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「私の名前も身分も伏せていたから心配いらないが……。ええっと、ベティは町医者の娘だったかな。王立病院の付添婦をしていたノラと、農夫の娘のリタ……後は誰がいたっけ。そうそう、孤児院育ちのポレットだ。慈善活動の一環として面接してみたら、アーティに似ていたんだ」
「ポレット……?」
私の耳に届く程度の、小さな小さなつぶやき。手の下のアーティの肩が、強く強張るのを感じます。
かつて私は男装をして、王都の片隅にあるハロッド村の孤児院を訪れました。アーティが赤ん坊の頃から暮らした場所です。
そこで出会った、ポレットという名前の十六歳の娘。彼女はすぐに空想の世界にのめり込むアーティのことが大嫌いでした。
そうそう、ポレットは男装をした『僕』にひと目惚れし、アーティに誘惑されないように気を付けてと何度も言っていましたっけ。
アーティのことは嫌いだけれど、同じ孤児院で育った家族だから情はある。彼女が困ったら助ける。ポレットがそんなことを言っていたので、テイラー公爵に渡した職業斡旋所の一覧の中に、孤児院の資料も混ぜておいたのです。
「……アーティとポレット、どういうところが似ていましたの?」
アーティの言葉に、バーナード様が「んー」と考える表情になります。
「ひと言で言うと『押しの強さ』かな。瞳に星を浮かべて、じっと見てくるんだよ。わざとらしく転んだり、ぺろりと舌を出したり、脈絡のない笑い声を上げたりさ。きょとんとした顔がわざとらしくて、辟易したよ」
バーナード様の貴族らしい深みのある美声。優しさのかけらもない、底意地の悪い微笑。
ああアーティ、全部あなたもやったことだけに、なおさら追い詰められた気分になるでしょうね。
「……まったくの恥知らずですわね」
「同感だよ。ポレットのおかげで気づいたんだ、あれが平民の孤児の手練手管なんだって。無垢で純粋に見えるから質が悪い。アーティに夢中になったのは、単に物珍しかっただけだと痛感した」
「それで平民の孤児に──アーティとお腹の子供に、価値などないとお気づきになったのね」
「その通りだ」
バーナード様がうなずきます。
「イブリン、私が悪かった。本当にどうかしていたよ。私は三か月間、魔が差した事実に正面から向き合い、心から反省したんだ。多少は遊んだけれど──それだって、確認のために最も適した方法だったからでさ」
「何を確認なさったの?」
「私とイブリンはぴったりの組み合わせだってことさ。お互いに八大公爵家という名誉ある家柄で、莫大な財産と影響力を持っている。私と対等だ。あらゆる面で完璧すぎて、女の分際で生意気だと思ったこともあるが……やっぱり、身分に相応しい相手が一番だ」
バーナード様は組んでいた足を解き、椅子から身を乗り出すようにして前傾姿勢を取りました。
「思い知ったんだ。アーティの代用品はいくらでも見つけられるが、イブリンの代わりは簡単には見つからない。平民を愛人にすることに、もはや何の意味も見いだせないよ」
一見すると真摯な表情。けれど中身は、根っからのろくでなし。バーナード様の裏切り行為は、アーティの胸をずたずたにしたことでしょう。
それでも彼女は自制心を失わず、自分の感情を隠しています。椅子に座ったまま身じろぎひとつしません。
ああアーティ、酷い仕打ちを受けたのに、よく頑張っているわね。
でもアーティ、どんなときにも品位を保っているのは、簡単なことじゃないでしょう? 苦しいでしょう? 自制心を身に着けるのも、良いことばかりじゃないのよ。
