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 アーティは小食堂を見回して、ぽかんと口を開けています。

 長くて大きなテーブルの両サイドに、それぞれ十脚並んだ椅子。しみひとつない真っ白なテーブルクロスの上に、磁器の皿と銀器、クリスタルグラスが並んでいます。それから美しい枝付き燭台、彩を添える花装飾、皿の上には凝った形に折られたナプキン。


「こ、こんなにすごいのに小食堂なんだ……じゃなくて、小食堂なので、すか……?」

「ええ、普段はこの小食堂で食事をするの。親しい方だけを招いた、こじんまりした催しでも利用するわ。例の新居にも百人近く収容できる大食堂と、とても贅沢な造りの小食堂があるのは知っている? バーナード様が主催する午餐会や晩餐会では、あなたが女主人の役割を果たすの」


「そ、それは……見せてもらってないです。あの、アタシに女主人なんて──」

「アタシではなく『私』と言いなさい。今回までは大目に見るけれど、もう二度と使わないようにね」


 先ほどのトーラ夫人との特訓中にも、私はアーティの言葉遣いを何度も注意しました。淑女に変身するためには、言葉の猛特訓にも耐えてもらわなくてはね。

 でもまあ、今日は初日ですし。『アタシ』ではなく『私』を使うことを忘れないよう努力してくれれば、それでよしとしましょう。


「それから爪を噛むのはおやめなさい。そんなことをする淑女はひとりもいません。さあ、言葉に出して誓って」

「……はい。わたくし、は、もう爪を噛みません」


 私は微笑みました。爪を噛むのは精神的なストレスのせいでしょうが、すべてはアーティの幸せのためですもの。それに我が家には、ストレスを緩和する秘薬もありますからね。もちろん、薬に依存しすぎないように注意が必要ですが。


「アーティ、あなたの席はここよ。まず椅子の左側に立ちましょう」


 私は椅子のひとつを手ぶりで示しました。アーティがおずおずと移動すると、レイクンがその椅子の背もたれを持ち、後ろに引きます。


「椅子の前に移動して、膝の裏に椅子が当たるのを感じたらゆっくりと腰を下ろして。レイクンがタイミングよく椅子を押すから、きょろきょろしては駄目よ」


 緊張感のみなぎった表情で、アーティがぎくしゃくと椅子に座りました。

 私は彼女の隣の椅子をレイクンに引いてもらい、優雅に腰を下ろします。こうして私がアーティの真横に座るのは、手本を示すためです。

 レイクンとエリスがテーブルの反対側に回り、作法通りに席に着きました。トーラ夫人はアーティの背後に立ち、テッドは給仕の従僕たちに混じって食事開始の合図を待っています。


「料理や飲み物が運ばれて来る前に、ナプキンを手に取って広げるの。こうして二つに折って、輪の部分──折り目を自分の方に向けて膝の上に置く」


 私が手本を示し、アーティがおたおたしながら真似をします。


「これで、食べ物や飲み物をこぼしてもドレスが汚れないわ。口の周りや手を拭くときは、ナプキンの内側の端を使うこと。次に、グラスと銀器の配置について説明します」


 アーティが前のめりになって、テーブルの上に並んだたくさんのクリスタルグラスと銀器を眺めています。


「アーティ様、背筋を伸ばしてください」


 トーラ夫人が言うと、アーティが慌てて姿勢を正しました。私はさらに説明を続けます。


「あなたから見て右上に、グラスがたくさん並んでいるわね。右からシャンパングラス、白ワイン用、赤ワイン用、お水用。あなたは妊娠中だから、お水以外は口をつける真似だけにしてね」

「……はい」


「ナイフとフォークといった銀器もたくさんあるけれど、そう難しくないわ。左右の物は、外側から順番に使えばいいの。上に並んでいるのはバターナイフとデザート用よ。ナプキンが載っていたお皿は飾り皿と言って、座る位置を示す目印であると同時に、お客様の目を楽しませるものよ。女主人のセンスが問われるわね」


 私が目で合図をすると、テッドと給仕の従僕たちが食前酒のシャンパンを注ぎます。そして飾り皿が下げられ、新たな皿が運ばれてきました。


「まずは食前酒。胃に軽く刺激を与えて、食欲を増進させるわ。グラスはこういう風に持つとスマートね。胸の高さまで持ち上げ、相手の目を見て『乾杯』と言えばいいの。グラスを打ち合わせるのはマナー違反よ」


