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私はにっこり笑って言葉を続けます。
「色々と難しいことを言ったけれど、一番の目的は楽しみながら時間を共有する事なのですもの。ひとりだけが会話についていけないような雰囲気では困るわ。教養が身につくまでは、あなたも参加できる簡単なことを話題にしましょう」
「それって一体どんな話題なんだ?」
白ワインをひと口飲んでから、レイクンが首をかしげます。
「そうね、例えばアーティの子どもの頃のこと。乗馬クラブでの仕事内容も興味深いわ。話題を厳選するのは、食事中に会話を楽しむことに慣れてからいいと思うの。最初のうちは、貴族の食事の席にふさわしい話題でなくてもよしとしましょう」
「なるほど……イブリンが考えていることは、よくわかった」
レイクンがにやりと笑います。さすがは私の双子の弟、すぐに真意が伝わったようですね。
(そう、これはアーティの本音、アーティの中の真実を聞くための時間)
一日中きつく叱られているアーティが、遠慮なく本当のことを言える時間。何を言っても怒られない時間──彼女のテーブルマナーが完璧になるまでの間は、そういうご褒美的な位置づけにするつもりです。
(アーティが魚や肉を切り分けることに集中している無防備なところを突いて、私が望む方向に会話を誘導する)
まずはバーナード様とアーティの出会いの経緯を聞き出しましょうか。それがディナーの席での望ましい話題ではないことを知るのは、もう少し後でいい。
「アーティ、あなたは係累──つまり血の繋がりのある人がいないのだったわね。育った孤児院は、王都でも大変評判の良いところだったとか」
「はい。でも十二歳になると、男の子は出ていかなきゃいけなくて。みんな職人さんの見習いになるんです。女の子は商家の奉公人になるか、孤児院に残って小さい子たちの世話をするか選べるけど。アタ……私は懐いてくれている子たちと離れたくなくて、十六歳まで孤児院にいました」
「じゃあ乗馬クラブで働き始めて、一年くらいしか経っていないのね」
アーティが魚を切り分けながらうなずきます。私はすべて報告書で読んで知っていますけれど、いきなり本題に入ると身構えてしまいますからね。
口直しのシャーベットが運ばれてきます。これは果汁を凍らせたもので、糖度は高くありません。メインの肉料理を美味しく味わうために、口の中をさっぱりさせるのです。
「乗馬クラブでは、どんなお仕事をしていたの?」
「お掃除ばっかりでした。たまに厨房で皿洗いとか、オーナーの子どもの遊び相手とか」
これも報告書を読んで知っていますが、私は「そうなの」と優しく答えました。
食べやすく美味しいシャーベット、そして和やかな雰囲気に気をよくしたのか、アーティの舌がよく回ります。
「あと、馬糞の処理も。乗馬クラブだから馬糞がいっぱい出るんですけど、それが山みたいになってて。肥料にするために、三日ごとに混ぜる仕事もやらされました」
不快な臭いが漂ってきたかのような錯覚に襲われましたが、私は顔をしかめませんでした。もちろん、レイクンとエリスも。トーラ夫人や使用人たちも泰然たる態度で、さすがとしかいいようがありません。
非常識な会話を注意して座が白けないように、いつもの私なら上手く会話を誘導するのですが。今回はアーティの口を軽くするのが目的ですので、好きなように喋らせます。
「では、あまりお客様の前に出る仕事ではなかったのね。力仕事は大変だったでしょう」
「そうですね、もう本当に辛くて。すごくいじわるな先輩がいて、私にばっかり馬糞当番をさせるんですよ!」
赤ワインが注がれ、メインの肉料理が運ばれてきました。骨付き子羊のローストに野菜の蒸し煮が添えられています。
アーティにはマナーを気にせず食べていいと言いましたが、きっと悪戦苦闘するでしょうね。周りの──特に真横に座る私の表情をうかがう余裕などないはず。ええ、料理人とメニューについて打ち合わせをしたのは、もちろん私です。
「最初に骨から肉を切り離すと食べやすいわよ」
「あ、はい」
アーティは少し前屈みになって、一生懸命に肉と骨を切り分け始めます。このタイミングで、私はさりげなく話を切り出しました。
「バーナード様とは、何がきっかけで親しくなったの?」
「ええっと……私、最初は遠くから見てて」
手元が狂わないよう下を向いたまま、アーティが答えます。
「オーナーから、王子様の次に偉い人だから近づいちゃいけないって言われてて」
乗馬クラブのオーナーは、実はテイラー公爵領の出身。名馬の産地である故郷から、引退した競走馬を引き取っているのです。そしてバーナード様は議会後の息抜きに、かつて自分が調教した馬たちに乗りに来ていた。
