後編
「以上がこれまでの経過報告となります」
「ありがとう。ルインが対応した影響からなのかここしばらくは襲撃が無いみたいだからしばらくは時間が稼げそうね」
サーリャの報告を聞きながらミランはベッドから身体を起こしていた。サーリャがミランの部屋を訪れていたのはこれまでの状況報告と今後の方針を決めるためである。
「……そうですね」
「どうしたのサーリャ?」
「な、何でもありません。少しぼうっとしていました」
「そう?何か困ったことがあるなら遠慮なく相談してちょうだいね。こんな身体だけどアドバイスは出せるから」
心配そうな表情をするミランを安心させるように慌ててサーリャは何でもないように取り繕う。
「ルインはどう?相変わらず自由気ままに動いているのかしら」
「え、ええ。今日は何か用があるとかで屋敷を離れてどこかへと出かけています」
気まずそうに報告した内容にミランは顔色を変えた。
「なんですって⁉こんな時に襲撃があったらどうするつもりなのよ」
「だ、大丈夫ですよ。万が一の時は設置した簡易型の転移魔法で戻ってくるということですし、出掛けたと言っても街中に出るだけとのことですし……」
「そう……ルインとは警備についてやり取りはできているのなら何も問題は無いのね?」
「……はい。大丈夫です」
僅かにサーリャの返答が遅れた。しかしミランはそのことに気が付いた様子はない。すかさずサーリャは話題を切り替えることにした。
「ミラン様は身体の調子はどうなのですか?あれから何日か経ちましたけどまだ起き上がれないほどなのですか?」
「実は全く起き上がれないというわけではないのよ。今もこうして起き上がれるほどには回復はしているのだけど、1日に何度かものすごく体調が崩れてしまうのよ」
「体調がですか?」
「ええ。1度体調が悪くなるとなかなか元には戻らなくて、その間は寝たきりになってしまうわ。まったく困ったものだわ」
うんざりとするミランにサーリャは目を丸くした。その話はサーリャも初耳だ。一日に何度も体調が悪くなるとはどういうことなのだろう。
「何か体調を崩す要因でもあるのでしょうか?」
「多分だけど急激に体を治そうとする反動が来ているんじゃないかなと私は思っているわ。ナイアン様の計らいでミルス領にある薬をいくつか提供してもらっているのよ。詳しいことは教えてもらってはいないけれど、相当強い効果があるみたいでおそらくはその影響なのではないかとナイアン様は仰っていたわ」
たしかに、本来は絶対安静にしなければならないミランを短期間で動ける状態にするとなると相当強力なのだろう。しかし傷は完治しても失ったものが戻ってくるわけではない。本来のミランのダメージと身体の帳尻が合わないことから起こる反応だと言われると納得できる。
どれだけの時間がかかるかわからないが、ここでさらに無茶をするとさらに回復が長引いてしまうかもしれない。
「だったらミラン様はこのまま安静にしていてください。私とルインで何とかなりますから」
安心させるように明るく振舞うサーリャではあったが、心の中では対照的に暗い影を落としているのだった、
「悩み事ですか?」
「えっ?」
これまでのように執務室で書類仕事をするナイアンの護衛に就いていたサーリャは不意に声をかけられた。目を向ければいつの間にかナイアンが手を止めてサーリャの方を見ている。
「何かに悩んでいるようで心ここにあらずと言った様子に見えたのでね。違っていたのならすみません」
「ナイアン様が謝るようなことはありません。こちらこそ不甲斐ない姿を見せてしまい申し訳ありません」
護衛中にもかかわらず自分のことに気を取られて疎かになっていた。気が緩んでいることを相手に指摘されるまで気が付かなかった自分の行動をサーリャは恥じた。
「謝ることではありませんよ。誰にでも悩みというのはあるものです。……ルイン殿と何かあったのではありませんか?」
「……どうしてそう思うのですか?」
「最近お二人の様子がどこかよそよそしく見えますし、あまりお二人が話す姿も見ないので何かあったのかと思っただけですよ」
そう。あの夜の1件からサーリャはルインと距離ができてしまって話せていない。話せていないとは言っても仕事上の最低限なやり取りはしているし、食事の席も一緒なので全く関わりが無くなったわけではない。
ただそれ以外でルインと話せなくなっているのだ。サーリャ自身もあの1件にまだ気持ちの整理が付けられているわけではなく、どう接していいのかわからないので二の足を踏んでいるような状態だ。
サーリャは胸に抱えている想いをナイアンへと話した。
「……なるほど。彼が夜中にしていることを話してくれなかったことがショックだと。そしてそんな状況を何とかしたいと考えているのですね」
「はい。確かにルインが言った通り今の私には力不足なのかもしれません。それでも一言ぐらいは私達に相談して欲しかったです」
結局のところサーリャにとって一番ショックだったのは知らされていなかったことなのだ。その事実がサーリャを落ち込ませる。そこまで自分は信用されていないのか。このことは当然ミランにも伝えていない。もしもミランの耳に入れば無理をしてでもベッドから抜け出してくるだろう。
「サーリャさんの感じることはもっともですが、ルイン殿が何も話さなかったのはサーリャさんを信頼していないのではなく、彼なりの優しさの結果だと私は思いますよ」
「優しさ、ですか?」
ナイアンはペンを置きながら静かに頷く。
「一応誤解が無いように言っておきますが、今回ルイン殿がしていることは私から依頼したわけではなく彼の方から申し出があったのです。流石にお二人にも知らせておくべきだと私は言ったのですがルイン殿は了承しなかったのです。『余計な負担をアイツらが背負う必要は無い』とね」
ナイアンは僅かに目を伏せた。
「人は痛みに対して敏感です。1度痛い思いをすれば2度と同じ痛みを受けないために対策を立てます。……詳しくは聞きませんが、彼があれほどまでに頑ななのは似たような痛みを彼自身知っているからなのでしょう。傷は癒えても心の傷は残ります。彼はその傷をあなた達に残したくないから話さなかったのではないでしょうか。だからこそ知られたとしてもその作業を任すわけにはいかなかった」
「そうだとしてもこのままルインにすべてを任したくはありません。私に何かできることは無いのでしょうか?」
サーリャが代わりに動けばルインの優しさが無駄になってしまうのは理解できる。しかしこのままルインが1人傷ついていく姿は見たくない。サーリャは傷ついてほしくてルインをここに呼んだわけではない。それはミランも同じ思いのはずだ。
今夜も1人傷ついていくルインを思い浮かべるだけで胸が苦しくなり、胸元でギュッと手を握ってしまう。そんなサーリャにナイアンは微笑みを浮かべる。
「大丈夫です。サーリャさんにもできることはありますよ」
「できることですか?」
「ええ。ルイン殿は誰が何と言おうと決して自分の役目を誰かに任すことは無いでしょう。彼の痛みを肩代わりすることができないのならば、他で彼を支えてあげればいいんですよ。何をすればいいのかに関しては私が直接助言することはできません。あなたがルイン殿と正面から向き合って導き出した選択ならば決して無下にすることは無いと思いますよ」
サーリャがナイアンと話している頃、ルインは街の一角を歩いていた。通りを進むたびに何人もの住民とすれ違うがよそ者のルインに気を止めるようなものは1人もおらず、いつも通りの活気で賑わっている。ルインもこの街の住人かのように躊躇いもなく真っ直ぐ進んでいくが不意に横道へと入った。
大通りの賑やかさとはうって変わり、薄暗い細道を歩く者は誰もいない。1人歩みを進めていたルインはボロボロになった家の1つに近づくとひと休みするかのように腕を組み、壁にもたれ掛かった。しばらくすると壁の裏側から声が聞こえてくる。
「ひひっ。あなたのような人がこのような場所に来るとは珍しい。頼りにされるとは光栄ですなあ」
どこかネジの外れたような男の声だ。
「余計な会話はいらん。俺の依頼を受けるのか受けないのかそれだけ答えろ」
「ひひひ。かまいませんよぉ。それで私は何をすればいいので?」
「1つやってもらいたいことがある」
「……」
前回と同じように皆が寝静まった時間帯。サーリャはルインの部屋の前に立っていた。今回はルームウェアの上からストールを肩にかけている。
今日はルインの部屋の扉はしっかりと閉められており、隙間からわずかな光が漏れているだけだ。今日も1人作業をしているのだろう。
ドアノブに手をかけようとしたサーリャだが、触れる寸前でその手が止まってしまう。
関わるな
閉められた扉からそう訴えかけられているような気がする。逡巡するサーリャだったが軽く頭を振ったあと勇気を出してドアノブに手をかけ扉を開けた。部屋の中でルインはランプの灯りの中こちらに背を向けていた。
「……サーリャか」
「う、うん」
「言ったはずだぞ。お前にできることは何も無いと。大人しく部屋へ戻れ」
「できることはあるわ」
「なに?」
サーリャの言葉に反応してルインが椅子を回転させてサーリャへと向き直った。ランプの灯りだけしかない部屋の中で照らされるルインはなぜかとても弱々しく見え、そのまま闇の中へと呑み込まれてしまいそうに見える。
だからこそサーリャはそんな暗い闇を吹き飛ばすかのような明るい笑顔をルインへと向けた。
「ルインの作業が終わるまで私も傍にいるわ。怪我をしたら私に任せてちょうだい」
そう言ってサーリャは持っていた救急箱を見せるように持ち上げるのだった。
「ルインが勝手にしていることなら私は止めるつもりは無いわ。その代わりに私も勝手にさせてもらうけど文句は無いわよね?」
これがサーリャの選んだ答え。ルインはどれだけサーリャが言葉を重ねても耳を傾けないだろう。だからと言ってサーリャもこのまま見なかったことにすることはできない。お互いに自分の意思を決して曲げることは無いとサーリャ自身は理解している。
ならばルインの傍で彼を支えることが今のサーリャにできることだ。
「……」
ルインは顎に手をやり考え込むように僅かに目を伏せる。サーリャの提案を受け入れるのを検討しているのか拒絶の言い訳を考えているのかわからないが、ここまで来たからにはサーリャも簡単に引くつもりは無い。
ルインの中で結論が出たのか伏せていた顔を上げ、澄んだ青い目がサーリャを捉える。互いの視線が交わること数秒。
「勝手にしろ」
そう言って椅子をくるりと回転させ背を向けるルインにサーリャは表情を綻ばせるのだった。
1人から2人へと増えた影がゆらゆらと揺れる中、サーリャは用意した椅子に座りながらルインの隣で作業を静かに眺めていた。
ナイアン宛に届いた報告書や書類、外部からの手紙など手が触れるものを1つずつルインは丁寧にチェックしていく。触れるだけでなく実際に手にとって宛先を確認するために裏面を見たり封を開けたりするなどナイアンがするであろう動きを真似、時には微量の魔力を流したりして反応があるのか確かめている。
これまでチェックしてきた中に罠が仕掛けられた手紙や書類の類は見つかっていない。チェックが終わったものがどんどんと用意したケースの中に積み重ねられていく。
(このまま何も無ければいいんだけど……)
そうサーリャが思っていた矢先、封のされた手紙を手に取ったルインの動きが止まった。手紙に向ける視線もこれまでとは違い鋭いものへと変わる。
「どうしたの?」
「……1つ目だ。念のために警戒していろ」
「っ!」
静かなルインの言葉で部屋の中の緊張感が一気に高まった。何があっても対処できるように僅かに椅子を少し後ろへ下げてスペースを確保するとサーリャは身構える。
ルインも何かしらの防御魔法を起動したのか薄い膜がルインを包み込み、その状態でゆっくりと手紙を調べ始める。
「どうしてその手紙が罠だとわかったの?特に変わったところはなさそうに見えるけど」
「確かに見た目では特におかしなところは無い。しかしこれに使われている紙が問題だ。これは魔力との親和性が高く魔力をある程度紙に残しておくことができ、他の紙よりも表面が滑らかなんだ。領主へ使うにはあまりにも不自然だ」
ルインは封を開け、ゆっくりと中身を取り出した後折りたたまれた中身を開いた。開いた瞬間、手紙の中から飛び出てきた刃がルインの顔へと飛んでいく。
「危ない‼」
ルインの顔を切り裂こうとしていた刃は直撃する寸前であらかじめ身に纏っていた薄い膜に弾かれる。ルインの顔には傷一つも無い。
刃は魔力で構成されていたのか1度弾かれるとその形がみるみると崩れ始め、最後は霞のように消えてしまった。
「ビックリした……」
身構えていたにもかかわらず突然の出来事に驚きを隠せないサーリャは早くなった鼓動を落ち着かせるように背もたれにゆっくりともたれかかった。
「……」
サーリャが一息つく中、ルインは刃が飛び出てきた紙を机に置いたまま何かを考えるかのようにじっと見続け、しばらくすると再度その紙を手に取った。——防御魔法を解いた状態で。
サーリャの目の前で鮮血が舞った。
「ルイン‼」
効果を失ったはずの紙から今度はアイスピックのような鋭い刺突が再びルインの顔に向かって放たれるが、咄嗟に紙を手放しながら空いた方の手で顔を守った。ルインの顔に突き刺さることは無かったが、防ごうとした左手は軌道を逸らす際に傷を負ってしまった。
机の上に赤い斑点がいくつも作られていく。
「つまりはこういうことだな。防いだと油断したところで別に仕込んでおいた魔法でとどめを刺す。定番中の定番な手口の1つだな」
「そんな解説はいらない!」
サーリャは手早く救急箱を開け、血を流すルインの左手に治療を施していく。正面から受けたのではなく軌道を逸らすことが目的だったので幸いにも手が貫かれることは無く軽傷で済んでいる。
「大袈裟だな」とぼやくルインにサーリャはひと睨みすると、黙って一回りも大きいルインの手の治療を続けるのだった。
「ねぇ、一つ聞いてもいいかしら」
「なんだ?」
治療を終えて作業を再開し、静かに時間が過ぎる中サーリャがその沈黙を破る。左手に包帯を巻いたルインの横顔を窺いながらサーリャは質問を口にする。
「前にルインは言ったわよね。命を奪うほどの悪意と殺意を向けられたことがあるから何をしてくるかわかるって。……それってあの時のことを言っているの?」
