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「どうしました、テッド」
少し間をおいてから、私は向かいに座るテッドに話しかけました。
「はい、イブリン様。バーナード様付きの使用人たちの挙動に不自然なものを感じて、少し前から探りを入れていたのです。賄賂を掴ませても、中々口を割りませんでしたが。今日ようやく、ひとりの侍女から興味深い話を聞くことが出来ました」
私は目線で続きを促しました。テッドがうなずきます。
「毎日のようにバーナード様を訪ねてくる女性がいるそうです。バーナード様が仕事を理由に、イブリン様との外出を断った今日のような日にも。付き添いもなしに、裏口からこっそり入ってくると。そして必ずバーナード様が出迎えるのだと」
「そう……どこかの貴族の未亡人かしら。バーナード様は愛人の座を求める未亡人たちから、もう何年も追い回されていらっしゃるそうだし。社交界きっての美男子で、テイラー公爵家の嫡男ともなれば、それも無理からぬ話だわ」
私はため息をつきました。
テイラー公爵夫妻から聞いていた話では、バーナード様は『社交界の花』とうたわれるような美人の未亡人にはいたって無関心で、目もくれないとのことでしたが。
「バーナード様は二十五歳、遊びを遊びと心得た大人でいらっしゃるわ。三か月後の結婚式までには、上手く清算してくださるでしょう」
腹の立つ話ですが、若い紳士が貴族の未亡人を愛人に持つことは決して珍しいことではありません。未亡人の側も、引き際は心得ているはずです。
「イブリン様、そうではないのです」
目の前のテッドが、苦しげに顔をしかめます。
「こっそりやってくるのは『平民』の娘なのです!」
私は衝撃を受けました。王家に近い血筋の公爵家嫡男が、平民の娘を屋敷に招き入れるとは!
王家や公爵家の人間は、普通の人のように人前で激しい感情を表すようなことを、決してしてはいけません。
私は驚愕を持ち前の自制心で抑え込みましたが、言葉を発する余裕はありませんでした。テッドがさらに言葉を続けます。
「平民の娘は、肉屋の馬車に乗ってくるとか。 バーナード様が用心にも用心を重ねて手配しているのでしょう。首尾よく屋敷の中に入ると、その娘はバーナード様とともに、イブリン様が嫁いでから使う予定の寝室に入っていくそうです」
「……………」
「イブリン様が馬車に乗り込む数分前に、情報源の侍女が裏口に向かう肉屋の馬車を確認しています」
「……………そうですか。テッド、よく聞き出してくれました。公爵家の使用人はどこも口が堅い。かなり苦労したでしょう」
私はテッドの端整な顔を見つめました。忠実な影のように仕えてくれる彼は、私の懐刀なのです。
そして私が幼い頃から近くにいてくれたエリスは、私の気性と気持ちを知り抜いています。そのエリスが胸の前で両手の指を組み合わせ、困ったような声を出しました。
「あらまあ、どうしましょう。私ったら、イブリン様の扇を持ってくるのを忘れてしまいました。これから伺うガッシー伯爵夫人のお屋敷は、空調があまりよくありませんし。バーナード様のお屋敷の、寝室横の衣装部屋に予備があったと思います。イブリン様、お戻りになった方がよろしいかと」
屋敷に戻る口実を作ってくれたエリスは、お腹の中で相当怒っているようです。私は静かにうなずきました。
「バーナード様のところへ戻ります」
三か月後に始まる新婚生活に向けて、さっき出てきたばかりの屋敷には私の私物が次々に搬入されています。中でも寝室は、私が特別な聖域だとみなしている大切な部屋なのです。
平民の娘と、それを出迎えるバーナード様……一般常識ではありえない組み合わせが真実かどうか、そして彼らが私の持ち物が詰め込まれた寝室で何をしているのか。
公爵令嬢のプライドにかけて、私はそれを絶対に確かめなくてはなりませんでした。
私は目を閉じ、考えを巡らせます。
「テッド、先に屋敷に戻りなさい。バーナード様と平民の娘が『私の寝室』に入ったことを、件の侍女を使って確認するのです」
どんな危機に際しても毅然とした態度で立ち向かう、いつもの自分に戻ったのを感じました。目を開き、声を低くして言い添えます。
「使用人たちに釘を刺すことを忘れずに。私が戻った時に騒ぎ立てたり、寝室まで報告しに行ったりした者は即刻首だと。誰が未来の女主人か思い出せ――と」
「仰せの通りにいたします」
テッドは御者に命じ、少し先の空き地で馬車を回させました。そして今来た道を戻らせ、ひとり通りの角で馬車を降ります。私とエリスはしばらくここで待たなければなりません。
