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(淑女の心得を叩き込まれて、教養のある常識人に変化したら──アーティも今夜の自分を、恥ずかしく思うようになるのかしら)
食事の場での会話、特に時間のかかるディナーはアーティの変化を見極めるいい機会です。
(そうなったら私も、誘導されてべらべら喋っていた頃のアーティを懐かしく思うのかしらね)
ふと、そんなことを思いました。笑いを堪えすぎると、おかしな考えが浮かぶものですね。
アーティがナイフとフォークを置きました。
綺麗に骨を切り離すことができず、それでも隅々まで食べようと頑張ったせいで、お皿の上がとても汚い。明日のディナーはもっと食べやすいお肉を出してあげましょう。
少量のチーズが出され、アーティ以外は甘い食後酒と一緒に楽しみます。水しか飲めない彼女が不満顔になっていたところに、デザートが運ばれてきました。
クリームを添えたブランデー風味のタルトに、アーティが嬉しそうに顔を輝かせます。今朝の紅茶に入れたブランデーの味が、よほど気に入ったようですね。まあ、ケーキは加熱されているのでアルコール分は飛んでいますが。
表面上は和やかな雰囲気のまま、私たちはデザートを口に運びました。
ずっと話の腰を折らずにいてくれたレイクンとエリスに感謝しなくては。アーティがナイフとフォークと格闘して下を向いている間、二人とも呆れるのを通り越して虚無顔でしたもの。
デザートの皿が下げられ、小さなカップでコーヒーが運ばれてきました。これは酔い覚まし、消化促進、口の中をさっぱりさせるためですね。
本来ならば、美味しい食事の余韻に浸りながら会話を楽しむところですが──アーティとの会話は、今日はもう十分。
私がそう思った次の瞬間、小食堂に「失礼いたします」という声が響きました。
「申し訳ございません、トーラ夫人より遅くなってしまったようですね。今朝ご連絡をもらって、これでも急いで来たのですが」
入ってきたのは、白髪混じりの髪をきっちりと結い上げたトーラ夫人と同年代の女性です。声は温かみに欠け、表情も厳しく、残酷と言ってもいいような冷たさが漂っています。
「仕方ありませんわ、ハンソン博士のお屋敷は王都から少し離れておりますし。どうかお気になさらずに」
私は笑顔で答え、優雅に立ち上がりました。
言語学者であり話し方の教師でもある、アラミア・ハンソン博士──世界で最も厳しい教師だと、私が個人的に思っている女性です。彼女は侯爵家出身ですが、結婚せずに学究の道に進みました。
「そちらが、道に外れた振る舞いをした平民のお嬢様ですか?」
ハンソン博士が、座っているアーティにちらりと視線を向けます。
「元平民ですわ、ハンソン博士。彼女は今日、男爵令嬢になりましたから」
「地位が上がっても、私は決して忘れませんよ。ふしだらなこのお嬢様が、私の可愛いイブリン様を悲しませたことをね」
アーティの向けられるきつく厳しい口ぶり、軽蔑しきった表情。先ほどまで小食堂に満ちていた、和やかな雰囲気は霧散してしまいました。
女性でありながら言語学者になったハンソン博士は、自分にも他人にも大変厳しい方です。むさぼるように本を読む読書家で、六十三歳の今なお日々勉強し続けている。
私とレイクンには小さい頃から最高の家庭教師がつけられ、あらゆる知識を詰め込まれました。十八歳になった日に私たちは家庭教師を卒業したのですが、ハンソン博士とトーラ夫人も、高齢を理由に同じ日に教員を引退しました。
お二人は家庭教師たちの中でも特に立派な方々。昨晩のうちに使いを出して、無理を承知でアーティの教育係を頼んだのです。
(すぐに働ける立派な教師を見つけるのは簡単なことではないわ。それに、引退しているのも都合がいい。別の貴族に雇われたときに、アーティのことをべらべらと喋ってしまうような人では困るもの)