過剰なまでの戦力と人員を投入したルインの討伐命令。サーリャが知る中でルインがそれほどの感情を向けられるとしたらそれぐらいしか思い浮かばない。
「……それを知ってどうする?」
「どうもしないわ。ただ気になって聞いただけだから言いたくないのなら無理にとは言わないわ」
ルインの過去に踏み込む話なのだ。中途半端な気持ちや興味本位で聞いているわけでもなく、無理に聞き出したいとも思っていない。それをアピールするかのように横目で見てくるルインにサーリャは肩を竦めてみせた。
「……まぁだいたいはサーリャの想像通りだな。暇つぶしとして聞くにはあまり気持ちのいい話でもないが、それでも聞きたいのか?」
「聞きたいわ」
そこからルインが語りだした内容はサーリャの想像を遥かに超えていた。立ち寄った店に刺客が先回りして出された食事に毒が混ぜられるなど珍しくもなく、仕込めそうならばありとあらゆる罠を仕掛けられ命を狙われる日々が続いたらしい。
表面上では親切であってもその心の内では何を考えているのかわかるものではない。
常に命の危険に晒される毎日に精神も摩耗し、関わる全ての事柄を疑うようになったのは自然の流れと言える。
「まぁこんなところだな。言った通り面白味などまったく無かっただろう?」
一通り話し終えたルインの横顔はサーリャが見る限り普段通りで、特に変わったところは無い。
「ルイン、もう一つ聞いてもいいかしら?」
「今日は質問攻めだな。そこまでして何を聞きたいんだ?」
「ルインはここまでの仕打ちをした王国に復讐したいとは思わないの?」
王城でルシャーナに問われたことだ。その問いに対してルインは特に悩むことなくさらりと返した。
「思うぞ」
「……え?」
部屋の温度が下がったような気がした。息をのむサーリャの隣でルインは手を止めることなく作業を進めている。ただその横顔に暗く冷たい闇が広がったような気がするのはランプの灯りのせいだろうか。
「俺は別に聖人じゃない。くだらないことで俺からすべてを奪い、命を狙ってくる奴らに対して当然怒りはあるし、いっそのこと1度滅ぼした方がいろいろとスッキリするだろうと思っている。どれだけ人が死のうがそれは当然の報いだし俺はそれに対して何も感じることは無いだろうな。現に俺はこれまでそのための研究を続けてきた。どうすればより多くの敵を薙ぎ払えるのか。どうすれば多くの人間が絶望する中、命を奪えるのか」
普段のルインから聞くことの無い物騒な言葉が次々と出てくることにサーリャの思考は理解が全く追い付かずただ耳を傾けることしかできない。
「ミランに対してもそうだ。自分の目で真実を見ようとはせずに周囲の意思に流され、ただ命令に従うだけの人形に成り下がった奴に同情などするわけがない。徹底的に苦痛を与えて許しを請われたとしても命を奪う——そのつもりだったんだがな……」
「……何か理由があったの?」
少なくとも戦場で再会した時も、サーリャが無断でルインの家に連れて来た時もルインは威圧こそしたもののそれ以上の行動は起こしていない。
「理由……か。そうだな。うまく説明できんが、俺は……きっと疲れたんだろうな」
「疲れた?」
「ああ。王国を滅ぼそうが個人を徹底的に痛めつけようがこれまでに俺が奪われてきたものが戻ってくるわけではない。そんなことがあったという事実が消えることなく残り続けるんだ。そう考えると何も得ることのできない恨みや怒りを持ち続けるのが急に疲れたんだ。そんなことなら他人を気にすることなく1人で生きていた方が何倍も楽だ。……もちろん時間がどれだけ過ぎようとも色褪せない怒りや恨みがあるのも理解しているからこれはあくまでも俺個人の考えだ」
作業の手を止めたルインは背もたれに身体を預け、長く息を吐き出した。
「だから俺はそういう感情は持ってはいるが今のところ実行しようとは思っていない。まぁ。あいつらが懲りずに向かってくるのなら今度こそ容赦はしないがな」
「私もルインがそんな悲しいことをしないで欲しいと思っているわ。今のルインと過ごす日々が私は好きよ」
自由過ぎるルインの傍で魔法を学びながら夜には賑やかな食事を楽しむ日々にサーリャは楽しさを感じている。ミランもルインと敵対することは無いだろう。
「そうか」
サーリャの言葉にルインは短く返すだけであった。
比較的早い段階で1つ目が見つかった罠だが、そう何個も見つかるものではない。さすがに何個も送り付けるようなあからさまな行動はしなかったようで、あれから時間をかけてチェックを進めていくが2個目は見つかっていない。
作業を担当しているルインは別として当然サーリャはその作業を横で眺めることしかできないので時間だけが過ぎていく。そうなるとサーリャには決して無視できないものが襲い掛かってくる。
「おい、そろそろサーリャは部屋に戻ったらどうだ?」
「……なによ。ルインは私がここにいちゃダメなわけ?」
「いや、その状態ならここにいても意味ないだろう。寝るなら自分の部屋で寝ろ」
ルインの言っていることが理解できない。今もこうしてルインの作業を見守っているのに何を言っているのだろう。
「眠くなんて……ないわ」
ただ、少しルインの声が遠く感じるだけ。
眠ってしまうのを避けるために背もたれにもたれず背筋を伸ばしていたサーリャだったが、不意に左肩に何かが触れた。柔らかく温かな熱と感触が左肩に伝わってくる。
(クッションでもあったかしら?……でもこれで眠らなくてすむわ)
「サーリャ、聞こえているか?」
(うるさいわね。聞こえているわよ)
さらにルインの声が遠くなった気がする。返事をしたつもりだが、口が全く動いていないことに今のサーリャは気がつかない。
身体を揺すられたような気がするがなぜ揺すられているのか考えが纏まらず、ゆすられたことで左肩に感じていたぬくもりが離れてしまいサーリャはより左へと身体を傾けた。離れていたぬくもりが再び感じられ、サーリャは満足気な表情になる。
「……仕方ないな」
自身の身体が揺れていることに気が付いたサーリャは閉じていた瞼を僅かに開けた。眠気がさらに強くなっているのか思考がはっきりとしない。
目を開ければ隣にいるはずのルインをなぜか見上げる形になっている。
(あれ……ルインがどうして私を抱きあげているの?ルインの隣で座っていたはずなのに)
お姫様抱っこされているサーリャはどこかに移動しているようで、ルインの背後に見える屋敷の天井が流れていくのが見える。
「んぅ」
「起きたのか?」
「起きて……るわよぉ……」
まだルインはそんな勘違いをしているのか。こっちはずっと起きているのに。
自分のことをよく見てくれないことに不満顔になったサーリャは拗ねるようにルインの胸元の服を指先でつまんだ。
「わかったわかった。サーリャは寝ていないし今も起きている。これでいいか?」
「よろぉしぃ。作業は……終わったの?」
「……ああ」
「それは……良かったわぁ」
返事が返ってくるのに僅かな間があったような気がするが、終わったのなら何よりだ。その言葉にホッとしたのか僅かに開いていた瞼がどんどんと落ちてくる。
「とりあえずもうすぐサーリャの部屋に着くからそのまま大人しくしていろ」
「うん。そうさせてもらうわ」
眠気は限界で瞼は完全に落ちルインの声だけしか聞こえない。サーリャはそれだけ言い終えると安心したように全身から力を抜いた。
サーリャが落ちてしまわないようにルインがしっかりと抱え直したのがより密着し触れ合った場所からぬくもりと共に伝わってくる。
他人を気にすることなく自分の事だけを考える生き方を選んだと少し前にルインは言った。本人はそのつもりなのかもしれないが、夢うつつなサーリャはそれは違うと思っている。
——本当に自分のことしか考えていないのならば、サーリャをわざわざ部屋に運ぶようなことはしないのだから。
そこまで考えたところでサーリャは完全に眠ってしまった。
数日が経過し、今日もサーリャはナイアンの執務室で護衛の仕事を続けている。毎晩の書類チェックは続けてはいるが、それ以外では目立った騒動も無く穏やかな日々が続いていた。
ルインが対処した夜中の襲撃も結局はあの一回だけで、それ以降は1度も後続が来る様子はない。ルインという強力な存在に諦めたのかそれとも何かしらの準備を進めているのかわからないが、おそらくは前者だろう。
ミランは安静にしていたおかげでとりあえず動けるようになるまでは回復しているが、それでも無茶はできないので未だ部屋で回復に努めている。そのため今日も護衛はサーリャだけである。
ルインは「散歩に出る」と言い残し、あろうことか屋敷を離れてどこかへと出かけてしまっている。今襲撃を受ければ確実にナイアンを守り切れない。
1人という状況に不安を覚えるサーリャの耳にノックの音が聞こえてきて、一人の研究員が入ってきた。余程興奮しているのか急いでいたのか肩が大きく上下している。何事なのかとナイアンもサーリャも自然と身構える。
「ナイアン様。ようやく、ようやく完成しました!」
「っ!本当ですか⁉」
「はい。特定の条件下で栽培していた作物はすべてこちらの検査基準をクリアしました。それに伴って現在これまでの研究内容を整理し、まとめております」
つまりこれで設備さえ万全であればどんな作物も栽培できるということだ。品質では劣ってしまうが、それを差し引いても得られる恩恵は大きい。
報告はすぐさま部屋で休んでいるミランの元にも届けられた。3人が集まり今後の予定を確認していく。
細かい打ち合わせをしている3人がいる部屋に軽いノックの音と共にルインが入ってきた。買い物でもしていたのか紙袋を抱えている。
「ん。どうかしたのか?」
「どうかしたのかじゃないわよ。ようやく研究が完成して陛下に報告するために今後の打ち合わせをしていたのよ。ルインこそ今までどこに行っていたのよ?」
「必要なものを取りに行っていただけだ。これで暇つぶしでもしていたらいいだろう。ほら——」
責めるサーリャだったが、ルインは涼しい顔で受け流した後持っていた紙袋をミランへと放り投げた。
「……本?」
受け取ったミランは中身を取り出してみると、紙袋の中から出てきたのは一冊の本だ。装丁も簡素で厚みもそれほどなく、表には何も書かれていないので一見するとどんな内容の本なのかわからない。
あくまでもマイペースなルインにサーリャは呆れる。
「あのねルイン。私達は報告書が完成したら王都へ行くのよ。ミラン様もようやく動けるようになったのだから一緒に行くべきでしょう」
「別に今日出発するわけではないんだろう?だったら何の問題もないはずだ。王都へ出発するのはいつなんだ?」
「可能なら準備に3日はいただけると嬉しいです。3日後には必ず間に合わせます」
ならばこの3日は特に警戒を強めておかなければならないだろう。
「ねぇ。それだったら私もあの本を読んでいいかしら?ちょっと気になるのだけど」
わざわざルインが買ってきたものだ。ならば相当貴重なことが書かれているのだろう。少なからず興味を持ったサーリャであったが、ルインからの返答は「ダメだ」の一言だった。
「読んだところでサーリャには一切役に立たん内容だ。読むだけ時間の無駄だな」
「ちょっと!さすがにひどくない⁉」
雑な扱いに文句を言おうとしたところでノックと共に使用人が入ってきた。しかしその表情はなぜか複雑そうにしている。
「失礼します。コーランド領の領主様がお見えになっておりますがいかがいたしましょう」
その内容にルインを除く全員が顔を見合せた。今回の件で疑惑を向けられている人物が研究の完成したタイミングで訪問してくる。
……あまりにもタイミングが良すぎている。
「どうします?追い返した方がいいと思いますが……」
「いえ。あくまでもたまたまこのタイミングで訪れたという線もあり得るから最初から疑うのは良くないわ。ここは普段通り振舞うことでこちらの動きを悟らせない方がいいと思うわ」
相手は一応領主なのだ。対応を間違えれば互いの関係に亀裂が入ることは確実なので慎重にならなければならない。かといってもしも刺客が何人もいた場合サーリャ一人では対応しきれない。ルインが同席すればいいのだが、相手がルインの正体を知っていた場合は面倒なことになる。
「何をそこまで悩んでいるんだ。簡単な話だろう」
そう言ってルインはある提案を3人にするのだった。
「ナイアン殿、以前訪ねた時以来ですな。領主という立場で忙しいのに相変わらず研究に没頭している感じですかな」
「ははは。元々は一研究員でしたからね。常に新しいことに挑戦し続けていない生活はなんだか落ち着かないのですよ。それでもやりがいはありますから苦にはなりませんよ」
応接室で和やかに言葉を交わすナイアンとザイストをサーリャは部屋の隅で立ちながら眺める。今のところザイストの言動に不審なところはなく、たまたまこの領を訪れたかのように見える。若い領主であるナイアンとザイストが並ぶと年齢的には父と子ぐらいの差がある。
「ところで以前には見かけなかった者がおりますな。見たところ使用人とは違うようですが新しく雇った護衛ですか?」
しばらくナイアンと雑談を続けていたザイストであったが、興味がサーリャへと移った。
「違いますよ。情けない話なのですが私の研究をよく思わない者達がいるようで、ここのところ様々な嫌がらせを受けているのですよ。どのような事態にも対応できるように王都から人を派遣してもらっている形なのです。……本当に困ったものですよ」
心の底からうんざりしたように首を振るナイアンにザイストは同情するような目を向けた。
「それは災難ですな。どんなことにでも言えることですが、新しい試みというのは反発があるのは常ですからな。避けては通れないものでしょう」
芝居かかったように大仰な仕草で反応するザイスト。
「しかし護衛が1人とはいささか心持たないのではありませんか?人手が足りないのであればこちらも協力の手を惜しみませんぞ」
「お気遣い感謝します。ですがご安心ください。王都からは彼女の他にも人が来ておりますし、その役目も長くはありません」
「と、仰いますと?」
ここで初めてザイストが話に大きく反応した。椅子から身を乗り出し真剣な表情で詳細を聞こうとしている。
(アタリだわ)
「実は長く続けていた研究がようやく完成にたどり着きましてね。今は報告書をまとめておりますが3日後には王都へ向けて出発し、陛下へ報告するつもりです」
そのあとナイアンは今後の予定を細かくザイストに説明していき、ザイストからの質問にも快く応じていく。
