にも留めず、目の前の女は僕の言葉を気にしていた。

 気に入らない。

 ひょいと返した手首、指先から肩近くまで覆う手袋はけれど、華奢な手首に沿わせるためにボタンが付けられていて、わずかだが手首の肌が露出している。

 その、ほんのわずか見えた素肌を、唇で吸う。

「っ……!?」

 ぎょっとした顔と、赤くなって行く頬に溜飲を下げ、微笑んだ。

「今日のところはこれで。あなたは少し休んでから、今日はもう帰ると良い。では、また、愛しいひと」

 これ見よがしに親指で素肌の手首をなでてから、掴んでいた手を解放した。

 呆然とこちらを見上げる女は、立ち去る僕を見送ることすら思い付かないようだ。

 そのまま部屋を後にし、従者を呼び出す。

 舞踏会は、間もなく閉会だ。時間が惜しい。

 四曲も踊るつもりはなかった。二曲踊れば十分で、駄目押しにしても三曲で良かったのだ。どんなに逆上のぼせた恋人や夫婦でも、四曲も踊ることは珍しい。

 どれだけお互い夢中かを印象付けるには良い手だったと、心の中で誰にともなく言い訳をする。

 兎にも角にも、僕の心は衆目に見せ付けられた。そしてシルヴァーナ・アスマントスの心は、彼女自身が五年半もかけて見せ付けて来た。演技だろうが嘘だろうが、ひとは見たものを信じる生き物だ。

 彼女は演じた。いつかの舞台と同じように、完璧に。その、偽りの恋を、虎視眈々と利用しようとしている者がいるとも知らずに。

「すべて手筈通りに。時節だけ、しっかり見極めるように」

 舞踏会の会場には、数人の記者と専属絵師を紛れ込ませていた。使用人の振りをしているから、踊っているあいだの会話が聞こえる位置にはいないし、読唇も無理だっただろう。確認出来たのは仲睦まじく踊る姿と、最後の求婚だけのはずだ。ああそれから、抱き上げて会場を後にしたことか。

 控室にまでは忍び込むのを許していない。元々与えるつもりだった情報しか、彼らは得られていないだろう。だが、確実に売れる情報だ。こぞって大々的に、記事へと書き立てるだろう。

 記事が出るのは明日。知れ渡るのに数日。そこを、いっせいに煽り立て、世論を誘導する。

 かつて、愚かな王女への批判を防ぐために、王家が取った手段だ。我が侯爵家を始めとする貴族は、世論に逆らえず煮湯を飲まされた。

 二十年以上の時を経ての、しっぺ返しだ。せいぜい慌てれば良い。


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 民衆とは、こうも簡単に操られてしまうものなのか。

 自分で仕組んだこととは言え、あまりにも巧く行き過ぎた状況に、呆れてしまう。

「だからこそ、シルヴァーナ・アスマントスを押さえることに意味がある」

 公爵家への婚姻申し入れのため。顔を合わせた父はそう語った。

「今回、ここまで右向け右に世論が操られたのは、もちろんお前や私の仕込みもあるが、それ以上に、かのご令嬢の影響が大きい。老若男女貴賤を問わず注目され、目と心を奪う存在。彼女が長年掛けて造り上げた嘘を巧く流用したからこそ、ここまで世論は加熱した」

