29. ベラトロ村のお手伝い
濃厚な甘さの中にわずかな渋みが混じり、ワインの香りがふっと鼻を抜けていく。
一点の曇りもない青空を見上げ、椎名は甘く息を漏らした。
「ああ〜〜〜、おいしいなあ」
晩秋のやわらかな日差しが差し込むあたたかな日向で、用意された椅子に腰を落ち着け、椎名は右手のグラスを傾けた。
再度その紅色のワインが喉を滑り、体にじんわりと温かさが広がる。
横にはワイン樽の上に皿に盛られた葡萄が置かれており、いかにもくつろいでくださいと言わんばかりの状態だ。
「ちょっと!シーナもさぼってないで仕事しなよ!!」
晴天の青空の下の贅沢な時間を破るように、遠くからレックスの呼び声が響いた。
「だって、おいしいんだよ」
「だってじゃないよ。飲むのは仕事終わらせてからだろ」
レックスは腕に下げた籠に摘み取った葡萄を入れながら、不満そうに言う。
「別にいいんじゃないか。椎名はこの仕事じゃ役に立たんだろ」
「セイはすぐそうやってシーナを甘やかす!今シーナがやってる仕事だって、シーナには合わないと思うけどな!」
二人の容赦のない言葉に、甘やかされているのとは違う気がする、と思うが曖昧に笑うだけで、椎名は再度グラスを傾けて空を見上げた。
椎名たちはアウレウィアでの依頼が終わった後、結局王都ニウェルに戻ることにした。その際にひとつ依頼を受け、今はニウェルへ向かう東への道から南に外れたところにあるベラトロという農村に滞在している。
依頼内容は、ワインのための葡萄収穫を手伝う、というものだ。
セイランとレックスは依頼内容通り、葡萄の収穫の仕事をしており、椎名はそれを狙ってやってくる銀嘴鴉を追い払う係だ。
マルに至っては、椎名と同じく銀嘴鴉や狐を追い払う役目を担う番犬たちを従え、まるで最初からボスだったかのような風体で犬たちの背に乗って悠然と運ばれている。
秋も終わりに差し掛かり、今年最後の収穫でこの時期の収穫量はさほど多くない。他の村ならば熟れすぎて捨て置かれる実なのだが、ベラトロにはその常識を覆す、他の村にはない珍しい特徴があった。
村の建物は主に木と煉瓦で作られており、家の上に東屋が一体化した不思議な造りだ。そこには大きな止まり木が造りつけてあり、そこに数羽の異形な存在が悠然と羽を休めている。それがこの村に生息している夜羽鬼という魔物だ。
体長は70センチ程度とマルよりもはるかに大きく、豊かで深い色の羽毛の下には小鬼を思わせる骨ばった腕と足を隠し持つ魔物だ。種別としては小鬼の類に分類されるが、小鬼よりもはるかに賢く、また人に対する敵意を持たないとレックスが教えてくれた。
葡萄を狙ってくるイタチやテン、銀色の嘴のカラス、銀嘴鴉を主食とし、夜羽鬼たちはベラトロでは作物を守ってくれる頼もしい守護者なのだ。
また、実は人の作ったワイン、とりわけこの最後の収穫で採れる熟れ切って甘すぎる葡萄で作ったワインが大好物で、村では葡萄棚を守る対価として毎年この最後の葡萄でできたジャムのように甘いワインを供与する習わしとなっている。
ひとしきり苦情を言いつつも、作業に戻っていったセイランとレックスを尻目に、ヨチヨチと銀嘴鴉が土の上を歩いてくる。カラスは賢い。上から飛んでくればたちまち夜羽鬼に狩られることを知ってのことだろう。
椎名は追い払うつもりで、小さな氷の塊を指先に発生させては、ひゅっと足元に投げるが、銀嘴鴉はまったく意に介さぬようにひょいと避けて椎名がテーブル代わりにしている樽の上に飛び乗った。
慌てて葡萄の乗った皿を氷でドーム状に覆い、かろうじて被害を防ぐ。その直後、対面から発される聞くに堪えぬ叫び声に椎名は顔を上げた。
そこには銀嘴鴉の首と胴を、骨ばった足の先についている鉤爪でがっちりと抑え込む夜羽鬼の姿があった。
ミミズクのような羽角と金色と闇色の大きな目でぎょろりと椎名を確認すると、大きな翼をばさりと広げ飛び去った。その羽ばたきは大きさに相応しい風を起こし、上空から打ち付ける風に髪を乱される。
夜空を思わせる紫紺の翼が青空に際立ち目を奪われる。