聞きたいことをすべて聞き終えたのかザイストは帰るようだ。馬車に乗り込んで帰って行く姿を応接室に残っていたサーリャは部屋の中で1人窓から眺めていた。
「本当にあのまま帰して良かったの?」
1人だけの応接室でサーリャはまるで誰かに話しかけるかのように訊ねた。誰もいないはずなのにサーリャのすぐ隣から男の声が返ってくる。
「問題ない。どれほどの人物かと思っていたがあいつ自身はただの小物だ。少ない護衛だけで正面からこちらと敵対するような度胸もない。俺が部屋にいることも最後まで気づかなかったしな」
ゆらりと空間が曲がり、誰もいないはずの場所からルインの姿が現れた。ルインは魔法で姿を隠した状態でナイアンやサーリャと一緒に部屋の中へと入り、最後まで近くでザイストの様子を観察していたのだ。
「そうだとしても相手に情報を渡し過ぎよ。得られた情報で待ち伏せや罠を張られたらこっちが不利じゃない」
研究が完成したという最大級の情報を開示しただけでなく王都への出発日程や護衛情報など本来伏せておくべき内容もかなり渡してしまっている。これでは何か行動を起こしてくださいと言わんばかりだ。
今後の危険性を不安視するサーリャとは対照的にルインは余裕そうな態度だ。
「逆に渡す方がいいんだ。相手に情報を与えることで意図的に選択肢をこちらの想定する方向に誘導することで対策を立てやすくする。あいつがクロなら人員の限られた領の外で仕掛けてくるだろう」
「それでも余計なリスクは負うべきじゃないと思うわ」
自分達が危険に晒されるのとは違い今回狙われているのは領主とは言っても一般市民。悪戯に危険を増やして恐怖を与えるような行動は避けるべきだ。この辺りの方向性の違いはサーリャとルインの優先するべき認識の違いなのだろう。
今回のことが吉と出るか凶と出るかそれを知るすべは今のサーリャは持っていなかった。
「くそっくそっ!」
その日の夜、とある屋敷の一室で1人の男が怒りを爆発させていた。手近にあるものを感情のままに壁へと投げつけ床にその残骸がどんどんと作られていく。今も投げつけた文鎮が部屋の隅に置かれていた高価そうな壺に命中し、豪華な芸術品がただのゴミへと成り下がる。
「どうしてこうも私の計画がうまくいかないんだ!このままではすべてが無駄に終わるではないか。……それもこれもお前がヘマをしなければこんなことにはならなかったんだぞ!」
屋敷の主であるザイストはギロリと部屋の隅に立つ少女を睨みつけた。睨みつけられた少女は怖気づくことなく静かに首を横に振り、青い髪が動きに合わせて揺れ動く。
「それは間違い。シオンはできる限りのことはした。相手の方がシオンよりも強かったのだから倒せないのは仕方ない」
「仕方ないで済まされると思うな!達成できなければ何の意味もないだろうが!」
淡々としたシオンの言葉にザイストは怒りで赤くなっていた顔を更に赤くし、机の上にあったグラスをシオンへと思いっきり投げつける。しかし感情に任せて投げたグラスは狙いを大きく逸れ、シオンから少し離れた壁へとぶつかり粉々に砕けた。
「そもそもあんな強い人が雇われているなんてシオンは聞いていない。事前に貰った情報の中にそんな情報は無かった」
眉を寄せ不満を口にするシオンの言葉にザイストの中でさらに怒りの炎が燃え上がっていく。
「くだらないことで文句を言うな!不測の事態にも対応するのが貴様の仕事だろうが。……そんなことを言うつもりなら今回の不始末の責任をアイツらに取ってもらおうか?」
「それは止めて‼」
これまで感情を出さず淡々としていたシオンが感情を露わにしてザイストに縋りついた。その表情は必死そのものだ。
「命令は絶対に守る。守るからあの子達には絶対に手を出さないで!」
そんなシオンをザイストは乱暴に振りほどき力任せに突き飛ばす。大きく突き飛ばされたシオンは勢いのまま床に転がった。
「だったら与えられた仕事をしっかりとこなして来い。言っておくが今回の仕事はお前が思っている以上に重要なんだ。失敗すればお前ひとりの罰では足りん。あいつらにも同じ目に遭ってもらうとその頭に刻みつけておけ」
「……わかった」
突き飛ばされ床に転がっていたシオンは僅かに顔を歪ませるが、それ以上何も言うことなくゆっくりと部屋を出て行こうとする。
「1つだけ確認させてほしい」
「なんだ?」
ドアノブに手をかけたままシオンは肩越しにザイストへと振り返った。
「約束は絶対に守る。だからシオンとの約束も——」
「ああ、わかっている。貴様が見事やり遂げたのなら約束は守ってやる」
ザイストはシオンの言葉を面倒そうに遮り、さっさと出て行けと言わんばかりに左手で追い払うように動かす。
そんなザイストの態度にシオンは何も言わず今度こそ執務室から出て行くのだった。
半ば追い出されるようにザイストの屋敷を後にしたシオンは人通りの少ない路地を1人歩く。時間帯からして外を出歩く人が少ないのは当然だが、シオンが歩く通りには人の気配すらない。
周囲を取り囲む建物も屋敷周辺にあった立派な建物とは違いどれもボロボロで崩れ落ちているものが多い。
そんな建物の1つ。廃墟となった教会にシオンは静かに入っていく。扉はツギハギだらけで手直しされた形跡があり、ゆっくりと扉を開くと同時にギイイイと音が鳴る。
扉を閉めると同時にシオンは僅かに表情を緩めた。
「ただいま」
「「おかえりなさ~い‼」」
シオンの言葉に反応して教会内のあちこちから子供達が姿を現し、笑顔でシオンへと駆け寄ってくる。全員がシオンよりも幼く、年齢も性別もバラバラだ。
服もけっして綺麗とは言い難く、どの服もボロボロであちこちに補修を重ねた形跡があり、1つとして新品なものはない。
「みんな今日も元気にしていた?ケガをした子はいない?」
何人もの子供達が飛びつくように腰に手を回してくるのを受け止めながらシオンが訊ねると、誰もが我先にと口を開く。誰もが今日あったことを口にし、そのどれもが楽しいことばかりで1人として悲しげな表情をしている者はいない。
「お姉ちゃん。お姉ちゃんも食べると思って残しておいたんだけど今から食べる?」
子供達の中で最年長である少女があちこち凹んでしまっている鍋の蓋を開けた。中にはわずかなスープと一緒に痩せた芋が何個か入っている。
鍋の中身を見せてくる少女にシオンはゆっくりと首を横に振った。
「私はいい。今日は護衛の仕事で立っているだけだったからあんまりおなかが空いていない。みんなで仲良く分けて食べて」
「「「やったー‼」」」
少ないスープと芋を分け合って嬉しそうに食べる子供たちを優しげな目でシオンは部屋の隅で静かに見守る。
ここにいる子供達とはだれ1人として血は繋がっていない。ただ育った環境が同じだけだ。それでもシオンにとっては大切な家族のような存在だ。
「お姉ちゃん。もう少ししたらもっといいお家にお引越しって本当なの?」
スプーンで芋を頬張る男の子の1人からの質問にシオンは静かに頷く。
「それは本当。こことは違ってとても綺麗な家で、みんな一緒に暮らすことができる。ご飯も今よりもいっぱい食べることができる」
「すげー!」
「お芋だけじゃないの?」
「そんなことはない。パンも食べられるし、毎日は無理かもしれないけどお肉や果物も食べることができる」
シオンの言葉に子供達の興奮がさらに高まる。
「お肉⁉」
「果物って最後に食べたのいつだっけ?」
誰もが食事の手を止め、これからの新しい生活に目を輝かせる。そんな子供達を見ながらシオンは胸の内で改めて気を引き締める。
(必ずやり遂げる。この子達が安心して暮らせるためにも!)
盛り上がる子供達の声が教会の外にまで漏れているが、それを咎めるような人は辺りには住んでいない。そんな建物の外で2つの人影が動いた。別々の場所から身を潜めるようにしてシオンのいる教会を観察していた2人だったが、やがて用が済んだのか1人がゆっくりと闇の中へと姿を消し、しばらくしてもう1人も1人目と同じように闇夜に紛れて姿を消した。
王都へと出発する日の前日。明日はとうとう出発ということで屋敷の中では使用人が慌ただしく動き回っており、見落としや不足している物は無いのかと念入りなチェックが進められていく。
そんな中、サーリャは使用人が行き交う廊下を大股でずんずんと進んでいき、ルインの部屋に辿り着くやノックもせずに勢いよく扉を開け放った。
「ルイン、あなたまた本を買ったの?明日が大切な日だってわかっているのに何をやっているのよ。しかもとんでもない値段だったし!」
「おお。ギリギリ間に合ったか」
怒るサーリャから紙袋を受け取ったルインはサーリャの怒りなど見てもおらず、紙袋の中に入っていた本をさっそく取り出して中身を確認している。
しかも今回は料金が後払いだったためサーリャが代わりに支払ったのだが、値段を聞いた時は何かの冗談なのではと思うほどに高額だった。これ一冊で貴重な魔導書を何冊も買えてしまうほどだ。
「言っておくけど王都に向かっている間は呑気に読書なんてできないんだからね。ミラン様の代わりにルインもちゃんと仕事をしてよね」
ミランは王都までの護衛に同行せず後から追いかける形になる。これはルインからの命令で、満足に動くことのできない足手まといは邪魔になるというのが理由だ。ミランという強力な戦力を当てにできないのはかなりの痛手だが、代わりにルインが同行するということでとりあえずは納得している。
読書をさせる時間など与えるつもりは無い。
「心配するな。雇われたからには仕事はこなしてやる」
そう言ってルインは自信ありげに笑うのだった。
翌朝、必要な研究資料と報告書をどっさりと積み込んだ馬車は王都へ向けて走り出した。馬車には領主であるナイアンとその部下である研究員が2人、護衛としてサーリャとルインが付いている。当初の予定通りミランはこの場にはいない。
「そういえば王都から周辺の領主に向けて連絡が来ました。なんでも各地で魔獣の移動が観測されたようで、突然の遭遇に警戒するようにとのことです」
「魔獣の大移動って珍しいことなのですか?」
「魔獣が移動すること自体は珍しいことではありません。縄張り争いに負けた個体が別の土地へ移り住むようになるのは自然界では当たり前のことです」
ナイアンによれば今回はほぼ同じタイミングで魔獣の移動が複数確認されたらしい。動いた魔獣の集団は1つ1つ自体の総数は少ないらしいが、種族も発生個所もばらつきがあり規則性が無いそうだ。そのせいで原因が特定できず観測班は首を傾げるしかないそうだ。
「私達が行動を起こすタイミングを狙った可能性は?」
王都へ向かう今日になっての異変。さすがに勘繰りたくなる。
「いくらなんでもこれに関しては偶然でしょう。進路上ならまだしも報告ではかなり離れた領でも確認がされております。我々を妨害するにしてはあまりにも無駄なことが多いです」
命の危険を冒してまで目的とは関係のない魔獣を刺激して逆に自分が返り討ちにされてしまえば何の意味もない。深く考えすぎかとサーリャは視線を馬車の外に移し、流れゆく景色を眺めるのだった。
周囲の警戒を解くことなく時にナイアンと雑談を交わしながら順調に進んでいた馬車は途中でいくつかの村を通過し、数分前にまた別の村を通過したばかりだ。
まだまだ道のりは長いはずだが、不意に馬車の速度が急激に落ち始めた。サーリャは馬車の窓から顔を出して前方を見ると表情を険しくした。
「……ナイアン様。問題発生です」
馬車を停止させナイアンの部下を除いた3人は外へ出た。ルインは馬車の傍に、サーリャはナイアンの傍で待機する。
「これは一体どういうことですかザイスト殿。このようなことは事前に何の連絡ももらっていないのですが?」
普段穏やかなナイアンも今回ばかりは警戒心を隠そうともせずに相手を睨みつける。
視線の先にはまるで道を塞ぐように大勢の兵が並んでおり、その全員が完全武装している。ザイストは移動のために騎乗してはいるが、明らかに護衛としては過剰な戦力だ。
「そう警戒しないでいただきたい。以前お聞きした不届き者の話を聞いて私も何かできないかと考えましてな。いかに王国から腕利きの護衛を派遣してもらっているとはいえ人数的に心細いのではと思い少しでも役に立てればと思いこうして協力しに来たのです。準備に手間取ってしまい事前に連絡できなくて申し訳ない」
「その件に関しては以前にもお伝えしたとおりです。今回護衛してくださる方々はとても優秀で、少数であっても十分私を守り切ってくれます。そちらの兵をお借りするほどのことではありません。それにそれほどの兵を連絡もなく引き連れてくるなど明らかに問題です」
馬車でかなり移動したとはいえここはまだミルス領内。領主の許可無しに多数の兵を引き連れて入ってくるなど明らかな侵略行為だ。
「先ほど言ったように準備にいろいろと手間取ってしまったのです。それにどんなことにも例外はつきものです。万が一があってはいけません」
どちらも譲ることなく話は平行線。ピリピリとした状況が続く中、そんな空気をぶち壊すかのような一言がサーリャのすぐ近くから聞こえてきた。
「くだらんな」
決して大声を出したわけではないのにその声はよく通り、その言葉を聞いた2人は言い合いを中断してしまった。
話を遮られたことに不快感を示しながらザイストはルインへと視線を向ける。
「今の発言はどういうことですかな?我々は皆さんのためを思ってこうして行動しているのですぞ。いくら護衛とはいえその発言は聞き流せるものではありませんぞ」
「聞こえなかったのか?くだらないと言ったんだ。当の本人が助けはいらんと言っているんだからそれを外野がごちゃごちゃと文句を言うな。はっきり言ってお前の行動はありがた迷惑なんだ。くだらないことで無駄に時間を使わせるな」
「ルイン、もうちょっと言葉を選んでよ……」
領主に対してこの物言い。その場にいる誰もが絶句する中、サーリャは思わず空を見上げた。
間違ってはいないがそんな言い方をしたら……。
「ただの護衛風情が!もういい、やることは変わらん。貴様らにはここで死んでもらう。やれ‼」
青筋を立て憤怒に顔を歪ませたザイストが合図を出すと、待機していた兵士全員が突っ込んで来た。当然と言えば当然の結果だ。
「ルイン、あなたのせいでとんでもないことになったじゃない‼どうしてくれるのよ」
ナイアンを馬車へと引き返させるとサーリャは剣を抜き放ちながらこの状況を引き起こした張本人を責め立てる。もう少し言葉を選んでいれば戦闘にならずに済んだかもしれないのになんてことをしてくれたんだ。
