5. 人は怖いもの。
その日2人は昼食を挟んで、エイデンといくつかの生活魔法の練習をしたり、野営道具の準備や片付けを学んだり、エイデンの旅の話を聞いたりと有意義な時間を過ごした。
途中『魔導書をどう持ったら戦闘中に格好いいか』などを真剣に考え始めるあたり、エイデンは陽気で明るい変わり者で、たくさん笑った。
エイデンの部屋から自室に戻る時にはもう夕刻過ぎで、少し早くはあったが、椎名とセイランは食堂に寄った。
今日は猪型の魔獣、ワイルドボアの大きいものが獲れたようで、メニューが軒並みワイルドボアだったが、その中からワイルドボアのローストサンドイッチ、林檎酒、焼きリンゴと山羊乳チーズのピンチョス、ローストナッツ、どんぐり粉のクラッカーを選び、部屋に持ち帰る。
部屋の扉は不在のマルがいつ戻ってきても良いように少しだけ開けているのは在室時の習慣になった。
椎名の部屋はベッドにデスクとチェア、サイドテーブルに1人掛けのソファと、ひとり暮らしの部屋にしては若干豪華か?程度の調度品があったが、これがどれも椎名の体には大きすぎる。これは単に長身のエルフ用だからだろう。
女性でさえ日本人男性の平均身長ジャストの椎名より大きく、セイランなどは頭一個分以上は大きい。
その割に食べる量はさほど変わらないのだから不思議だ。エネルギー効率が良すぎではないか。
椎名は早速サイドテーブルに調達した食事を並べ、ベッドに腰掛ける。チェアをずりずりと引き寄せ、こちらちは魔導書とエイデンに譲ってもらった地図を広げた。
向かいにはソファを移動させてセイランが座る。
2人はひとまず地図を眺め、行く先の確認とエイデンから聞いたことの整理に取りかかる。
森の隠れ里がある場所は地図で見る限りには『シルヴァラン』という名の国のようで、ひとまず向かう先は森を南に降ったところにある街道沿いにある農村『イ・ラ』。次にそこから、広い広い小麦の畑を超えてこの辺りの領地を治めている街『アウレウィア』。
このアウレウィアは周辺を広大な穀倉地帯に囲まれており、領地内に数多ある農村もみな豊作続きでとても栄えている街でもある。
この後、国の中心である王都『雪の街ニウェル』に向かう。エイデンの言葉では二ウェルであれば、冒険者ギルドがあり、登録し、依頼を受けていけば、各地を歩きつつ金銭も稼いでいけるだろうということだった。
『冒険者ギルド』というものは基本的には誰でも登録でき、仕事もできる上に身分証も発行してくれるという、なんとも便利なシステムだが、いかにも胡散臭い制度だし、アウトローな方々もいたりする。しかし椎名はなんの違和感もなく受け入れた。
『◯◯の酒場』とかそういうやつだよな、というざっくりとした認識をしたのだが、現代日本人にはそれで全て説明がついてしまう。この世界で生きていくだけであれば、冒険者で充分稼いでいけることまで全て理解できた。
装備はまもなく出来上がると聞かされたし、道中の携帯食も食堂に依頼済みだ。野営の道具なども揃っている。
お金に関しては、神様からマルを通して謎のポーチが届けられ、なんと驚きの『好きなだけお金が出てくる』という恐ろしいものだった。
「(使うのは必要最小限にしよう)」
世界のバランスを崩しかねないチートアイテムに戦々恐々としてしまう。
こんな具合に準備は着々と進み、近い日に旅立つことになるだろうとは思っていたのだが、ここに来て急に不安が頭をもたげてきて、椎名の顔はいつになく暗い。
「大丈夫か?」
「えっ!ちかっ!」
セイランが椎名を気遣うように下から顔を覗き込み、その近さに椎名がその頬をぐいーっと押し返した。
神がいとし子に求めていることは、ただ『大地の上を歩く』こと。
各地を歩き、魔力を注ぎ、大地を癒し、巡りをよくする。それが代理とはいえ椎名に課せられた役割であり、この世界で生きる理由だ。それ以上でもそれ以下でもない。
ーーーだというのに。
かつてこの世界にいたという
いとし子たちは、最初は些細なことから手を貸して、だんだんと頼られて手を貸す部分が増えて、そのうちその力を当たり前のように求められて、皆やがて大きな欲の波に飲み込まれていってしまう。
『いとし子が祈ればたいてい何でも叶っちまう。それが破滅の入り口なんだ』
