34. ソルテアへの馬車道
森の国シルヴァランの王都ニウェルから、太陽王国ソルテアの王都レヴァンテへは南へ進む馬車で十日ほどを要する。
両国を結ぶ街道は、国交の要として広く平坦に整備されており、日々多くの馬車が行き交っていた。また、一年を通して気温が低く、冬には雪の降り積もるほどに冷え込むニウェルと、一年中温暖で陽光に満ちたレヴァンテでは気候や特色が正反対だからこそ、互いを訪れる旅人は後を絶たない。観光も盛んで、この街道は交易用の馬車に交じって、専用の観光馬車も多く、街道は常に人の気配とざわめきでにぎわっていた。
その街道を、椎名とセイラン、レックス、マルの三人と一匹は馬車で進んでいた。
アウレウィア領主の執事補佐官、セオドアの手配で、ちょうどレヴァンテへ向かう商人と同行することができたため、比較的のんびりとした馬車の旅だ。
とはいえ、ただぼんやりと馬車に揺られていればいいというものでもない。
椎名はテントの布を突き抜けて差し込む朝日と、隙間から忍び込む風に起こされて、ふかふかの寝袋から顔を出すと、共にテントの中で睡眠をとっている商人を起こさないように、そっとテントの外へ這いずり出た。夜露を含んだ風が、頬を撫でるように通り過ぎていく。
「おはよ。今日もありがと」
焚き火の側で夜の番を務めていたレックスに声をかける。
出発してから三日目の朝、ニウェルからだいぶ離れたせいか気候はかなり穏やかではあったが、それでも夜明け前の冷え込みは強く、深夜から朝までの夜間の焚き火を絶やさず不寝番を請け負ってくれていたレックスの頬は寒さに上気して紅い。
椎名はレックスの横へ座り、コーヒーを挽く。
「特になんもなかったよ」
朝日に刺激されて潤む目を、手の甲でこすりながら、レックスがへらりと笑う。
レヴァンテ行きの馬車に乗って以降、レックスは頻繁にこうした緩んだ笑顔を見せるようになった。今までの様子でレヴァンテにいい思い出はなさそうだと勝手に思っていたが、故郷に帰るというのはやはり嬉しいものなのかもしれない。
「なんだか悪いなあ。俺、なんにもしてないや」
「いいんだよ。シーナが起きててもなんにもできないじゃん。こーやってコーヒー淹れてくれるだけで、俺は充分うれしい」
「そう、なのかな」
焚き火で湯がふつふつと静かに沸き、湯気が朝風に流されていく。ゆっくりとろとろと湯を落とすたびにコーヒーの香ばしい匂いが冷えた空気をやわらかく塗り替えていく。
このゆったりと流れる穏やかな時間は、心を落ち着けてくれるが、それでも、椎名はこの旅路で一人、惰眠をむさぼるのを許されていることに後ろめたさを感じてしまう。かといって、レックスの言うように、椎名には戦う術がないため、見張りに立ったところで、かかしと同程度の役にしかたたない。
キャンプの知識もなく、サバイバルの知識もなく、料理の知識もなく、椎名にできることは、せいぜいこうしてコーヒーを淹れるくらいだ。
マルはマルで猫特有の薄明薄暮性があるため、不寝番で不規則な睡眠をとることになってしまっている二人に寄り添って、共に不寝番をしてみたり、添い寝していたりして、意外なほどに役に立っている。
道中の行程では、セイランが夜から深夜の不寝番を担当し、深夜から朝をレックスが受け持っていた。そのため、セイランは今は馬車の中で眠っているはずだ。マルの姿も見えないが、おそらくセイランと添い寝をしているところだろう。
「(せめて質のいい睡眠がとれますように)」
椎名はすっと手を合わせて、セイランが眠る馬車に向かって祈った。
椎名に纏わりつく淡い光が、朝の光と風を受けてきらきらと漂うのを、レックスが大きな伸びをしながら見慣れたもののように、静かに目を細めた。
朝食を済ませ、野営の痕跡を手早く片づけると、レックスと椎名はセイランを起こさないように静かに馬車の荷台に乗り込んだ。商人は御者台で合図とともに馬車をゆっくり進める。やがてそれが一定の速度になるとガタガタと揺れる振動は一定の規則的なリズムを刻み始める。風を切る音が帆布越しに低く唸り、荷台の隙間から入り込む空気が、さらりと空気を入れ替えていく。
椎名がセイランの寝姿を見る機会は実はあまりない。宿をとっているときはたいていいつも椎名の方が先に寝てしまうし、今までの旅の中で意外にも野営をすることがなかった。椎名は馬車の中で窮屈そうに体を折り曲げて眠るセイランの頭の横に腰を下ろし、その顔を静かに見下ろす。