「どうしたもないだろう。あいつらの目的が俺達の排除なら結果は変わらんだろう。むしろ本命を釣り上げた俺の功績に感謝して欲しいぐらいだぞ。——お前達は馬車の中で大人しくしていろ」
迫りくる兵を相手にルインは一切近寄らせることなく片手間に指示を出すほどの余裕を見せている。
なおも言いつのろうとしたサーリャだったが、今はこの状況を何とかするのが先だ。
相手側からいくつもの攻撃魔法が弧を描きながら飛んでくるが、サーリャは即座に魔法を展開し1つの漏れも無く撃ち落としていく。魔法同士がぶつかり合い爆発がいくつも巻き起こる。
サーリャが魔法攻撃の対処をしている間にコーランド兵が距離を詰めてきて槍を突き出してくるが、サーリャはそれを難なく躱すと目の前に突き出された槍の穂先を剣、あるいは魔法で作り出した刃で断ち切っていく。
次々と相手の槍を断ち切っていきながら迫ってきた相手に対して圧縮した高密度の空気の塊を遠慮なくたたき込む。叩きこまれた相手は鎧を着ているにもかかわらず大きく後方へと吹き飛んでいき、地面に落下すると動かなくなる。
魔法を叩きこまれた部分の鎧が大きく凹んでいるが、うまく受け身を取れば死にはしないだろう。落下の衝撃でどうなるかはサーリャの知ったことではない。
魔法だけではない。魔法を使えるようになってからも磨き続けた剣技で迫ってくる剣を打ち払い、次々と斬り伏せていく。
後ろに下がりながら捌き続けていたサーリャだったが、一瞬の隙を見逃さず今度は前へと大きく踏み込む。突然踏み込んできたサーリャに虚を突かれて攻撃の手が一瞬止まる。
その間にサーリャは用意していた魔法を発動させた。
広範囲風魔法「サイロンド」——サーリャを中心とした巨大な竜巻が発生し、近くにいた兵がまとめて暴風の中に吸い込まれていき木の葉のように振り回される。
「うわあああああああ!」
大半の兵は発動と同時に吸い込まれていったが、少し離れていた兵は吸い込まれずに仲間が悲惨な目に遭う光景を目にして誰もが恐怖に染まる。すぐさま大慌てでその場から離れようとするがその決断をするにはあまりにも遅すぎ、足が地面から離れると先に吸い込まれた仲間と同じ運命をたどった。
竜巻に吸い込まれた兵はしばらく抗えない暴風にシェイクされた後、遠心力に負けてあちこちから勢いよく飛び出すとそのまま地面へと叩きつけられる。
「あと何人かしら」
魔法を解き周囲を見渡したサーリャだったが、見た限り立っている兵は1人としていない。後方から魔法を撃っていた兵も一人残らず倒れ伏している。サーリャが倒したわけではない。
倒した本人は馬車から離れることなくバチバチと左手に雷撃を纏わせながら立っている。
「サーリャ、言っておくがこれで終わりじゃないからな」
「わかっているわよ。だって……」
ルインに返事をするサーリャの視界の隅で何かが煌めいた。煌めいた正体を確認するよりも前にそちらに向かって剣を振るった。
ギイイィン
魔力を解いたサーリャの剣と相手が持つダガーがぶつかった。防がれると同時にもう1本のダガーがサーリャへと迫ってくるが、すかさずサーリャはダガーを持つ手を叩き落として軌道を逸らすと同時に相手を押し返す。
くるりと空中で態勢を整えた相手はそのままザイストの傍に着地した。
ゆっくりと立ち上がる相手の姿にサーリャはやはりと思う一方で、そうあってほしくなかったという思いが混ざり合い悲しげに目を細めた。
「あなたがいるものね」
ゆっくりと立ち上がった相手——シオンは鋭い眼光でサーリャを睨みつけるのだった。
「遅いぞ。いったい何をやっていたんだ!さっさと奴らを片付けろ」
「ん。状況をシオンは観察していた、勢いのまま突っ込んでいたらシオンも魔法に巻き込まれていた」
「ぐっ……。いいから奴らを始末しろ!」
シオンの正論にザイストはグッと詰まる仕草を見せるが、すぐさま馬上から喚きたてる。
目の前の少女(シオンと言う名前らしい)はザイストとそれ以上の会話をすることなく両手のダガーを構え直しサーリャへと突っ込んできた。
「ちょっ、ちょっと待って。話を聞いて!」
弾丸のように突っ込んできたシオンを間一髪で横に回避したサーリャだったが、靴で地面を掘り起こしながらシオンはすぐさま急制動をかけてサーリャへと肉薄する。慌ててしゃがんだサーリャの頭上をダガーが通過し、右へ転がった先で間髪入れず頭上から降ってくる刃をさらに転がることで躱す。
シオンは弾んだボールのように飛び跳ねながら側面、背後とあらゆる角度からサーリャの命を奪おうと迫ってくる。小柄な体を最大限に活かした戦いにサーリャは翻弄されっぱなしになる。
「どうしてこんなことに加担しているの。これは本当にあなたが望んだことなの!」
振り下ろされた2本のダガーを受け止め至近距離にいるシオンへとサーリャは叫ぶ。魔法で身体能力を向上させているのか、体格で勝っているはずのサーリャに対して得物を打ち合わせた状態から1歩も引かない。
こんな幼い子が悪事に手を染めることなどあってはならない。サーリャは必死に説得を試みる。
「愚問。これはシオンの意思。あなた達を殺すことが私の仕事。止めるつもりなど最初から無い」
シオンは淡々と、それでいながらはっきりとサーリャを拒絶する。シオンの瞳には確固たる意志が宿っており、サーリャの言葉に対して一切の揺らぎが無い。
「ルイン!あなたもこの子を止めるのを手伝って!」
サーリャは背後にいるルインに向けて振り返ることなく声を張り上げた。目の前の少女を止めるにはルインの協力が必要だ。一度距離を取り再開された猛攻を捌きながら背後を見ればルインはなんと馬車の近くにある大岩に腰かけてサーリャの戦いを見ていた。
コーランド領の兵は無力化しているが、ザイスト本人とその護衛の数人はまだ捕らえられていないのにもかかわらずだ。
「俺はここで見学させてもらう。自分の力でこの状況を何とかしてみせろ」
「冗談言っている場合じゃないでしょう⁉この子を止めてザイストを止めないといけないのよ。わかってるでしょう」
耳を疑うルインの発言にギョッとしたサーリャは思わずルインのいる方向を振り返ってしまうが、すぐさまシオンへと注意を引き戻し間近に迫っていた右腕を払う。
苦戦しているサーリャの背後から声が届く。
「こんな状況だからこそだ。そいつは操られているわけでもなく自分の意思で命を賭けてサーリャの敵として立ちはだかっているんだ。それなのに自分は命を賭けずに周りに頼りきりなんて認められるはずがないだろう。ちゃんとそいつと正面から向き合え」
「……」
突き放す言葉にサーリャは押し黙ってしまう。黙ってしまったのは納得できなかったからではなく、ルインの言葉があながち間違ってはいないからだ。
大きな力で無理矢理抑えつけ従わせようとしたならば必ず禍根が残る。こちらの意思を通すならばそれに見合う覚悟を示さなければならない。
分かってはいるのだが——。
(この子にどうやって勝てばいいのよ……)
シオンは未だ例の盾を出していない。つまり僅かな身体強化で翻弄されているのだ。盾を出された場合、どうすれば彼女に勝つことができるのか明確なビジョンが見えない。
そんな中、ルインからさらに衝撃的な情報がもたらされた。
「安心しろ。そいつは無詠唱使いじゃない。どこにでもいる普通の暗殺者だ」
「無詠唱使いじゃないですって⁉」
「ああ。無詠唱使いなら何故そいつは1度として魔法を撃ち込んでこない?使うのは今のところ身体強化だけ。無詠唱で魔法が撃てるなら今頃サーリャはやられていたぞ」
確かにそれは有益な情報だ。有益ではあるのだが、それはそれで恐ろしい情報でもある。無詠唱魔法でもないにもかかわらずあれだけの力を持っていることに変わりはなく、現状を打開するには力不足だ。
そんなサーリャの心を見透かしたかのようにシオンの中で魔力が高まっていく。
「準備運動は終わり。……ここからは本気でいく」
僅かな詠唱を済ませるとシオンの持つ2本のダガーを淡い緑色の魔力が包み込み、徐々に鋭い刃へと変化させていく。
「フォートレス」
続けてシオンが短くそう口にするとさらに溢れ出てきた魔力が四つに分かれて見覚えのある形を作っていく。
「……冗談がキツイわね」
刀身が2倍に伸びた武器を持ち、盾を展開させたシオンを前にサーリャのこめかみをつーっと汗が伝っていく。ここからが正念場だ。
向かってくるシオンを前にサーリャはすぐさま剣に魔力を纏わせる。魔力を纏わせた武器にはこちらも同様に魔力を纏わせなければ武器が耐えられない。
サーリャは回避さえできないほどの広範囲に魔力弾の弾幕を放った。いくつかが地面へと着弾し爆炎と土埃でシオンの姿が見えなくなる。しかしすぐさま煙の向こうから何事も無かったかのように無傷のシオンが飛び出してくる。
「だったらこれはどう?」
更にサーリャは魔法を追加する。今度は正面ではなくシオンの頭上に2つ展開させる。正確に撃ち出された2つの魔法はシオンへと向かって行くが、以前見た時と同じように盾が二枚移動し、まるで傘のようにシオンを守った。
下から切り上げるように向かってくる一撃をサーリャは後ろへ下がることでやり過ごすと続く2撃目を剣で受け止める。
互いの魔力がぶつかり合い、青と緑の魔力が細かな粒子となり周囲に散っていく。
そのまま至近距離で激しく切り結ぶサーリャは僅かな隙をついて武器ではなく直接シオンを狙って剣を横薙ぎに振るうが、シオンの周囲に浮かぶ盾がすかさず両者の間に割り込んだ。
(っ。また!)
弾かれて無防備となったサーリャにシオンが迫ってくるが、突如その進行を妨げるように盾が前方へと移動し、シオンは接近を中断せざるを得なくなった。
直後、サーリャとシオンの間で破裂音と共に衝撃が両者を襲い、お互いが離れるように後ろへと大きく飛ばされる。
「これでもダメなのね」
距離が開き僅かな休息が得られた中、サーリャは落胆の色を隠そうとせずに独りごちる。
先程の衝撃はサーリャが放った魔法で、周囲の空気を限界近くまで圧縮し、それを解放した影響だ。抑えつけられていた力が無くなったことでその力が二人を襲ったのだ。
他の魔法とは違いほぼ不可視の攻撃だったのだが、あの盾はそれすら防ぐことができるようだ。決定打にはならなかったがそれでも確信したことがある。
(あの盾はおそらく自律型。指示を出さなくても相手の攻撃を感知して術者を守る仕組みみたいね)
前回の戦闘時もそうだったが、あの盾は明らかにシオンの死角からの攻撃にも反応してみせた。シオンが魔法で全方位に間隔を研ぎ澄ませているのかと思っていたが、先ほどあの盾はシオンの行く手を阻むように動いてみせた。シオンの意思で動かしていたのならばあんな邪魔になるような配置にはしないだろう。
——術者の意思とは別で動くのならばやれることはある。
サーリャは魔力弾を高密度で撃ち始めた。今度は正面からだけでなくシオンを囲むように方向・タイミングをでたらめにして撃ち続ける。
「無駄なこと。それじゃあシオンには届かない」
シオンがダガーを構えながら迫ってくる。4枚の盾はシオンを守るために前後左右忙しなく動き続け、ただの一つも通さない。
(想定通り正面突破してきたわね)
サーリャの猛攻を正面から突破してくるシオンの足元に攻撃魔法を展開すると予想通り盾がシオンを守るために正面へと移動してくる。シオンは進路上に割り込んできた盾を躱すために大きくジャンプして飛び越えてくる。
(今!)
飛び越えた瞬間、サーリャはシオンの頭上と背後・左右に攻撃魔法を展開した。空中では方向転換はできず、盾はすべてシオンを守るために動くので正面がガラ空きとなる。
盾が戻ってくるまでにケリをつける。そう思って前へと踏み込んだサーリャだったが、次の瞬間目を見開いた。
サーリャの思惑通りすべての盾はシオンを守るために動いている。しかしその中の1枚——背後へと回った盾だけ動きが違った。
これまで攻撃の余波を受けないように術者から少し離れた位置で攻撃を防いでいたはずなのに、今回はシオンにほぼ密着するかのように距離が近い。
シオンはその盾に足をつけると両足で一気に蹴り込んだ。思いがけない空中での加速に反応が遅れる。
「なっ⁉」
「自分の意思で動かせないと思った?」
眼前にまで迫ったシオンが冷たい声を発しながら腕を振るう。予想外な行動にタイミングをズラされ敵はもう目前。逃げることも迎え撃つことも間に合わない。
ゆっくりに感じられる時の中でダガーがこちらに向かってくるのを見ることしかできなかったサーリャだったが、不意に後ろへと引っ張られた。
「きゃっ!」
ギイイィィン
サーリャが声を上げるのとほぼ同じタイミングで衝突音が響いた。
「攻撃魔法に反応することからそれを逆手にとって正面から遠ざける。着眼点はいいがその後の詰めが甘いな。可能性があるならそれを踏まえたうえで行動するべきだな」
いつの間に接近していたのかルインがすぐそばまで近寄っており、サーリャと入れ替わるようにしてシオンの攻撃を障壁で受け止めていた。
ルインの顔が間近にある。顔だけではない。ルインの右腕はサーリャの腰に回され、ぴったりと密着するように力強く引き寄せられているので自然とサーリャもルインの胸板にぴったりとくっつくような態勢になってしまう。
「おい、聞いているのか?」
「ふぇ。き、聞いているわよ!」
「なんで叫ぶ必要がある」
はっと我に返ったサーリャは誤魔化すように声を大にして言い返す。今はまだ気づいていないようだが、このままではいずれ気づかれてからかわれてしまう。鼓動が早くなっているのも身体が熱くなっているのも気のせいだ。そうに違いない。
「ここからは俺が相手をしてやる。サーリャは俺の代わりに領主を守りながら見ていろ」
「わかったわ」
腰に回されていた腕が放され密着していたお互いの身体が離れる。
「あっ……」
「どうした?」
「な、なんでもないわ」
誤魔化すサーリャをルインは訝しげに見ていたが、しばらくするとサーリャから視線を外して歩いて行ってしまった。
(いったい私どうしちゃったのよ)
サーリャは自分自身の反応に戸惑っていた。先程ルインが身体を離した際、なぜか寂しさを感じてしまった。どうしてそのような感情を抱いてしまったのかはサーリャにもわからない。
それでもサーリャの中で何かが変わり始めているのは間違いない。本人がその変化を自覚するのはまだ先の話。
ルインとシオンが対峙する姿を馬車の前に移動したサーリャは不安な面持ちで見ていた。
(どうするつもりなの?)
