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「このドレスは今朝搬入されてきたばかりなんだ。いま流行りのデザインで、どんな社交行事にも着ていけるよ。こっちは比較的大人しいデザインだが、刺繍が見事だな」
「刺繍のが好きだけど、アタシが着てもいいのかなあ……」
そう答えたのは明らかに若い女の声。発音の仕方からして、平民であることは間違いないでしょう。
「かまわないさ。君を綺麗にするのが私の楽しみなんだから。ここにあるドレスは、アーティにこそよく似合う」
どうやら声の主たちは、寝室の奥の衣装部屋にいるようです。私の位置から姿は見えませんが、衣服を掻きわけるような音や、引き出しを開ける音が聞こえます。
「刺繍のドレスなら、真珠のネックレスが合いそうだ。揃いのイヤリングもあるよ」
「ね、ねえバーナード。ドレスも宝石も、バーナードの奥さんになる人のものだよね? 本当にアタシが自由に使っていいの?」
バーナード! 私は仰天しました。身分差も考えず呼び捨てにさせるとは、二の句が継げません。
「かまわないさ。どうせ新しいものが後から後から届くんだ。あの女のことだから、仕立てたドレスの枚数も覚えてやしないよ」
もう、笑えばいいのか泣けばいいのかわかりません。微動だにしないでいられたのは、子どものころから厳しくしつけられてきた自制心のおかげです。
「ねえアーティ、あんな女のことはどうでもいいじゃないか。私は君と一緒にいる時間を楽しみたいんだよ」
「そ、そうだね!」
衣擦れの音が聞こえてきました。どうやら着替えを始めたようです。
「素晴らしいよ、アーティ。私が思っていたとおりの美しさだ。いや、思っていたより遥かに綺麗だ!」
バーナード様が歓声を上げたところをみると、私のドレスは平民の娘の体にぴったりなのでしょう。
「ああ、私の天使。君に会った瞬間、私はこれまで恋をしたことがなかったのだと思い知ったんだ。アーティこそが私のすべてだ!」
「アタシもバーナードを愛してる。運命の人に巡り会えたのに、もうすぐ結婚するなんて、神様はなんて酷いんだろ」
「愛のない結婚だよ。家同士のしがらみと言うやつさ。公爵家の嫡男の責任として致し方無いが……私が真実愛しているのはアーティだけだ。君とお腹の子どもを必ず幸せにして見せるから、待っていて」
お腹の子ども!
その言葉の持つエネルギーの強さに、自制心が崩れるぎりぎりのところまで一気に追い詰められました。結婚前の貴族令嬢にとって、最悪の悪夢が現実になったのです。
(子ども。あの男が、平民の女と浮気や気晴らし以上の関係を結んだ、決定的な証拠……)
新しい命が芽生えたとしたら、存在しないことにしてしまうわけにはいきません。
私は震える足を踏みしめました。世界がぼろぼろと崩れ落ちていくような心地がします。
荒れ狂う心の中に、底なしの黒い穴が大きく口を開けた気がしました。そこから冷たい空気が溢れ出してくるのを感じます。
異様な寒気が全身に染み渡り、意識が穴の中に滑り落ちていきそうになる。すべてが、これまで経験したことのない感覚でした。
(この穴に落ちたら、きっと這い上がれなくなる)
私は必死で集中力を保ちました。
「私はあの女には指一本触れるつもりは無い。結婚して二年もすれば、産まず女としてどこかの別荘へでも追いやるさ。しがらみが強すぎて離婚は難しいし、子どももあの女の養子にしないと、社交界に受け入れてもらえない。でも二年の間に、必ず君を愛人として屋敷に迎え入れる。君は実質、この家の女主人になるんだよ」
「平民の私がこんなすごいお屋敷で暮らすなんて、おとぎ話みたいだね……。バーナード、信じていいんだよね?」
「もちろんさ。両親はなんだかんだ言って、私に甘いからね。いずれは君と、お腹の子のことも温かく迎えてくれるよ」
「優しい人たちなんだよね。アタシ、きっと大丈夫だよね」
もちろんさ、というバーナードの声を聞いて、思わずこぶしを握り締めました。私のあずかり知らぬところで、このような悪巧みが進行していたとは。
またもや、心が深い穴へ落ちていきそうになります。自制心に問題が出たのは、物心ついてから初めてのことです。
(何としても、この穴に蓋をしなくては)
女としての私的な感情よりも、公爵令嬢としての公的な役割を優先させて生きてきた私です。今ここですべきことは、泣き叫ぶことではないとわかっています。
私は深呼吸をしました。
容赦のない意志の力で、感情を抑え込むための蓋をイメージします。その蓋で、私を吞み込もうとしていた感情を押し戻しました。さらに気力を振り絞り、蓋の上にいくつもの重石を積み重ねます。
(封じ込めるのよ。公爵令嬢たる私は、決して揺らいではならないのだから)
もう一度深呼吸をします。
何とか冷静さを取り戻した私は、寝室のドアを大きく広げ、部屋を横切り衣装部屋へと向かいました。もちろん、テッドとエリスが後に続きます。
「まあバーナード様、私の寝室で何をしていらっしゃるのかしら?」
「イブリン!?」
振り返ったバーナード様が、驚愕に目を見開きました。
「あらあら、絨毯に泥が……父に頼んで、すぐに張り替えて貰わなくてはなりませんわね」
絨毯の上に、泥の付いたみすぼらしいブーツが放り出されています。
私はにっこり笑いました。
「忘れ物をしたのでこちらに代わりを取りに来たのですが、お客様でしたのね。こちらの可愛らしい方はどちらのご令嬢かしら? 付き添いの方はどこにいらっしゃるの?」
