31. 氷の神殿
風は冷たく草木を揺らし、王都ニウェルの寒空にしがみつくように残った葉が健気に揺れる。
日が傾き始めると、冬の束の間の日差しはあっという間に心もとない温もりを失い、切ないほどの冷たさを伴う。
王立魔法研究所の研究員エルマーを街まで送り届けた後、椎名とセイラン、レックスは先ほどの石碑のところまで戻ってきていた。
空気はさらに冷え込み、マルは椎名の胸元のスリングから出る気配もない。
「これ、もう一回戦うの?」
もう一度来たいと言ったのは自分だったが、刺すような寒さに思わず不満が口をついて出る。少しはまともにできるようになってきたとはいえ、やはり戦闘は好きではない。
「いや、番人を出さない方法があるんだ。ちょっと見とけよ」
にやりと口端を吊り上げ、レックスは石碑の背面に回り込むと、ぐいっと体重をかけて押す。
またしても先ほどと同じくずりずりと石同士が擦れあうような重たい音が響き、石碑がゆっくりと動き始める。今回は番人が現れる前触れだった氷塊が発生することなく、最後までしっかりと階段を開ききることができた。
「ほら、でない」
得意げにふふんと鼻を鳴らし、レックスが胸を張る。
レックスが特別すごいのか、それともスカウトを職にする者はみんなこういうことが当たり前にできるのか、判別はつかなかったが、椎名はレックスのその腕前に改めて感動する。
「前から動かすと番人が出て、後ろから動かすと出ないのか。よく気づいたな」
セイランが腕を組んだ姿勢のまま、感心したように声を上げる。
「風の流れが二種類あったからね。あとこっちの道には番人の核があるのが隙間からちょっと見えた。裏方というか、裏側というか・・・」
「あ、なるほど。従業員通路だ。そっか。昔は神殿で働いていた人がいたんだっけ。二階も居住区になってたけど、住み込みじゃなくて通いの人もそりゃいるよね」
「そゆこと」
納得したと大きく頷く椎名が笑顔を見せると、レックスも満足そうに微笑む。そして冷たい風に首元のマフラーを口元にまで引き上げ、それから数あるポケットから風よけがいささかお粗末な、古くて小さなランタンを取り出した。
「シーナ、火ぃ点けて」
「ランタン使うの?光の球出すよ?」
「いや、ランタンがいいんだよ」
レックスの要求に首をかしげながらも、指先に灯した小さな魔法の火をランタンの芯へそっと移した。
背後でセイランがふ、と小さく笑みを漏らす声が聞こえる。
「なに?」
「いや、うまくなったもんだと思ってな」
「そー言うならセイランが点ければいいのに」
むくれ顔の椎名の頭をくしゃくしゃにかき混ぜて、セイランが顔を逸らした。いつものことながら魔法を使うつもりはあまりないようだ。
「行くよ」
階段を覗き込んで安全確認をしていたレックスが声をかける。冷たい風にランタンの火が抵抗するようにボボボと小さく音をたてた。
石碑に刻まれていた『影の道』とは、まさにこの通路のことを指すのではないだろうか。
そう思えるほどに目の前に続く道は、闇が溜まっているかのように真っ暗で、ただただ平坦なだけの道は、果たして本当にこの道で合っているのだろうか、と不安を掻き立ててくるほど何もなかった。
とはいえ、あくまでも『従業員通路』なので、実際の『影の道』ではないだろうし、これほどまでに簡素なのも当然かもしれない。
「本来の道はどんな感じなんだろうね」
何気ない椎名の呟きが簡素な通路に響いて広がる。
「途中までは道が並んでたみたいだけど、どうなんだろうな。案外、転送魔方陣でひゅーんかもよ」
前を歩くレックスがちらりと振り返りながら答える。
「そんな見えていない道のことまでわかるんだ?」
「風が左から流れてたからなんとなく?」
レックスがひょいと掲げたランタンの火が、揺らした拍子に前後にふらりと揺れる。
「風は遺跡では貴重な情報源だからなー」
なるほど、と椎名は感心する。この小さなランタンは明かり取りというより、風の流れを読むための道具なのか。そんなことを思っていると、ランタンの火が不規則に小さく揺れた。