 騎士の父を持つからか、野心を持たず、王家への忠誠が篤い者に育っているのが、救いだったな。

 父が複雑な表情で言う。

「ともすれば国家転覆も出来る程度の影響力はある。下手に隣国にでも嫁がせれば、侵略の足掛かりにもなりかねん」

 深く深く息を吐き、父は首を振った。

「いっそ病死させようかと、何度思ったか」

「諸刃の剣、ですか」

「ああ。敵になれば脅威。だが、味方にしてもいつ敵に利用されるかわかったものではない」

 政治と言う場で国を守る、盾であり矛でもある男が、鋭い目で僕を見据える。

「お前に、あの化け物が御せるか?」

「あなたの息子であると言う誇りにかけて、必ず」

 もしも駄目だと思われれば、死ぬのだろう、あの女は。理由が病死になるか、賊にでも襲われるのかはわからないが。いくら化け物のような女でも、人間ではあるのだから。

 愛する者が、自分の力不足で死ぬ。そんな無様な未来は、絶対に認めない。

 父の目を、しっかりと見返す。

 数秒か、数十秒か。

 ふたたび父が、ため息を吐いた。

「なるほど?」

 途中まで完成していた書面に、流麗な筆致で署名を書き込む。アスマントス公爵家宛の、婚約申し入れ書だ。

「良いだろう。やって見せろ」

 認められた。父に。

 歓喜を露わにしようとする顔を引き締めて平静を装い、ありがとうございますと告げる。

「いや?」

 ふ、と固い表情を解いて、父は首を振った。

「巧く使えれば良い駒だからな。捨てなくて済むならその方が良い。それに、これまでの手腕、悪くなかった。私の息子は、立派に育っているようだ」

「父上は」

 ふと、気になって問い掛ける。

「アスマントス公爵家の令嬢に対して、思うところはないのですか?」

「親が子を選べないのと同じように、子も親を選べない。生まれる前に親が犯した罪を子に背負わせるなど、馬鹿げた話だ。国政を執る上では、そうも言っていられないがな」

 こんな父だから僕は、父を尊敬し、その背を追おうと思うのだろう。

 もちろん、宰相に就くだけあって、清いだけのひとではない。だが、清も濁も合わせ呑むのは、国を思えばこそのもの。

「親の背を追って同じ罪を犯そうとするならば、許すことは出来んし罰さねばならん。だが、アスマントスの娘に関しては」

 父の目に、憐憫の色が乗る。

「哀れ、だな。それ以外には思わん」

「それは」

 ときに冷徹な決断も下して見せる父の、思わぬ言葉に、シルヴァーナ・アスマントスと話して感じた歪さを思い出す。

「親の罪を償うために、歪な教育を施されているから、でしょうか」

「お前も気付いたか」

 父の反応で、それが思い違いでないと確信した。

「正直な話」

 抱える本心に気付かれないため、シルヴァーナ・アスマントスと踏み入った話をしたことはなかった。学校運営に携わる者同士として、事務的な会話は何度も交わして来たが、個人的な会話をしたのは先の舞踏会が初めてだ。

 こんな状態でも、シルヴァーナ・アスマントスはエイジア・ヴァージンバウアーに恋をしていると、誰も彼もが信じ込んでいるのだから、滑稽な話だ。

 あの女は、本当に、あまりにも、立ち回りが巧過ぎた。

「どんな教育を受ければ、あんな人間に育つのか、とは、思いました」

「そうだな」

 父は視線を伏せ、低い声で続けた。

「この国は長く、王位継承争いを起こしたことがない。建国後数代は継承争いで荒れたこともあり、かなり陰惨な状況になったこともあるが、それ以降は争いなく、平穏に代替わりを果たしている。王を継がない王族らは王に協力的で、王や後継者を支えることに尽力している。王命に逆らったアスマントス公爵は、王家のなかではかなり異質の存在だ」

 仲の良い王族。そう流すことも出来なくはないが。

「それが教育の成果で、同じ教育を、アスマントス公爵家の令嬢も施されていると?」

「珍しい失敗例の王女が産んだ娘たちだからな、より厳しく教育されているだろう」

 愚昧と思っていた王家だが、愚昧なだけではなかったらしい。

 協力者であるシルヴァーナ・アスマントスの妹は、この国が嫌いだと言い放っていた。どんな気持ちで、あの言葉を口にしたのだろうか。

「妻にするなら、大事にしてやりなさい。貴族の女に生まれた以上、人生が幸福か不幸かは、夫次第なのだから」

 父は有能な宰相であると同時に、愛妻家であることも知られている。

 追い続ける背中は、まだ遠い。

 それでも。

「自ら望んで手を伸ばしたのです。不幸になどさせません。蹴落としたほかの男たちも、彼女に憧れるすべての女性も、彼女を不幸にする夫など許さないでしょうから。それに」

「それに?」

「なにより僕が、彼女を不幸にする自分を許せません。あなたと母上の息子であることを、誇りに思っていますから」

 ふっと微笑んで、父は頷いた。

「では、励みなさい。己が己を、裏切ることのないように」


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 会って話がしたいと、シルヴァーナ・アスマントスから手紙が届いたのは、それからすぐのことだった。

 騒ぎが大き過ぎてやむを得ず休学中の彼女は時間に融通がきく。こちらの都合の良い日時を伝えれば、すぐ了承の返事が来た。

 渦中のご令嬢は外出するのも難しい。アスマントス公爵家のタウンハウスへ来て欲しいとの申し出は、さもありなんと了承した。

 なにせ親が政敵同士なので、門を通るのも初めての家だ。比較的新しく造られたために、公爵家でありながら貴族街の中心から少し離れているのもあり、実のところ外から見たことすらほとんどなかった。