感情的に泣ける方がよっぽど楽だものね。
「アーティとお腹の子どもの処遇は、どうなさるおつもり?」
バーナード様は「ああ」とうなずきました。
「生かしておくと火種になるからね。アーティも腹の子も、速やかに始末する」
そうしない方が恥知らずであるかのように、まったく正しい行為であると確信しているかのように、バーナード様はこともなげに言い放ちます。
私の手の下のアーティの肩が、かすかに震えるのを感じました。
「まあ。犯罪者になるおつもりですの?」
バーナード様は「ははは」と、腹の底からさもおかしそうに笑います。
「平民には禁じられていても貴族なら許されることくらい、イブリンだって知っているだろう? 八大公爵家の人間が罰を受けることはない。死んだ馬糞係のことなど、誰も気にかけやしないさ」
笑い続けながら、バーナード様はひらひらと右手を振りました。
「お抱えの精神科医に、アーティを頭のおかしい女に仕立ててもらうこともできるよ。檻付きの病院で、死ぬまで幽閉生活を送らせてもいい」
ああ、バーナード様。
ある意味で、あなたは私の期待以上でしたわ。
公爵家嫡男の皮を被ったごろつき。誠実さのかけらもない最悪の悪党。
でも、お生憎様。アーティに対する生殺与奪の権利は、もはやあなたにありませんの。
「どうしたんだい、イブリン。アーティに情が移ってしまったのかい? 私たちの幸せな未来が危ういとあっては、手段を選んでいられないよ?」
アーティは白のレースの手袋をした両手を、腿の上できつく握り合わせました。指の震えを隠すためでしょうか?
それとも──あの日の私のように、笑いをこらえるため?
「こんな男のために……」
小さな小さなつぶやき。
けれど、万感の思いをこめたつぶやき。
悲しみ、憎しみ、苦しみ、怒り、恨み、恐怖──あらゆる負の感情を濃縮したつぶやき。
今のアーティを支えているのは、ウォーレン男爵家の、ブレント子爵家の、ジェンセン伯爵家の、ハービソン侯爵家の、そしてミルバーン公爵家の養女という誇りとプライドだけ。
「ん? 何か言ったかい?」
「いえ。羞恥心や自責の念が微塵もない人間は、こうも醜いのだと思い知っただけですわ」
アーティの声は冷ややかで、超然としていました。
私と同じように何があっても動じず、決して感情におぼれたりしない、落ち着いた物腰。本当に素晴らしいわ。
ああ、アーティ。
『こんな男のために』また一段階上のレベルに到達したわね。
やっと私に近い場所まで登ってきてくれた。
いえ、落ちてきたの方が正しいかしら。
いずれにせよ、しかるべき時が来たのよ。
私はアーティの肩に置いた手にぐっと力を込めました。そして静かに口を開きました。
「アーティ、わかっているわね? ミルバーン家の娘が涙を流してもいいのは、ベールで顔が隠れている間だけよ」
アーティが息を呑みます。
あの日。
私の人生が根底からひっくり返ったあの日。
平民のあなたにこけにされたあの日。
この私ですら、扇で顔を隠したわ。本当の表情は誰にも見せなかった。
だからアーティ、あなたも今だけは許してあげる。
「アーティ? え、イブリン?」
バーナード様の目が泳ぎます。イブリンだと思っている女性の横に、ひっそりと立つ女から発せられた言葉の意味をはかりかねているのでしょう。
「おい、どういうことだ?」
「こういうことですわ」
私は己のベールをめくり上げました。
太陽の光にそっくりな金色の髪、笑みの形の唇、アーモンド形の澄んだ青い目。三か月やそこらで忘れたわけではないでしょう?