「魔物と共存ができるなんて考えたこともなかったよ。すごいね」
「利害が一致していればそりゃあね」
レックスが葡萄でいっぱいになった大きな籠を椎名に押し付ける。
「ほら、シーナ。仕事しろって」
椎名はそれを素直に受け取り、すぐ隣の建物へ運ぶ。そこでは椎名の胸ほどの高さの大きな桶が据えられており、中では子供たちの賑やかな歌声と踏み鳴らされるリズムの足音がトントンと響いていた。
桶の周囲には恰幅の良い女性が数人おり、おそらく子供たちの母親なのだろう。子供たちにあれこれと指示を出していた。そのうちの一人が椎名から籠を受け取り、桶の中へとひっくり返す。
新しい葡萄が桶の中に入れられるたびに子供たちの歓声が上がり、外からは子供たちの姿は見えなかったが、きゃあきゃあと騒ぐ声は葡萄踏みが子供たちの仕事であるのと同時に、一大イベントなことを思わせてくれて、とても微笑ましい。
桶の置かれたこの建物は貯蔵庫でもあるようで、ワインの樽がいくつも並べられている。その中に紫紺の羽がタグにつけられていた樽があった。
「あれが今夜、夜羽鬼に開ける酒だよ。すごく甘いんだ。おこぼれに預かろうね」
椎名の視線に気づいた女性が今夜が楽しみだとばかりに、嬉しそうに教えてくれる。
「さあ、そのためにも日が暮れるまでもう少し働いておくれ!今夜は宴だからね!」
朗らかな声と背を叩く力強い手に微笑み、椎名は子供たちの声に負けないように大きく頷いた
その夜、村の広場では賑やかに酒宴が開かれていた。今年の収穫が無事にすべて終わったことを祝い労う宴だ。また同時に夜羽鬼の一年の守りに感謝する宴でもある。
去年の樽から夜羽鬼の羽のタグが外され、今年の樽に付け替えられる。そして去年の樽は人気がなく静まり返った畑にグラスと共に供えられた。
椎名とセイランは宴には参加せず、宿として借りている長老宅の二階、窓際の小さなテーブルにつき、外を眺めていた。
犬たちと遊びまわって・・・いや、仕事をしていたマルはすっかり疲れた様子でテーブルの上に転がり、さあ撫でろとばかりに椎名の前に腹をさらしていたし、椎名自身も昼からワインを飲んでいたせいか心地よい疲労感に、見るともなくぼんやりと景色を目に映していた。
部屋の窓からはちょうど隣家の東屋が見える。
夜羽鬼たちがまるで紳士のように止まり木に足を組んで座り、細く骨ばった手には器用にくるくると回されるグラスが月明かりを反射してきらきらと煌めいた。
「いるね」
「ああ」
椎名の手元を包み込むように、セイランがワインのグラスを持たせる。
「これが夜羽鬼のおこぼれってヤツだそうだ」
ありがとうと告げて口に含むと、それは昼に飲んだものとは比べ物にならないほどの濃い甘さに、ふわふわとしていた意識が引き戻される。
「すごい。デザートみたい!とんでもなく甘いよ!」
むせかえるほどの甘さと濃厚な香りに、咳き込む椎名の手から、セイランの長い指が椎名の手からグラスをするりと絡めとって口をつける。
「・・・っ!」
声にならない声を漏らし、グラスが椎名の手に戻される。特に甘いものが苦手なわけではないはずだが、セイランには甘すぎたようだ。
「チーズ食べたい。チーズ。甘すぎてこれだけで飲むのキツいな」
甘いものが好きな椎名でさえ、この甘さは単品ではつらかったが、それでも自然に笑みが零れてしまうほど、甘さのもたらす幸福感がたまらなく心地良かった。
再度、窓越しに夜羽鬼を見やればそのうちの一羽と目が合った。
手に持つグラスを東屋に置き、大きな翼をばさりと広げこちらに向かって飛び立つ。セイランが反射的に椎名の肩を掴み、窓から遠ざけようとするが、その手をマルが遮った。
夜羽鬼の足先の鉤爪が屋根を踏み、ガシャリと音を立てる。豪奢な金に浮かぶ深い闇色の瞳孔がギョロリとこちらの様子を窺い、マルの前で止まる。
『尊き方、我らに祈りを』
開かれた嘴から発せられた音はただミミズクの鳴き声のようだったが、内容はなぜか理解ができた。
「・・・どういった意味で?」
マルだけを見るその姿に、椎名がおそるおそる問いかける。
