1
次の日の朝、私は誰よりも早起きでした。
使用人が起き出す前の静まり返った屋敷は仕事に集中しやすいですし、ひとりきりの時間を心ゆくまで楽しむことができます。
寝起きすぐから精力的に動けるという特技を発揮し、私はすばやく窓辺に寄ってカーテンを開け、大きく窓を開きました。早朝のさわやかな空気に触れると、さらに活力がみなぎります。
「いい天気になりそうね」
ひとつうなずき、洗面台で素早く顔を洗うと、きびきびとした足取りで衣装部屋に入ります。
手に取ったのは、専属デザイナーが私のためにデザインした紺のジャケットとズボン。そして白いシャツにワインレッドのクラバット、つやつやと光るブーツ。
きりりとした騎士風、男性風――つまり明らかに男性用のそれらは、私が変装するためのアイテムなのです。名人芸の仕立ては体にぴったり合い、すっきりと引き締まった少年らしい体型に見えるから不思議です。
エリスや侍女たちの手を一切借りずに服を着こむと、不思議な解放感に包まれました。一度男装を経験してしまうと、令嬢のドレスが窮屈に感じられるのです。
「馬に乗って遠出をする日は、やっぱり男装に限るわね。動きやすいし、化粧もいらないから時間の節約になるし」
私は長い髪を後ろに払い、無造作にかき上げてリボンで結びました。
鏡の中の自分はどこにも不自然さがなく、当世風の華奢な少年に見えます。
私は満足感を覚えました。ジャケットの下に隠された女らしい曲線に気づく人はいないでしょう。王都の民は私を見て、どこかの貴族の少年だと思うに違いありません。
「レイクンと双子なうえに、顔が似ていて本当に良かったわ。万が一知り合いに会っても、いくらでもごまかせるもの」
レイクンは十八歳の青年にしては体つきが華奢です。病弱な上に人混みが苦手なので、外出と言えば乗馬に出かける程度。
とはいえ我が家の秘薬の力で年々健康になっていますから、もうじき社交の場に出られるようになるでしょう。そうなったら、私が男性の格好をして自由に動くことはできなくなる。
「疑われる心配がないうちに、国中を巡ってみたいものね。男装の公爵令嬢が隠密行動をするなんて、途方もない話ではあるけれど」
最後の仕上げに、ジャケットの裏に護身用の短剣を隠します。これで準備万端、脳内で男性モードのスイッチが入りました。
「濃いコーヒーが飲みたいところだな」
使用人を起こそうか起こすまいか悩みながら、私が壁の時計をちらりと見た次の瞬間、ノックの音がしました。「入れ」と入室を促すと、トレイを持ったエリスが急ぎ足で入ってきます。
「おはよう、エリス。僕のために早起きしてくれて助かるよ」
私はゆったりと腕を組み、エリスに笑いかけました。
「まったくもう、絶世の美少年の顔で笑わないでくださいな。私の前でまで完璧な男性を演じる必要はありませんわ」
「この格好で女らしくするなんて、そっちの方が危うい行動だと思うけどね。安全のためには徹底的にやらないと」
「お言葉ですが、外での調査などテッドに任せてしまえばいいんです。イブリン様はドレスに着替えて、素敵なお相手を見つけに社交の場へ行くべきですわ。今度こそ私が、全身を耳にして、目を皿のようにして、イブリン様を大切にしてくださるお方かどうか見極めて差し上げます!」
エリスが力強く言い、書き物机の上にトレイを置きました。ロールパンにサラダ、オムレツ、それに湯気の立つコーヒー。私は立ったままカップを取り上げて、熱いコーヒーをすすります。
「忠告は心に留めておくよ。新しい相手を探すつもりも、暇もないけどね。そのトレイの上の朝飯を平らげたら、僕は出かける。付き添いは不要だ」
「本当にもう。その演技力には、ただただ敬服するばかりですわ」
エリスはまたため息をつき、小脇に挟んでいた書類挟みを広げると、一枚抜き取って差し出してきます。
「昨晩のアーティの健康状態についての、マロリー先生からの報告書です」
「ありがとう」
私はそれを受け取って、ざっと目を通しました。マロリー先生は優秀な老女医で、私と母の侍医でもあります。曾祖母の代から仕えており、もう数十年の間我が家の女性陣の健康を支えてくれているのです。