結局サーリャはシオンの守りを崩すことはできなかった。魔法を使えば彼女の盾が自動で反応することで防がれてしまい、かといって魔法を使わなければ相手の攻撃を防ぎきることはできない。サーリャと違って魔法特化型のルインにとっては天敵と言ってもいいはずの存在。そのはずなのにルインの態度には一切の迷いがない。
「それじゃあさっさと終わらせるぞ」
「……やれるものなら!」
ルインの周囲に攻撃魔法がいくつも作り出され、それを迎え撃つためにシオンの魔力も一際大きくなる。準備が整うといくつもの攻撃魔法がシオンに向かって放たれる。炎弾や氷柱など属性はバラバラだが、どの攻撃魔法も直撃すれば即死もありえる威力。
「ダメよルイン!そんな攻撃じゃ彼女は止まらないわ」
いくら威力が高くても防がれてしまえば意味が無い。実際ルインが放った魔法はシオンが展開する盾によってことごとく防がれてしまい、一つとしてシオンに届いていない。
そのことは先程までサーリャの戦闘を見ていたルインなら理解しているはずなのに本人は一切魔法を放つのを止めようとしない。徐々に両者の距離が狭まってくる。
互いの距離はすでに半分近くまで迫っており、このまま両者がぶつかると思っていた矢先変化が起きた。
真っ先に変化に気が付いたのはシオンだった。
直前まで順調よく距離を詰めていたのに突如として足を止めたと思ったらその場で立ち止まり、戸惑ったように周囲を見渡す。いったいどうしたというのだろう。
シオンの不可解な行動に遅れるようにしてサーリャもようやく彼女が何に戸惑っているのかに気が付いた。
「盾が⁉」
シオンを囲む盾は相変わらず健在している。健在しているのだがその挙動がおかしい。ルインは魔法による攻撃を止めているのにもかかわらず盾は忙しなく術者を守るように位置を、角度を変え、最適な動きを取ろうとしている。
今も1枚の盾がシオンを守ろうと彼女の右前方へと位置を変え攻撃に備える。しかしルインからの攻撃は無く数秒その場に留まるとそのまま次の位置へと移動し始め、また何も無い場所を守り始める。
「これは……どうしたの?」
すべての盾が不可解な挙動を始め、小刻みに震え始めた。まるでどう動けばいいのかわからなくなったかのよう。
そんな中、ルインがおもむろに攻撃魔法を1つ展開しシオンへと放った。相変わらず不可解な動きをしている盾だが、シオンへ直撃する間一髪な所で1枚が割り込みシオンを守った。
防がれた攻撃魔法が役割を終えて光の粒子となって消えていく。
「術者へと向けられる攻撃魔法・または魔力を纏わせた武器からの攻撃を自動で防ぎ、術者は攻撃に意識を集中させることのできるその魔法は確かに強力だ。しかしそんな魔法にも当然欠点はある」
これまで無言で戦闘をしていたルインが静かに口を開く。
「見たところその魔法は周囲の魔力の動きを感知しているんだろう。広げた感覚で状況を把握し、向かってくる魔力の反応から対処する優先順位を自動で判断して行動を起こす。ならばその優先順位の判断を狂わせればいい」
「どういうこと?」
狂わせる。その意味がよく理解できずサーリャは首を傾げる。
「そうだな……例えばサーリャ。お前の周りを敵の騎士が取り囲んでいたとしよう。全員がすでに剣を抜いていていつでも斬りかかれる状態だ。その場合どう対処する?」
「そんなの……早く動いた相手から対処していくわ」
「そうだな。ならばそいつらがフェイントを織り交ぜてきた場合はどうする?寸止めするつもりかもしれないし少し腕を動かす程度だった場合は?」
「それは……」
相手が斬りかかってくるだけならば自分の言葉通り早く到達するものから捌いていけばいい。実際の戦闘でもそのように対処している。
しかしルインの言ったようにフェイントを織り交ぜてくるのならば話は変わってくる。向かってくる攻撃のどれが本物なのか受ける側のサーリャからは判断ができない。
本物と嘘。そんなものが至近距離で無数に向かってくるのなら——対応策はあるが完璧に捌ききるのは至難の業だ。
……ましてやそれが術者の意思を必要としない自動制御ならば。
つまりルインはシオンの周囲に攻撃魔法を展開する素振りを見せながら攻撃をすることはせず、絶えず位置を変えていたのだ。それだけの展開速度は無詠唱魔法の強みだ。
「そんなの、私が操作すればいいだけ!」
制御がシオンへと移ったのだろう。すべての盾が震えを止めてシオンの周囲に浮かび本人はルインへと再び斬りかかる。しかしサーリャはこの時点でこの勝負の結末が見えた。
サーリャやミランがシオンに対して苦戦していたのは彼女の展開する魔法の特異性があってのこと。複数の盾を展開していたとしても操作するのが彼女自身ならば限界はある。全方位から浴びせかけられる攻撃の対応にシオンは守ることで精一杯だ。
攻撃どころではなくなり足を止めてしまったシオンに対しルインは容赦なく責め立てる。身を守ろうと必死に盾を操るシオンは焦りの表情を浮かべているが、そんなシオンの表情を見ても一切ルインは攻撃の手を緩めず的確に撃ち込んでいく。
「あぅ!」
死角である背後から放たれた魔力弾がシオンの右肩に命中し、あまりの痛みにシオンは持っていたダガーを手放してしまった。地面へ落ちると同時に武器を覆っていく魔力が霧散していく。
間髪入れず左肩に撃ち込まれたシオンはもう1つのダガーも取り落とす。残っているのは身を守る盾だけだ。
「これ以上は無理だろう。もうお前がこの状況を変えることなど不可能だ。大人しく諦めるんだな」
圧倒的な力量差。ミランやサーリャがあれだけ苦戦しても足も出なかった相手に対し、ルインはほぼ反撃の機会を与えずに勝利した。
(それに比べて私は……)
黒幕を捕まえると意気込んでおきながら相手の力に翻弄され手も足も出ず、結局はルインの力に頼りきりになってしまった。己の不甲斐なさと無力感がサーリャをうちのめす。
「まだ、シオンは戦える」
よろよろとふらつきながらシオンはルインを睨みつける。その目にはまだ戦う意思が強く残っている。
武器を持たないままシオンはルインへと駆け出した。走りながらシオンは詠唱を始める。
「炎よ燃え上がれ、咲き誇れ。白き大輪の花の前にすべては灰燼となり、残るものは何もない」
詠唱が進むにつれてシオンの魔力がこれまでとは比べ物にならないほどに高まっていく中、サーリャはその詠唱の内容にギョッとした。
明らかにその詠唱内容から発動する魔法はまともなものではない。そして発動される魔法にサーリャは1つだけ心当たりがある。
「ルイン、彼女は自爆するつもりだわ!」
警告を発したサーリャだったが、すでに詠唱は完了したのかシオンの目の前にボール程度の光球が生まれた。光球は徐々に輝きを増していき、サーリャの視界を白く染め上げていく。
そんな中ルインは爆発的な加速と共に光の中に飛び込んだ。
「うっ……」
見ていられないほどの輝きにまで光が強まったところで、僅かなうめき声と共にその輝きは突如として失われた。光の先ではルインとシオンが密着するほどの距離で立っており、ルインの左拳はシオンの腹に深くめり込んでいる。
ズルズルと崩れ落ちるシオン。2人の無事を確認するとサーリャはホッと安堵の息を吐き、ゆっくりとルインの元へ近寄った。
「ルイン大丈夫?」
「俺は問題ない。……どうやらこいつは思っていた以上に諦めが悪いみたいだがな」
「っ⁉あなたまだ……」
ルインの足元で倒れているシオン。その手はルインの足を掴んでおり、相当力を入れているのか足を掴む指の関節が白くなっている。
「逃がさない。わた……しはまだ、戦え……る」
ルインの一撃をまともに受け、立つことすらできないない中凄まじい執念だ。敵であることも忘れ、その場にしゃがみこんだサーリャはシオンの手を放そうとするがびくともしない。
(この子はどうしてどうしてここまで……)
シオンの戦いに対する執念は明らかに異常だ。いったい何が彼女をここまで動かすのだろう。
「結局この程度の働きしかできんか。もしかすればと思ったが俺の勘違いだったようだな」
これまで離れた場所から戦いを見ていたザイストは倒れ伏すシオンに冷たい視線を投げかけている。
「貴様はもう必要ない。このままそいつらとともに死ぬがいい。貴様との約束も白紙に戻させてもらう」
「待って!もう少し……もう少しだけ待って。必ず約束は守るから!」
先程までビクともしなかった手を放し縋るようにザイストへと手を伸ばすシオンは顔色を真っ青にしている。あまりの反応にサーリャは怪訝な表情になる。
(約束?約束って何のことなの)
敵わないとわかっているはずなのにもかかわらず、なおも立ち向かうほどの執念を生み出す約束。この子はいったいザイストと何を約束したのだ。
シオンを見るザイストは薄ら笑いを浮かべる。
「そういえば言い忘れておったが、我が領も土地の有効活用をしなければならぬと考えておってな。少し整理をしなければと考えていたのだよ」
「せい……り?」
突如として始まったザイストの話が理解できずシオンは手を伸ばしたままの姿勢で固まり、サーリャも意図が分からず警戒しながら耳を傾ける。
「スラムなどと言う汚れた場所が我が領地にあるだけでも吐き気がする。これを機に不要な建物を打ち壊し、そこに住み着いたネズミどもを一掃することにしたのだ。今頃あらかた終わっている頃かもしれんな」
「そんな⁉話が違う‼仕事を終わらせればあの子達をあなたの屋敷に引き取ってくれるはず。そう約束した!」
「確かに約束はした。しかし貴様は俺の命令を守れずにそこで無様に転がっているではないか。そんな奴と守るような約束など無い!それに——」
ザイストはさらに歪んだ笑みを浮かべ、シオンへ言い放った。
「お前の言う『あの子達』とはネズミどもと何か見分ける印でもついていたのか?」
決定的な言葉。それが何を意味しているのかはこの場にいる誰もが理解できる。その言葉にシオンの伸ばしていた腕は小刻みに震え始め、やがて糸が切れたかのように力なく地面へと落ちた。
その身体は小刻みに震え、俯いた顔からは涙と嗚咽が聞こえ始めた。
その姿にサーリャはシオンを抱き寄せザイストを睨みつけた。あまりの怒りにサーリャの頭には一気に血が上り熱くなる。
「なんて酷い。人質を使ってこの子に人殺しをさせるなんて!」
「ふん。何をどう使おうと俺の自由だろうが。貴様達がさっさと死んでおけばここまで手間をかけずに済んだんだ。遠からずお前達がネズミどもを殺したようなものだな」
ザイストの心無い言葉にシオンの泣き声が更に大きくなる。これは1発殴らなければ気が済まない。
増援が到着したのかザイストの元へさらに兵が集まってくる。
「あなたは絶対に許さない。必ず報いは受けてもらうわ」
傍に置いていた剣を手に取りゆらりと立ち上がったサーリャはザイストと集まってきた兵を見渡す。今のサーリャを満たしているのは明確な敵意と身を焦がすほどの怒りだ。
そんなサーリャの視線を向けられてもザイストは動じない。
「ふん。安心しろ。貴様らもすぐに後を追わせてやる」
両者の視線がぶつかり見えない火花が散っていく。中断していた戦闘が再開されそうになったところで——
「お前達は何を勝手に盛り上がっているんだ?」
場違いなほど呑気な声がその場にいる全員の耳に届いた。
この場にいる誰もがルインへと注目する中、当の本人はたった今この場に到着したと言わんばかりの態度でサーリャの隣にいる。失われた命に対して何も感じていない、そう言わんばかりの態度だ。その態度が今のサーリャには腹立たしい。
「ルイン聞いていなかったの!あいつらはこの子を無理やり従わせた挙句、人質になっていた人達を……。ここまで聞いて何も思わないわけ⁉」
溢れ出す怒りをぶつけるかのようにサーリャはルインへと詰め寄ると胸ぐらを掴んだ。いくら自分自身の命が軽い認識であってもこの場でその発言は看過できない。今も足元で泣き続けているシオンの目の前ならば尚更だ。
「だから、お前達は死んでもいない奴らをどうして勝手に殺すんだ。サーリャはともかくあいつらまで同じ認識になるとはお前の妄想癖は他人にまで伝染するのか?」
「「は?」」
サーリャとザイストの間抜けな声が見事にシンクロした。俯いていたシオンも涙で顔を濡らしたままの状態でルインを見上げている。
ルインは何を言っているのだろう。人質が死んでいない?聞き間違えた?……いや。確かにザイストははっきりと明言はしていないがほぼ同じ意味の発言をしている。
現にザイストもサーリャと同じようにルインの発言に対して訝しんでいる。
「それはどういう意味だ。私が貴様らに対してそんなくだらない嘘を吐いているとでも?」
ルインは静かに首を横に振る。
「いいや。お前が言った通り土地の整理とやらは本当なんだろう。だがそれで死んだ奴などいないということだ」
「馬鹿なことを。貴様がネズミどもを助けるというのか。ここからどうやって助けるつもりだ。場所は?助ける人数は?何一つわからないまま貴様は魔法で助けるというのか」
「ルインそんなことができるの⁉」
魔法とは万能ではない。威力や形・効果など必要不可欠な要素は多くあり、無詠唱魔法が使えるようになってもその条件は変わらない。
攻撃魔法を相手の周囲に展開させる魔法もどこに展開させるのか座標設定は欠かすことができず、相手との距離が離れれば離れるほど難易度は上がっていく。
転移魔法などいくつか例外はあるが、魔法は目視できる範囲内でしか行使することはできない。
遠く離れた——それも隣の領のどこにいるのかもわからない相手に使う魔法などサーリャは聞いたことも無い。それでも……
(もしかしてルインなら)
ルインならばそんな常識など吹き飛ばす魔法を使えるかもしれない。遠くの人質を助けることのできる強力な魔法が!
シオンも足元で縋るようにルインを見ている。様々な思惑が混じった視線が集まる中、ルインはサーリャへと顔を向けると堂々と言い放った。
「そんなことできるわけないだろう。もう少し常識というものを考えろ」
「はあ⁉」
開いた口が塞がらないとはまさに今のこの瞬間のことを言うのだろう。口をあんぐりと開けたサーリャはそのまま固まることしかできない。あれだけザイストに大口を叩いておいて何もできないとは。
そんなサーリャの耳に何人もの笑い声が届いた。見れば腹を抱えて大笑いしているザイストとその護衛の姿がある。
「はははは!どんな魔法を使うのか見てみたかったがこれはまんまと騙されたな。まさかハッタリだったとはさすがの私も見抜けなかった。貴様はペテン師の方が向いているではないか?」
「確かに俺はここからだとそいつらに対して魔法で手助けすることは不可能だ。だがな、俺は言ったことが嘘だとは言った覚えは無いぞ」
「ならばどうするつもりだ。この場を見捨てて今から助けにでも行くつもりか?今から向かったとしても遅すぎるぞ」
嘲笑するザイストを前にルインは気だるげに返す。
「まぁそうだな。一応護衛で雇われている以上ここから離れるのはできそうにない。しかし——」
ルインは自然な仕草でザイストへと目を向ける。そんな彼らの背後でキラリと何かが光り——。
「そういう不条理をぶっ壊してでも助けたいと動く奴が俺の知り合いにいるんだよ」
集団の中央を一条の光が駆け抜け、その進路上にいた兵士が吹き飛ばされた。
「なに⁉」
「な、何が起こった⁉」
突然の光にサーリャだけでなくザイストも状況が理解できず驚きの声を上げた。光はルインの傍に着弾し、少しずつその輝きが消えていく。
「遅くなってごめんなさい。もう終わった後かしら?」
「いや。いいタイミングだと思うぞ。相変わらずの速さだな」
光と気軽に会話するルイン。その声も光の中から出てきた人物もサーリャは知っている。宝玉の嵌められた剣を片手に眩い金色の髪が風でふわりとなびいている。
王国最強の騎士が戦場に参戦したのだった。
突如として現れたミランに戸惑いながらもサーリャは嬉しさのあまり彼女へと駆け寄る。
「ミラン様、体はもう大丈夫なのですか?」
「ええ。この通り問題無く動けるわ。心配かけてごめんなさいね」
優しげな笑顔をサーリャに向けた後ミランの視線は別のところへと向いた。僅かに視線が下がった先にあるのは未だ蹲ったままの状態のシオンがいる。
「あの、あの子は……」
「大丈夫よ」