いつもきりっとしたまっすぐな眉は、眠っていてもなお緩むことなく、すっとそのままの形を保っているのが少しおかしくて、つい口元が緩む。
灰がかった金の髪が馬車の振動で揺れ、小刻みに跳ねては、差し込む陽光を受けてきらきらと煌めく。
指を差し込めば、その金糸は吸い付くようにしっとりと指先に馴染み、だがまるで水が流れるように指の間をするりと逃げていく。そのなめらかな感触に、吸い寄せられるように椎名はもう一度、指を差し入れて楽しむ。
だが、それも数往復しところで、椎名の指はセイランの大きな手に絡めとられ、中断させられる。
「あ、おきた?」
「・・・ん」
覚醒までのわずかな間を挟み、ゆるゆると体を起こすのと同時にくしゃりとかき混ぜられた金の髪は、まるで何事もなかったようにすんなりと元の位置に戻っていく。椎名の猫っ毛ではなかなかそうはいかない。
向かいに座るレックスが、腰のバッグから水筒を取り出し、セイランに手渡す。馬車の揺れに合わせて、水筒の中の水がかすかに音をたてた。
「朝メシいる?あと2時間もしたら昼メシだけど。朝、シーナが作ったサンドイッチがあるよ」
「商人さんが用意してくれた材料を、俺がはさんだだけのやつね」
椎名はすかさず自分が作ったとは言えないものだという注釈をきちんと付け加える。
「いる」
「はいはい」
軽い調子で応じて、レックスは再び腰のバッグに手を入れ、蝋引き紙に包まれたサンドイッチを取り出してセイランに手渡した。ほんのり冷気を帯びているのは、椎名が魔法で軽く冷やしてあったからだ。
セイランはガサガサと蝋引き紙を開き、ハムと野菜を挟み込んだ細長い舟形のパンにかぶりつき、口の端にあふれたオレンジ色のソースを舌先で追いかけ、掬いあげた。
「なあ、先に言っといたほうがいいと思うし、食いながらでいいからちょっと聞いてくんない?」
いつも通りのレックスの軽い口調が、なんてことのないことだというように掛けられる。
「うん。きく」
椎名は当然のように姿勢を正し、セイランもまたレックスに視線を向ける。
「俺さ、ちょっと派手な見た目してるっしょ?」
短い前髪をくるりくるりと指先でもてあそんで、レックスは「ね?」という風に目配せをしてくる。
椎名は改めてレックスをまじまじと見つめる。隠密な仕事の多いスカウトには不向きな、夕焼け色の髪は確かにレックス以外に見たことはなく、鮮やかな緑柱石の目は様々な光を受けてはきらりきらりと輝いて否応なく人目を惹きつけた。
「ソルテアの人はみんな割とカラフルな色してんだけど、この緑の目だけは王族にしか出ない色らしくてな」
少し自嘲を含んだように聞こえる声音は、だがその音に反して屈託のない笑顔に包まれて、風にさらされているように軽やかだった。
「王族の血が混じってる、と?」
レックスの軽い口調に隠されるように含まれる感情に、何を言えばいいのか分からなくて固まってしまう椎名とは裏腹に、セイランは非常にストレートに事実を確認する。
「そーいうこと」
大したことでもないと言わんばかりにへらりと笑って、レックスは揺れる馬車内で座り方を変える。
馬車の中では、いつまでも同じ姿勢でいては、長く正座していた時のように、激しい痺れに襲われて立ち上がることもできなくなる。椎名もレックスの動作に気付いて、雰囲気にのまれそうになる気持ちを整えるように慌てて座る姿勢を変えた。
レックスの話は概ねレヴァンテで育ってきた経緯の話だった。
はじまりはどこにでも転がっていそうな話だ。食堂で働いていた身寄りのない少女が、下町にお忍びで遊びに来ていた若い王子たちに気に入られ、彼らにとっての、たった一夜の遊びの果てに捨て置かれた、時折耳にするゴシップのような、それだけの話だった。問題はその王子たちが遊び方も知らず、事後の始末も分からないほどに幼く、教育の行き届かない存在だったということだ。
やがて少女は未婚のまま、食堂の店主一家に支えられながら、レックスを産んだ。どの王子の子か分からないとはいえ、王家の血筋の子を産めば通常であれば王宮に召し上げられるはずだ。だが、幸か不幸か、その後もレックスの母は彼らに存在を知られることなく平民としてずっと同じ食堂で働き続けているのだという。
