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「言い訳する気はないさ。私にまったく顧みられていないとなれば、君自身の名に傷がつく。イブリンだって、社交界の人々の好奇心がどんなに強いか知り抜いているだろう。君が私に愛されなかった、それ相応の理由があるはずだと噂するに違いない。絶望的なまでにみじめだと思わないかい?」
「確かにそうした噂は、一陣の風のように社交界を駆け巡るに違いありませんわね。でもバーナード様ご自身も逃れる術はありませんわ。ミルバーン公爵家に好意的な貴族たちから、さんざんこき下ろされるのではないかしら」
「反論の余地はないだろう。しかしねイブリン、男の醜聞と女の醜聞とは、まったく別のことだよ。ことが公になって困るのは、やっぱり君の方さ」
「脅しはやめてくださいな。平民であるアーティさんへの愛と誠意を貫くため、この私を徹底的に利用したいと、正直におっしゃったらいかが?」
バーナード様が一瞬、ばつの悪そうな顔になりました。アーティは呆然とした表情で、私とバーナード様を交互に見ています。
私は扇をずらし、にっこり笑いました。
「どうかご心配なく。婚約破棄などという、はしたない真似はいたしませんから。私だけではなく、我が一族全体の評判に関わりますし」
「それを聞いて安心した」
バーナード様が安堵の表情を浮かべます。高位貴族らしい、狡猾で抜け目がなさそうな顔でもあります。目に浮かぶのは勝利感でしょうか。
「しっかり教育されてきた君なら、夫が愛人を抱えることくらい目をつむれるだろう」
「そうですわね。たしかに、私は物心ついた時から、バーナード様にどこまでも従うようにと教えられて育ちましたわ。どのようなことがあっても公爵夫人としての矜持を持ち続けるように、と」
「さすがミルバーン公爵ご夫妻だ」
「とはいえ、私が産まず女として別荘に閉じ込められるなんて、いくら私の両親でも想像もしていないでしょうが」
「それは……私はアーティを愛しているから、絶対にイブリンのことは抱けない。君は君で、いくらでも愛人を作って好きに生きればいい。貴族社会ではよくあることだ」
私は扇に隠れて苦笑しました。よくあることとはいえ、結婚前からこのような立場に追い込まれて悔しくない女がいると思うのでしょうか。
ええ、私だって悔しいのです。十三年もこんな馬鹿の婚約者だったのかと思うと。
しかし私たちの結婚は国家の重大事。バーナード様の言う通り、婚約を破棄すれば方々から非難を招き寄せかねない。
ふと、ある計画が胸に浮かびました。成算があるか、素早く考えてみます。
「わかりましたわ」
私はぱちんと扇を閉じました。
「結婚前に知ることが出来て、却ってよかったかもしれません。私とて貴族ですから、家と家との繋がりが最も大切ですわ。ですが少しでも私にすまないとお思いなら、二つほど希望を聞いて頂きたいの」
「希望?」
バーナード様が眉を吊り上げました。普段はその動作ひとつで人を威圧できるのでしょうが、私には通用しません。
「ええ。まずひとつ目、アーティさんのことをテイラー家、そして我がミルバーン家に伝える役目は、私にやらせてくださいませ。そして二つ目──アーティさんの愛人教育ですが、私に任せてください」
「アーティの教育を君に? そんなことできるわけがないだろう、彼女の身に何かあったら……」
バーナード様の顔に、信じられないといった表情が浮かびます。
「あら、それこそ侮辱ですわ。昨今ではほとんど聞きませんけれど、愛人教育は正妻の義務。踊り子だろうが歌手だろうが農民だろうが馬糞係だろうが、公爵家の愛人として恥ずかしくないよう教育するのは、私の役目です」
「し、しかし……」
「バーナード様は、アーティさんが平民丸出しのままでよいとおっしゃるの? 私が知った限りは、もう彼女を隠している必要はないと言っているのですよ。愛人として堂々と屋敷に迎え入れてくださいませ」
バーナード様は黙り込み、何かを考えているようです。貴族としての分別があるなら、私がアーティを教育した場合の数々の利点を計算できるはずです。
