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「誠実なわけじゃなく、皆と同じことが嫌いだったってことだね」
フレデリック様が吐き捨てるように言い、低い声でさらに付け加えます。
「バーナードは平民の娘を相手に、まったく新しい恋物語の主人公になりたいのさ」
強張った表情、強い目の光、すべてがフレデリック様の怒りを如実に表しています。
「宰相と違って、私はあいつにうさんくさいものを感じていたよ。剣や狩り、乗馬、球技、何をやらせても上手いが、本質的にスポーツマンシップに欠けていたからね」
フレデリック様は父のことを宰相と呼びます。
国王様に忠実に仕えている父、王妃様の親友である母、気を許せる友達のレイクン、そして姉のように慕っている私。ミルバーン公爵家が踏みにじられるのは、フレデリック様が最も忌み嫌うことなのです。いつもこっそり屋敷を訪ねてこられるので、社交界ではあまり知られてはいませんが。
フレデリック様が、バーナード様をあまりよく思っていないことは知っていました。私の婚約者だから、嫉妬と羨望を抱かずにはいられないのだそうです。癇に障るとも言っておられましたっけ。
しかしさすがは我が国の王太子様、私たちが気づかなかったバーナード様の腐敗した部分を、本能的に察知していたようです。
「どうして私の娘に、そんな仕打ちができるの……」
いつもは気丈な母が、ハンカチを目に押し当てました。
「旦那様が私にそうしてくださるように、バーナードにはイブリンひとりだけを愛してほしかった。あの男が悪魔の心を持つ獣だと、もっと前にわかっていたら……平民より下に扱われるなんて屈辱を受けずにすんだでしょうに」
「結婚式を取りやめるのが難しい今になって発覚するとはな」
父は困ったような顔で、母の肩を抱きしめました。
「いくらバーナードが悪くとも、世界中の貴賓が出席する結婚式を中止となれば我が家の面目は丸つぶれ。その上奴は、自分が平民に走った原因は全てイブリンにあると喧伝するだろう」
「不公平だけれど、傷者になるのはいつだって女の側ですものね。社交界の人々がどんな風に忍び笑いを漏らし、どんな当てこすりを言うか、容易に想像できるわ」
両親が同時にため息をつきます。
「だからって僕は許せないよ! 広い心で平民の娘を受け入れ、イブリンが自ら愛人教育するだって? そんなの、死んだ方がましなほど惨めな人生じゃないか!!」
レイクンが悲鳴のような声を上げました。
「殺してやりたいほどバーナードが憎いよ。今こそ神様が助けてくれたらいいのに……!」
そう叫んでから、レイクンは頭を巡らせてフレデリック様を見ました。
「恋愛小説の中ではこういうとき、バーナードより身分の高いヒーローが姿を現すんだ。そしてイブリンに妻になってくれと頼むんだよ。ああ、フレデリック様が十年早く生まれていてくれれば……っ!」
レイクンの部屋の書棚にそんな類の小説が数冊あったことを思いだし、私は苦笑しました。荒唐無稽ではあるけれど、貴族の習慣や社交界についての描写が実にリアルで面白いと言っていましたっけ。
フレデリック様がじっと私を見つめます。
「イブリン、私だってレイクンと同じ気持ちだよ。バーナードより身分が上の男じゃなきゃ君を無傷で救出できないもの。一気に年を取る、何か魔法のような方法があればなあ。あの男と平民の娘をぎゃふんと言わせて、一生二人で幸福に暮らすのに」
父がまた、指先で眉間を揉みほぐしました。
「おとぎ話はさておき。現実的にすぐ知る必要があるのは、テイラー公爵夫妻がどう出るかだな。バーナードが思うほど親馬鹿ではないはずだ。あの夫婦もまた、家の名誉が何よりも大切なはず。子どもより、自分自身よりね。守るためなら……平民の娘を消すことくらいは平気でするだろう」
フレデリック様がうなずきます。
「やるだろうね、ミルバーン公爵家の怒りを鎮めるためにも。あの家のそういう話を、私はいくらでも知っている。だが王都は私たち王家の縄張りだ。いくら八大公爵家とはいえ、王都の民に手出しされるのは大いに問題がある」
私は椅子の上でぴんと背筋を伸ばしました。
「私は決して、そのような解決方法を望みません。違う意味でミルバーン公爵家の名に傷がつきますから」
レイクンが弾かれたように立ち上がります。
「さんざん侮辱されたのに、簡単に忘れられるの!? アーティとかいう娘はどれだけ罰せられても文句は言えないはずだよ!」
私とフレデリック様は、ほとんど同時に「レイクン」と諭すような口調で呼びかけました。姉と王太子、人を威圧する威厳と風格がよく似ている二人に見つめられて、レイクンがしょんぼりつぶやきます。