レックスも、レックスによく似て底抜けに明るくポジティブな母と、食堂の店主や家族、常連客に囲まれ、優しさと慈しみに触れてそれなりに幸せに生きていた。だがその穏やかな時間も、レックスが十歳を迎える頃、攫われるように王宮に連れ去られることで、唐突に失われた。
本来ソルテア王家には代々見事な緑柱石の目を持つものが産まれるとされるが、どうやら現王宮に住まう数人の妃から産まれた子の中には、レックスほどに鮮やかな緑柱石の目の子は産まれなかったらしく、市井で噂になっていた『奇跡の落とし子』を回収にきたのだ。
だが、当然と言えば当然だが、突然現れた、鮮やかな王家の証を色濃く宿す少年に、王子や姫たちはもちろん、その母である妃たちが快く迎えるはずがない。教育を施す教師や使用人に至るまで、全てが圧倒的に身位の上の者しかおらず、毎日強い嫌悪感と敵意や悪意に晒され、王宮にいる多くの人の気配から逃げ隠れする日々がレックスの日常になった。
「そのおかげで、気配読むのも罠を見つけるのも得意だし、スカウトとして食えてるんだけどな」
いつの間にやらレックスの膝に頭を乗せるマルを撫でながら、けらけらと笑うレックスに、椎名は思わず手を伸ばし、頭をよしよしと撫でる。
「よく生きてたね。大変だったんだね」
「それで『逃げ上手のレックス』とか言われてんのか」
「そ」
セイランが食べ終えた蝋引き紙をくしゃりと丸めてぽんと放れば、レックスが受け止めて細長くくるくると捻り上げ、松ぼっくりなどの火種を入れている箱に投げ入れた。蝋引き紙は優秀な着火剤だ。きっと今夜、早速使われるのだろう。
「で、そのあと王宮から逃げてさ、そのせいで余計に言われんだけど、それは別にどーでもよくって、街の外で三年くらいかなあ、遺跡の端っこでずっと暮らしててさ」
明らかな侮辱の言葉を『どーでもいい』とさらりと言うが、それは本当なのだろうか。先日の観光客に言われた時に見せた、少し苛ついたような顔を思い出し、椎名は頭を寄せレックスの顔を覗き込む。
「いいか?笑うなよ?」
いかにも愉快といった、だが笑われることなどかけらも思ってなさそうな表情で、レックスも頭を寄せるように体を前に倒す。
「俺、おばけと暮らしてたんだ」
重大な事実を共有するように潜められた声に、椎名は思わずひゅっと息を吸い込む。その言葉自体は確かに「そんなバカな」と笑われるようなものではあったが、椎名とセイランはそれが言葉通りのものではないことを既に知っている。
「しかも二人!」
「それって・・・」
「概念の存在だろうな」
セイランの言葉にレックスの口元がへらりと緩む。その表情には安堵の色がはっきりと滲んでいた。
「だよなあ!俺、椎名の話を聞くまでずっと幻覚だと思ってたんだよ。でもさ、王宮から逃げるの手伝ってくれたり、街の外で生きてく方法を教えてくれて、独り立ちするまでずっと一緒にいてくれたやつらだからさ、おばけとかじゃなくて、ほんとにいるんだと思うと嬉しいよなあ!」
言葉と共に、レックスの声は弾む。
馬車の揺れに合わせるように、レックスはもう一度姿勢を変え、足を引き寄せて胡坐を組んだ。両手で足首を掴み、子供のように嬉しそうに、ゆらゆらと体を揺らす。マルがおもむろにその足の間に乗り込んで、ゆりかごのように揺れを楽しみながら丸くなった。
満面の笑みはこれから訪れるレヴァンテで向けられる奇異の目よりも、その概念の存在に会えるかもしれない喜びに満ちて、今までの酷い生い立ちを聞いてすっかり冷え切った椎名の心も、ほんわりと暖かくなる。
「会えたら、見えるように、触れるようにしてくれな!」
「本人が望むなら喜んで」
「やった!きまりな!」
椎名はほっとしたように柔らかく笑い、レックスが自然と掲げた手のひらにぱちんと手を弾き合わせた。乾いた音が、馬車の中に軽やかに響いた。
ガタリと大きく馬車が揺れ、三人の尻が馬車の床から浮き、セイランの腕がすかさず椎名を支えるように動く。レックスの胡坐の上でくつろいでいたマルは三人よりもさらに高くぽーんと大きく跳ね上がり、レックスが腕を伸ばして慌てて抱きとめた。
「にゃっ!」
突然の強い抱擁に抗議の声が上がる。
一瞬の静寂。そして誰からともなく笑い声が漏れる。
いつしか馬車は草原から林道へ差し掛かっていた。林を抜ける風が梢を揺らし、さわさわとした音をたてる。その音は三人の笑い声に呼応するように柔らかく重なった。
馬車の中に吹き込む風は、陽の光をも巻き込んで、淡くきらきらと揺れながら、進む先の道を静かに彩っていた。




