2
女は純真な心の持ち主でさえあれば、賢くなくていい。可愛らしく無邪気であればエレガントでなくていい。
(イブリンの対極にいる女、私がついていなければ生きていけないような駄目な女──アーティのような女でなければ、私は心惹かれないのだ)
グラスの酒を一気にあおり、私はまたため息をついた。
両親に勧められるままに、しぶしぶ婚約したとはいえ、私はイブリンを裏切った。平民を愛人にするという、貴族の令嬢にとって最も屈辱的な方法で。
(お前は愛されるに値しないという女だと、失格者の烙印を押してやったのだ!)
イブリンからしてみれば、私は冷酷で薄情な男だろう。お前と結婚して一緒に暮らし、同じベッドで眠るなんて、考えただけでぞっとする──大体そんなような意味の言葉を面と向かって投げつけたのだから。
「いくらあの女でも、さすがに取り乱すと思ったが……」
私の足に縋りつくことはないにしても、怒りに駆られて私とアーティを憎むくらいはすると思ったのに。だがイブリンの青い瞳からは何の表情も読み取れなかった。
「癇癪でも起こせば可愛げがあるのに。あの女ときたら、平民のアーティだけではなく私のことまで見下していたに違いない。思い出すだけで猛烈に腹が立ってくる!」
イブリンの言うことなすこと、すべてが気に入らない。
しかし約三か月後の結婚式は、もはや公務と言ってもいい。諸外国から賓客を招いて大々的な披露宴を開くことになっているし、パレードは王都の民が待ち望むお祭り騒ぎだ。
「そう。私に愛人がいようが、その愛人が孕んでいようが、予定通りに行われなければならない」
夫と妻、未来のテイラー公爵と公爵夫人になるという誓いをする以外に、選択の余地などないのだ。
「ああ、哀れなアーティ。イブリンからどれほど虐められていることか」
可愛いアーティ。天使のようなアーティ。彼女のことならよくわかる。欠点も長所も。
いくらイブリンが優秀でも、アーティを淑女に変身させるなんて土台無理な話だ。
「アーティは賢くない。頭の中は空っぽに近い。だからこそ私は彼女を愛しているのだ。イブリンのような妻を持つ夫にとって、愛人とは心休まる存在でなければならないからな」
そう、愛人なんてものは自然体でいればいいのだ。平民のアーティには知らないこと、できないことが多すぎる。イブリンが百パーセント以上の努力をしても、エレガントのエの字も学ばせられないだろう。
「どうあがいたところで生まれと育ちは変えられない。感情的で衝動的な平民の孤児に、何事にも完璧を求める公爵令嬢がいつまで耐えられるか」
私は一杯目より多い量のブランデーをグラスに注ぎ、一気に飲み干した。
「アーティは何でもかんでもおとぎ話に結び付けるからな。あらゆる物語のヒーローは私で、ヒロインは自分なんだ。どんな障害があろうとも、二人は必ず結ばれて幸せな結末を迎える。実際の私とアーティには、貴族とその愛人という関係性以外ないわけだが……」
空になったグラスにブランデーを注ぎながら、私は思わず苦笑した。
アーティのことはもちろん一生大切にするつもりだけれど──『平民の孤児』に愛人以上のポジションを与えられるわけがない。
ヒロイン願望という空想を通り越した妄想癖のあるアーティに、イブリンも手こずっているに違いない。
「愛人教育などと居丈高に言っていたが、きっとこの勝負はイブリンの負けになる」
どんなことでも、どんなときでも楽々と勝ってきたイブリンが、平民の女に負けるのだ。
「正妻と愛人。八大公爵家の令嬢と最底辺の女。永遠に解けない氷のような女と太陽のように明るい女……」
本来ならば一生会うことはなかった組み合わせ。あまりにもかけ離れた二人。理解し合えるわけがないのだ
「ああ、愉快だ。アーティはイブリンを困らせているに違いない。そうさ、アーティは私の喜ばせ方だけを知っていればいいんだ。どんなに淑女らしくしたところで、社交界の人間は平民には冷たく、無情で、批判的なんだから」
アーティは愛人教育に予想外のやる気を見せたが、いかんせん注意力が散漫だ。イブリンの努力はすべてが無駄になるだろう。一か月もすれば匙を投げ、アーティをミルバーン公爵邸から追い出すに決まっている。
私から引き離されてアーティはどれほど心細く、孤独を感じていることか。彼女がミルバーン邸から追い出されたら、疲弊したその体に腕を回して「私がついている」と優しく慰めてやろう。
「何もかもイブリンが悪いんだ。あいつが『本来の女の仕事』をきちんとこなせないから、アーティに癒しを求めてしまったんだ!」
女の仕事とは、私よりも劣っているように振る舞うことだ。一緒にいる間じゅう、私をいい気分にさせることだ。
「イブリンが私よりも劣っていたら、もう少し寛容になれたのに……」
私よりも賢い女がいるなんて認めたくない。何年も必死に勉強して、たくさんの知識を頭に詰め込んで、政治家として研鑽も積んできた。
それなのにイブリンは私から主役の座を奪ってしまう。彼女は特別なんだと、誰の前でも示してしまう。
「完璧な女に一歩下がれと望むのは強欲すぎか? だが、もしイブリンにアーティのような可愛げがあったら、私は夫として幸せにしてやりたいと思ったに違いないんだ……」
ああ、またイブリンのことばかり考えている。私は三杯目のブランデーを一気に飲み干した。
「忌々しい。アーティに会いたい。彼女を抱きしめて、めくるめく思いに我を忘れてしまいたい……」
ため息をついてボトルに手を伸ばした時、ノックもなしに書斎の扉が開いた。入ってきたのは実家にいるはずの弟──十四歳のエドモンドだった。