 公爵家を興した王女のために建てられた屋敷は、物語の挿絵になりそうな美しい建物だった。庭も小さいがよく整えられ、それこそ"お姫さま"が暮らしていそうな、凝った装飾の散りばめられた可愛らしいお城。

 出迎えのために玄関ポーチに立った"銀の君"は、まるで屋敷の装飾のひとつのようだった。その存在で屋敷が完成する、とっておきの飾り。

 ああ、この家から、あの女を奪って欲しいと言った者の気持ちが、よくわかる気がする。

「ご足労をお掛けして、申し訳ありません」

「婚約を申し入れている身ですから、この程度のことは喜んでお受けしますよ」

 開口一番謝罪を口にしたシルヴァーナ・アスマントスに、微笑んで答える。心労でやつれたか、元々白い肌は血の気がなく、もはや青く見えるほどだった。

「顔色が悪いようです。体調が優れないならば、日を改めますが?」

「そのようなご迷惑は掛けられません。体調も、お話が出来ないほどではありませんから」

 言いながら先導するシルヴァーナ・アスマントスに続いて、付き添わせた従者と共に、二枚扉の玄関を通り抜ける。

 ピリリと、緊張した空気が肌を刺すようだった。

 姿は見えない。けれど、観察されている。

 それもそうか。この家の者から見れば僕は、掌中の珠を奪おうとしている男なのだから。

「迷惑だなんて。あなた以上に優先すべきものなど僕にはありませんよ、愛しいひと?」

 そこで嬉しそうに頬でも染めて見せないと、恋する乙女には見えないけれど?

「あなたに」

 鎮痛な面持ちで、シルヴァーナ・アスマントスは呟く。

「そう呼ばれる権利など、わたくしには」

 ああ、ものの見事に、許されない恋に悩む悲劇のご令嬢だ。

 一枚上手の堂に入った演技に、内心舌を巻く。

「あなたにそんな顔をさせないために、僕は力を尽くしたのです」

 けれど僕だってこの五年、演技の腕は磨き続けて来たのだ。

 眉を寄せたシルヴァーナ・アスマントスが、階段に足を掛ける。大人しくついて階段を昇るが、その足が二階を越えて三階へと進むのに目を見開いた。

「あの、」

「わたくしの部屋に。応接室は、人の目がありますから」

 さすがに疑問を呈そうとすれば、先んじて返答があった。

 それはそう、だろうが。

「……さすがに、不用心では?」

「もちろん、二人きりにはなりません。ですが、」

 こちらに背を向けて階段を昇るシルヴァーナ・アスマントスの、表情は見えない。

「人の目の気にならないところで話すべきと、姉から助言されたので」

「あなたが構わないのでしたら、僕も構いませんが」

 やはり自分に恋心を示している男を私室に通すのは、危機感がなさ過ぎるように思う。まさか見合い相手も、私室に通しているのだろうか。

「不用意に私的な空間に人を入れるのは、あまり良くないのではないかと思いますよ、ご令嬢」

「……失礼ですが、お嬢さまの名誉のために口を挟ませて頂いても?」

 答えたのは本人ではなく、ひたりと付き従っていたアスマントス家の従者だった。舞踏会のときと、同じ男、いや、よく見れば、背は高いが女だった。

「構わない」

「ありがとうございます。普段、お嬢さまは私的な空間に他人を入れません。私室に入れるのは家族と一部の使用人のみ。寮の私室に友人を招いたことも、一度たりとありません」

「友人も?」

「談話室や、応接室で十分ですから」

 セントローレルカレッジの寮は、基本的に相部屋だ。個室は最上級生と役職持ちの特権。もちろん王族でも入学すればその限りではないが、そうでなければ家の爵位に関係なく相部屋だ。私室に同室者がいることが当然で、同室者が呼びでもすれば、話したこともない他人が部屋に入って来ることすらあり得る。

「聖ハイペリカム女学院の寮は、全室個室なのですか?」

「いえ、下級生は一部を除いて相部屋です。わたくしは特例、で」

「わたくしともうひとりが交代で常にお側に控えておりますので、学校側の配慮で入学年度から個室にして頂きました。女生徒のみとは言え、用心に越したことはありませんので」