ミランにとってシオンは自分を重症にまで追い込んだ敵である。ゆっくりとシオンへと近づくミランにサーリャはシオンの説明をしようとするが、その前にミランに手で制されてしまった。サーリャはハラハラしながらその成り行きを見届ける。
シオンの元まで近寄ったミランはそのままシオンと目線を合わせるかのようにその場にしゃがみこみ、僅かに怯えたシオンとミランの視線が交わる。
怯えるシオンにミランは安心させるかのように微笑みを浮かべた。
「安心しなさい。あなたの大切な人達は無事よ。私が責任をもって保護して今は安全な場所にいるわ」
ミランの言葉にシオンは大きく目を見開いた、
「……本当に?あの子達が傷ついたり悲しんだりしていないの?」
ミランはシオンの手を自身の手で優しく包み込み静かに頷く。それだけで伝えたいことはすべて伝わった。すでに涙で濡れたシオンの目からさらに大粒の涙が溢れてくる。
「1人でよく頑張ったわね。あとは私達に任せなさい」
シオンの頭を優しく撫でたミランは茫然としているザイストへと向き直る。シオンへと向けていた優しげな表情はすでに消え去っている。
「ザイスト・コーランド。領主暗殺の容疑と幼い子供達の命を無為に奪おうとしたその罪は決して許されるものではない。大人しく武装解除し投降しなさい」
ミランの凛とした声が辺り一帯に響き渡る。そんな中ザイストは現状を理解できず癇癪を起している。
「何故だ!どうしてお前達がこちらの動きを掴んでいるのだ。お前はそこにいる役立たずの攻撃で動けなかったはずだろう」
「ええ。おかげさまで時間はたっぷりとあったからじっくりと読み込ませてもらったわ」
そう言ってミランは懐から1冊の本を取り出した。表にタイトルも書かれていない簡素な本だ。その本には見覚えがある。
「それってルインが買ってきた本!」
昨日どこから仕入れ来たのか、本のわりにやたら高額な請求をされた本だ。結局サーリャは中身を読むことはできずミランにそのまま渡ってしまったため何が書かれていたのかわからずじまいだった。
「お前へと繋がる直接的な痕跡は無かったが、その周囲にいる人間ならば違ってくる。お前みたいな性格のねじ曲がった奴が何の見返りもなく子供を迎え入れるわけがないだろう。お前は役立たずと判断した奴から計画が露呈したんだ」
つまりルインは調べていたのだ。誰にも悟られないように静かに、1人で。自分が動けば警戒されてしまう為人を使って調べさせ、自分は屋敷で何もしない風を装って相手を油断させる。
これにはサーリャも舌を巻いた。あれだけ何日も同じ屋敷で生活していたのにルインの行動に気づかなかった。
「さて。それじゃあとっとと終わらせようか」
ルインの言葉を聞きながらサーリャは剣を握り直した。既にミランが駆け抜けて来た際に吹き飛ばしたコーランド兵が起き上がり、態勢を立て直し始めている。
数は相手の方が未だに上回っているが、所詮はただの一般兵士。ミランも加わったからには負ける可能性など皆無だ。
一気に制圧するべく動こうとした矢先、サーリャの隣にいた2人が何かに反応し動きを止めた。
「は?」
「これは⁉」
ルインとミランは目の前のコーランド兵達から視線を外し同じ方向に注意を向けた。なにに反応したのだろうかと疑問に思いながらサーリャは2人が注意を向けている方向に顔を向けた。視線の先には緩やかな丘があるだけで特に変わったところは無い。
2人の反応から遅れるようにしてようやくサーリャも2人の反応の意味に気が付いた。丘の向こう側に魔力反応がある。
……何かが、こちらに向かって来ている。それも一体や二体どころの話ではない。
(この規模は何⁉)
魔力反応だけでなく地響きも聞こえ始めたところでコーランド兵もようやく以上に気が付いたようで戸惑ったように「なんだ?」と周囲を見渡し始める。
そしてサーリャは見た。
上から黒のインクを垂らしたかのように丘が黒く染まり始めている。大きな丘ではないが、色が変化する範囲が広い。インクなどではない。あれは……。
「魔獣⁉」
そう。丘の向こうから魔獣が猛スピードでこちらへと向かって来ている。まだ記憶に新しい大侵攻と比べれば決して大きくない規模だが、それでも無視することのできない規模でもある。
「……ミラン。お前、まさかここまで急いでくることに集中し過ぎてトレインを起こしたのか?いくらなんでもこれはないだろう」
「ミラン様……」
「違うわよ!いくら私でもトレインを起こしてまで急いだりしないわよ。そもそもあいつらの来た方向と私が来た方向は違うじゃない」
残念なものを見るようなルインの視線に流石のミランも凛とした表情を崩し必死の弁明をしている。
僅かに緩い空気を作っているサーリャ達と突如として現れた魔獣の集団に怯えるコーランド兵。そんな両者が睨み合う戦場に側面から食らいつくように魔獣がなだれ込んできた。
ザイスト達から魔獣へと目標を素早く切り替えたサーリャ達だったが、それに対応できずぶつかることになった者もいる。
「なんだよこいつら。どこから来たっていうんだ!」
「そんなの知るか!とにかく今は手を動かせ。でなければ喰われるぞ!」
「死にたくねぇよお!」
コーランド兵側は大混乱を極め、各々が考え無しに逃げ惑いそんな彼らを背後から魔獣達が襲い掛かる。
いくら敵でも見殺しにしたくはないが、彼らにかまってやれるほどの余裕はない。ここはまだ村に近すぎる。
「サーリャ!ナイアン様と彼女を連れて村まで移動しなさい。到着次第村の入口で迎撃態勢に移行!」
「はい!」
ミランの指示に従いすぐさまサーリャは行動を開始した。蹲ったままのシオンを抱え上げ、乱暴ではあるが馬車の荷台に放り投げる。大急ぎで村へと戻って来たサーリャはすぐさま村を守るために村の入口で迎撃態勢を整え始め、ナイアンは村の住人を避難させるために馬車から飛び降り指示を出すため奔走し始める。遅れてミランとルインも村へと到着した。
(この魔獣達はどこから来たの?自然発生するにはあまりにも不自然過ぎるわ)
タイミングがあまりにも良すぎることからこの魔獣達はてっきりザイストの差し金だとサーリャは考えていた。しかしザイストを含めたコーランド兵の大混乱の様子を見ればそれは違うのだと理解できる。
意図的に引き起こされたのではないのならばこの規模の魔獣の群れが周囲に知られることなく突如発生するのは何か原因やきっかけがあったはず。それはいったい何なのだろうか。
「お姉ちゃん‼」
そんな中、サーリャの耳に悲鳴のような叫び声が聞こえてきて慌てて振り返った。見ればザイストとその護衛がいつの間にか村に避難して来ていた。馬を失ったのかザイストは自身の足で必死に逃げている。
ザイストは避難しようとしていた近くにいる姉弟を突き飛ばして村の中を突っ切っていき、突き飛ばされた幼い子供達の目の前にクマの魔獣が2本足で直立していた。
まさか幼い子供達を囮にして逃げたの⁉
魔獣の爪はすでに別の得物を仕留めた後なのかその爪は赤く染まっており、今も赤い液体が滴り落ちている。
自身の倍以上の相手を前にして少年は恐怖でその場にへたり込んでおり、姉はそんな弟を守ろうと魔獣に背を向け守るように大切な家族を抱きしめている。
サーリャの位置からだと射線上に姉弟が重なっているため上手く狙いが付けられない。魔獣が新たな獲物を狩り取ろうとその巨腕を振り上げる。
「間に合って!」
急いで狙撃できる位置に移動しようとしたサーリャのすぐ傍を漆黒の影と風が駆け抜けた。
今まさに腕を振り下ろそうとしていた魔獣はまるで砲弾の直撃を受けたかのように身体をくの字に曲げて吹き飛び、そのまま背後にあった岩に轟音と共に叩きつけられた。ぐったりとした魔獣を見下ろしていたのは先程までサーリャ達と村を守っていたはずのルインだ。
ルインは目の前の魔獣を見下ろし続けており、周囲には一切目もくれない。その姿をチャンスとばかりに背後から数体の魔獣が飛び掛かるが、ルインはまるで後ろに目があるかのように振り返ることなく無造作に腕を振るい、それだけで魔獣の身体が真っ二つに分かれて地面へと落下する。
そんな中、さすがは魔獣と言うべきなのかルインに吹き飛ばされた魔獣が弱々しくも身体を起こし始めた。ルインはそんな魔獣の頭部を片手で掴み——
「……」
そのまま黙って魔獣がもたれかかっていた背後の岩に全力で叩きつけた。轟音が一帯に響き渡る。
「っ!」
ルインの行動にサーリャは息をのむ。叩きつける際に何かの魔法を使ったのだろうか、頭部だけでなく叩きつけた岩も完全に破壊されており、その威力は過剰とも言えるほどだ。破裂したトマトのように爆散した頭部は周囲を赤く染め上げ、なかなかにグロテスクな状態になっている。
「……ルイン?」
僅かに震えるサーリャの声にルインは反応せず真っ赤に染まった腕をだらりと下げ、こちらに背を向けたまま今しがた命を奪った相手を見下ろし続けている。
しばらく黙って見下ろし続けていたルインがようやく顔を上げ、ゆっくりとサーリャの方へと振り返ってくる。身体の動きに合わせてルインお顔も徐々に見え始める。
「サーリャ、何をしているんだ。何か用か?」
「え?べ、別に大したことじゃないわ。……ルインは大丈夫なの?」
「俺がこの程度の奴に負けるわけないだろう」
「いえ、そうじゃなくて……」
サーリャと会話するルインは特に変わったところは無く、普段と変わらず余裕のある表情でその場に立っている。
(気のせいだったのかしら?)
うまく言葉にできないが、先ほどのルインは普段とは違いなぜか嫌な感じがした。背中しか見えなかったが、その後ろ姿から発せられるものは息が詰まるような迫力があったのだ。もしかすると姉弟を助けようとする必死さをそのように感じたのかもしれない。
「大丈夫?怪我はないかしら」
「え?あ……えっと……」
弟を庇っていた姉にサーリャは優しく声をかけると、少女は状況を理解できていないのか呆けた声を出した。遅れてようやく自分達が助かったのだとわかると全身から力が抜け、弟を抱きしめていた腕がだらりと下がる。
「お姉ちゃぁん‼」
姉と入れ替わるようにして今度は弟が泣きながら姉を力一杯抱きしめる。弟だけでなく自分も助かったことでこれまで抑え込んでいた感情が溢れ出し、少女も涙を流しながら弟抱きしめた。その姿を見ながらサーリャは助かってよかったとホッと胸をなでおろした。
そんなサーリャ達へとゆっくりと影が落ちてきた。背後を振り返れば、水で血を洗い流し片腕が濡れたままのルインが姉弟を冷たい目で見下ろしていた。
「おい。お前は泣いているだけなのか。そうやって自分は何もせず姉に守られているだけの存在で満足か?」
「ルイン!いくらなんでもそんな言い方はないでしょう!」
ルインの視線は弟にだけ注がれている。少年は突如そんな言葉を叩きつけられたが理解できず、涙で濡れた顔でルインを見上げている。
ルインの言うことはあまりにも無茶苦茶な話だ。こんな幼い子供が魔獣相手に何ができるというのだ。命を奪ってくる相手に立ち向かうなどできるはずもない。
さすがのサーリャもこれには本気で怒りを覚えルインに抗議する。
「サーリャは余計な口を挟むな。俺はそいつと話をしているんだ。……どうなんだ。お前は姉に守ってもらえるが、その大切な姉は誰が守るんだ。自分が助かれば姉は見捨てても構わないと?お前にとってその程度の認識でしかないのか?」
ルインはサーリャの抗議をバッサリと切り捨て、なおも少年に厳しい言葉を投げつける。不穏な空気を感じ取ったのか弟を背に庇うかのように姉がルインと少年の間に割り込み、ルインを睨みつける。
これ以上は見ていられない。そう判断したサーリャは無理矢理にでもルインから引き離そうと姉弟に目を向けたところで気が付いた。
姉に庇われながらも少年は変わらずルインを見上げている。手の甲で涙を拭い、再びルインを見上げた時には先程とは表情が変わっていた。何かを決意したような意思が感じられ、右手が伸びて目の前にいる姉の左手をしっかりと握る。
そんな姿を見ていたルインは顎で村の中心を指し示す。
「避難場所はこの先だ。場所が分からなければ一際身なりの良さそうな奴が知っているからそいつに聞け。そして覚えておけ」
状況が理解できないサーリャと姉をそのままに、ルインは真剣な眼差しで少年に言い放った。
「その手を決して離すな。離せば二度とその手を握ることはできなくなるかもしれん。俺達ではなくおまえが大切な人を守るんだ。それが貴様の大切に思う者を守ることに繋がる」
少年はゆっくりと頷くとすぐさま立ち上がり、右手を引いて姉を立ち上がらせた。
「お姉ちゃん行こう!」
「え?う、うん」
戸惑いながら弟に手を引かれ、2人は村の中心へと走っていく。あの様子なら無事にナイアンの元へたどり着くだろう。そんな2人の様子を見届けたサーリャは不思議そうにルインを見た。すでにルインからは先程までの冷たい雰囲気は消え去っている。
「ルイン、さっきのは何だったの?」
「……気にするな。気まぐれで少しお節介をしただけだ」
そう言ってルインは肩を竦めるのだった。
それから間もなくして事態はようやく沈静化した。元々魔獣の展開範囲は広かったが、全体的な総数はそこまで多くなく、ミランやルインといった実力者がこの場にいたことが幸いした。
村人に被害はなかったが、それ以外——ザイストの連れてきた兵のほとんどは魔獣によってその命を落とすことになり、村の周囲は凄惨たる有様。
そして当のザイストはというと、村の中にはおらず行方をくらませていた。おそらくは姉弟を突き飛ばした後そのまま村の反対側から脱出したのだろう。
姉弟だけでなく村そのものを囮として逃げたその所業には嫌悪しかない。
「それで、これからどうするんですか?」
村の中心にある広場でサーリャとミランはこれからのことを話し合っていた。さすがにこれだけのことがあったからには放置しておくわけにもいかない。
「しばらくは周辺の警戒と捜索も必要だから、近くの砦を中継して魔力通信で王都から兵を寄こしてもらうわ。私達はこのまま予定通り王都に向かうとしましょう」
「ザイストは?」
「逃がしてしまったのは痛手だったけど、今回の件で領主の地位からは間違いなく降ろされるわ。本人がいなくても領主交代の手続きはできるし、いないとは思うけど一応周辺の捜索もしてもらうつもりよ」
ミランによればそのまま罪人として王国全土に指名手配をかけて捕らえるつもりらしい。ザイストは最後にサーリャが見た時は数人の護衛が残っていたと思うが所詮は数人。指名手配されればどうすることもできないだろう。これでコーランド領でシオンと似たような扱いを受けている人は減るだろう。
シオンは領主暗殺に関わった重要人物としてサーリャ達と一緒に王都に連行されることになる。未遂とはいえ領主暗殺は重罪だ。どのような理由があろうとも何らかの罰は受けることになるのは確実だ。こればかりはサーリャの力ではどうすることもできない。
少しでも罰が軽くなることを願うばかりだ。
そこまで話したところでナイアンがこちらに向かってゆっくりと歩いてきていることに気が付いた。
「皆さんこちらにいらっしゃいましたか。村長のご厚意で今晩はこちらの村に泊めてもらえることになりました。皆さんもお疲れでしょうし、ここは甘えさせてもらいましょう」
「それは助かります。まだまだ私達はやるべきことが残っていますからね」
村を守ることはできたが、その周囲には〝さまざまな〟死体が残ったままだ。いくら王都から人が来るとしてもそれまで放置するわけにはいかない。
ちなみにシオンはというと持ち物をすべて取り上げたうえで村の離れた建物の一室に軟禁している。罪人のように拘束していないのは本人に逃走の意思が無いことに加えて、人質によって無理矢理従わせられていたことを踏まえた僅かばかりの恩情だ。
サーリャとしても泥と血で塗れた姿を少しでも落として休みたいのでありがたい申し出だ。
「それにしてもルインはどこに行ったのよ。護衛が護衛対象から離れたらダメじゃない」
サーリャはむっとしながら周囲を見渡した。先程まで近くをウロウロとしていたはずなのにいつの間にかいなくなっており、キョロキョロと周囲を見渡してもそれらしき人物は見当たらない。
そんなサーリャの疑問に答えたのはナイアンだ。
「ルイン殿ならここに来る途中でお会いしましたよ。一泊することを伝えたら、『疲れたから寝る。食事の時間になったら起こしてくれと伝えておいてくれ』だそうで、今は提供してもらった部屋で先に休んでいますよ」
