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博士は速読を極めているので、五分もあれば一冊読めてしまう。私も鍛錬を続ければ同じレベルに到達できるでしょう。
「ふむ。軟弱な話ではありますが、面白いのは確かですね」
ハンソン博士が顔を上げます。彼女の横顔をじっと見守っていたレイクンが嬉しそうに目を輝かせました。
「作者は一体何者ですか? この小説に描かれている架空の王子は、空想力を駆使して作り上げたものではないはずです。王宮の描写もリアルすぎますし、王族の近くで暮らした経験がある人物なのでは?」
「フェリー・ルイスは謎だらけで、正体を知っている人間はいないんです。身元を隠すことに関しては抜け目がなくて、うかつなことは書かないし」
レイクンが首をかしげます。私は同意するようにうなずきました。
「わかっているのは、大変なロマンチストであること。とても頭が良くて、社交界で小説の材料を集められるくらい顔が広くて、王宮にも頻繁に行っている。平凡な貴族とはとても思えませんから、暇を持て余した王族か八大貴族の誰かかもしれません」
「まあ作者についての真実を突き止める必要はありませんし。大切なのは、この小説の王子や令嬢、彼らを取り巻く貴族たちの描写が極めて正確なこと。耳で覚える勉強法の教材として、試してみる価値はありますね」
「よろしくお願いします。新しい教材を使うことに対する追加の報酬は、もちろんお支払いしますわ」
アーティが孤児院の誰からも『不思議な子』『おかしな子』とレッテルを貼られた空想癖を利用するのは、合理的かつ現実的な判断。
ハンソン博士は何事も中途半端にはしない人間なので、正しい発音かつ役者顔負けの上手さで朗読してくれることでしょう。
「これはアーティにとって勉強であると同時にセラピーなんです。耳で聞く学習が、彼女にとってのオアシスになると確信しています」
私は力強く言いました。
たとえこの屋敷がアーティにとって灼熱の砂漠でも、教師や使用人たちが彼女を心から慈しむのは難しいですから、自分で勝手に水を飲んでもらいましょう。
(いくらストレスに強くても、妊娠中なのだから精神的にあまり負担はかけられない。ロマンス小説で巧みに心をほぐしつつ、正しい発音と教養をしっかりと頭に叩き込む。一石二鳥だわ)
私の心の中には、これからやろうとしていることがすべて正しいという確信が、すでに根付いていました。
「トーラ夫人にもお願いがあります。アーティが行儀作法を上手くできたら、大袈裟に褒めてほしいのです。彼女の愚痴も聞いてあげてください。孤児院の院長がトーラ夫人に少し似ていて──甘えられる相手がひとりもいないアーティの大きな慰めになると思うんです。それについての報酬の上乗せも、もちろんいたします」
「アーティ様に対しては嫌悪感がありますが、そういった事情なら仕事として割り切りますわ。私の能力の及ぶ限りベストを尽くしましょう」
トーラ夫人がうなずきました。
ポレットによればアーティは、人が自分に嘘をつくはずがない、欺いたりしないと思っている。親身になってくれるトーラ夫人が私の命令に従っているだけだと知ったら、彼女は落ち込んでしまうかしら。
まあ、私たちがこの教育をやり抜いた後のことは──今は考えないようにしましょう。私はただ知恵を絞り、あらゆる手段を講じるだけ。
「それではアーティのところへ戻りましょうか。早速、最初の授業を始めましょう」
私は椅子から立ち上がり、ドアに向かって三歩ほど歩いたところで振り返りました。
「レイクン、本を全部持ってきてね」
「はいはい」
レイクンが肩をすくめます。
私たちは二階にあるアーティの部屋へと向かいました。扉をノックすると総侍女長のシェンダが出迎えてくれます。
私たちの姿を見て、大きなソファに寝転がっていたアーティが飛び起きました。
「え、あの、今って休憩時間ですよね?」
アーティがだらしない自分を恥じたかのように、顔を赤くします。
「ええ、まだあと五分ほど残っているわ。くつろいでいるところごめんなさいね」
私はにっこりしました。
そういえばアーティにはまだ、五分前行動の大切さを教えていませんでした。フェリー・ルイスの小説のヒロインたちは予定された時間の五分前に準備を整えますから、耳で聞いているうちに身に付くことでしょう。
「先ほどまで会議をしていたのだけれど、あなたの教育に違う姿勢で取り組むことになったの」
「違う姿勢……?」
アーティが首をかしげます。
「ええ。ちょっと型破りな方法なのだけれど、あなたの興味を引くことは間違いないわ」
私はレイクンの手から『王子様と宿命の花嫁』を受け取り、アーティの隣に腰かけました。
「これはね、王侯貴族の間で流行している恋愛小説なの。おとぎ話の上流階級版ね」
「うわあ、何て綺麗な本……っ!」
表紙を眺めるアーティの瞳が、まるで宝石のようにきらめきました。