「イ、イブリン!?」
バーナード様が弾かれたように立ち上がります。
「どういうことだ? じゃあ、こっちのウエディングドレスの女は──」
私はバーナード様の言葉を遮るようににっこり微笑みます。
「貴族の風上にも置けない外道は、黙っていてくださいな。今は見下げ果てた男の相手をするよりも大切なことがありますの」
「なんだとっ!?」
バーナード様が一歩前へ踏み出します。
そして彼は次の瞬間、音もなく後ろから伸びてきた腕に捕らえられました。
「お静かに」
テッドがバーナード様の首筋に短剣をあてがいます。
私はふふ、と笑いました。
「動いたり喋ったりしないでくださいね。うちのテッドは容赦なく徹底的にやりますから」
「ぅ……ぁ……」
バーナード様は死にかけた金魚のように、無様に口をパクパクさせます。
「アーティ、立ちなさい」
私が命令すると、アーティの肩が大きく上下しました。ひと呼吸おいてから、彼女は美しい所作で立ち上がります。
私は真正面からアーティと向き合い、そっと彼女のベールに触れました。
ゆっくりとベールを上げます。
アーティの顔が露わになったと同時に──私は、心の穴を封じていた蓋が開くのを感じました。
思い出さないようにしていた記憶。
あの日、私が感じたすべて。
不安。恐慌。絶望。屈辱。心が潰れるほどの悲しみ。そして、恐ろしいほどの怒りと憎しみ。
封印していた感情が一気にほとばしり出てきます。
「イブリン様……」
「アーティ……」
私たちは目と目で見つめ合いました。
同時に、魂と魂で。
私たちだけが同じ空間にいました。他の誰の姿も見えません。
わかっています。これは現実ではありません、幻影です。
でも、もしかしたら──私たちの心が繋がったからかもしれない。
私は目を閉じて深呼吸をしました。
天と地ほどもかけ離れていた私たちが、ついに同じ境地に達したのです。
辛抱強く、血のにじむような努力を重ねてアーティを仕込んだのは、今この時のため。
タイミングは完璧。
こんなチャンスはもう二度とこない。
「ねえアーティ。私がどんな気持ちだったか、ようやくわかったでしょう?」
私はにっこり笑いました。
「私が感じたすべてをあなたに教えるために、今日まで頑張ってきたのよ。屋敷にやってきたばかりのあなたは、陸に上がった魚よりもっとひどかった。私にはない欠点ばかりだった。そんな娘に、私の本当の気持ちが理解できるわけがないじゃない?」
私はさらに笑みを深くしました。
「でもあなたは、身も心もすっかり洗練された。それなのにあなたの愛する人は、あらゆる面であなたより下の女性に手を出したのよ。あなたの現状を知らなかったとはいえ、ね」
アーティが両手に顔を埋めようとします。
私はその手を掴み、無理やり目を合わせました。
「屈辱的でしょう? 溶岩のような熱い怒りが全身を駆け巡るでしょう? 自分の全世界が目の前で崩れていくような気がするでしょう?」
手っ取り早い復讐。
言葉だけの謝罪。
私にそんなものは必要なかった。もっと重い罰を与えたかった。
「バーナード様が本当にあなたを愛していたらこうはならなかった。でも私は最悪のシナリオを想定していたわ。だって、私との新居でこそこそ逢引きし、私のために仕立てられたドレスを着せるようなけち臭い男なのよ?」
私が教えた、アーティの上品な表情──その仮面に亀裂が入りました。
「そもそも誠実にあなたを愛している男なら、危険のない逢引き場所を選ぶはずでしょう? あなたのためのドレスを買ってくれたはずでしょう?」
私は小馬鹿にしたような笑みを浮かべました。アーティの中にあるバーナード様との思い出も、ちゃんと壊しておかなくてはね。
「わかるわね、アーティ」
私はアーティの頬に両手を添えました。
完璧な化粧が施されていたはずのアーティの顔は、流れ落ちた涙によって薄汚れています。これはベールを被っていた時の涙ですね。
「あなたは最初の時点から愛されていなかったの」
自由になったアーティの腕が、だらりと垂れ下がりました。
アーティの瞳に、新たな涙が浮かびます。けれど彼女は、その涙がこぼれ落ちるのを必死にこらえている。ミルバーン公爵家の養女としてはぎりぎり及第点ですね。
幻覚の中で、アーティの足元の地面が完全に割れました。彼女の体が穴の中へ滑り落ちていきます。
恐ろしい黒い穴。
底なしの穴。
アーティがそこから這い出てくることは絶対にない。
「ひとつ願いが叶ったわ」
私は晴れ晴れと笑いました。
復讐が成就するまで、もうあと少しのところまで来ています。