 シルヴァーナ・アスマントスの返答を、従者の女が補足する。

「そう、でしたか」

 つまり、今の状況はかなり稀有、と言うこと。

 そこまで人目を避けたいとは、いったいどんな話なのか。

 わずかばかり緊張しながら足を踏み入れたシルヴァーナ・アスマントスの私室は、質素な印象の部屋だった。否、元々の部屋は壁紙も装飾も凝っている。置かれた調度も質の良い一級品。だが、それだけ。最低限の調度品以外は、置物も絵画も花瓶もない。

 かすかに香る百合の香りだけが、唯一の華やぎだろうか。しかしそれすら、香りだけで花そのものの姿はない。

「どうぞそちらに」

 示されたソファに腰掛ける。座り心地の好いソファだが、無地の革張りでクッションも置かれていない。

 シルヴァーナ・アスマントス自ら淹れた茶も、茶器は無地の磁器だった。

 フリルとリボンで飾られた小花柄のドレス姿のシルヴァーナ・アスマントスが、部屋の主であるはずなのに浮いて見えるほどに、若いご令嬢の部屋らしくない部屋だ。

 我儘ひとつ言わないと、妹は評していたか。

 それはもしや、徹頭徹尾、なのだろうか。

「その、出来れば、内密にして頂きたい話なのですが」

 お茶を淹れるために立った体勢のまま、シルヴァーナ・アスマントスが言う。視線がちらりと、僕の従者へと投げられた。

「信頼する従者です。僕個人に忠誠を誓った、口の堅い男ですので、ご心配なく」

「そうですか」

 頷いたシルヴァーナ・アスマントスが、部屋の扉へと歩み寄る。従者の女も、僕の従者もいるからか、部屋の扉は完全に閉められていた。その扉に付けられた鍵を、白い手が回す。

 カチャリ、と鍵の掛かる音が響いた。

 そこまでするか。

 思わず顔を強張らせた僕の対面に、シルヴァーナ・アスマントスが座った。従者の女が、その後ろにひたりと控える。

 姿勢を正してこちらを向いたシルヴァーナ・アスマントスは、国王もかくやの威圧を感じさせた。王族特有の、逆らえない空気感、それを見事にまとっている。

 呑まれそうになる自分を、手を握り締めて叱咤した。

「この部屋は、防音がしっかりしています」

 おもむろに、王妹の娘が口火を切る。

「この程度の声量でしたら、扉に耳を押し当てても、外から聞かれることはありません。また」

 背後に控える従者の女を見る。

「あなたの従者と同じく、彼女も信頼に足る従者です。わたくしの秘密を漏らすことはありません」

 つまり、ここで話すことは外に出ないと言いたいのだろう。

「どうか、包み隠さず、本心をお話し頂ければと思います」

「なるほど?」

 趣旨はわかった。けれど。

「それではまず、あなたのお話からお聞かせ願えますか、ご令嬢?」

 思惑がわからない。

 この場を設けた意図がわからなければ、迂闊なことは言えない。

 僕がそう答えることは予測していたのか、シルヴァーナ・アスマントスは頷いて口を開いた。

「失礼なこと、叱責を受けてもおかしくないことと、承知の上でお話し致します」

 瑠璃紺をゆるりと閉じ、開いて。シルヴァーナ・アスマントスが、僕を見据える。

「わたくしは、政略結婚の駒として育てられた人間です。女子の居ない王家が、王女の代わりとして差し出すための、婚姻外交の駒となることが義務付けられ、幼少からそのための教育を受けて参りました」

 余計な言葉で相手の言葉を潰すことがないよう、頷きだけで先を促す。

「わたくしにとって結婚とは、家と国の利益のための契約であり、そこに個人の感情など差し挟む余地はありません。むしろ、わたくしの感情など邪魔なもの。取り除くべきものです」

 そんな考えだから、『夫に恋をしてはいけない』なんて結論に達するわけか。

 先の舞踏会の発言を思い出しつつ、頷く。

「一般的には、憐れまれる立場のようですが、わたくしは受け入れております。いいえ、むしろ、その方が良いと、思っております」

「愛のない、契約婚が、望ましいと?」

 つい口を突いた問いに、目の前の女は頷きを返した。

「人間の心なんて、流動的なものでしょう?愛や恋などと言う不確かなものに人生を委ねるなど、恐ろしくてわたくしには出来ません。感情の入らない契約の方が、ずっと確かで安心出来ます」

