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「最近、フレデリック様が来ないな」


 アーティが伯爵令嬢になって一週間が過ぎたころ、レイクンがそんなことを言いだしました。


「お見合い希望者が後を絶たない状況なのに逃げ回っていらっしゃるから、しびれを切らした国王様と王妃様に外出禁止を言い渡されたのかもしれないわね」


 私は書類にペンを走らせながら答えました。

 アーティは実践的・体験的な学習のために外出中。既製品のドレスではなく、ルネド通りの高級服飾店に特別料金を支払って三日で仕立ててもらったドレスを着て出かけていきました。


「八大公爵家に、十四歳のフレデリック様と適当な年齢差の令嬢がいないし。十歳以下の娘を持つ侯爵は皆、たんまり野心を持っているんだろうなあ」

「その点は疑いようがないわね」


 特別な存在である八大公爵家を除けば、侯爵は最高位の貴族。彼らの心の中には八大公爵家への対抗意識があります。

 王太子妃に相応しい八大公爵家の令嬢がいない場合、他国の皇女や王女を迎えることもあります。しかしたいていは侯爵令嬢が王太子妃になる。

 近い将来、フレデリック様はいずれかの侯爵家の令嬢を選ぶはずです。

 ちなみに王太子妃になるには、国内外の貴族から五名の『保証人』が必要となります。彼らはその令嬢の能力を王家に対して保証しなければなりません。責任重大ですね。


「王太子妃候補の筆頭は、ケンダル侯爵の八歳の娘らしいわ」


 私の言葉に、ソファに座るレイクンがため息をつきます。


「小説の世界ならヒーローはしきたりから解放され、年上のヒロインと結ばれるんだろうけど」

「現実では、何らかの奇跡が起きない限り無理でしょうね」


 私は書類に目を走らせながら答えました。


「披露宴の席順、こことここは変えた方がいいわね」

「二日目夜のやつ?」

「ええ。テイラー公爵は人をえり好みするし、敵も多いから、席順にも気を遣うわ」


 私は指先で眉間を揉みほぐしました。結婚式の日は昼と夜の二回、披露宴が行われます。しかもそれが三日間続くのです。


「八大公爵家のテイラー公爵令息とミルバーン公爵令嬢の結婚式は、今シーズン最大のイベントだもんなあ」

「ええ……」


 私はため息をつき、目を閉じました。

 頭の中で鐘が鳴り響き、聖歌隊の歌声が聞こえます。


 大聖堂の会衆席は着飾った人々で埋まり、祭壇は花で埋め尽くされ、外では王都の民が喝采を送っています。まるでお祭り騒ぎです。

 無事に結婚式を終え、パレードに出発する新郎新婦。四頭の白馬に引かれた馬車、雨あられと降り注ぐ祝福の言葉。従者が花や菓子やコインを投げ、縁起物をもらった人々は喜びに湧き返り……。


「バーナード様の顔が浮かんでしまったわ。思い出すだけの値打ちもない男なのに」


 私は顔をしかめました。

 アーティが土足で──泥まみれのブーツで私の人生に入り込んでこなければ、私はバーナード様と結婚していたでしょう。

 結婚後にアーティとの浮気が発覚したところで、彼は己に非があると認めないに決まっています。その場合、離婚には大変な労力を要する。苦労して離婚したところで、悪いのは私だと非難されるだけ。


 貴族の男性が不貞行為を働いても、基本的には無罪放免。貴族社会は男性優位ですから仕方がありません。国王陛下には公妾がいますし、愛人がいる紳士も多い。


(夫が遊びを遊びと心得ている限り、外で何をしようと気にしない。それこそが最高の妻。私も……相手が同じ貴族の未亡人や高級娼婦なら、目をつむることができたのかしら……)


 私はふうっと息を吐きました。


(いえ、やっぱり許せないわね。八大公爵家の令嬢たる私をこけにするなんて)


 人生でただ一度と思っていた婚約は、大失敗に終わってしまった。立派なテイラー公爵夫人になるための努力はまるっきり無駄になってしまった。


(過去を振り返るのも感傷に浸るのも、私らしくないわ)


 私が目を開くと、レイクンがすべてを見透かしたような表情で微笑んでいます。


「アーティはピクニックに行っているんだっけ?」

 私の感情の揺らぎに敏感なのに、レイクンは深く聞いてこない。感謝しつつ私は答えました。


「ええ、親友たちと一緒に。侯爵令嬢のテストまでに様々な『実践学習』をしないとね」


 先生方はもちろん、信頼できる親戚筋の青年貴族が何人か同行していますから、上流階級特有の知的な会話を学んでくるでしょう。

 なにしろ侯爵令嬢になったらすぐに社交界デビューです。

 人前に出る以上は、常に全方位から『見られている』という意識を持つ必要がある。練習期間に失敗してもなんら恥ではないですから、たくさん経験を積ませなくてはね。


「あいつ、最近少し性格が変わったよな」


 レイクンが宙を見ながら言います。


「ほら、あいつって厚顔無恥の権化っていうか、凄く視野が狭かったじゃないか。自分のことで頭がいっぱいっていうか」

「確かに、周りが迷惑を被ろうと気にしないタイプでなければ、略奪愛なんかできないわね」


「僕の目から見て、最初の頃のアーティは怪物じみていた。イブリンから婚約者を奪っておきながら、当のイブリンに面倒を見て貰うことにまったく疑問を感じていなかったろう? 屈託がないと言えば聞こえはいいけど、尋常じゃないほど図々しくて面の皮が厚かった」


 私は書類に目を戻して「その通りね」と答えました。

 レイクンはソファに深くもたれかかって脚を組みます。


「一生そんな調子だと思ってたんだけど。イブリンと過ごす時間が増えて、なんかちょっと変わってきたなあ」


 私は「そうね」とつぶやき、書類に没頭するふりをします。

「レイクン、あなたはそろそろ『例の作業』に戻らないと」


 私の言葉にレイクンが「ああ……」と頭を抱えました。


「イブリンのためなら何でもするって言ったけどさあ……」

「『面倒なことは僕が代わりにやるから、イブリンは雑念をすべて手放して、淡々と仕事をこなしてくれ』とも言ってくれたわよね」


 私がにっこり笑うと、レイクンはしぶしぶといった風に部屋から出ていきました。彼には先日私が思いついた新たな計画に協力してもらっているのです。


 私は書類を置き、少しぬるくなったハーブティーを口に運びます。


(確かにアーティは変わってきているわ。やはり『私』を見せるのは最高の教育法だった)


 アーティはこれまで、自分が知らない、理解できない、馴染みのない世界に住む人間の気持ちなど考えもしませんでした。あの娘にとっての私は小説の中の『その他大勢の登場人物』と同じで、血の通った生身の人間ではなかった。

 感情をまったく持たない人間なんて存在しない。たとえ私がそう見えたとしても──それはただ感情を隠すのが上手いだけで、心の奥底に色んなものを抱えている。


(そのことに、アーティが自分で気づかないと意味がない。そうでなければあの娘は、自分がどれほどのことをしたか一生わからないまま)


 これまで知らなかった私の感情を知ったら、あの娘はどんな反応を示すでしょうか。

 私はそれが知りたいし、知ることのできる日は着実に近づいています。



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