「そりゃ僕だって、死んでくれとまでは思わないけど……」
私は立ち上がりました。私のために動揺し、屈辱感でいっぱいになっている弟の頭を撫でるためです。
「絶対に憎むことになるはずの相手と結婚して、その上愛人教育まで。イブリンがそんな生活を送るなんて、僕はとても我慢できない」
レイクンは涙声で言い、私の肩に顔を埋めました。
「イブリンを守るためなら、僕はなんだってする。一緒に修道院に駆け込んだっていいし、外国に逃げる手もある。そりゃあ家の名誉は傷つくし、社交界のお喋り雀たちの格好の話題になるだろうけど……」
「ありがとうレイクン。でも私、逃げ出すことは考えられないの」
「どうしてさ。バーナードに利用されるより、逃げる方が得策じゃないか」
「だって逃げたら、あの男をあっと言わせられないじゃない? 」
レイクンが顔を上げ「どういうこと?」と目をぱちくりさせました。
馬車の中からずっと私の真意を知りたがっていたエリスとテッドも、熱いまなざしを向けてきます。
「私ね、バーナード様と話している途中から、頭の中で考えていたの。結婚式を中止しないでいいけれど、あの男と祭壇で誓いを交わさずに済む方法を」
「ごめん、意味が分からない。土壇場で誓いの言葉を言わないってこと?」
「それじゃ式は中止になっちゃう。どうあってもミルバーン家の娘は、テイラー家の嫡男と結婚しなければならないわ」
「えーっと、だから?」
小首をかしげるレイクンの頬を、私は優しく叩きました。
「だから、あの娘を我が家の養女にするの。家名へのダメージを最小限に抑え、私を最悪の運命から救うためにね」
「何だってっ!?」
レイクンが飛び上がりました。エリスが目を見開き、テッドの体がわずかに揺らぎます。
フレデリック様が「荒唐無稽だね」と面白そうにつぶやきました。
「でも、君が一度決心したら、誰にもその心を変えさせることはできない」
さすがフレデリック様、私の頑固さをよく知っています。彼自身も少なからず頑固ですから、相通じるものがあるのです。
「しかしイブリン、平民の娘をうわべだけ金ピカにするにしても、問題が山積しているぞ。公爵家の養女になるには、男爵・子爵・伯爵・侯爵と複数の段階を経る必要がある。そうでなければ王家は許可を出さない」
「わかっております。男爵家レベルならお金で何とかなるにしても、それ以上の貴族となると受け入れ先を探すのが難しいでしょうね。でも、何とかしますわ」
「妊娠を表に出すわけにもいくまい。アーティとかいう娘のお腹が目立つようになるまで、猶予が何カ月ある?」
「体質にもよりますが、せいぜい三か月程度でしょう」
「さすが、慈善事業に熱心なだけあって詳しいね。しかし三か月で、受け入れ先の貴族たちが満足するマナーを身に着けさせることができるかい? 淑女教育は愛人教育とはわけが違うよ?」
「随分向こう見ずだとは思いますけれど、やってやれないことはありません。この私が淑女教育の指揮を執ります。養子縁組の手続きも、最後を飾る結婚式も、立派に乗り切らせてみせますわ」
私はにっこり笑いました。三か月後の結婚式は、今年の社交シーズンで最も格式の高い催しです。
「すべて計算済みか。やっぱりイブリンは並の令嬢ではないね。何をやっても超一流、必ず成功するだろう。あーあ、君なら本当に私と釣り合うのに」
フレデリック様が唇を尖らせます。それから何か思いついたように目を輝かせました。
「ねえ、これってバーナードに対する秘かな復讐じゃないかい? 君が手本となれば、勢いアーティは君の複製になる。つまり、あの男の好みとはかけ離れてしまうわけだ」
私は小首をかしげて見せました。
「アーティの魂まで変わるわけではありませんし。それに汚れのない純粋な至高の愛、真実の愛があるのですもの、所作が私に似るなんてささいなことでは?」
父と母が顔を見合わせ、ほとんど同時にうなずきました。
「この状況であれば、許可するしかないだろうな」
「イブリンを行動的な娘に育てたのは、この私たちですものね」
「私たちが怒って見せれば、テイラー家側は反対しないだろう。アーティを我が家の養女として、そしてバーナードの正妻として恥ずかしくないようにするには、相当厳しい教育が必要だ。さしずめ、善意で舗装された地獄への道と言ったところか。お腹の子によくないだろうが、耐えて貰わなくてはならんな」
「若くて、うぶで、無知な平民の娘。前途に何が待ち受けているかも知らずに、我が家に足を踏み入れる……淑女教育という地獄の中で、ゆっくり後悔するといいのだけれど」
物騒なことを言う両親に、私は苦笑せざるを得ませんでした。