深淵の闇を覗くような瞳孔が椎名を捉える。
『この美酒を得られる喜びが、未来永劫続くよう。我らと人の友好を』
夜羽鬼の返答にほっと息をつく。この村の思いと夜羽鬼たちの思いがお互いに同じであることに深く安堵する。
『いいだろう』
椎名がえっと声を上げるより早く、マルが窓に進み出る。白い部分が多いマルの額が窓ガラスにすりつけられ、ガラスの向こうから夜羽鬼もまた額を寄せる。マルの体が月の光を浴びるように淡く光り、清浄な空気が周囲を取り巻き、弾けて散る。
圧倒的な魔力量は、永遠を願う祈りのせいか、単純にマルの魔力量が多いからだろうか、その神々しさに神にさえ感じなかった畏敬の念を抱く。
『感謝する。貴殿らの行く先に幸多からんことを』
深く首を垂れ、来た時と同じように大きな翼をばさりと広げると静かに去っていく。羽ばたきが起こす風が窓ガラスをがたがたと揺らした。
どことなく満足げな表情をしていたように見えるのは気のせいだろうか。
マルは疲れたように再度テーブルの上に体を横たえ、さあ撫でろと背を椎名の手にぐりぐりと押し付ける。請われるままにその背を撫でると光の残滓がはらりはらりとテーブルの下に落ちて消えた。
「ね、夜羽鬼の声、聞こえた?」
不思議なものを見た妙な高揚感でセイランの目を見る。
「聞こえた。こちらの言うことも理解できてるようだったな。ひとまずそれはレックスに聞くとして、それよりもマルが祈れたのも驚きだ」
「うん。俺も知らなかった。でも、消耗は激しそうだね」
マルの小さな額をくるくると撫でると気持ちよさそうに目を瞑り、首を伸ばしてごろごろと音を立てる。セイランはまた何事もなかったかのように正面に座りマルの喉を撫で、外を眺める。
そのセイランの横顔を見つめ、椎名は再度グラスに口をつけた。椎名にはマルの声が聞こえた気がしたけれど、先ほどと何ら変わらない様子を見る限り、セイランにはどうやら聞こえなかった様子だ。
「(きのせいだった・・・?のかも?)」
濃厚なジャムを直接舐めているような甘さに思わず顔が緩み、無意識でぺろりと唇を舌で拭った。
「それは念話だな。夜羽鬼は頭いいから念話使えるんだよ」
翌日、ほとんど昼にちかい時間だったが、すっかり二日酔いの顔をして頭を抱えるレックスに簡単な回復魔法をかけながら、話を聞いた。
「念話は受け取る方にも魔力がいるんだよ。多分俺じゃ聞こえないなー」
「人には魔力ないの?」
「いや、個人差はあるけど、みんな少しはあるよ。シャワーとかの魔道具って魔力流して使うしな。でも念話できるほどの魔力持ってる人はそうそういないなー」
魔法のぬくもりで少しすっきりした顔をしているレックスは、肩をぐるぐると回しながら軽く礼を述べ、にかりと笑う。
光に照らされた室内は、どこか静かで穏やかに時間が流れているようだった。外の喧騒も聞こえてこないことを思うと、おそらく村のみんなも酒宴明けの惰眠をむさぼっているに違いない。
レックスの言葉どおりなら、この村の人たちはおそらくほとんどが夜羽鬼の声が聞こえない。にもかかわらず、代々にわたって深く友好的な交流を続けてきたのだろう。
ただ言葉にしてしまえば『利害関係の一致』でしかないのだが、その穏やかなやり取りに椎名の胸に小さなぬくもりが広がった。
「どうだ、行けるか?」
村長と依頼の終了確認の話をしに行っていたセイランが様子を窺うように扉から覗き込む。その手にはワインの瓶が一本。おそらくお土産としていただいたのだろう。心づかいがありがたい。
「だいじょーぶ!俺、元気よ!」
「俺も行ける。あ、昼ごはんだけなんか買っていきたい!」
椎名は未だベッドでうとうととするマルを抱き上げ、そっとスリングに入れる。部屋を借りた時と同じように整え、荷物を抱え静かに立ち上がった。
外に出ると晩秋の冷たく澄んだ空気に甘い香りが混ざり、今年の仕事を終えた葡萄の木々の葉がかすかにざわめく。心地よい風が、一仕事終えた達成感を胸に運び、王都ニウェルへの帰路の背を押してくれるようだった。




