黒き濁流の夜【夏のホラー2025】
【黒き濁流の夜】ーーーーーーーーーーーーーーーー
その夜、雨は壁を叩き割るように降っていた。
市内一帯が冠水し、川は見たことのない速さで膨れ上がっている。アスファルトの道路は、もう川と区別がつかない。ただ、何かが浮かんでいるのが街灯に一瞬だけ照らされ、それがまた闇に呑まれていった。
だが、その街灯もやがて消えた。――電力供給の完全停止。街は一瞬で漆黒の世界に変わった。
高校生の淳は、自宅二階の窓から濁流を見下ろしていた。
両親は冠水前に避難したが、淳は「すぐ引く」と甘く考え、残ってしまった。スマホの電波も途絶え、家中の電気は全滅。水は玄関の上まで迫っており、もはや脱出は不可能だった。
不意に、外から女の声がした。
「……あけて……」
か細い、しかしはっきりとした呼び声。
淳は懐中電灯を掴み、窓の外を照らした。
水面の上に、首から上だけを出した女性が浮かんでいた。
肩まで髪が張り付き、泥水を滴らせた顔は白く、目が異様に大きい。
「たすけて……寒いの……」
だが、その首から下は――なかった。
思わず淳は後ずさった。
水面がざわりと揺れ、女の頭がぐるりとこちらを向く。首の断面から泥水が滲み出ていた。
「いれて……」
声はさっきよりも近い。
淳は窓を閉めようとしたが、窓枠の外側から、異様に長い腕がぬるりと伸びてきた。
指先からは水が滴り、畳に黒いしみを広げる。その匂いは、腐った川魚と血の混じったようなものだった。
停電で冷房も扇風機もなく、家中が蒸し風呂のように暑いのに、その手が触れた場所だけが凍るように冷たい。
「もう……ひとりじゃないよ……」
背後から同じ声がした。
振り向くと、そこに“もう一人の自分”が立っていた。
淳と同じ顔、同じ服、同じ泥に濡れた姿。
だが、口元だけが異様に裂け、笑っている。
「一緒に、ながれよう」
次の瞬間、二階の窓ガラスが水圧で割れ、濁流が雪崩れ込んできた。
冷たく重い水が全身を叩きつけ、天井と床の区別が消える。必死に息を吸おうとしても、口に入ってくるのは泥と髪の毛だった。
視界の端に、あの女の顔があった。笑っている。
もう片方には、裂けた口の“自分”が、腕を広げて待っている。
水の中で意識が薄れていくと、耳元で声が囁いた。
「ここは、ずっと暗いまま……」
――翌朝、雨は上がった。
冠水した住宅街からは、何十人もの遺体が引き揚げられたが、その中に淳の姿はなかった。
ただ、二階の窓際に、淳と瓜二つの泥まみれの人影を見たという証言が、いくつも残っている。
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