婚約破棄では生温い
石造りの城塞都市。
青年貴族レノンは、父の領地を相続する日まで、酒場で酔いに溺れる日々を送っていた。
かつて、彼は妻子を家から追い出した。
ほんの些細な口論がきっかけだった。
父の死後、領地のすべてを独り占めしたいという欲望が、夫としての情を消し去ったのだ。
雨の夜。
妻は子を抱きながら何度も門を叩いた。
だが、レノンは応じなかった。
翌朝、門の外には誰もいなかった。
それきり、妻子の消息は知れずじまいだ。
——あれは、もう過去のことだ。
そう言い聞かせるようにして、彼はさらに酒に逃げ続けた。
ある日、レノンの前に一人の貴族の令嬢が現れた。
名を、エレナという。
深紅の髪に、澄んだ青い瞳。
初めて顔を合わせたその日から、レノンはその美しさを目で追わずにはいられなかった。
「貴公、随分と退廃的な暮らしぶりですね」
妖艶な微笑みとともに向けられた言葉に、彼は心を掴まれた。
それから毎夜、エレナは彼のもとを訪れた。
彼女は酒に酔う彼の愚痴を聞き、そっと手を添え、優しく囁く。
「貴公ならば、もっと素晴らしい人生が送れるはずです」
三ヶ月後。
レノンは酒を断ち、領地の改革に乗り出していた。
すべてはエレナの助言によるものだった。
彼女の言葉は的確で、彼は迷うことなく従った。
——人生をやり直せる。エレナとなら、きっと。
そう信じて疑わなかった。
二人の結婚式の日取りが決まり、式の準備も進んでいた。
一度目の結婚とは違い、盛大な挙式。
大勢の人に囲まれての祝福。
レノンは幸福の絶頂にあった。
その夜、レノンが初めて彼女を抱きしめようと手を伸ばすと、エレナはそっと指でそれを止めた。
「焦らないで。……まずは水を」
囁きは柔らかく、微笑みさえあった。
——それが、最後だった。
扉の向こうから戻ることはなく、寝台に残ったのは、僅かな残り香だけ。
代わりに届けられたのは、一通の手紙だった。
『貴公の行いを、私は許していませんでした。
偽りの愛で惑わせ、希望を与え、そして奪い取る。
妹が受けた痛みの、ほんの百分の一でも味わわせるために。
私は今、別人として生きています。
貴公の心が本当に変わったのか、確かめたかった。
ですが——遅すぎました。
妹を探しなさい。
心からの償いは、そこから始まります』
石造りの教会で、レノンは膝をついた。
その日のうちに、屋敷で代官から告げられた事実は、さらに彼を打ちのめした。
領地の権利書、財産、屋敷。
そのすべての名義は、すでにエレナへと書き換えられていた。
しかも——すべて売却済み。
「なぜだ……」
震える声で問うと、代官は淡々と答えた。
「改革のため、と仰っておりましたでしょう。委任状も、譲渡契約も、すべてご当主様ご自身の署名です」
レノンは理解した。
彼は変わったのではない。
ただ、別の形で依存し、判断を他人に委ねただけだったのだ。
——探せ、と命じられたのではない。
これは赦されるための道ではない。
生涯を費やしても終わることのない、刑罰なのだ。
雨の夜、彼が閉ざした扉の向こうに答えがある限り。
レノンに、安息は訪れない。
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