助産師の知識がある総侍女長のシェンダが、愛する人の子どもがお腹にいるアーティの体を気遣ってくれますが、やはり専門家にも診察してもらわなければね。
「いい報告だ。マロリー先生の見立てでは、アーティはつわりがまったくないか、あっても非常に軽いタイプだそうだよ。妊婦の五人に一人くらいはそうで、ストレスに強い体質らしい」
私は書類をエリスに手渡し、机の椅子に座ってパンに手を伸ばしました。
「妊娠初期の身でバーナードと元気に逢引きをしていたんだから、そうだろうと思っていたけどね。昨日もこってりしたディナーをぺろりと平らげていたから、胃腸も丈夫なんだろう」
「つまり母体をいくら痛めつけようと、お腹の中の赤ん坊は安全ということですね。残念ですわ」
「エリス。君は人を労わったり、思いやったりできる女性のはずだが」
「思いやり、労わられなければならない人は、私にとってイブリン様ひとりです」
エリスが報告書に目を走らせながら、ふんと鼻を鳴らします。
「アーティの骨格や腹周りの筋肉を見るに、あまりお腹が出ないタイプだと、マロリー先生は予想していらっしゃるようですね。馬糞係で鍛えていたおかげでしょうか」
「まあ、無関係ではないだろうね。僕たちにとっては都合がいい話だ」
「吐き気も食欲不振もなく、飲酒と喫煙以外は制限しなければいけないことは何もない。健康状態が良すぎて、逆に理解に苦しみますわ」
「とはいえ、胎内で新しい命を育てているんだ。気遣いを忘れず、どんなささいなことでも報告を忘れないように」
私はコーヒーを飲み干し、カップを置くとペンに手を伸ばしました。
「休憩時間には、戸外の新鮮な空気を吸わせてやるべきだな。庭の散歩をスケジュールに加えておこう」
私は書類入れからアーティの予定表を取り出し、新たな指示を書き足します。
「そうそう、アーティはブランデーの味が気に入ったようだ。間食用に、ブランデーの風味を感じる菓子を用意してやってくれ。一日一杯のお楽しみの紅茶は、ブランデーが利きすぎないように注意が必要だ。胎児に影響が出ては困るからな」
「……好きなだけ飲ませて、悪影響が出たらいいんです」
エリスの声が低くなり、目に怒りが浮かびます。
「他の子たちと違う赤ん坊が生まれたら、あの泥棒猫と卑劣な男へのちょうどいい復讐になるではありませんか」
「エリス、君のその発言はよくない。人として絶対に言ってはならないことだ」
厳しく妥協を許さない口調で、私はぴしゃりと言いました。
「心の中では、何を思うのも自由だが。君は口にも態度にも出しすぎだ」
エリスが悔しそうに唇を噛みます。
(どうやら思った以上に、アーティから受けた精神的な痛手が大きいようね)
エリスは私のことを心から大事に思っていて、昔から懸命に守ろうとしてくれました。私が傷つけられようものなら、誰よりも憤慨する。そんな彼女だからこそ私のお気に入りであり、優秀な右腕なのです。
(とはいえエリスの、アーティへの処罰感情をこのまま放置しておくと、ろくな結果を生まないわ)
私はアーティに対して、エリスと同じほど激しい敵意や憎しみを見せていない。だからエリスは苛立ち、失望しているのでしょう。
右腕であるエリスとて、私の全てを知っているわけではない。不思議な理解力を持つ双子のレイクンだってそうです。
そう──誰も知らない、エリスや家族でも踏み込めない領域が、私にはある。それは無限の、底なしの穴。バーナード様とアーティの密会を目撃した瞬間に、心にぽっかりあいた穴。
普段はしっかりと蓋をして、その上にいくつも重石を乗せています。その穴の中で何を考えているか、私は誰にもさらけ出すつもりはありません。
(エリスにとって、私を幸せにすることが人生の進路だった。それが残酷にも奪い去られたのだから、代わりになるものが必要なんだわ)
次の瞬間私の頭に、ある言葉が浮かびました。
『希望』です。
人は誰しも、希望が欲しくてたまらなくなる時がある。
私はエリスに希望を持たせる方法を、正確に思いつきました。
すっと立ち上がり、机の前にいるエリスに近づきます。そして彼女の肩に手をかけて、しっかりと目を合わせました。
「エリス。復讐心を発揮するタイミングは『今』ではない」