「でも王子様と同じくらいお金持ちだって聞いた瞬間から、どうしても近づきたくなって。だってそんな人、もう二度と出会えないと思ったんです」
私は赤ワインではなく、冷たい水をひと口飲みました。レイクンと視線が合い、私は「何も言うな」という気持ちを込めて、小さく首を横に振ります。
「普通に生きていたら知り合えない、雲の上の人ですものね。一体どうやって彼に話しかけたの? 勇気を振り絞っても、かなり難しかったでしょう」
「そうなんです。だから私、一番下っ端の馬丁に一生懸命お願いしたんです。一度でいいから、近くからバーナード……バーナード様が見てみたい、お願いだから厩舎に隠れさせてって」
そう答えるアーティは、相変わらず骨付き肉に苦戦しています。バーナードと呼び捨てにしなかったあたりが、一日分の教育の成果かしら。
「あなたに頼み込まれたら、その馬丁も断れなかったでしょうね」
「本当に一生懸命お願いしただけなんです。両手の指を組み合わせて、じっと馬丁の目を見て。そうしたら、特別だぞって厩舎に入れて貰えて」
私はなるほどと思いました。切羽詰まった声で哀願して、相手の目をひたと見つめる魅了術。アーティのような人間にとって、男性を誘惑するのは無意識の行動なのでしょう。
彼女の後ろに立っているトーラ夫人が、呆れたような顔をしています。明日の指導は厳しくなることでしょうね。
「バーナード様が通りかかって、胸がどきどきして、膝から力が抜けて……私ったらよろけちゃって、彼の目の前で思いっきり転んだんです」
「痛そうね」
「はい、痛かったです。私って馬鹿だなあ、恥ずかしいなあって思ったら、笑えてきちゃって。自分で自分の頭を叩いてたら、バーナード様はびっくりしたみたいで。慌てて私の腕を掴んで『そんなことをするんじゃない』って」
アーティはそう言って、ようやく切り分けた肉を頬張りました。
「優しいなあって感動しました。だから私、思い切ってお願いしたんです。『足をくじいたから運んでほしい』って。そうしたら、お姫様抱っこをしてくれたんです。今から思うと、あんなに大胆になったのは生まれて初めてでした」
「おとぎ話のように素敵なお話ね」
私は優しい声で言いました。
(やっぱりアーティと並んで座っていてよかったわ。お肉に夢中になっている彼女からは、私の顔が絶対に見えないもの)
私は心から安堵しました。なぜなら私は今、必死で笑いをこらえているのですから。
(なんて馬鹿な男なのかしら。地位や財産を目当てに誘惑してくる貴族の未亡人と、アーティは本質的に変わらないのに……!)
私は唇を噛みました。込み上げてくる笑いを押さえる方法がそれしかなかったからです。
バーナード様は誘惑した側ではなく、された側だった。少なくとも自ら平民を誘惑するという、貴族らしからぬ行為はしなかったわけですね。まあ、そんなものは何の救いにもならないのですけれど。
「勇気を出してよかったわね、望んでいた通りにバーナード様と親しくなれたのだもの。あなたが『実は一生懸命頑張っていたこと』を、彼は知っているの?」
「いいえ、恥ずかしいから言ってないです」
「そう……」
私はまた唇を噛みました。ああ、笑いをこらえるのがこんなに難しいのは、生まれて初めて。
テッドがさりげなく、水のグラスを氷が入ったものに取り換えてくれました。今の私にはぬるくなった水より、背筋をしゃんとさせる冷たい水がいいと判断したのでしょうね。
私は冷えた水と一緒に笑いも飲み込んで、自然な動作で肉料理を口に運びます。
(化粧もしないで、みっともない木綿のワンピースを着た平民の娘が、目の前で『わざと』転んだとも知らずに。いかにもわざとらしい、未亡人顔負けの手練手管じゃないの)
バーナード様を落とすのは簡単だったでしょう。アーティは見事に不意を突いたのですから。彼女の誘惑は一見、洗練された未亡人の誘惑とは違って見えたはず。
偶然? いいえ、すべてが計画と策略によるもの。
無垢で純粋? いいえ、ありったけの魅了術を総動員していただけ。
運命の出会い? いいえ、よこしまな欲望を持つ女から、まんまと手玉に取られただけ。
(ああ、おかしい。アーティの行動があまりにも無邪気で、あまりにも突飛なものだったから、不用心なバーナード様には効果てきめんだったのね。わかりやすい誘惑を実行に移す未亡人より、よほど小悪魔的なのに!)
私はまた漏れそうになった笑いを、肉と一緒に嚥下しました。
アーティ自身も『わざと』ではないと信じているから、よけいに質が悪い。自分には責任がないと思い込んでいる。無邪気で天真爛漫、技巧的な行動も自然に見えてしまう、天然物の魔性の女。
(自覚のない悪女ってところね。バーナード様のことなどもうどうでもいいけれど、次の被害者が出ないようにしなければ。本当に悲しむ女性が出る前に、この私がアーティを変えてみせる)
私はそう決意を新たにしました。