「はぁ⁉1人でなに先に休んでいるのよ。信じられない!」
自由過ぎるルインの行動にサーリャは憤慨するが、それをナイアンは「まあまあ」と宥める。
「彼のおかげで私達もこうして無事なんですから今回は大目に見てあげましょう。なんだかんだ理由をつけてはいますが、何かあれば起きられると思いますよ」
「ナイアン様がそう仰られるのでしたら……」
今すぐにでもルインが休んでいる部屋に突撃をかましたいところだが、ナイアンにそう言われてしまえばサーリャもそれ以上は何もできない。にこやかなナイアンの笑顔を前に渋々サーリャは断念した。
人手が欲しい所だが、自身の身を守りながら村の外で作業をできるのはサーリャとミランしかいない。
軽くため息を吐いたサーリャは肩を落としながら村の外へ向けて歩き出すのだった。
村から大きく離れた森の中、四人の男が集まっていた。すでに日は傾いて辺りは薄暗くなっており、森の中ということでさらに暗さが増している。
「ここまで離れれば追いつかれることは無いでしょう。しばらくはここで休みましょう」
周囲の確認を終えた一人がそう言うと、他の2人は待っていましたと言わんばかりに地面へ座り込んだ。両者ともその顔には疲労が色濃く出ており、取り繕う余裕さえ無くなっている。
少しでも体力を回復させようと一言も言葉を発さずにいるその姿は、普段よりも一段と老け込んだかのようだ。
そんな中、1人だけが違う感情を爆発させていた。
「何故だ。なぜ領主である私がこんな無様に逃げねばならんのだ‼」
感情を爆発させている男——ザイストは周囲の木々を蹴りまくり、抑えきれない怒りを発散させていた。薄暗い状況でなければ今のザイストを見れば怒りで顔を真っ赤にしている姿を見られたかもしれない。
どうしてこんな結果になってしまったのだ。ザイストの頭の中はそのことだけでいっぱいであった。
これまで問題無く計画は進んでいたはずだった。人々にとって決して無くてはならない食糧の生産事業。これまで圧倒的に優位な立場でいられたその事業の土台を脅かしかねない計画が軌道に乗ったと知ったザイストはすぐさま妨害するべく動き始め、あの手この手と様々な手段を使って断念させようとしてきた。
それでもナイアンは折れることは無く、着実に完成へと向かっている研究に焦りを覚えそろそろ直接的に刺客を送ろうかと考えていた矢先に新たな情報を入手したのだ。王国の最大戦力であるミランとその部下が護衛任務としてやって来ると。
その情報を知った時、ザイストは運命が自分に味方していると感じた。
領主としての仕事をこなす裏でさらなる利益を得るためには公にできない裏の事業にも手を出すのだが、その際にミランという存在は邪魔になる。
ここで2人を始末することができれば今後の計画はより盤石なものになり、邪魔をする者など誰もいない。……そう思っていた。
それが今はどうだ。動員した手勢はすべて失い、自分は僅かな側近と一緒に人目を避けて無様に逃げている。これは夢なのだと思いたいところだが、現実は変わることは無い。
「ザイスト様、これからどう動かれますか?」
領主になった時から自分を支えてくれている老齢の執事が今後の確認のために方針を聞いてくる。老齢ではあるがまだまだ衰えは感じていないようで、戦闘も問題なくこなしてくれている。
その忠義は疑いようのないもので、今もこうして自分について来てくれている。
怒りがまだ燻ってはいるが、ザイストは今の自分が置かれた状況を整理する。このまま当てもなく彷徨うのは現実的ではない。どこかに拠点が必要だ。
「そうだな。このまま東へ向かう。そこで準備を整えたうえで新しく事業を始めるつもりだ」
領主という立場はもはや失われたが、これまでに培ってきた人脈とコネは残っている。これまで通りとはいかなくても領地を運営してきたノウハウは活かせるはずだ。
しかし、このまま東へ向かう前にするべきことがある。ザイストの瞳に暗い光が灯る。
「お前達。あの領に流れ込んでいる水源のすべてに毒を流し込め!この俺を敵に回したことをそこに住むすべての人間に思い知らせてやるのだ」
「おお!」
「あの者達を根絶やしにしてやりましょう」
側近の誰もが名案だと言わんばかりにザイストの意見に笑いながら賛同する。
ナイアンとミランの2人が標的であったが、もはや2人の命程度では足りない。あの領に住むすべての人間を地獄に叩き落とさねば気が済まない。
恐怖と絶望の表情で苦しむ人々の光景を想像しながら歪んだ笑みを浮かべるザイストと側近達だったが、そんな彼らの耳に新たな声が割り込んできた。
「なかなか面白い話をしているじゃないか」
「誰だ‼」
ザイストが声を発するのとほぼ同じタイミングで側近の全員が剣を抜き放ち、声のした方へと切っ先を向けた。
全員が警戒する中、一人の男がゆっくりと闇の中から姿を現した。男の顔にザイストは見覚えがある。
「貴様は護衛として雇われた男ではないか」
護衛の男——ルインはザイストから少し離れた位置で立ち止まり、4人をゆっくりと見渡した。
「自分の立てた計画がうまくいかなければ八つ当たりで無関係な奴らまで殺す。物語でよく見る典型的な悪役の行動で驚いたぞ。案外物語で書かれる内容もバカにはできんな」
側近達から殺意を向けられる中、ルインはまるで世間話をするかのように気楽な態勢で話を続けている。
そんなルインの態度が気に入らず、3人の護衛の中で1番年若い青年が行動を起こした。
「貴様ァ!誰に向かってそんな口を開いている。ザイスト様の前なら虫けらのようにその場で——っ!」
威圧するかのようにルインへと一歩踏み出したが、衝撃と共に青年の言葉が不意に途切れた。青年がゆっくりと下を向くと、自身の胸に広げた手がすっぽりと入るほどの穴が開いている。
遅れるようにして感じたことの無い喪失感が自身を襲い、胸から血を噴き出しながらその場に力なく倒れ込んだ。開いたままの目からはすでに光は失われている。
「物語ではこうも書かれていたな。低レベルの煽りも受け流せず、相手との力量差も見抜けない奴が感情のままに突っ込み無様に死んでいく何の価値も見出せなかった無価値な存在。主人がそうならその周りの奴らも典型的な悪役だな」
「ルッソ⁉貴様、よくも!」
「待て!」
仲間の命が突如として奪われたことにもう1人が激高しルインへと襲い掛かる。ザイストが慌てて待ったをかけようとするが、声を発した時にはすでに遅すぎた。
ルインの元へとたどり着く前にこちらも同様に自身の身体に大穴を開けられ、大量の血と共に先の男と同じ運命を辿った。
「これで2人。さて、どうするつもりだ?」
地面に転がる存在を一瞥し再びルインの視線がこちらへと向けられる。今しがた2人の命を奪ったとは思えない平坦な声だ。そこには怒りや嬉しさなどの感情はなく、まるで報告書を読み上げるかのように淡々と事実だけを突きつけるその姿にザイストは不気味さを覚えた。
どうしてそこまで平然としていられるんだ⁉
得体のしれない何かにザイストが恐怖を感じ始める中、ルインの視線が最後に残った老齢の護衛へと向けられる。
「お前はどうするんだ。ここまで動かなかったからには今の状況を正しく理解しているんだろう?」
「……そうですな。私ではどう頑張ってもあなたに勝つことはできないでしょうな」
「それが分かっていながらそんな奴のために自身の命を賭けると?生きたいとは思わないのか?」
ルインの質問に老執事はこの場に似つかわしくもない笑い声をあげた。何が可笑しいのかザイストには理解できない。
「老い先短い私が生きながらえてどうするのですか。決して褒められる人生を歩んできたわけではありませんが、そんな私でも命を賭けて貫かなければならない信念があるのです。たとえ周りから何を言われようともそれだけは違えることはしません。あなたにもあるのではありませんか?」
執事の言葉に何かを想うようにルインの目が僅かに伏せられる。
「……そうだな」
その言葉の感情を読み取る前に話はそこまでと老執事は突如ザイストへと向き直り、深く頭を下げた。
「な、なにを……」
「ザイスト様、私はどうやらここまでのようです。これまであなたにお仕えでき、同じ夢を追い続けることができたことを誇りに思います。今日までありがとうございました」
そう言って頭を上げた彼の顔は実に誇らしげでわずかな陰りもない。この状況下でどうしてそんな表情ができるのだろうか。
「いきますぞ!」
躊躇いもなく目の前の敵へと駆け出す仲間にザイストはどう声をかけるべきなのかわからない。感謝?激励?それとも引き留めるべきだったのだろうか。長年仕えてくれたにもかかわらず、ザイストは最後までその答えを出すことはできなかった。
「呆気ないものだったな」
淡々としたルインの言葉に答える者はいない。結果として戦いは長くは続かなかった。誰にも負けない覚悟と意思、その命をもってしても結果を変えることはできなかった。ザイストの視線の先には3人の骸となり果てたものが無残にも転がっており、その先には傷一つつけることのできなかったルインが変わらずに立っている。
「さて、残るはお前だけだな」
「ひっ!」
視線を向けられたザイストは恐怖のあまり後ろへ下がろうとするが足をもつれさせ、みっともなく尻もちをついた。事実を言われただけのはずなのに、ザイストにはまるで死刑を宣告されたかのように聞こえてしまう。
それでも少しでも目の前の存在から離れたいがために、服が汚れることもいとわずじりじりと下がる。すでに自分を守ってくれる者はいない。
なんとかしてザイストは自分の力で生き延びなければならないのだ。
「と、取引をしようじゃないか。たった今から私に付かないか?報酬ならあいつらの倍……いや、3倍は出す!何不自由ない生活を約束するし、望むなら何人でも女を用意しよう」
「悪いが今の生活に俺は案外満足していてな。変えるつもりはさらさら無いし、女もいらん」
「だったら何故ここまでする⁉お前は護衛として雇われているだけに過ぎないだろう」
恐怖の中ザイストは大声で喚いた。ただの護衛がわざわざ護衛対象から離れてここまで追いかけてくるなど聞いたことが無い。
「そうだな。元々俺もここまでしてやるつもりは無かった。お前がどこに行き、どこで何をしようが俺には関係ないことだからな。まったく、こんなことなら頼みを聞くんじゃなかったな」
ルインは本当に後悔するかのように首を横に振る。そこには演技やハッタリなどは一切無く、純粋な本心が表れていた。
「だったら!」
「だが——」
僅かな希望を見出しそこへ縋ろうとしたザイストであったが、再びザイストへと顔を向けたルインの表情を見た瞬間表情を凍り付かせ、最後まで言い切ることはできなかった。
先程までの飄々とした態度など一切消え去っており、代わりにまるで仮面のようにすべての感情が欠落した表情と、見るものすべてを地獄へと引きずり込むかのような絶対零度の視線であった。
その瞳の奥はあらゆる負の感情を凝縮したかのようにどす黒く濁っており、憤怒に表情を歪めているわけでもなくただ無表情なのがさらに不気味さを大きくしている。
「貴様は俺の目の前で決して見過ごすことのできないことをやらかしたんだ。それだけで俺がこの手で貴様を殺すには十分な理由だ。あらゆる苦痛と絶望を刻みつけてから殺してやる。……楽に死ねるとは思うなよ」
感情に呼応するかのようにルインの身体から魔力が噴き出し始め、周囲へと影響を及ぼし始める。
かつてサーリャが騎士学校でヘルトとキリアンの前で起こした現象だが、影響力が比ではない。周囲にある木々と地面には大きな亀裂がいくつも走り、空を見上げればまるで鏡にヒビでも入ったかのようにあちこちの景色がズレている。
「ま、待ってくれ!今回の件からは完全に手を引く。あの領には今後決して手を出さないと誓おう!毒も投げ入れない」
「違う」
ルインが1歩前へと進む。
「騎士ミランとその護衛の部下にも手を出さないと約束する。何なら彼女らの前で謝罪もしよう」
「違う」
さらにルインの歩みが進み、踏み込んだ地面に新たな亀裂が生まれた。
「もしやあの孤児達のことなのか⁉それについても手を出さない!二度とその手の仕事もしないと約束しよう。だから……だから!」
もはや最後の方は悲鳴にも近い叫びになっている。ザイストがどれだけ言葉を重ねてもルインの歩みが止まることは無い。
無言で近づいてくる目の前の存在はいったい何なのだ。何がここまでこの化け物を動かしている。
助かりたい一心でザイストは思いつく限り自分のこれまで行ってきた悪事を告白し続ける。明らかにルインが知らないであろう内容もあるが、今のザイストにはそこに気が付くほどの余裕などもはや存在しない。
まるでこれまでの罪を懺悔するかのような光景だが、実際にはそんな優しい状況ではない。
とうとうザイストの目の前にまでルインが辿り着いてしまった。
ゆっくりとザイストが顔を上げると、そこにはどす黒い感情が溢れ出したままのルインがこちらを見下ろしている。
そんな負の感情と一緒に漏れ出しているルインの魔力が突如として形を作り始めた。それは人の姿とは大きくかけ離れており、ルインよりも一回りも二回りも大きなその姿は2足歩行した獣のようにも見える。
黒く濁った魔力で作り出されたその姿は影のように輪郭が分かるだけで細かな詳細は分からない。影がルインの前へと進み出てきて鋭い爪を持つその巨腕を振り上げる。
結局ザイストは自分のなにがルインの逆鱗に触れてしまったのか、最期の瞬間まで理解することは無かった。
静寂が戻った森の中でルインは何をするわけでもなく近くの岩に腰かけていた。先程までいた黒い影の姿は消え去っており、今度こそルイン1人しかこの場には存在しない。
ぼーっと座り続けるルインの瞳には先程までの暗い光はなく、穏やかな風が髪を揺らしながらこの場に満ちている血の匂いを押し流していく。
ゆっくりと空を見上げれば赤かった空はもう暗くなり始めており、星が輝いているのが僅かに見える。
輝く星を見続けていたルインだったが、不意にポツリと言葉が漏れた。
「……虚しいな」
それは果たして誰に向けての言葉なのだろうか。自分自身、それとも別の誰か?それは口にした本人しか知ることは無い。
ルインは静かに空を見続ける。輝き続ける星を眩しそうに目を細めるその瞳は、まるで今にも泣きだしそうなほどに揺れ動き続けていた。
王都リンガルに無事到着してから数日が過ぎた。
そんなある日の昼下がり、ブルリンド商会が経営する一室でサーリャは軽いお茶を楽しんでいた。もちろんたった1人で王都屈指の商会を訪れたわけではない。
部屋の中にはサーリャだけでなくミランやルイン・ナイアンなど今回の件で深く関わった者達が集められている。
わざわざブルリンド商会の店舗でお茶を楽しんでいるのはあくまでも副次的なもので、本来の目的はナイアン達ミルス領の研究に関する報告会となっている。
「それじゃあナイアン様達の農法がミルス領以外で実施されることになるんですね」
「ええ。いきなり大規模な改革はせずに少しずつですが各地に小規模な施設を設置し、経過を見ながら規模を広げていくことになりました。1番の壁となっていた設備費用も王国が支援してくれるそうで、どの領でも手を出しやすくなっています。これから私達は各地に人を送り、軌道にのるまでの間サポートする形になります」
「おめでとうございます」
良い結果にサーリャはまるで自分の事のように喜んだ。
地下栽培はまだ各地で導入可能となっただけで、実際にミルス領と同じ成果が得られるかどうかはわからない。
地下栽培が広く知れ渡ると同時に生まれるであろう周囲からの反応と軋轢。何もかもがうまくいくとは限らない。
それでもこれまでナイアンを含めたミルス領の人達が何年も続けてきた研究は決して無駄にはならないはずだ。
「……おかわり」
「あっ。私のも食べていいわよ」
サーリャはクッキーの載せられた皿を隣へと渡す。
「私からも報告をするなら、コーランド領は予定通り新たに選ばれた者が領主を務めることになるわ。ザイストの不始末を任せる形になるのは心苦しくはあるけど、本人はやる気みたいだからひとまずは安心ってところね」
この件を話すうえで知っておかねばならない情報をミランが付け加える。
