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本日の演者はスタントンとノエル。アーティが空想しやすいように、仮面をつけての登場です。
ちなみに挨拶の仕方、テーブルマナー、お茶の淹れ方、馬車の乗り降りの仕方が出てくるシーンも、アーティの目の前で彼らに演じてもらいました。
もちろん二人とも、これまで一度も芝居など経験していません。しかし本当に愛し合っているので、恋人同士の役を演じるのはさして難しいことではない。おまけに貴族の血筋ですからマナーは完璧です。
『愛しいシンシア、私と踊ってくれるかい?』
『ええ、ラデュアード様。喜んで』
美しく着飾った令嬢たちの中にあって、ただひとり擦り切れたドレスを着ていても、決して威厳や気品を失わないシンシア。彼女が並みいる高位貴族の令嬢を差し置いて、王子の正装をしたラデュアードからダンスを申し込まれるシーンの再現です。
アーティが視覚集中モードに入りました。彼女の目を見れば、異常なまでに集中していることがわかります。
「ふむ。あの集中力は、超人的と言えるほどだね」
フレデリック様が感心したようにうなずきました。
「本当に一風変わった特殊能力だなあ。脳内では自分がヒロインになりきっているわけか」
私は「ええ」と答えました。
「アーティは視力、または聴力に集中すると、他の感覚が鈍くなるんです。そのせいで『不思議な子』『おかしな子』とレッテルを貼られてしまって」
「本当に君、よくあの能力に気づいたね。私はその眼力の方が凄いと思うよ」
フレデリック様がため息をつきます。
「今後の芝居に、レイクンの出演予定はないのかい? あいつなら案外やりたがるんじゃないかと思ったけど」
「レイクンには裏方を受け持ってもらっています。今の時間は舞台監督として、テッドとケイトのペアに稽古をつけているはずですわ。フェリー・ルイスの小説は真実の愛を描いていますから、本物の恋人同士がふさわしいですし。それに、ヒーローとヒロインには身長差があった方が……」
私の言葉に、フレデリック様が「ああ……」と遠い目をしました。彼とレイクンの身長はほとんど同じです。
「ところでフレデリック様。フェリー・ルイスの正体を、ミルバーン家の力をもってしても特定できないんです。だからその正体は『王族の誰か』だと疑っているのですが……」
私は探るような目で、ちらりとフレデリック様を見ました。
「まあ、あり得るだろうねえ。王族が巧みに正体を隠しているなら、突き止められる可能性はまずないということだ」
「みずみずしい感性がありますし、書けるとしたらフレデリック様をおいてほかにないと思うのですけれど」
「いくら多才な私だって、さすがに小説まで書くような暇はないよ」
フレデリック様の目が泳いでいます。
用心深く感情を隠しているつもりでも、私の目はごまかせません。とはいえ、フェリー・ルイスの正体を暴くつもりはないのですが。
「もしフェリー・ルイスと連絡を取る方法をご存じでしたら、私がファンであることをお伝えくださいませ。そしてバーナード様とアーティの恋物語を題材に、素敵な小説を書いていただきたいと」
フレデリック様を見ながら、私はにっこり笑いました。
「フェリー・ルイスの小説には、いつも乗り越えるべき障害がある。バーナード様とアーティほど障害だらけの組み合わせはいませんわ。歴史的な大恋愛として国民が熱狂するに違いありません。馬糞係の平民が公爵夫人にのし上がるサクセスストーリーで、大衆の士気は高揚し、不平不満が緩和され、王侯貴族への信頼が増す。国に多大なメリットもたらしますわ」
「……いいアイデアだね。連絡を取れるか、やってみるよ」
フレデリック様の口元がほころびます。そして彼はしみじみと言いました。
「あー、私もすべての障害を乗り越えてイブリンと結婚したい」
その言葉は無視して、私は再びアーティを見ます。フレデリック様がため息をついて、目の前で繰り広げられる光景に意識を戻しました。
「アーティの次の受け入れ先は、ブレント子爵家だっけ?」
「ええ。海軍新兵の次男が練習艦ミーガンから下船してすぐ、港の賭場ではめをはずしてしまって。半年も航海に出ていたからストレスが溜まっていたんでしょう。賭けにのめり込んで、結婚直前の妹の持参金に相当する金額を失ってしまったのです。賭場は客が貴族の子息だと、現金がなくても小切手で勝負させてくれますから」