金を積んで男爵家あたりの養女にしたとしても、すぐにアーティが社交界に受け入れられるはずもない。しかし私が後ろについていれば、大きく手を広げて迎え入れてくれる貴族が増えることは間違いないのですから。
私はアーティを見てにっこり微笑みました。
「平民のアーティさんには、貴族の愛人教育など耐えられないかしら?」
「で、できます! アタシ、バーナードのためならどんなことでも耐えてみせる!!」
黙り込んでいたアーティが突然立ち上がりました。
「そ、そのかわり、アタシが立派な愛人になったら……あなたに、すぐに……」
「ええ。その暁には、潔く新居の女主人の座を譲りましょう。アーティさんが頑張れば、その日は思いのほか早く訪れるかもしれなくてよ」
考え込んでいたバーナード様が口を開きます。
「君は本当にそれでいいんだな」
「もちろんですわ。ああ、希望がもうひとつございました。アーティさんはひとまず、トルロー侯爵未亡人の屋敷にやってください。まさかこの寝室を使わせるわけにもいきませんから」
「大伯母様のところへか。わかった、君を傷つけたせめてものお詫びだ」
お詫びですって! 私はまた扇を開き、こっそり笑いました。その程度で詫びになると思うのなら、本当に舐められたものです。
バーナード様が、テーブルの上の銀の鈴を鳴らします。執事が鈴に応えて姿を見せました。
「トルロー侯爵未亡人のところへ、今すぐ使いを出せ。私の愛人をひと晩預かってほしいと。そして大急ぎで、アーティのための馬車の準備を整えろ」
「その馬車は裏口に回してくださいな。いつものように、ね」
私が付け加えると、バーナード様がぴくりと眉を上げましたが、反論はなさいませんでした。
「は、はい」
執事が立ち去ると、バーナード様はアーティの椅子の前に回り込み、まるで王子様のようにひざまずきます。
「アーティ、真の愛の前に立ちはだかる障害などありはしない。貴族式の教育は辛いだろうが、君にとってはこれが一番いい方法なんだ。一生懸命勉強して、完璧なレディになっておくれ」
「う、うん……」
「大丈夫、ひどい仕打ちはさせないさ。私がずっと君を守る」
手を握り合い、けなげにも愛を誓いあう二人を、私は醒めた目で眺めておりました。果たして彼らの愛は、何物にも勝る偉大な力を持っているでしょうか?
「馬車の用意ができました!」
ほどなくして執事が戻ってきました。バーナード様がアーティの肩を抱いて立ち上がります。
「アーティさん、ご自分の洋服と靴をお忘れよ」
私は閉じた扇でベッドの上を指し示しました。何度も洗ったためか擦り切れて、元の色がわからなくなっている木綿のワンピース。そして絨毯の上に放り出された、泥の付いたみすぼらしいブーツ。
バーナード様が小さく鼻を鳴らし、それらを手で掴み上げます。
「言うまでもありませんが、馬車にはアーティさんひとりで乗ってくださいね? 教育の準備を整えて、明日の朝トルロー侯爵未亡人のところへ迎えを寄こします」
「念を押さなくても、私は乗らない。だが安全のために、護衛と侍女はつけさせてもらう」
「まあ、それくらいは構いませんわ。それではお二方、ごきげんよう」
私が座ったまま挨拶をすると、バーナード様とアーティが寝室を出ました。足音が消えると、エリスが早速食いついてきます。
「何をお考えなのです、イブリン様。誇り高いイブリン様がここまでコケにされたのに、あんな男と結婚なさるなんて。ましてや愛人教育など……っ!」
「心配しないで大丈夫よ、エリス」
私は心からの笑みを浮かべました。
「私の心が広いわけではないことは、よく知っているでしょう。誰も想像したことのないような方法で、あの男をあっと言わせてみせるわ」
エリスとテッドが、揃って怪訝な顔になります。
「さあ、私たちは表玄関から堂々と帰りましょう」
私は立ち上がりました。頭の中はこれからの段取りで一杯です。両親に報告する前に、細かい部分まで計画を練らなくてはなりません。
私はぐるりと寝室を見回しました。壁に掛けられた絵も、彫刻が素晴らしい暖炉も、時間をかけて仕立てたドレスも、家宝の宝石も心から愛していたけれど──。
「すべてが汚れてしまった。もう二度と、ここには来ないわ」
誇り高く顔を上げ、私はきっぱりと言いました。