 私はグラスを持ち上げ、アーティを見つめて「乾杯」と微笑みました。そしてシャンパンをひと口飲みます。アーティは真似事だけして、ちょっと未練がましい表情でグラスを置きました。


「そして前菜。ごく少量だけど、彩りが豊かでしょう? これも食欲を高めるために、塩味や酸味が効いているわ」


 美しく盛り付けられた前菜に、アーティが小さく歓声を上げます。


「一番外側の、前菜用のナイフとフォークを手に取って」

「は、はい」

「持ち方が間違っているわ。私をよく見て、真似をしなさい」

「はい」


 アーティが慌ててナイフとフォークを持ち直します。しかし位置がおかしい。緊張しすぎているのか、肘をぴんと張っています。

 トーラ夫人がアーティの手を取り、正しい位置でナイフとフォークを持たせ、肘も軽く曲げさせました。まだ指に力が入りすぎていますが、まあよしとしましょう。


「この美しい盛り付けをいっぺんに崩しては駄目よ。ひと口分ずつ、左端から切って食べていくの」


 私が実践して見せると、アーティは見よう見まねで懸命に食べ始めました。


「食べ終わったら、ナイフとフォークをこのように置くの」


 給仕役のテッドが銀器の載った皿を下げます。そしてスープとパンが運ばれてきました。


「スープには、右側の一番外側にあるスプーンだけを使うわ。一度に掬う量は半分より少し多いくらいにしましょう。冷ますために息を吹きかけたり、音を立てて飲んだりしてはいけません。前かがみにならないように注意して。それからパンにかぶりついては駄目よ、一口で食べられる大きさに手でちぎって、その都度バターを塗ってね」


 しかしアーティは音を立ててスープをすすってしまい、向かいに座るレイクンとエリスが顔をしかめました。焦りのあまりスプーンのバランスが崩れ、アーティの手から零れ落ちます。


「あ!」

「立ち上がらないで。落としたものを自分で拾ってはいけないの」


 給仕役のテッドが、すぐに新しいスプーンを届けてくれました。それからアーティは、並々ならぬ緊張感でスープを飲み、パンを食べ終わりました。ひとつの間違いも犯さない、というわけにはいきませんでしたけれど。


「スプーンはそのままお皿の中に置いておきます」


 私はナプキンの内側の端で口元を拭いました。アーティも同じようにします。テッドがスープ皿を下げてくれました。


「こうして銀器が減っていくから、次にどれを使えばいいかすぐにわかるでしょう。これから魚料理、口直しのシャーベット、肉料理、デザートと続きます。私の真似をして食べながら、少し会話を楽しみましょうか。もちろん、口に物を入れたまま話しては駄目よ」

「か、会話ですか?」


 アーティの顔が引きつります。それどころではないというのが正直なところでしょう。


「あなたはいずれバーナード様の妻として、一緒に食事をする人々にふさわしい話題を提供しなければならないわ。最新の流行や、ちょっとした噂話、自分が見た劇や流行の文学、出席した舞踏会のことなど。たわいない、気軽な世間話ね」


 全員に白ワインが注がれ、魚料理が運ばれてきます。お酒を飲めないアーティは水をがぶ飲みし、トーラ夫人が「もっと淑女らしくお飲みなさい」とたしなめました。


「世間話の重要性を決して見くびってはならないの。集まった方々の中には、過去の出来事や政治面で対立関係にある人たちがいるかもしれない。食事の場で意見を戦わせるようなことになったら困るでしょう? お客様がゆっくり料理を味わえるように、女主人は絶えず臨機応変に会話を導かなければならないの。つまり安全で気楽で、洗練された会話にふさわしい話題を提供するのよ」

「…………」


 フィッシュナイフとフォークを握りしめて、アーティは途方に暮れたような表情です。テーブルマナーもよくわからない現状では当然でしょう。


「とはいえ、今のあなたにそこまで要求するのは酷というものよね。何を食べたのか、どんな味だったのか、まるでわからなくなってしまうでしょうし」

「は、はい。私、も、そう思います」


 私が魚を口に運ぶと、アーティも懸命に魚を切り分けて口に入れます。


「会話をしながらだと、頭が混乱して食事に集中できなくなってしまうわよね。あなたは前菜とスープをきちんと食べたから、残りの食事は気楽に食べてもらおうと思うの。ここから先は、私もトーラ夫人もがみがみ言わないわ。これなら、あなたも会話を楽しめるでしょう?」

「は、はい!」


 アーティがわかりやすく顔を輝かせました。

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