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「さあ、忙しくなるわね。アーティには正々堂々、大聖堂で祝福を受けて、決して断ち切れない神の手でバーナード様と結ばれてもらわなければ」


 私は胸の前でぱちんと両手を打ちました。

 我が国の貴族は、離婚をする際に議会での承認が必要となります。あれほど深く愛し合う二人であれば離婚とは無縁でしょうが。

 まだ呆然としているレイクンの頬を、私は優しく撫でます。


「心配しないで、レイクン」

「イブリン……」


 レイクンが戸惑った声でつぶやきます。

 私の未来、夢も希望も何もかもがバーナード様とアーティによって壊されたのに、その二人を幸せにしてやるだなんて、純粋なレイクンには信じられないのでしょう。

 確かに私は、泥で汚れた寝室での短い時間で苦渋を舐め尽くしました。絶望や憎悪を一生分味わいました。

 しかしどんな過酷な状況であれ、家の名誉を守ることが最優先。バーナード様との結婚が嫌で逃げ出すわけにはいかない。次善の策として愛人教育をするにしても、両家にとって恥となるスキャンダルには違いない。

 となれば問題を解決するために、アーティに最上級の幸せを与えることが一番なのです。

 もちろん、さらりとやってのけられることではありません。八大公爵家の権力と、莫大な財力と、人心を操る才能がなければ無理です。

 そしてミルバーン公爵家には、そのすべてがあります。もちろんテイラー公爵家にも。せいぜい利用させていただきましょう。

 あの娘の態度がどんなに頭にきていても、私は必ずやり遂げて見せる。誰にも邪魔はさせないつもりです。


「それではエリス、テッド。バーナード様の不品行ぶりについて、テイラー公爵夫妻に報告してきてちょうだい。次男のエドモンドにもね。一分一秒でも早く、我が家へ来るようにと」

「はい、イブリン様」

「承知いたしました」


 エリスが立ち上がります。

 テッドは小さく頭を下げ、エリスと共に応接室を出ていきました。

 フレデリック様が「うーん」と唸ります。


「続きを見たいけれど、私はいない方がいいね。建前上、八大公爵家の問題に対して王家は中立だから」


 そう言ってフレデリック様は立ち上がりました。そして私の手の甲に、驚くほど上品で優雅な仕草で口づけをします。


「平民を養女にする件は、私が責任持って父上に話を通しておくよ」

「ありがとうございます、フレデリック様」


 私は心からの笑顔を浮かべました。


「ああイブリン。この世の何よりも、誰よりも愛しているよ。君なしではとても生きていけないのに、離れなくてはならないなんて」

「本当にお上手ですこと。光栄ですし、とてもいい気分ですわ。でも甘いお言葉の数々は、お立場にふさわしい年下の令嬢のために取っておいてくださいな」

「右から左に受け流すのが上手だね! まったく、我が国のしきたりには本当に頭にくるよ!」


 フレデリック様は肩を怒らせて扉まで歩くと、「またね!」と叫んで出ていかれました。いつも通りのやり取りに、私の気持ちが明るくなります。彼とおしゃべりしていると、決まって心が軽く、楽しくなるのです。


「イブリン、空腹を感じていない? テイラー公爵夫妻がいらっしゃるまで、軽食でもつまみましょうか」


 母に尋ねられ、私は首を横に振りました。


「それより着替えをしたいわ。このドレスを着ているのは、もううんざりなの」


 普段の私なら、ドレスをぽいと捨てることは絶対にしません。王都の慈善団体に寄付したり、領地の民のために役立てたりします。


「報告を最優先にしたけれど、本当は真っ先に脱いで、捨ててしまいたかった。だって……泥で汚れてしまった気がするから」


 もちろん、アーティが寝室に持ち込んだ泥が私についたわけではありません。それでも、穢されてしまった気持ちは消えない。


「イブリン……」

「アーティが着て行ってしまったあのドレスも、もし戻ってきたら捨てなくちゃ。刺繍をしてくれた皆に申し訳ないけれど」

「誰もが喜んで、新しいドレスに刺繍をしてくれるわ」


 母がぎゅっと私を抱きしめてくれました。

 刺繍入りのドレスは、ミルバーン公爵領の嫁入り道具のひとつ。バーナード様以外の人のために支度を整える日が、果たしてくるのでしょうか──それを考えるのは後に回しましょう。しばらくは全力を挙げて、アーティの教育に専念しなくてはなりませんし。