 それを、愛や恋を理由に自分に求婚して来た男に言うのか。

 僕の内心になど気付かず、政略結婚のために育てられた女は続ける。

「ですから、失礼とは、重々承知しておりますが、ヴァージンバウアー侯爵子息、わたくしは」

 いちど、躊躇うように落ちた視線が、いまいちど、僕へと向けられる。

「いずれ手放すものと決めて、あなたに恋をしておりました。あなたがおっしゃった通りです。期間を切って、恋愛ごっこをしていただけなのです。あなたと結婚することなど、絶対にあり得ないと、わかっていたからこそ、あなたに恋をしたのです」

 それを、自分を好きだと語った男に言うのか。

 口を挟みたい気持ちを堪えて、黙ったまま先を促す。兎に角すべて吐き出させてから、方針を定めたい。

「まさかあなたからダンスに誘われるなど、思ってもいませんでした。まして、求婚されるなど」

 自分の家だからか、素肌を晒した白い手が、きつく握り締められる。

「わたくしを、愛しているから、妻にしたい、などと言われることは、恐怖でしかありませんでした。物語のような恋なんて、実在するはずがありませんから」

 物語の登場人物のような見目をしているくせに、あまりにも夢のない言葉だった。

「けれど姉から、あなたはそんな風に、自分の心だけで突き進む方ではないだろうと言われました。確かにわたくしが見て来たあなたは、理性的で、頭の良い方でした。先の舞踏会のような言動は、どうにも、あなたらしくないように感じます」

 個人的な会話など交わしたこともないくせに、わかったようなことを言う。

 それでも黙って、続く言葉を待った。

「わたくしを妻とすることに、あなたからはどんな利が見えているのでしょうか。あなたはわたくしに妻として、なにを求めておいでですか?」

「──僕があなたに恋をして、愛しているから、とは、思わないのですか?」

 努めて静かに、問いに問いで返せば、躊躇いもなく答えを返された。

「あなたはわたくしを愛していない。そう言われた方が、わたくしはしっくり来るのです。どうしても、わたくしがあなたに愛されるとは思えなくて」

 この女は。

 いっそ本当に唇でも奪ってやれば、鈍過ぎるこの女にも理解出来るだろうか。

 ちらりと魔が差した瞬間に、女の顔の前に別の女の手が割り込んだ。

「マ、グ、ノリア?」

 突然抱き込まれたことに驚いた顔で、シルヴァーナ・アスマントスが従者の女を呼ぶ。

 普段はもっと後ろで気配を消しているのに今日はやけに前に出ると思っていたが、どうやら先日の舞踏会の件で、警戒されていたらしい。

 両手を挙げて、攻撃の意思がないことを示す。

「求婚して返答待ちの身です。心象を下げることはしませんよ」

「ええと」

 従者の危機感も、僕の衝動も理解出来ていない女が、困ったように僕と従者の女を見比べる。

「大丈夫よ、マグノリア。ちゃんと言われた通り、机一枚分距離を取っているでしょう?それに、そう警戒してはヴァージンバウアー侯爵子息に失礼だわ。無理矢理どうこうして縁談を押し通そうなんて、どこかの野蛮な殿方のようなことはしない方よ」

「……無理矢理どうこうされそうになったことが?」

 聞き捨てならない言葉を拾えば、未だ従者の女に抱き込まれたままの女の目が泳ぐ。

「それは、その、」

「わたくしどもがおりますので、お嬢さまには指一本触れさせておりません。不覚を取ったのは、あなた相手だけです」

 言葉に迷う主人に代わって、従者の女が答える。

「そもそも迂闊に、男性に近付いたりはなさいませんから、我らの愛するお嬢さまは」

「そうか。彼女の従者があなたのような有能な方々で良かった」

 まさか他国に縁談を持ち掛けるような王族や高位貴族に、そんなケダモノがいるなどとは思いたくなかったが。

 しかしそれならば、やはり彼女を他国にはやれない。

 ゆっくり深呼吸をしてから、姿勢を正した。

「婚約申し入れ書は、ご覧になりましたか?」

 僕の空気が変わったことに気付いたのだろう。従者の女が目礼して離れる。

 シルヴァーナ・アスマントスが居住まいを正して、頷いた。

「母から見せられました」

「では婚約申し入れ書に、父、ヴァージンバウアー侯爵の署名が入っていたことも確認済ですね」

 瑠璃紺が見開かれる。

「確認、しました。まさか」

「婚約申し入れは、ヴァージンバウアー侯爵家の総意です。父がこの国の宰相を務めていることは、ご存知でしょう。その、父が、あなたと僕の婚約を認めているのです。父は利益なしに動くような甘い人間ではありません」

 その事実こそ、あなたを妻とすることに利益がある証左では?

