下手の横好き!? それで結構コケコッコ!! それでも私が執筆する理由!
昔の農村では高齢者は大切にされていた。理由は単純だが本質的である。彼らは何百年も続く農業の中で、台風や虫害への対処、収穫や貯蔵の知恵といった、普遍性のある労働を積み重ねてきた。その経験は目に見える成果以上に価値があり、社会に不可欠であった。
一方、現代社会では状況が大きく変わった。職場で駆使しているノウハウは、十年もすれば陳腐化する。雇用者は「アップデートせよ」と言うけれど、そこに普遍性はない。労働者は単に右往左往させられているに過ぎず、そんな労働にリソースを投じる価値があるかは疑わしい。
モノは増えたら価値が下がるのは経済原則である。残念ながら人間にもそれは当てはまり、少子高齢化が進む日本では高齢者は邪魔者扱いされている。
特に男性高齢者をとりまく現状は悲惨だ。現役時代のほとんどを普遍性のない労働で浪費してしまったがために、価値の暴落に拍車がかかっている。「普遍性のない労働に従事してきたツケ」が回ってきているのである。
この対比から見えるのは、価値の本質は流動性や新奇性だけでは測れないということだ。経験と普遍性が結びついた知恵は、時代や環境を超えて意味を持つ。逆に、流行や一時的な成果にのみ振り回される生活は、表面的には忙しくとも本質的な価値を生まないこともある。
歴史から学べるのは、変わるものと変わらぬものを見極める視点である。現代に生きる我々は、右往左往させられるだけの、アップデートなるものに無駄に時間を費やすのではなく、普遍性のある知恵や経験を見極め、そこに資源を注ぐことの大切さを思い出す必要があるのかもしれない。
発話からインターネット通信に至るまで、情報伝達には普遍的な価値がある。書く力はその根底に位置している能力だ。小説執筆には普遍的な価値がある。
そう信じて、下手くそではあるが今日も創作に励む私なのであった。