村を囮にして行方をくらませていたザイストだが、おそらく死亡したということで結論付けられた。推測となっているのは見つけられなかったからというわけではなく、状況からの判断だ。
王国から派遣された兵が村の周囲を広範囲で捜索していた際に、森の一角でザイストらと思われる死体を発見したのだ。ただの獣か生き残った魔獣にやられたのかはわからないが、体の損傷が激しく身元の判別すら不可能なレベルだったらしい。
周囲にまき散らされた大量の血痕と、ザイストが身に着けていた領主の証であるバッジが近くに残されていたことからそう判断されることになったそうだ。
「皆さんのおかげでこうして生きて研究を世に出すことができました。このご恩は決して忘れません。この度は本当にありがとうございました」
「気になさらないでください。あなたを守ることが私達の仕事だったのですから。……もっとも、私は不覚を取って無様な姿を見せてしまいましたが」
「ナイアン様の研究は決して失ってはならないものです。そんな重要な任務を果たせて私は嬉しいですよ。一応言っておきますけど、ミラン様がいなければ今回の任務は成功していなかったんですからね」
深く頭を下げるナイアンにミランとサーリャがそれぞれ思ったことを口にする。視界の隅から細い腕が伸びてきて、テーブルの真ん中にあるクロワッサンが数個移動していく。
「ルインも今回はありがとう。あなたのおかげで多くの人が救われたわ」
「ルイン、ありがとう」
ミランとサーリャは静かにお茶を飲むルインに感謝の思いを伝えた。
「俺は特に何もしていないぞ。経費はそっちが負担して俺は毎日部屋で好きに過ごせていたんだ。これ以上ないほどの楽な仕事だったな」
そう言うルインではあるが、そんなことは無いとサーリャは知っている。夜中の襲撃に1人で対応し、裏で情報を集めて子供達を救うだけでなく、不測の事態だったとはいえ魔獣の脅威から村も守ってくれた。
どれもルインの行動が無ければ失われていた命があったのだ。感謝してもしきれないほどだ。
「俺なんかの事よりも先にはっきりさせるべきことがあるんじゃないか?」
静かにカップを置いたルインはある場所に視線を向けた。ルインの視線に気がつき相手も動かしていた手が止まる。
「どうしてそいつがここにいるんだ?」
「ん?」
当然と言えば当然の疑問なのだが、やっぱり指摘されたなとサーリャは他人事のように思いながら隣に座っている人物に目を向けた。
そこには先程手に取ったクロワッサンを美味しそうに頬張るシオンがいた。
僅かに目を細めるルインとクロワッサンを頬張るシオン。まったく空気感の違う両者はしばらく視線が交わっていたが、ルインが先にその視線を外した。
「この場にこいつがいるということはその辺も説明はあるんだろうな?」
「もちろんよ。だからこそ彼女をここに連れて来たのよ」
ミランは順を追ってルインへ経緯を説明し始めた。ここからはサーリャもその場にいたので知っていることだ。
ザイストを捕らえることができず、連れてきた兵もその全てが魔獣の手に掛かってしまい生存者がいないことからシオンは重要な証人かつ実行犯の一人であるということから王都へと連行された。
裏の人間として人の命を奪い、今回に関しては失敗に終わったとはいえ領主であるナイアンの命を狙ったのだ。周囲への見せつけの意味も含めて極刑は免れない。
そこに待ったをかけたのがミランだった。
彼女は望んで行動していたわけではなく、人質という枷があったことからそう行動するしかなかったのだと王の前で堂々と言い放ったのだ。その際にルインが投げ渡した情報が証拠として役に立ったのは言うまでもない。
ミランに同調するように狙われた本人であるナイアンもシオンの助命を願ったが、いくらナイアンの願いであっても罪人を無罪放免にするわけにはいかない。
最終的にルシャーナの判断で決定されたのが、
「王国に対する無償奉仕……か。よくそんな決定に周りが納得したな」
「まぁ、かなり無理矢理な理由だとは分かってはいるわ。でもこうしないとシオンを解放することができなかったのも事実よ」
半ば呆れるようなルインに対してミランは補足を入れておく。
今回もしもナイアンの暗殺が成功していた場合、ミルス領の当主がいなくなってしまうことになるのでしばらくの間領内は混乱することは避けられない。そうなると長年の研究が表に出なかった可能性があるため、それは間接的ではあるが王国全体の不利益に繋がってしまうことになる。
ならば謝罪とその償いはミルス領ではなく王国全体に対して行わなければならないということになる。だからこそ王国に対する無償奉仕と決まった。
拡大解釈とこじつけが過ぎると感じたのはおそらくサーリャだけではないと思うが、王国のトップであるルシャーナの決定ならばそれ以上異を唱えられるはずはない。
そしてこの決定には大きな抜け道があることにもサーリャは気づいている。
(〝手段〟について陛下は明言していないのよね)
無償奉仕といっても奉仕する内容は多岐にわたる。奴隷のように毎日重労働を課されるのか危険な土地で文字通り命を賭けて奉仕するのか、他にも課される可能性のある内容は存在する。
本来ならば奉仕先・奉仕内容にも多少は指定が入るはずなのだが、あの場でそれを言い渡されることは無かった。それはつまり『落とし物を持ち主に届ける程度の内容でも問題ない』ということになる。これも立派な社会奉仕の一つだ。
毎月のノルマも決められていないので、実質無罪放免と同じだ。
「彼女が守っていた子供達に関しては、私の領で運営している孤児院で引き取ることになりました。決して不当な扱いをしないことをミルス領の領主として約束しましょう」
「シオンは私が身元引受人として引き取ることになるわ。これから彼女は自由に生き方を決めてもらう——そう思っていたのだけど……」
困ったようにミランはシオンを見た。みんなが注目している中、両手にクロワッサンを持ち、場違いな雰囲気を漂わせるシオンにサーリャは心配そうに声をかけた。
「ねぇシオン。あなたは本当にいいの?あなたにはいろいろと選ぶ権利があるわ。これまでのことに責任を感じる必要は無いし、別の道を選んだとしても誰も文句は言わないわ」
「いい。シオンはこれからも戦うと決めた」
シオンは手に持っていたクロワッサンを皿に置くとサーリャを見上げる。
そう。シオンは安全な生活を選ばずにサーリャやミランと同じ戦う道を選んだのだ。無理矢理戦わせられていた辛い生活から抜け出せるはずなのに、同じ道を選んだシオンの選択にサーリャだけでなくミランも不安を覚えたのは言うまでもない。戦わなければならないと無意識に縛られているのではないかと何度か説得を試みはしたのだが、シオンの意思は変わらなかった。
「シオンはこれまでこの力を使っていろんな人を守ってきた。その人がどれだけ悪い人でもシオンには守るべき人を選ぶ権利は無かった。命令されたらシオンは守るしかない。でないとあの子達が危険な目に遭わされると知っていたから……」
サーリャから視線を外し、悲しげに目を伏せたシオンの言葉を誰もが黙って聞いている。ルインも腕を組みながらシオンの言葉に耳を傾けている。
「でも今は違う。シオンはシオンの守りたいと思う人を守ることができる。この力でもっとたくさんの人を守っていきたい。それがシオンの選択だから」
まっすぐで純粋なシオンの願いにサーリャは何も言うことができない。幼い彼女が決めたその決意に異を唱えられる者はこの場に1人としていないだろう。それがたとえルインだったとしても。
シオンの想いを聞いたミランは観念したように表情を緩めた。
「そこまで言われてしまったらこれ以上は何も言えないわね。とりあえず事情が事情だからシオンは私とサーリャの部隊に入れるようにするわ。正式に配属させるわけじゃないからシオンが別の道に興味が出たのなら好きな時に抜けてもらって構わないわ。……ルインもこれでいいでしょ?」
「お前達がそう決めたのなら勝手にしろ。俺には関係のないことだ」
「……シオンから言いたいことがある」
良い結果に落ち着いたことでサーリャはホッとしている中、シオンはルインへと向き直り深々と頭を下げた。
「あなたのおかげで私達は救われた。シオンの大切な人達を助けてくれたありがとう」
頭を下げられたルインは居心地が悪そうに僅か身じろぎをし、
「……そんな大層なものじゃない。お前らみたいな子供は余計な気を回さずに大人しく守られていればいいんだ」
相変わらず突き放すような物言いのルインだが、サーリャからすればまるで照れ隠しのように感じられ、ミランとサーリャは顔を見合わせると可笑しそうに笑うのだった。
「それじゃあ俺は帰らせてもらうぞ。あとのことはそっちでなんとかしておけ」
報告会も終わり店を出ると自然と解散の流れとなり、ルインは転移するためにサーリャ達の返事を待たずにさっさと歩きだしてしまった。
「ルイン殿、あらためて今回はありがとうございました。何か困ったことがあれば遠慮なく仰ってください。いつでも協力させていただきます」
「そんな時が来ればな。まぁ期待はするな」
ルインはひらひらと手を振りながら歩みを止めることなく王都の外へと向かっていくが、ミランがシオンを連れてルインへと駆け寄っていくと何か話している。おそらく今回のことであらためてお礼を言っているのだろう。
自然とサーリャとナイアンの2人だけが店の前に残ることになる。
「本当にルイン殿は本当に仲間想いの素晴らしい方ですね」
「ルインがですか⁉そんなことありませんよ。いつも気分で動いて周りのことなんて一切気にしないですから。私なんていつも振り回されてばっかりで大変なんですから」
ナイアンの評価にサーリャはとんでもないと大仰に否定した。ルインの行動は常に自分勝手で、それは出会った時から何一つ変わっていない。
ナイアンよりも付き合いの長いサーリャの感想だが、それでもナイアンは静かに首を横に振る。
「そんなことないですよ。彼の行動と態度でそう見えてしまうのかもしれませんが、それは彼が不器用なだけですよ」
「それってどういうことですか?」
ナイアンからするとルインは違う見え方をしている?
「ふふっ。そのままの意味ですよ。……それよりもどうやら呼ばれているみたいですけど行かなくてもいいのですか?」
「えっ?——ナイアン様、ちょっと行ってきますね」
見ればミランがこちらに振り返ってサーリャを手招きしており、サーリャは慌ててミランの元へと駆け出した。
駆け出して行ったサーリャを見送りながら1人その場に残されたナイアンは微笑みながら懐に手を伸ばし、あるものを取り出した。ナイアンの手の中には1つの小瓶が握られている。どこにでもある治療用のポーションを入れる小瓶だ。
すでに使ってしまった後なので中身は空になっているが、それでもナイアンはこのポーションに関して記憶に残っている。
満たされていたポーションはあまりにも高品質で、領主であるナイアンもそうそうお目にかかれない代物だ。もちろん領内で出回るようなものではないし、領内にあれだけ高品質なポーションを作れる者もいない。
——それこそ誰かから提供されない限りは。
あいつの怪我はどの程度なんだ。——そうか。ならこれを飲み物に混ぜて少しずつ与えていけ。何故?あいつのことだからすぐに治りでもしたら挽回しようと無茶をするのは目に見えているからな。余計なことをして俺が後始末をするのは御免だ。
ナイアンはそっと空の小瓶を懐に戻した。返すつもりで持っていたものだが、どうやらその必要は無いようだ。知らない、知らせないことが時として優しさへと繋がることもあるのだ。
「本当に不器用な人だ」
そうこぼすナイアンの見る先で4人は騒がしく話を盛り上がらせるのであった。
ミルス領とほぼ正反対の位置に当たる北方地帯。広大な土地を有する南とは違い、北は人が生きていくには厳しすぎるほどの過酷な環境が広がっている。
山脈がいくつも連なり広い生活拠点を作るだけの土地を確保するのが難しく、屋外で作物を育てることのできない凍りつくような風が山脈の間から容赦なく吹き込んでくる。
「それは本当なのかしら?」
1度降り積もれば1年を通して決して溶けることのない雪深い山の中腹で1人の少女が腰掛けながら静かに問いかける。燃えるような赤い髪をツインテールにまとめ、オレンジの瞳が目の前の人物を絶対零度のごとき視線で見下ろしている。
視線の先では1人の人物が少女の前で片膝をついて頭を垂れている。片膝をつく人物よりも少女の方が年齢的に若いはずなのに目線は腰掛けている少女の方が高い。
「はい。念のため何人かにそれぞれ再調査を命じましたが全員が同じ情報を持ち帰ってきました。——無詠唱魔法を使う人物を発見したと」
「複数の魔道具を使った可能性は?たとえそのすべてを魔道具に頼っていなかったとしても世界は広いわ。無詠唱魔法が使える者が現れても不思議ではないわよね?」
魔法技術は少しずつ進歩している。広まることなくひっそりと生み出された魔法技術があったとしてもおかしくはない。そう考えると無詠唱魔法を使える存在が見つかった程度で大騒ぎするようなことではないと少女は考えている。
「私個人の意見となりますがその可能性は低いかと思われます。たった1人で万を超える魔獣の軍勢を相手でき、戦況をひっくり返すことなどその辺のぽっと出たような者にできることではありません。〝彼〟である可能性は極めて高いです」
「ふーん」
目の前の人物からの報告に赤い髪の少女は目を細めながら思考を巡らせる。
しばらく前に発生したとされる王都を目標とした魔獣の大侵攻。厳しい生存競争を生き残った強力な魔獣達に王国は劣勢を強いられたという。
戦時中ならいざ知らず、散発的に発生する魔獣被害に対応する程度の実力しか持たない騎士では到底太刀打ちなどできるはずもない。
王都壊滅も時間の問題かと思われていたが、そんな戦場に1人の男がふらりと現れたらしい。その男はたった1人で統率個体を討伐し、周囲の魔獣を殲滅し尽くした。
それだけでも度肝を抜かれるような内容であるが、男の行動はそれだけにとどまることはなく、不可能とされる戦場に取り残された部隊の救出も成功させたらしい。
助けられた部隊はもちろんだが、一部の騎士の間では王国を救った英雄だと広まっているらしい。
確かにそれほどの功績をその辺の騎士では務まるものではない。
「英雄ねぇ……気に入らないわね」
少女は不愉快そうに自らの心情を吐き捨てる。さらに聞けば、無詠唱魔法を扱える少女が少し前に騎士学校を卒業したそうではないか。
その男とその少女が戦場で親しげに話していた姿を何人もの騎士が見ていることから明らかに何か繋がりがあるはず。
(まずはその女性騎士の行動を洗ったほうがいいわね)
そんなさなか、少女の背後に広がっていた白銀の雪景色が突如として吹き飛んだ。
グオオオォォ‼
雪の中から現れたのは真っ白な体毛を持つ巨大な熊だった。その目は異常なまでに血走っており、明らかに正気とは思えない。熊は目の前でこちらに背を向けている少女に覆いかぶさるように雄叫びを上げながら襲い掛かる。
「……うるさいわね」
煩わしそうに眉を寄せると少女は近くに立てかけてあった杖を手に取ると、詠唱を紡ぎながらその杖を熊に対し、まるで羽虫を払うかのように横に振りぬいた。
振りぬいた瞬間、天を貫くかと思えるほどの業火が熊を飲み込んだ。業火に焼かれた相手は瞬時に炭へと変り果てる。
熊だけではない。周囲にある雪は完全に溶けて一滴の水分も残さず蒸発し、その下にある岩肌が黒く焦げている。
「これで最後ね。数だけで全然大したことはなかったわね」
ぴょんと少女は立ち上がると、それまで自分が腰掛けていた場所から飛び降りぐ~っと背伸びをした。
歩きながら少女はこれまで腰かけていた背後の山へと杖を一振りする。その動きだけで幾重にも積み重ねられた獣の山が燃え上がり、こちらも同じく炭へと変わると風に吹かれて跡形も無くその痕跡が消え失せる。
「二人に関する情報を集めておきなさい。とりあえず私も向うからしばらく時間は作れるでしょう?」
「承知しました。行き先は?」
「そんなの決まっているじゃない。ルイリアス王国よ」
少女はそう言うと空を見上げた。彼女の目に映るのは澄んだ空ではなく1人の人物の顔だった。少女は自身の決意を示すかのようにその言葉を口にする。
「逃がさないわ。今度こそ……絶対に‼」