と、悔しそうにこぼしたエイデンの声が辛かった。
実りが欲しいと祈れば作物はよく実り、食料が欲しいと祈れば手に入り、金が欲しいと祈ればそれは叶う。
愛が欲しい、武器が欲しい、力が欲しい、権力が欲しい、領土が欲しい、国が欲しい、世界が欲しい。人の欲は際限がない。
だがそれはやがて叶えられなくなる。神もなんでもかんでも叶えるわけにはいかない。世界のバランスが崩れれば世界が丸ごと崩壊してしまう。
そうして願いが叶えられなくなると、人は途端にいとし子を『無能』と呼び、与えられなくなったことに怒りを抱いていとも簡単に殺したり捨てたりする。
何度も助けようと試みたことはあったが、人は普段は無力で無害なのに集団になると途端に圧倒的なスピードで事を成していくので「エルフの俺ではではどうにもできなかった」とエイデンの声には拭いされない後悔が滲んでいた。
神もいとし子を愛しいと思うから力を託しているし、祈りも叶えている。それなのにそのいとし子が傷ついて、弱り、死んでいく姿を見るのは辛いのだろう。
いつしかいとし子は猫になっていった。言葉が通じないものに願いを口にする者はいない。猫もそれに応えることもない。せいぜい、猫が懐いた人に小さな幸せが起こるくらいだ。
「だから俺たちは『概念の存在』を積極的に治すことを勧めないんだ。いとし子に寄り添うべきエルフまでもが人と同じになるわけにはいかない」
セイランの長い指が椎名の緩く波打つ黒髪をするりと梳いてゆく。
まるで小さい子によしよししているみたいだ。
「あまり深く考えすぎるな。幸い人の命は短いし、もう百年以上神のいとし子は猫だ。人がいとし子で存在し得ることなど覚えているヤツも居ない」
俯く椎名の唇に焼きリンゴが押しつけられる。食べろということなのだろうか。逆らうことなく口を開け受け入れる。
りんごの香りがすぅと鼻に抜け、甘さにほろりと心がほぐれる。
「俺がそばにいる。何かあるなら止める。あまり心配するな」
「••••••うん。ありがとう」
それだけ言うと、差し出された林檎酒のグラスを受け取り口をつけた。こちらも少し甘い。香り付けに入れられたローズマリーが甘さにすっきりとした爽やかさを足して、ほんのり大人っぽい味にしてくれる。
「エイデンの言うとおり、冒険者しながらあちこち歩いて、そっと祈って、誰にも気づかれないようにやるべきことをやろう」
それくらいしかできないから。
「それでいい」
セイランは頷いてワイルドボアのローストサンドを口に押し付けてくる。なんだかさっきからやたらと餌付けされている。
「お前よりマルの方がとっくに現状を受け入れているぞ。躊躇いも迷いもないし、飯の調達も上手いし」
さっきまで部屋にいなかったはずのマルの話題に椎名が「えっ」という顔をする前に、マルはちゃっかりチーズを咥えている。
「••••••ほらな?」
「それ、神様の魔力関係ないから!」
「いや、見ろ。この迷いのない動き。さすが神のいとし子だな」
マルがひょいっとチーズを前歯で転がし、うまく噛み砕いて口の奥へ送り込んでいく。そしてあっという間に部屋を出ていってしまった。他の部屋にもごはんをもらいに行くのだろう。エルフの里をしっかり堪能していて意外と逞しい。
エイデンの部屋の扉が開けっぱなしだったのも実はマルのためで、もしかしたら椎名の知らないところでマルが入り浸っていたのかもしれない。
「セイランはそうやってすぐ意地悪を言う」
椎名がわざとらしく拗ねて見せれば、セイランもははっと珍しく声をあげて笑った。
セイランもこの旅で初めて森を出る。エルフとしてはまだ若いセイランだが、それでも数百年を生きているせいか精神の成熟度が高く、感情の揺れが少ない。それでも本当は緊張しているかもしれないし、怖いかもしれない。それなのにこんなにも椎名のことを気遣ってくれる。
「(俺は神のいとし子代理なのにね)」
セイランの優しさがくすぐったくてふふりと笑うと、椎名は林檎酒のグラスを怪訝な顔をしてこちらを窺うセイランのグラスに無理矢理カチリと押し当てた。
次はシオンのターンです。
シオンは金色とピンクが混ざった色の髪。
長く伸ばしててゆるく縛ってる。柔らかい目元のエルフ男子さん。多分3000年くらい生きてる。