ほら、とレックスが顎をしゃくって壁を示すと、そこには白と水色が混ざったような、薄青の手のひらほどのトカゲのような魔物が張り付いていた。大きく宝石のようにキラキラとした目を光らせて、小さく白い雪の粒のようなものを吹きかけてきていた。
「えっ、かわいい」
「アイスリザードだよ。触るとちょっとだけ魔力吸われる」
高く売れるんだけどね、とレックスは楽しそうだ。罠や仕掛けだけではなく、魔物の知識も豊富で、これだけでスカウトとしての能力の高さが窺える。それだけに、つい先ほどの観光客たちの反応を思い返すと、なおさら釈然としない気持ちが胸に残る。
「あの観光客たちは知ってる人?なんか失礼なこと言ってたよね」
思い出したら、再度じわじわと怒りがこみあげてくる。
「煩かったな。衛兵が連れて行ってくれて助かった」
セイランが椎名の後ろ、最後尾から口を挟む。長身のため一人だけひょっこりと頭が飛び出しているので、周囲も見渡せる上にエルフの暗視能力もあって、万全の布陣だ。
「あれは南にあるソルテアって国のヤツだなあ。俺の生まれ故郷なんだけど、あそこには魔物がいないからイマイチ危機感が足りないんだよな」
「迷惑だな」
「ほんとだよ」
うんざりだ、といったように肩を竦めて、レックスが首を振る。
「魔物がいないって?そんな場所があるの?」
椎名は思わず声を漏らした。
最初こそスライム一匹に驚き、戸惑っていた椎名だが、さすがにあちらこちらで見かける魔物に慣れたし、警戒して生活している人々に、そういうものだと認識できるようになっていた。だからこそ、まさか魔物のいない国があるなどとは考えたこともなかった。
もし本当にそんな国があるのだとしたら、移住する人がたくさんいてもおかしくないのでは、とさえ思う。
「ん、やー、理由はしらなーい。昔からそうだよ。そんで、魔物同士を戦わせる闘技場が有名。・・・どっから捕まえてくるのかは知らないけど」
ごく普通のことを言うように、ケロリとした顔でレックスが教えてくれたが、僅かに眉が顰められているところを見ると、そういったところも含めて、どうやら自分の生まれ故郷のソルテアが好きではないらしい。
「なんか未知の世界だ。想像もつかないな」
椎名の呟きにははっと気軽に笑って、レックスは突き当りの階段をのぼりきると、階上の扉に手を伸ばす。
「ま、世界を回る予定ならそのうち行くでしょ」
パリパリ・・・シャリ・・・と氷が崩れる音がして、扉はゆっくりと外に開いた。
扉を抜けた先は、神殿の外周の通路だった。前回訪れた時と同じく、人が一人歩ける道を残して、周囲はぐるりと氷の壁に囲われている。
水の神殿では、泡に包まれたような不思議な光景だったが、今回はそれが全て凍り付いているかのようだった。氷は水より鋭く光を返し、淡い青白さを帯びて夜気の中に煌めいている。
位置としては前回、二階から降りてきた階段のちょうど反対側だと、レックスが教えてくれた。そして左手にある壁は神殿の本殿なのだろう。
壁沿いに少し歩き、神殿の数段の階段を上がる。そこには人の手で氷を削ってできた階段があり、そこから見える空はもう暗い。観光客もおらず、静けさに満ちていた。
ほんの1,2か月前に来たばかりだというのに、夜の氷の気配に包まれた礼拝堂は、まるで別の場所のようだ。ひんやりとした空気は張り詰め、夜だというのに月明かりを取り込んで白く淡く輝く。その光景は初めて訪れたかのような神秘性を醸し、静謐な空気が椎名を誘う。
「マル。神様のところだよ。ご挨拶しないの?」
スリングを覗き込み、マルの様子を窺うが、ピクリと耳を動かして聞いている様子ではあるものの、全く出てくる気配がない。
夜と氷に包まれた空間は思っていたよりもずっと寒く、マルはそれを嫌がっているようだ。
森のエルフの里で誰よりも裁縫に長けたシオンに作ってもらった装備を着ている椎名とセイランは耐えられないほどではなかったが、人の手で作られた量産品の装備を着ているレックスはマルと同じく辛そうだ。
椎名は祭壇に向かって、気持ち急ぎ目に歩を進める。胸に抱くマルは変わらず動きはなく、後ろにセイランとレックスが続く。
こつん、こつん・・・と、硬い石のタイルに靴音が三対、礼拝堂に響く。
冷えた空気はさらに深まり、やがてそれは四対になった。
