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テイラー公爵家の皆さんをお見送りしてからも、私にはあれこれとやるべきことがあり、ほとんど眠れない一夜となってしまいました。
それでも倦怠感などはなく、早朝の陽光の中ですっきりした気分でした。
(今日から、私とアーティの新しい人生が始まる)
社交シーズン中の貴族というものは、午前中はあまり活動的ではありません。つまりアーティを我が家に迎え入れるのに、朝早い時間は都合がいいのです。
屋敷の玄関前に、馬車が止まる音が聞こえました。まずはテイラー公爵夫妻の到着です。
「さあ、今日も盛りだくさんな一日になるわよ」
窓の外を見て、私は優雅に立ち上がりました。
今朝のドレスも青色で、気分を高揚させてくれます。姿見をちらりと見ると、甘さの一切ないデザインのそれは本当に私に良く似合っていました。
両親とレイクン、昨夜の疲れと早起きのせいか少し不機嫌そうなテイラー公爵夫妻、エリスとテッド、そして私が応接室に集まります。
「アーティ様がおみえになりました」
ほどなくして扉が開き、執事がアーティの到着を告げました。
ちなみに彼女を迎えるために差し向けたのは、使用人が買い出しに使うための荷馬車。使わせた玄関はもちろん裏口です。彼女はまだ、表玄関を使うにふさわしい人物ではありませんからね。
「えっと、あの……」
室内の様子に圧倒されたようなアーティは、魅力的とは言い難い姿でした。
少しほつれた三つ編み、疲れ切った顔。身に着けているのは、本人の物である擦り切れた木綿のワンピース。私から奪っていった刺繍のドレスでも、新しく用意されたものでもない。
その姿を見れば、昨晩の彼女がどのような扱いを受けたか一目瞭然です。潔癖なトルロー侯爵未亡人から、蛇蝎のごとく嫌われてしまったのでしょう。
彼女はバーナード様の母方の祖父の姉で、七十代前半の老女です。普段はバーナード様のことを実の孫のように可愛がっていますが、さすがに今回はアーティへの嫌悪感の方が勝ったようですね。
私はトルロー侯爵未亡人に好かれており、彼女のふしだらなことを嫌う性格をよく知っています。バーナード様がアーティにつけた護衛と侍女など、気難しい老女の前ではものの役にも立ちません。アーティにとって辛くてたまらない一夜になるだろうことは予想済みでした。
大変口が堅いお人でもありますから、バーナード様の『恥』を外に漏らすようなことはなさらないでしょう。
「えっと……おはよう、ございます」
アーティはぺこりと頭を下げ、ネズミのようにきょろきょろと周囲を見回します。
私は絨毯の上を滑るように歩き、アーティに近づきました。
「ミルバーン公爵家へようこそ。さあ、こちらへおかけなさい」
「ね、ねえ。愛人教育って、何したらいいの?」
「そんなに焦らないで大丈夫よ。まずは、ここに座ってリラックスして」
私はふふっと笑って、アーティに椅子を勧めました。彼女は持ってきた紙袋を抱きしめて、おずおずと腰かけます。
「アーティ、紹介するわ。こちらは私の父のアンドルーと母のラフィア、弟のレイクンよ。そしてバーナード様のご両親、ゲオルク・テイラー公爵とユリアナ様」
私が手ぶりで示すと、アーティは「え!」と椅子の上で飛び上がりました。
「バーナードのお父さんとお母さんっ!」
アーティは「はじめまして」とも言わず、喜びに顔を輝かせました。
「ア、アタシ、会えてうれしい──」
「八大公爵家の嫡男を呼び捨てにする無作法、これだから平民は。お前のような娘に父と呼ばれるなど、反吐が出るわ!」
「まったくですわ。バーナードはもう少し賢い息子だと思っていたけれど、女を見る目をどこへ落としてきたのやら」
「お前の首がまだ繋がっているのは、ここにいるイブリン嬢の恩情だということをゆめゆめ忘れるでないぞ、娘。あの甘ったれのバーナードは正妻と愛人、両方を手に入れられると思っていたようだが、事態はそう簡単ではないのだ!」
「あ……あ……」
愛する人の両親にじろりと睨まれて、アーティは口も利けないようでした。信じられないというように目を見開いています。
きっと、バーナード様から都合のいいことばかり耳に吹き込まれていたのでしょう。両親は私を気に入っていないとか、必ずアーティの味方になってくれるとか、そういった類のことを。
(どんなに親馬鹿でも、彼らは誇り高き八大公爵家の当主夫妻。平民を好意的に受け入れるはずがないのに)
平民の社会でも、アーティのようなことをすれば村八分になるはずです。恋は盲目とはよくいったものですね。
激高するテイラー公爵、ガタガタと震えるアーティ。室内が冷たく、重苦しい空気に包まれます。
「テイラー公爵、あまり怯えさせると腹の子に良くないだろう。落ち着いて話を進めよう」
私の父がとりなすように軽く右手を上げました。
「まずはお茶でも飲みましょう」
私の母が侍女たちに指示をして、紅茶とブランデー、ケーキやクッキーなどの菓子類の皿が置かれました。
ブランデーやウイスキーなどの蒸留酒は、気付け薬として用いられています。これが必要になると判断した母はさすがです。
私はアーティの紅茶のカップに、ほんの少しブランデーを入れました。彼女の異常な震え、冷や汗や顔面蒼白は、恐らく脳貧血でしょう。
「この程度ならお腹の子に害は無いわ。少量のブランデーはお薬でもありますからね。これを飲んで、まずは落ち着きましょう?」
「う、うん」
動揺するアーティは素直にカップに手を伸ばし、ブランデーでぬるくなった紅茶を一気に飲み干しました。それを見届けて、私は彼女の隣に座ります。
「さて、アーティとやら」
アーティの震えが治まったのを見て、父が切り出しました。
「我々の間で問題になっているのは、君とお腹の中の子どもの処遇だ」
「しょ、しょぐう?」
アーティが首をひねりました。言葉の意味が分からないのでしょう。彼女がこれから、語彙を増やさなければならないのは確かですね。
今の段階では、彼女の頭の出来は分かりません。下半身の緩さと知能が直結しているわけではありませんし。
「つまり、あなたと子どもをどう取り扱うかということよ」
私は微笑みながら補足しました。未だ混乱している彼女には、平易な言葉で要点を絞って伝えた方がよさそうです。
「我がテイラー公爵家は、ミルバーン公爵家との縁組に失敗して大恥をかくところだったのだぞ!」
テイラー公爵がふんと鼻を鳴らします。
「お前のような人間は、その腹の中の恥辱の証拠ともども投獄されても文句は言えない」
アーティがまた首をひねりました。
「で、でも。バーナードは、貴族に愛人がいるのは普通のことだって」
「ミルバーン公爵令嬢イブリンを娶る者はそうではない!」
テイラー公爵は怒りの表情を浮かべて、アーティを睨みつけました。
「八大公爵家で適齢期の令嬢は彼女だけ、その価値は王女と同等なのだ! 値千金の縁組だったというのに、あの馬鹿息子め、自分の都合のいいように考えよって……っ!」
「お、王女とどうとう、あたい、せん……?」
「そうだ。そのイブリン嬢との結婚前に、平民の愛人を作るような大馬鹿者は勘当されて当然なのだ」
「か、かんどう?」
テイラー公爵は呆れたようにため息をつきました。