 告げれば瑠璃紺に、納得の色が浮かぶ。

 信頼で父に負けたようで少々癪だが、そんなことを言っている場合ではない。使えるものはなんでも使って、ひとまずこの女を納得させなければならない。

「あなたが正直に話して下さったので、僕も包み隠さず話しましょう。父はあなたを、高く評価しています。他国に流出させるべきではないとの考えで」

 言うべきか瞬間迷って、口にする。

「もしこのままあなたと他国との縁談が進むならば、あなたを暗殺することも視野に入れていたでしょう。父はあなたを高く評価していますが、だからこそ、あなたが他国に渡ることに危機感を覚えていたのです」

「それは、なぜ?」

「あなたは現状をどの程度把握しているでしょうか」

 僕は父から、シルヴァーナ・アスマントスの件で王宮に寄せられる嘆願書や意見書の数を聞いて、ゾッとしたが。

「新聞社を唆したのは僕です。ですが、記事を書く書かないは各社に委ねていました。蓋を開けて見れば、僕が声を掛けた新聞社すべてが、あなたと僕のことを新聞の一面に載せました。

 民衆を煽る画策もしました。けれど、ほんの少し、僕らの恋に味方したくなるような噂を流しただけです。結果は、どうなったと思いますか?」

 あの父をして化け物と言わしめ、国家転覆すら可能と思わせた。それが、目の前のこの女なのだ。

「今や国一丸となって、あなたの恋を実らせようと躍起です。それだけの影響力が、あなたにはある。そんな力、迂闊に他国に渡せばこの国が喰われます。他国にやれるわけがない」

 事実を根拠とした説明は、さすがに真実味を感じられたらしい。

「そんな、影響力が、わたくしに?」

 それでも半信半疑のようだが。

「少なくとも、僕と父は、あると考えています。だからこそ、ヴァージンバウアー侯爵家はあなたの確保に動いた」

「この結果を、予測していたと?」

「いいえ」

 しっぺ返しのつもりはあった。だから、王家がかつて行った世論操作程度の影響力が出れば良いとは思っていた。

 だが、結果は。

「ここまでの結果は予測していませんでした。あなたの影響力は、僕と父の予想を超えていたのです。あなたはやろうと思えば、世界すら手中に納められるかもしれません」

 苦笑して、さすがに僕もそこまでの野心はありませんがと呟く。

「僕がなにを求めるか、でしたね。僕は宰相として国のために粉骨砕身する父を、誇りに思っています。だからこそ望むのは、この国の安寧と繁栄です。あなたには、その一助となって頂きたい」

 本心であり、本心でない言葉だった。けれど紛れもない本心だから、胸を張って言うことが出来る。

「あなたが他国や、この国の国力を削ごうとする者に利用されないこと、それが僕の望みです。あなたが僕の妻になれば、妻としてあなたを守れます。あなたを利用しようとする者を、表立って排除することが出来る。あなたを守ることは、この国と王家を守ることに繋がります。それが、あなたを妻とすることで得られる、僕の利です」