「(ん?あれ?・・・なんか、へん?)」
はっきりとは分からないが、どことなく違和感を感じて歩みを止める。同じく立ち止まったセイランとレックスに意見を聞こうと振り返り、自身の横に佇む冷気の塊に気が付いた。
それは白くふわりと滲み、かすかな衣擦れの音をたてて、ゆるりと人の姿を成した。ふわりと柔らかい後光が空気を照らす。
「・・・氷の神」
『結人。会いたかった。来てくれて、嬉しい』
椎名の声に小さく笑む顔は、水の女神とよく似て、だが男神らしく少し線が太く、そして同じく美しい。控えめだが清浄に満ちた声に、一瞬、息を吞む。
すぐ隣に立つ氷の神の手がするりと椎名の腕に添い、手のひらが溶け合うように滑り込む。ひんやりとした指先が一本、また一本と深く絡みつき、握られた冷たい肌の感触が力強く押し付けられ、なぜだか安心感に満たされる。
止まってしまった足は、氷の神に軽く引かれ、また祭壇へと誘われる。
祭壇に辿りつけば、セイランが美しい所作で剣を腰から外し静かに跪き、レックスは戸惑いながらもセイランに倣って膝をつく。
「あの、マルが出てこなくて、すみません。いとし子として神様に何かするべきことがありますか?代理ですけど、俺にできることなら俺がします」
水の神の時には自ら姿を現してきちんと挨拶をし、抱き上げられてさえいたマルが、氷の神には何の反応もしないことが申し訳なく、椎名は恐縮して肩に力を入れる。
『マルは出てはこない。賢い子だ。氷は生命を拒絶する形だ。生き物としてそれは正しい』
氷の神は穏やかな表情のまま静かに首を振った。
『我はただ、我に属するお前とこうして言葉を交わせることが至上の喜びだ』
属する者・・・?ちょっと意味がわからないなと、椎名は首をかしげる。転生前のRPGゲームを思い返せば『火』『水』『風』『土』などの属性を持ち、それぞれがそれぞれの属性に対して優位点と弱点をもつキャラクターなどがあったが、もしかするとこれはそういう『属性』のことだろうか。
だとすると、椎名自身は『氷』の属性を持つということになるのだろうか。
「(だとしても、こちらで産まれたわけでもないし、どこかで契約したりとかもしてないと思うんだけどな)」
唇に手を当て、さらに考え込む椎名に、氷の神がまた小さく笑む。
『我に属する者は少ない。その数少ないお前に心からの祝福を。この先の祈りに、より多くの恵みを』
絡ませた指をほどき、その手を自らの唇に導き、軽く口づける。それから椎名の体を引き寄せ、深く抱きしめた。
『結人。また来るといい。我はいつでもお前の力になる』
耳元に落とされた言葉に椎名は知らず微笑んで頷いた。
氷の神が神であるのは確かだが、甘え上手な弟のようでもあって、なんだか気恥ずかしくも少し嬉しくて心地よい。
とはいえ、マルにはほんとに何もなくていいのだろうか、と不安にも思う。
氷の神は名残惜しむようにゆっくりと体を離し、遠ざけるように椎名の肩をとんと押す。その反動で氷の神の体が、祭壇の上にふわりと浮いた。
『マルは火に属する者。火の神が我の分まで可愛がってくれよう。火の神には伝えておくゆえ、安心してこれまで通り見守り続けると良い』
氷の神の目を捉え、わかりましたと告げると、ふわりと浮いた姿は揺らめいて、白く滲んで消え、後光が消えて暗さの戻った礼拝所に荘厳さと静謐さが満ちる。
「二度目だけど、慣れないなあ」
レックスの深いため息とぼやきが空気を割る。
「こーいう時、どうしたらいいのか、あとで教えて」
立ち上がり、剣を腰に差し直しているセイランの肩に手を添えながら、緊張から解放されたレックスのため息が止まらない。
「俺もセイランに教えてほしいことできたから、帰ってから話そっか」
「奇遇だな。俺もだ」
椎名の言葉にセイランも同調する。
「じゃあ、屋台でなんか買って帰ろーぜ」
「それがいいな!あったかいカフェラテも欲しい!」
月明かりが反射して神秘的に輝く礼拝堂を、椎名とセイラン、レックスは参拝用の階段に向かって歩いた。階段の上には見張り番の衛兵が当然いるはずなので、怒られるかもしれないな、とぼんやりと思うが、不思議な高揚感に包まれて、そんなことはひどく些細なことのように思えた。