馬車が停まった場所から、屋敷の一部が見えています。この界隈きっての美しい館だと評判の、私が新婚生活を送るはずの大邸宅です。
大貴族同士の結婚では、男の側が新居を用意し、女の側が中身を用意するというのが常識となっています。
テイラー公爵家は王都の一等地にあった某伯爵家と、隣接する某子爵家の屋敷を大枚をはたいて買い取り、二軒の家を合わせて造り替えてくださったのです。
ミルバーン公爵家は、それに見合うだけの立派な家具を全部屋分用意しました。先に住むことになったバーナード様の新しい衣装も、一流の仕立て屋に相当な数を作らせ、クローゼットに収められています。
そして三か月後にこの屋敷の女主人になる私が、結婚式の当日から何不自由ない暮らしを送れるように、新しいドレスや宝石などが日々搬入されているのです。
もちろんこれらは結婚の持参金とは別です。持参金は結婚式の朝に送られるのが一般的で、両親が私のために用意した持参金は莫大な金額になります。
(あれは私のお気に入りでいっぱいの屋敷。絵画も陶磁器も家具も、時間をかけて選んできたものばかり……)
婚約が決まってから十三年、訪れたすべての場所で探してきたのです。一流好みのバーナード様が気に入ってくださるようなものを。その美しさや素晴らしさをわかちあいたいと、胸を躍らせながら。
角の向こうから、見覚えのある侍女がおずおずと姿を現しました。情報提供者の彼女を、テッドが使いに出したのでしょう。彼自身は屋敷の使用人たちを見張っているはずです。
エリスが馬車の窓を少し開きます。
「お、お戻りになって大丈夫でございます……!」
侍女は真っ赤な顔をして言うと、一礼して走り去りました。
「さあエリス、自分たちの目で確かめましょう」
「はい、イブリン様」
エリスが合図をすると、馬丁が素早く御者席から降りて馬車の扉を開けてくれました。
屋敷の前庭の敷石は、馬車で走ると音を立ててしまいます。蹄の音も響きますし、歩いて行くのが安全でしょう。
私とエリスは馬車から降り立ち、日よけ用のパラソルを開きました。夕方近いとはいえ、初夏の日差しは強いもの。この界隈は高級住宅地ですから、令嬢が散歩をしている風情を装っておけば何の問題もありません。
ゆっくり歩いて屋敷の門へ向かいます。私の寝室は三階の右端ですから、たとえバーナード様が窓から身を乗り出したとしても、パラソルに隠れた私の顔は見えない。
玄関前には、執事と侍女頭が凍り付いたように立ち尽くしています。彼らは先に新居で暮らし始めたバーナード様が、テイラー公爵家から連れてきた使用人です。
私たちがパラソルをたたむと、侍女頭が慌てて受け取り、執事がドアを開きました。私はエリスを従え、玄関ホールを通って大階段へと向かいます。
「お、お待ちくださいイブリン様。バーナード様から、どなたもお通ししてはならないと言われているのです」
「私は必要なものを取りに戻っただけですよ。まだ嫁ぐ前とはいえ、この屋敷の調度品はすべて我がミルバーン公爵家が用意したのです。中でも寝室には私の持ち物がたくさんあるのですから、文句を言われる筋合いはありません」
「そ、それはそうですが……」
言葉を失った執事の代わりに、侍女頭が大階段の前に立ちふさがります。
「イブリン様、どうか考え直してくださいませ。この世には知らない方がよいことも――」
「そこをおどきなさい」
私の低く抑えた声を聞いて、侍女頭は震えあがりました。この静かな声は、大声で叱るよりずっと効果的なのです。
侍女頭がへなへなとその場に崩れ落ちます。テッドが姿を現し、彼女の体を脇へよけてくれました。幅は十分すぎるほどありましたが、私が真ん中を歩けないなどということがあってはなりませんからね。
(ところどころに泥が落ちている……)
これはつい先ほどは無かったもの。私はエリスとテッドと視線を交わし、磨き抜かれた大階段を上り始めました。
踊り場で振り返り、顔を青くしている執事と侍女頭、息を詰めてこちらを見上げる他の使用人たちに告げます。
「万にひとつもそんな馬鹿なまねはしないでしょうが、これから起きることを決して口外しないように。漏らした者は即刻首、他家に仕えるための紹介状も書きません。カークレイ王国内に新たな働き口は無いと思いなさい」
使用人たちが息を呑む音を背中で聞きながら、私はまた階段を上り始めました。
泥は三階まで続いていました。ええ、まるで農民が畑仕事の後にそのままやってきたかのよう。
私たちは足音を忍ばせて廊下を進みました。寝室のドアはしっかりと閉じられているかと思いましたが、かすかな隙間が開いています。
ドアに歩み寄ると、耳を澄ますまでもなくバーナード様の声が聞こえてきました。