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<バーナード視点>
アーティをミルバーン公爵邸に行かせてから十日近くたったある日のことだ。
私は日が高くなってからベッドを抜け出し、盛大な溜息を吐いてから身支度を始めた。従僕たちに髭を剃らせ、服を選ばせ、シャツのボタンを留めさせクラバットも結ばせる。
「おはようございます、バーナード様」
部屋に入ってきた執事が深く丁寧に頭を下げた。
両親からの伝達事項が書かれた書類を受け取って、私はふんと鼻を鳴らした。今朝もたいしたことは書かれていない。
「世の中、平和だな」
私は書類を床に放り投げた。実家でも王宮でも議会でもミルバーン公爵家でも、特に変わったことは起きていないようだ。
『結婚前に愛人を作ったこと』に対する処分として、私は両親から謹慎を言い渡された。
新居の門は父の配下によって完全に閉鎖されていて、脱出する手段はない。外出好きな私にとってはかなり効き目のある罰だ。
「ああイライラする。外へ出たいが、父上や母上、大伯母様の機嫌を損ねるのは得策ではないからな……」
私を溺愛しているはずの両親と、一族の最年長であり最も尊敬される女性である大伯母は、アーティの存在を知って怒り心頭に発した。
嫡男である私はずっと溺愛されてきたから、そう酷く叱られることはないと思っていたのに、少しばかり甘ったれた考えだったようだ。
「とはいえ、これ以上状況は悪くなりようがないだろう。イブリンめ、いつまでも私が大人しくしていると思うなよ」
結婚式まで三か月近くも私を閉じ込めるなんて許されない。許されていいわけがない。
「一か月以内に父か母を懐柔して、元の生活に戻ってやる。そして好きな時に好きな場所でアーティと愛を交わすんだ」
床に落ちた書類を拾い上げた執事が、小さく肩をすくめる。まるで呆れてでもいるかのように。
「何だ、文句でもあるのか?」
「めっそうもございません」
執事が慌てたように首を振った。
「ああ、その、他に何かご用はございますか?」
「ない! わかりきったことを聞くな!!」
「そ、それでは私はこれで」
執事はお辞儀をし、慌ただしく部屋を出て行った。入れ違いに、朝食のトレイを持った侍女頭が入ってくる。
「おはようございます、バーナード様。朝食をお持ちいたしました」
銀のトレイがテーブルに置かれた。焼きたてのパンと、湯気の立つスープ、スクランブルエッグとサラダ、私好みの薄めのコーヒー。少しの間、私は黙って口を動かした。
「ここのところ体を動かしていないせいで、食欲がない」
スープスプーンを床に放り投げる。ついでにトレイを腕で払って、すべてを床に叩き落としてやった。
侍女頭が息を呑む。従僕たちが慌てふためいている。立ち上がった私は「さっさと片付けろ」と命じ、そのまま部屋を出て書斎に向かった。
書斎とはいえ、壁際に並んでいるのは酒棚ばかり。ブランデーとグラスを取り出し、私は椅子に腰を下ろした。悔しいことに使用人に当たり散らすか、酒を飲む以外にほとんどすることがない。
「くそ、どうせ暇ならアーティの顔を思い出したいのに。どうしてイブリンの顔が頭から離れないんだ!」
新居での一件以来、私は必要以上にイブリンのことを考えては、強い嫌悪感に襲われている。私はため息をつくと、グラスをサイドテーブルに置いてブランデーをたっぷり注いだ。
「それにしてもイブリンのやつ、まったく傷ついているようには見えなかったな……」
グラスを揺らしながら、私は顔をしかめた。
愛人であるアーティの存在をイブリンに知らせるのは、本当なら二年以上先になるはずだった。
(その瞬間はきっと、甘美で気分のいいものになると思っていたのに)
逆に私がイブリンの不意打ちにうろたえ、無様な姿を晒すはめになるとは。私は強い憤りを覚えていた。
「大体あの女は、最初から可愛くなかった」
私の脳裏に一年前の──当時十七歳だったイブリンの姿がありありと浮かんだ。
婚約したのは今から十三年も前だったが、初めて顔を合わせたのはその時が初めてだった。私の海外留学が長かったせいと、デビュタント前の令嬢は基本的に領地から出ないためだ。
カークレイ王国では、王家に二代続けて王女が生まれていない。未婚の適齢期女性では、八大公爵家の娘であるイブリンが最も高位の令嬢だ。才気煥発で冷静沈着、何をやらせても見事にやってのける彼女は、その美しさも相まって光り輝いていた。
当時二十四歳の私はと言えば、巨大な富と権力と影響力を受け継ぐ予定のカークレイ王国で一番将来性のある青年貴族。令嬢もご夫人も未亡人もみんな私に夢中だった。紳士たちも両手を揉み合わせ、媚びへつらい、愛顧を受けたいと必死になる。
だがイブリンは、私に会えて光栄だとは思っていないようだった。いずれ私の妻になれることを、特に喜んでいるようにも見えなかった。
八大公爵家同士が結びつくのだから、お互いに得るものは大きい。身分的に対等というのは理解できる。
(しかし、私は慣れていなかった)
自分と同じ、いやそれ以上に誇り高いオーラを放つ令嬢と、真正面から向き合うことに。
会話の主導権を握れないタイミングがあることに。
周囲の人々が私を褒めたたえるのではなく、イブリンの素晴らしさに感嘆の声を漏らすことに。
(女なんて、男の添え物でしかないのに。光り輝くのは私でなくてはならないのに)
初顔合わせの席で、私は懸命に愛想よく振る舞いながら、イブリンのことが嫌いになりそうだと思っていた。
彼女は最後まで冷静沈着で、笑みを浮かべながらも感情に動かされることがなかった。この私を相手に、政治や領地経営について堂々と意見を述べた。
私は悟った。
この娘は一生、私の歓心を買おうと必死になることはないだろう。夫婦の力関係が対等であることを望むだろう。
(生意気だと思った)
イブリンの一挙一動が気に障った。顔合わせが終わるころには、彼女を愛そうという気持ちは私の中から完全に消えていた。
「あの顔合わせの日に痛感したな。私は対等な女よりも、足元にひれ伏す女が好きなのだと」