私は優しい口調で語りかけました。バーナード様の顔がさっと青くなります。
「あら、バーナード様。具合でもお悪いんですの?」
いつもは泰然としているバーナード様は、顔から滝のように汗を流していました。
私のドレス、私の靴、私の宝石を身に着けている娘は、気の毒なほど真っ青になっています。
三つ編みにした青みを帯びた黒い髪、驚きに見開かれた目も青みがかった黒です。 色合いは平凡ですが、真っ赤な頬と厚めの唇が可愛らしく見えます。ええ、平民にしては美しい娘だと言えるでしょう。
「あ……あ……」
平民の娘は呆然とした面持ちで私を見つめるばかり。何が起こったのかよくわからないという顔です。
私は娘が着ているドレスを見つめました。光沢のあるクリーム色の布地に、美しい花や蝶といった色鮮やかな刺繍がびっしりとほどこされています。
ミルバーン公爵領には、侍女たちが嫁いでいく主人のために刺繍をする習わしがあります。私の幸せな結婚を祈りながら、一生懸命針を進めてくれたのです。
「そのドレス、よくお似合いね。手の込んだ刺繍でしょう? 私の侍女たちが幾晩もかけて仕上げてくれた、ありきたりではないドレスなの。結婚式の翌日に着ようと思っていたのよ」
娘の顔が真っ赤に染まりました。慌ててドレスを脱ごうとするのを、バーナード様の手が押しとどめます。
「脱がなくていい。お腹が大きくなる前に、アーティのドレス姿が見たいと言ったのは私なんだから」
「で、でもバーナード……」
「どうせ二年後には知られることだ。平民とはいえ、テイラー公爵家の子どもを身ごもっている君に、手出しはさせない」
私は笑顔の仮面を貼りつけたまま、彼らの会話を聞いていました。バーナード様が意を決したように私を見ます。
「イブリン、紹介しよう。彼女はアーティといって、王都で私が通っている乗馬クラブの下働きだ。年は君のひとつ下の十七歳。めでたいことに、先日妊娠三か月目に入った」
なるほど、というように私はうなずきました。絨毯についた泥には馬糞が混じっている可能性があるようです。やはり早急に張り替えなくては。
「アーティさんとおっしゃるのね。私のことはすでによく知っているようだし、自己紹介は省かせてもらいます」
アーティという娘の返事を待たずに、私は衣装部屋から出ました。そして寝室の窓際の椅子に腰かけます。
アーティの肩を抱いてバーナード様が出てきました。彼女の顔はひどく青ざめています。
「バーナード様、椅子を勧めて差し上げた方がよろしいのではなくて?」
「い、いえアタシは……」
「座った方がいい、アーティ。お腹の子に障ったらいけない」
椅子を引き寄せてアーティを座らせ、バーナード様はその後ろに立ちました。
「バーナード様。テイラー公爵ご夫妻は、彼女のことをご存じなんですの?」
私が視線を向けると、バーナード様は苦虫を噛みつぶしたような表情になりました。
「……まだ伝えていない。何しろ今は、三か月後に迫った結婚式の準備が大変だから……」
「そうですわね。八大公爵家の我がミルバーン家と、貴方様のテイラー家の結婚式は、王族のそれに勝るとも劣らない規模になりますもの」
もし中止などということになったら、国王陛下の怒りが思いやられます。
王都サルリナのセント・クーシャ大聖堂では盛大な結婚式の準備がちゃくちゃくと整えられ、国王一家はもちろん各国の統治者も出席してくださる予定です。世界中の重要人物と言われる人たちから、続々と結婚祝いが届いているのです。
「テイラー家の嫡男が平民を孕ませるなんて、前代未聞のスキャンダルですわ。社交界は大騒ぎになるでしょうね」
私はわざとらしくため息をつきました。
「私の両親も、このことを知ったらショックを受けるでしょう。今さら結婚式を中止することになれば、どれほどの混乱を引き起こすことか」
「中止などできないし、するつもりもない」
バーナード様がきっぱりと言いました。公爵令息らしい、無情な、残酷だとも言えるくらいの冷たい表情で。
私は柔らかな微笑みを浮かべながら、首をかしげて見せました。
「まあ、身勝手な方。婚約者からこのような仕打ちを受けた私に、何食わぬ顔で祭壇への道を歩けとおっしゃるの?」
「それが公爵令嬢としての君の義務だろう」
冷ややかな、どこか蔑んだような醒めた声が響きます。
「事の顛末を報告すれば、両親は私をひどく叱るだろう。とはいえ父も母も私のことを溺愛しているから、いずれはアーティの身分に囚われることなく、お腹の子どもごと受け入れてくれるに違いない」
バーナード様は口元に皮肉っぽい笑みを浮かべました。完全に開き直ったのでしょう。
「ねえイブリン、本当に崖っぷちに立たされているのは誰だろうね。私に対しての不満を訴えたり、婚約を破棄したり……そんなことをして一番困るのは、イブリンの方じゃないかな?」
侍女のエリスが扇を手渡してくれました。私はそれを開き、口元を隠しました。ええ、顔を隠したかったのです。
十三年も婚約していた相手がこれほど見下げ果てた男だったとは! 苦笑が漏れて仕方がありません。
「私はね、イブリンのためを思ってアーティのことを二年隠そうと思っていたんだ。平民の娘に負けたことで、君が社交界の連中から馬鹿にされるようなことになっては困るからね。だって考えてもごらんよ、女としての魅力のなさが明るみに出てしまうわけだろう?」
「まあまあ、言い訳がお上手ですこと」
私は扇で口元を隠したまま、くすくす笑いました。