なによりハンソン博士は『言葉のシャワー』、つまりアーティの教育の肝である『耳で覚える学習法』の研究者。実は私は彼女のスポンサー兼共同研究者として、長年研究を手助けしていました。
アーティの平民気質を戒め、抑え込むためには、喋り方から徹底的に変える必要がある。そのためには、ハンソン博士の協力が絶対に必要なのです。
「ちょうどテーブルマナーのレッスンが終わって、トーラ夫人に休憩に入っていただこうと思っておりましたの。ハンソン博士も、ご一緒に夕食を召し上がりますか?」
「馬車宿で馬を取り換えるついでに済ませてきました。トーラ夫人と交代して、早速不良娘の教育に取り掛かります」
「不良娘……」
呆然と呟くアーティに、ハンソン博士がさらに追い打ちをかけます。
「いいですか、アーティ様。結婚もせずに母親になろうとした娘の教育など、私はやりたくてやるのではありません。しかし、イブリン様の頼みであれば断れない。かつてイブリン様を教育したことは、私の誇りですから」
ハンソン博士は厳しい声で「お立ちなさい」とアーティに命じました。
「さあ、早く。廊下を歩きながら『淑女の心得』を暗唱して差し上げます。一分一秒も無駄にはできませんよ。たった三か月であなたの喋り方を、ひとつの欠点も見つからないほど完璧にしなければならないのですから」
私ですら怖いと思う老教師に、アーティが逆らえるはずもなく。彼女は震えながらも及第点の動作で立ち上がりました。
(トーラ夫人にまで怒られずに済んでよかったわね。これから始まる長い夜を、頑張って切り抜けてちょうだい)
そんなことを思いながら、私はにっこりしました。
「ハンソン博士、アーティをよろしくお願いします。私は少し用事を済ませて、後から合流しますね」
「わかりました。では、後ほど」
アーティを引き連れて、ハンソン博士が小食堂を出ていきます。
「それではイブリン様、私は客室で食事をいただきます」
今日ところは役目が終わったトーラ夫人も、一礼して去っていきました。
静かになったところで、エリスが小さく息を吐き出します。
「アーティごときに、あんなにご立派な先生方をつけてやるなんて。いいかげんな教育を施して、どこに出しても恥ずかしい女になさればよろしいのに……」
「それは駄目よ、我がミルバーン公爵家が恥をかいてしまうわ。エリスだってわかっているでしょう?」
「わかってはいるのですが、どうしても受け入れがたくて。さっきの馬鹿話を聞いた後だと特に。せめて、アーティがひとつ失敗するたびに鞭打つというのは駄目ですか?」
悔しそうなエリスの言葉に、私は小さく微笑みました。心から私のことを思ってくれる存在というのは可愛いものです。
「もちろん考えなかったわけではないわ。でも私、鞭を使う教育法は好きではないの」
「どうしてそんなにお優しいのですか。あの出会いの顛末を聞いて、私は悔しくて悔しくて……。寝る間を一切与えずに、心と体が壊れる直前まで苦しめるというのはどうでしょう?」
「そんな人でなしなことはできないわね。まあ、あの娘が自主的に頑張る分には、口を挟むつもりは無いけれど」
私の返事に、エリスが唇を噛みます。
「エリス、何を言っても無駄だよ。イブリンの心は誰にも変えられない。多分、フレデリック様でもね」
完全に諦め顔のレイクンが、優しくエリスに言いました。さすが双子の弟、よくわかっています。
「さあ、手早く残りの仕事を済ませて、ハンソン博士とアーティの様子を見に行かなくちゃ。そうそう、明日の朝は早いわよ。ちょっとした調べ物をしに、行きたい場所があるの」
私は再びにっこり微笑んで見せました。頭の中は明日の計画でいっぱいです。
張り切っている私の顔を見て、レイクンとエリス、そしてテッドまでもが、ほとんど同時に深いため息をつきました。