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アーティへの情け容赦のない教育が始まりました。
教育の総指揮をとるのは私ですが、私の恩師たちにも協力を仰いでいます。何しろ三か月しか猶予がないので、チームで教育に当たらないと間に合いません。
アーティを養女として受け入れてくれる貴族の選定や調査などで、私が不在となる場合もありますしね。
教師陣は超一流の方々ばかりなので莫大な報酬が必要ですし、口止め料も上乗せしなくてはなりません。費用はもちろん、テイラー公爵家の負担です。
「もぞもぞしないで、しっかり頭を上げなさい。駄目駄目、顎を引いて。その姿勢のまま歩いてごらんなさい。ああ駄目よ、床ばかり見てはいけません!」
「は、はははは、はい!」
礼儀作法担当の女性教師で、御年六十歳のバレッサ・トーラ先代伯爵夫人が顔をしかめます。頭上に本を乗せて歩くアーティの動きは、洗練された優雅さに欠けている。生まれながらの貴族ではないので仕方のないことですが。
「また本がずり落ちましたね。足元ばかり見て歩いているからです。ぐっと胸を張って、真っすぐ前を見る。では、あの線のところまで歩いて。足音を立てず、歩幅は小さく!」
「うぅううっ」
アーティの頭から何度も本が滑り落ちます。私は壁際の椅子に座り、トーラ夫人から叱られる彼女を冷静に眺めていました。
(よくよく観察してみると、運動神経は悪くない)
大騒ぎしつつも真剣に課題に取り組んでいるので、何度も繰り返すうちに姿勢や歩き方がよくなってきています。
もちろん、ノウハウを持った教師による集中特訓のおかげです。しかしアーティの運動能力の高さも、淑女らしい動きの習得にひと役買っている。
(よかったわ。パニックを起こしがちな上にどんくさかったら、状況がもっと悲惨なものになるところだった)
アーティの出来が悪ければ、時間を捻出するために睡眠時間を削るしかありません。日中の眠気は意欲の低下、記憶力の減退を引き起こしますからね。
歩く、座る、立つ、お辞儀をするといった体の動きは基本中の基本ですし、この部分の教育が順調に進みそうなのは喜ばしいことです。
「ふむ、歩き方は多少ましになりましたね。では次にお辞儀をしてみましょう。貴族の女性のお辞儀は、相手の立場に合わせて膝や足の曲げ方を微妙に変化させる必要があります。イブリン様、お手本を示してくださいませんか」
私は「はい」と答えて、アーティの横に並びました。
まず、わずかに頭を下げるだけの会釈。目下の貴族相手ならこれで十分です。
次に、スカートを少し持ち上げて、左足を斜め後ろの内側に引き、右足の膝を軽く曲げます。背筋は伸ばしたままで、頭だけを軽く下げます。目上の相手──私の場合は八大公爵家の当主夫妻が相手ですと、この挨拶をします。
そして最上級の挨拶は、先ほどの挨拶をもっと深くしたもの。右足の膝を深く沈めて、優雅にひざまずくのです。貴族が王族にお会いする際に、この最敬礼をします。フレデリック様がお忍びで我が家にいらっしゃった時は、遠慮なく省略しておりますが。
「さすがイブリン様、エレガントでパーフェクトですわ」
トーラ夫人が満面の笑みで拍手をします。隣のアーティがほうっと息を吐くのが聞こえました。
「ではアーティ様、まずは会釈から。ああ、それでは頭を下げすぎです。はい、もう一度。そう、今のはよろしい。次はスカートを持ち上げてごらんなさい。駄目駄目、それでは上げすぎです。淑女はくるぶしを見せてはなりません。はい、左足を斜め後ろに引いて、右膝を軽く曲げて──」
私はまた壁際の椅子に戻り、アーティの観察を続けます。
(トーラ夫人との相性は悪くないわね。指導は厳しいけれど本質は穏やかな人だから、アーティも恐怖を感じていない)
私がそんなことを思った次の瞬間、アーティの体がぐらつきました。スカートをつまんだまま鼻から床に倒れそうになったところを、脇に控えていたテッドが素早く抱き上げます。
「あ、ありがとう……」
テッドのたくましい体に寄り掛かったアーティが頬を染めます。氷のように冷たい顔のテッドが「仕事ですので」と答えました。
「アーティ様。そんなに何度もまばたきをするのは、傍から見ていて下品です。あなたに魅了術──そう、バーナード様以外の男性をたらしこむ技は必要ないはずですよ」
「た、たらしこむって……」
トーラ夫人の言葉に、アーティの顔が真っ赤に染まります。自分が無意識に男性に媚びるような仕草をしていることに、今まで気づいていなかったのですね。
(さすが温和なトーラ夫人、言い方が優しいわ。これが後から来る予定の『もう一人の先生』だったら……)
アーティには、十七歳の娘らしい無垢なオーラがない。バーナード様と関係を持って妊娠までしたのだから当然ですが。
彼女がバーナード様以外の青年貴族を、無意識の仕草で誘惑したら面倒なことになります。社交界でふしだらな女の烙印を押されたら、今度こそ修道院送りです。
だからアーティは、あくまでも無垢な生娘のふりをしなければならない。いまさらながら彼女に貞操観念を植え付けることも、教師たちの大切な仕事です。
「では、気を取り直してレッスンを続けましょう」
テッドの手を借りて体勢を立て直したアーティに、トーラ夫人が挨拶その他の立ち居振る舞いを教え込みます。アーティは次から次へとミスをしましたが、叱責を素直に受け入れています。
「本日はここまでにしましょう。どの動きもまだまだなので、明日も厳しく指導しますよ」
「お、おわったぁ……」
待ちに待ったトーラ夫人の言葉を聞いて、アーティが床にくずおれました。すべての動きを細かくチェックされ、二時間みっちり指導されたのですから疲れたのでしょう。
もう休みたいに違いありませんが、あいにく夜中までレッスンの予定を組んでいます。今日からの二週間で、貴族らしい立ち居振る舞いを集中的に学ぶのですから。
「そろそろ夕食の時間ね。まずは食堂でテーブルセッティングを学ぶわ。銀器やグラスの正しい並べ方は知らないでしょう?」
私が言うと、疲れ果てたアーティは何が何だかわからないといった顔でうなずきました。
(どうやら、バーナード様とは気軽な食事しかしなかったようね。彼は平民ごっこが楽しかったのかしら。気取らず、リラックスして食べるアーティが可愛かったのかも知れないわ。ならば気合を入れて、正しい食事の作法を教え込みましょう)
私はそんなことを考えながら、アーティとトーラ夫人を連れて一階の食堂へと向かいます。普段使いの小食堂に入っていくと、仏頂面をしたレイクンが待っていました。
「その女のことは気に食わないけど、僕はイブリンと一緒に夕食を食べるのが日課だし。椅子を引く役目を果たす人間も必要だろうし」
不愛想な口調でそう言いつつも、わずかに顔を赤くしているレイクンに、私は微笑まずにはいられませんでした。




