表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

下町の本屋で、人生が少し動き出す

作者: 灯堂 涼
掲載日:2026/01/29

雨が商店街のアーケードを叩く音が、スマホの着信音にかき消された。高橋悠斗、35歳。中堅メーカーの営業事務。今日、上司からかかってきた電話は、昇格試験の結果だった。「高橋君、今回も残念ながら…面談の印象が、もう少しアピールが欲しかったかなって」。いつもの丁寧な、でもどこか他人事のような声。切った瞬間、胸に鉛のような重さが沈んだ。


期待されてないんだな、と自分に言い聞かせる。向上心はある。試験の準備もしてきた。でも3年連続で落ちだ。数字はこなすのに、管理職の椅子はいつも誰かのために空いている。このまま平社員でいいのか。商店街の総菜屋の明かりがやけにまぶしく、路地裏の暖簾が目に入った。「月灯書房」。古びた看板。本屋なんて何年ぶりだ。雨宿り、くらいの気持ちで中に入った。


店内は狭く、木の棚が天井まで積み重なっていた。埃っぽい空気に混じる紙の匂い。客は誰もおらず、カウンターの奥で中年男性が新聞を読んでいる。悠斗はなんとなくビジネス書コーナーの前に立った。『松下幸之助伝』。タイトルに目が止まる。何度も手に取ったはずの本なのに、今は毒のように見えた。


「お疲れのようですね。何か、お探しのものはございますか?」


穏やかな敬語の声。カウンターの男性、佐倉健司と名札にあった。48歳くらいか。細身で、眼鏡の奥の目は静かにこちらを見据えている。


「いえ…特に。昇格試験の面談、また落ちまして。上司から電話で結果を聞きました。頑張ってるのに、何がダメなのか…」


言葉が勝手に出てきた。愚痴をこぼす相手でもないのに。佐倉は小さく頷き、新聞を畳んだ。


「それはお辛いですね。では、少し本棚をご覧になりますか? ここに、似たような道をお歩みになった方々の話がございますよ。」


佐倉は棚から『松下幸之助伝』を抜き取り、悠斗に差し出した。表紙の古い写真が、どこか自分を嘲笑っているようだった。


「松下さんは、何度も昇進の機会を逃しながら、それでも道を開かれました。上司の評価ではなく、自分が納得できる小さな改善を積み重ねて。読んでみていただけますか?」


悠斗は渋々ページをめくる。そこには、若き松下が上司の意向に縛られず、現場の小さな工夫を重ね、徐々に信頼を勝ち取ったエピソードがあった。何度も失敗し、時には上層部から冷遇されても、自分の納得できる一歩を踏み続けた話。


佐倉は静かに続ける。「私も、かつてITの会社を起こしました。大きくしようと張り切り、結局すべて失いました。評価を追い求めすぎた結果です。あの頃の私は、昇格試験の結果のように、他人の目ばかり見て、自分を見失っていました。」


その言葉に、悠斗の胸がざわついた。佐倉の目は穏やかだが、奥に揺るぎない光があった。自分も同じだ。会社から期待されてない=自分がダメだと思い込んでいた。でも、それは結果の一つに過ぎないのかもしれない。ありのままの自分――真面目に数字をこなす平社員の自分を、否定せずに、そこから何ができるか。


「昇格試験の結果がすべてではなく、自分が成長を実感できる一歩を積み重ねられるかどうか。それが、本当の道しるべかと存じます。」


佐倉の言葉が、静かに染み入った。


雨が止み、店を出る頃、商店街の街灯が月明かりのように柔らかく灯っていた。悠斗はスマホのメモを開く。「来週の営業会議用・営業資料の改善案、自分で一つ作ってみる」。昇格に落ちて自信がなくなっていた胸が、少し前向きに動き出した。


翌朝の通勤電車。悠斗はメモを眺め、静かに息をついた。また、お待ちしております――佐倉の声が、耳に残っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
現実味のあるお話と、佐倉の言葉で一歩を踏み出していく姿が素敵ですね。「自分も成長を実感できる一歩を積み重ねていこう」と、自分ごととして思える作品でした。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