 瑠璃紺を見据えて、手を差し出す。セントローレルカレッジの授業後そのまま来たから、制服の僕の手も素肌のままだった。

「どうか僕と共に、この国と王家を守っては頂けませんか」

「国と、王家の、ため」

 それがきっと、この女の心をいちばん動かすのだろう。

「ええ。国と王家のためです。あなたには、その力があると、僕は思っています。その力を、僕の妻として発揮して欲しいのです」

 そろりと、白い手が持ち上げられる。しかし伸ばされることはなく、問われた。

「最終的な判断は、家と王家が下します」

 ああ、つくづく、ブレのない女だ。

「ええ。わかっています。ただ、あなたの誠意に応えたかったのです」

 瑠璃紺が、一度隠され、また現れる。

 ヒヤリとした手が、差し出した手に触れた。

「国と王家のためになるならば、この身はいかようにも使って下さい」

 愛も恋もない協力関係。国中を熱中させる恋物語の結末がそんなものなんて、喜劇にしても滑稽が過ぎるだろう。

 それでも今この女を堕とすには、この形こそ有効だった。

「その献身に、敬意を、姫君」

 触れた手を、握る。柔らかく、滑らかな手だった。

「不仲と思われればそこを突かれかねません。どうか僕に恋する振りは、続けて頂けると幸いです。この国の国民は、あなたが世界一幸せな花嫁になることを望んでいますから」

「わかりました」

 頷いて、それならばと、女が僕の顔を伺う。

 素肌の手を、素肌の手で握られていることなど、気にした様子もない。

「呼び名も親しげにした方が良いでしょうか。エイジアさまとお呼びしても?それとも、愛称の方が?」

 首を傾げた女が、思案げに呟く。

「エディ?」

 握ったままだと握り潰しそうなので、そっと手を離して、笑みを向ける。

「良いと思いますよ。それでは僕も、そうですね、ヴァーナ」

 彼女の家族はシルヴィと呼んでいるようなので、同じ呼び方はしたくなかった。

 呼ばれた本人は、くすぐったそうに笑って、背後の従者を振り向いた。

「ね、マグノリア、親しげに見えるかしら?」

「見えますとも。お嬢さまが、ご家族以外を愛称で呼ぶことなどありませんでしたから、誰の目から見ても特別な関係であるとわかるでしょう」

「そう。良かった」

 懸念事項が解消されたからか、今日顔を見せた時と比べて、顔色も随分と良くなっている。

 この顔は、役に立ちそうだ。

「ほかに、確認しておきたいことはありますか、ヴァーナ」

 呼び名以外は事務的なやり取りを交わして、シルヴァーナ・アスマントスの部屋を出る。彼女のなかで、僕との結婚に対する折り合いはついたようだ。

 代償に僕の恋心は、ボロ雑巾のごとく痛め付けられたが。

 行きと同じように玄関ポーチまで出たシルヴァーナ・アスマントスは、門の向こうで張り込む新聞記者に気付いた様子だった。

「エディ」

「どうかしましたか、ヴァー、ナっ!?」

 ふわりと強く、百合が香った。

 首に回された腕、頬に触れた、柔らかな感触。

「今日は、わたくしのために時間を作ってくれて、ありがとうございました」

 頬を染めて浮かべる、とろけるような笑みは、恋人を見る乙女そのもので。

 この女が化け物だと実感するのは、こんなときだ。

 見上げる姿はまだ遠い。だが。

「こちらこそ、愛しいひとと会えて良かったですよ、ヴァーナ」

 そんなことは、言っていられない。

 溶けて消えそうなほどに白い頬へ、唇を寄せる。

 嬉しそうにはにかむ姿が、ただの演技だなどと誰が信じるものだろう。

「近いうちにまた」

 指先で頬をなで、華奢な身体を抱き締める。略装だからか、ダンスで触れた時よりも、ずっと柔らかく感じた。

 名残惜しく見えるように離れ、公爵家を後にする。

 シルヴァーナ・アスマントスは、僕の乗る馬車が見えなくなるまで、見送っていたようだった。


   ё  ё  ё  ё  ё  ё


 ほどなくして、アスマントス公爵家から婚約を了承する旨の連絡が届く。

 王族の婚姻にも使われる教会で行われた婚約式は、新聞各社に競って取り上げられた。

 国中が、悲恋でなくなった恋物語に沸き立ち、結ばれることとなったふたりを祝福する。

 "銀の君"に踊らされる国民たちは、思いもしていないだろう。

 "理想の王子"が手にした"物語のような恋"が、単なるハリボテでしかないなどとは。

 それでも理想の王子はこの手に堕ちた。

 ならば。

 さて次は、未来の妻を、どうやって口説き落とそうか。

拙いお話をお読み頂きありがとうございました


本編を応援して下さった方々に感謝を込めて


本編の方のコミカライズを収録したコミックスが

2026年9月30日に発刊予定です!

詳しくは7月15日の活動報告をご確認下さい

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続き書かれてすごく嬉しい! この先も誰のおはなしからでも、 楽しみ! いつかは、ヒロインさんも素敵な自覚のある女性になるんでしょうけども。 そこに至るまでの、 おはなしもっと じっくりいっぱい…
総代が不憫です。 でも、副総代というナイスバディがいて良かったと思います。 おかげでゆっくり4曲も踊れましたね! お茶会が楽しみです。 4女ちゃんもお姉さんのそばに残してあげたいですが、鎹というか楔…
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