「さあ、着替えていらっしゃい。あなたの瞳と同じ、青いドレスがいいんじゃないかしら」

「私の好きな色ね!」


 母の言葉に、私は明るい声を上げました。

 青は赤毛のバーナード様に最も似合わない色です。結婚式が近づいて、毎日無意識に赤の同系色を選んでいたけれど──もう二度と、そんな愚かなことはしません。

 軽い足取りで三階まで階段を上って自室へ入ると、クローゼットから一番豪華で、一番気に入っている青いドレスを取り出します。そして若い侍女の手を借りて着替えました。


「鮮やかな青が、なんてお似合いなんでしょう。本当にお綺麗ですわ」


 侍女の言葉に、私はうなずきました。がらりと雰囲気が変わって、なんだか生まれ変わったような気分です。

 次の瞬間、舗装された高級住宅街の道を、凄まじいスピードで駆けてくる馬車の音が聞こえてきました。窓辺へ行くと、一台の馬車がどんどん近づいてくるのが見えます。

 すぐに馬車は我が家の敷地に入り、速度を緩めました。完全に止まる前に、飛び降りてくる少年の姿があります。

 バーナード様の弟、十四歳のエドモンドです。赤毛と緑の瞳、誠実そうで端正な顔立ちが、婚約当初のバーナード様の絵姿にそっくり。

 彼に続いて馬車から駆け下りてきたのは、やはり赤い髪と緑の目で、いかにも公爵らしい威厳に満ちたゲオルク・テイラー公爵。

 そして琥珀色の髪と瞳の美女ユリアナ・テイラー公爵夫人。絢爛たるドレスが実によく似合っています。

 お二人とも顔に焦りの色が浮かんでいますが、身のこなしは相変わらず優雅です。

 テッドが御者をする二台目の馬車から、エリスも下りてきました。私は小さく笑みを浮かべ、自分の部屋から出ました。そして軽やかな足取りで階段を下りて、玄関ホールへと向かいます。

 執事の出迎えを受けていたテイラー公爵が、私の姿を見て慌てて前に進み出ました。


「イブリン! サトフォード伯爵未亡人の話は……まさか、本当なのか?」


 サトフォード伯爵未亡人というのはエリスのことです。


「ええ、本当です」


 私はにっこり笑いました。

 公爵の後ろでエドモンドが、バーナード様と同じ緑の目を大きく見開きます。まじまじと私の青いドレスを見つめているところを見ると、いつもとは違う、ただならぬ雰囲気を感じ取ったのでしょう。


「父と母が、応接室で首を長くして待っておりますわ。さあ、こちらへどうぞ」


 私は皆さんを応接室へご案内しました。

 父と母は、部屋に入った瞬間にそれとわかる怒りを身にまとっておりました。極めて細かく計算された演技に違いないのですけれど。

 しかしテイラー公爵夫妻の狼狽ぶりは凄まじいものでした。父も母も普段は穏やかですが、一旦怒り出すと相当怖く、厄介だということをご存じなのでしょう。


「も、申し訳ないミルバーン公爵……。バーナードめ、十二歳からイブリン嬢と婚約しておきながら、なんということをしでかしてくれたのだ……!」


 テイラー公爵が震える声で謝罪します。

 両親が鋭い目つきで公爵夫妻を見ました。


「ほ、本当にすまない!」

「どうかお許しくださいませ……っ!」


 父と母の静かな怒りに、テイラー公爵もユリアナ様も震えずにはいられないようです。彼らは深々と頭を下げました。


「まったくバーナードらしくない。きっと、ただの気まぐれだ。一時の気の迷いなんだ!!」

「ええ、ええ、そうですとも。あの子ならば、すぐに正気を取り戻しますわ!!」


 顔を上げたお二人は、大袈裟な身振りで話し始めました。まるで自分たちに言い聞かせるかのようです。


「バーナードに限って、理性が欲望に負けることはないと思っていた。しかし、若い男というのはそういうものだろう?」

「ええ、ええ。遊びに夢中になっているだけなんです。しばらく好きにさせておけば、飽きるに決まっていますわ」


「ふむ、やはり庇うか。いくら可愛い愛息子とはいえ、バーナードは高貴な血を平民と混ぜ合わせた、八大公爵の面汚しだというのに!」


 凄まじい怒りの形相で父が立ち上がります。こんな風に感情を爆発させる父を、私は初めて見ました。


「若い男はそんなもの? 確かに、愛人を持つのは非常に貴族的なことではある。相手が同じ貴族の未亡人なら、だが。それなのにバーナードが選んだのは平民だ。イブリンにとってこれ以上の屈辱や侮辱があるだろうか」


 父が冷ややかに言い、さらに言葉を続けます。


「この私が、バーナードのような前代未聞のろくでなしに、大切なイブリンをくれてやると思うのか!?」


 父の怒りの声は、窓ガラスも破壊しそうなほど。驚きのためか恐怖のためか、ユリアナ様は卒倒してしまいました。

 エドモンドがテッドの手を借りて、ユリアナ様をソファに寝かせました。エリスが気つけ薬を取り出し、鼻の下に押し当てます。


「ミルバーン公爵。ま、まさか……」


 テイラー公爵の顔がさっと青くなりました。


「婚約を破棄して、結婚式を中止するつもりか。そんなことをすれば国中を巻き込む騒動になるぞ。貴殿も宰相ならば、結婚式の経済効果を無視することはできないはずだ。中止による損失も。国民にとっては、王族の結婚とほとんど同じなのだぞ!」


「確かに、それはもう大惨事だろうな。しかしいくら国のためとはいえ、バーナードのような男と結婚しろとは酷い話ではないか?」


 父がテイラー公爵を睨みつけました。


「結婚式を中止にすれば、国王様の怒りを買うことは間違いない。宰相としての私の株も下がるだろう。イブリン自身も、平民に婚約者を奪われたという不名誉を公にしなければならない。それでもバーナードからの侮辱を、うやむやに済ませることはできない」


「む、娘が傷物になるぞ。悪いのはうちの息子とはいえ、社交界の連中は噂話が大好きだ。ことに今をときめくイブリン嬢の話題となったら、目の色を変えて飛びつくだろう。あることないこと、尾ひれをつけて噂するに決まっている!」


「私はイブリンを厳しくしつけてきた。常に誇り高く、泣き言や愚痴をこぼさず、どんな困難に出会おうとも負けてはならないと。おかげであらゆる面で完璧な娘に育った。他人から悪く言われることくらい耐えられる」


「ま、待て、待ってくれ!」


 テイラー公爵が叫び声を上げました。

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