「なるほど。ブレント子爵家は歴史がある家柄だが、あまり金銭的な余裕がないと聞く。なけなしの持参金を借金の返済に使って娘が婚約破棄されるか、小切手の不渡りを出して息子が海軍を追い出されるかの二択というわけか。我が国の軍隊は、不名誉な事件を起こした兵士に厳しいからな」
「現子爵の父親である先代が、博打好きの放蕩者でしたからね。次男に隔世遺伝してしまったんでしょう。絵画や宝石など売れる物はすべて売り払って、領地と屋敷しか残っていない状態です。伯爵家に嫁ぐ予定の娘はなかなかの美人で、両親の自慢の種。親戚に頭を下げて、何とか持参金をかき集めたそうです」
「馬鹿息子を救うために娘の幸せを犠牲にするほかないというのは、親として辛いだろうな。優しく手を差し伸べてくれる人間がいたら、後先考えずに飛びつくに違いないね?」
フレデリック様がにやりと笑います。私もにっこり笑いました。
「実際に、交渉する必要もないほどでしたわ。喜んでアーティを受け入れてくださるそうです」
「アーティをたった二週間養女にするだけで、娘も息子も救われるんだからなあ。それにしても貴族が通うクラブや賭場ではなく、次男以下が乗る練習艦ミーガンに目をつけるとは。イブリンの発想の勝利だね」
「お褒めにあずかり光栄です。そうそう、ひとつお願いがあるのですが。ブレント子爵家の次男を、その性根を叩き直せるような部隊へ配属していただけませんか?」
「裏から手を回しておくよ。たいていの貴族は賭け事を嗜むとはいえ、次男の行状は看過できない。それにしてもイブリンは優しいね。子爵の娘の幸せのために、できる限りの支援をするつもりなんだろう?」
「単なる先行投資です。ウォーレン男爵の娘ともども、社交界デビュー後のアーティを支えてもらいたいですし」
私がそう答えた次の瞬間、練習部屋の扉が細く開きました。レイクンが顔だけ覗かせて、私たちを手招きします。
「朗報だよ!」
私とフレデリック様が廊下に出ると、レイクンはそういって両手を広げました。
「今まで耳にした、どんな朗報にも勝る朗報なんだよ。なんとなんと、バーナードの野郎が落馬したそうなんだ!」
レイクンはこれ以上ないというほどの満面の笑みです。
「まあ、お可哀想に」
私は静かに言いました。公爵令嬢ですから、驚きを顔に表すような真似はしません。
「無事なのか?」
フレデリック様が首を傾げます。
「残念ながら、命に別条はありません。足を骨折しただけらしいです」
レイクンが肩をすくめました。
「テイラー公爵が今、父のところへ報告しに来ているんですけど。フレデリック様が来ている間、イブリンへの来客は取り次がないことになっているでしょう? 八大公爵家に対して中立の立場の王太子が、頻繁にうちに来ていることがバレたら困るから」
「それで、お前がイブリンと私に報告する役目を引き受けたってわけか」
「ええ。芝居の練習が、ちょうど休憩に入ったもので」
私は二人の会話を聞きながら、落馬したというバーナード様のことを考えていました。
とびきり上等の血筋ですこぶる元気のいい若馬サンブルーが、バーナード様の手に渡るようスタントンに段取りを頼んだのは十日以上も前のこと。サンブルーを育てた馬丁頭の説得に時間がかかり、昨日ようやく実現したのです
気性の荒いサンブルーはまだ十分に調教ができていない。手ごわい相手を好むバーナード様が夢中になることはわかっていました。
(すぐに落馬するとは思わなかったわ。でもこれで、バーナード様を長期間屋敷に閉じ込めておくことができる。骨折はあくまでも彼の責任、サンブルーが虐待されたりしないように早急に取り戻す必要があるわね)
だってバーナード様は、アーティ以外には卑劣な男ですからね。大切なのはアーティだけ、他のことはどうでもいい──そういう人間だからこそ、私にあんな態度を取ったのでしょう。
「乗馬の名手として鳴らし、さんざん自慢してきたバーナードですからね。調教中に落馬して骨折したことを、笑われたり冷やかされたりするのはプライドが許さない。だから新居の使用人に、絶対に誰にも口外しないでくれって頼んだらしいです。従来の生活に戻れるまで、少なくとも二か月以上は屋敷に引きこもるでしょう」
レイクンの言葉に、フレデリック様が小さく笑いました。
「これまた、イブリンの望む通りの展開になったね。魔法使いじゃないのが不思議なくらいだ」
「バーナード様の落馬は偶然です。サンブルーは特別に気難しい馬ですが、彼の腕前なら飼いならせると思っていました。かなりの自信をお持ちだっただけに落ち込んでいらっしゃるでしょうね」
私は口元に手を当てました。
様々な思考がめまぐるしく脳内を駆け回ります。私はその中から、複数の案を取り出しました。