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「昼食をお持ちいたしました」
銀のトレイを持った侍女たちが入ってきました。
運ばれてきたのは、薄く切ったパンの間に肉や野菜、特製のパテなどを挟んだもの。ミニトマトと数種類のチーズが添えられています。フレッシュジュースとアイスコーヒーのポットも運ばれてきました。
ちょっとした会議もできるテーブルの上に、侍女たちがトレイを置きます。
手間をかけず短時間で食べることができる、これぞ軽食といった料理を見て、フレデリック様は妙に嬉しそうです。
私は机からテーブルへと移動し、フレデリック様と雑談をしながら手早く昼食を済ませました。彼は王太子ながらエリスとテッドにも気さくに接してくださるので、遠慮なく二人も同席させます。
「さあ、私はまだ仕事をします。フレデリック様は王宮にお戻りになっては?」
「もう少ししたら、アーティの着替えが終わるだろう。せっかくだから見てから帰るよ」
私は「そうですか」と答え、また机に向かいました。
私は日常的にミルバーン公爵家の領地経営を手伝っています。レイクンは病気がちですし、私自身そういった仕事が大好きなのです。自画自賛するようですが、私の領地運営は的を射ているようで、我が領地はかなり栄えております。
こうして王都にいても、領地の本邸にいる秘書とも絶えず連絡を取っているので、目を通すべき報告書がたくさんあるのです。
寄付や投資を求める手紙の吟味、山のような招待状の仕分け、それらへ返事を書く作業も、エリスやテッドの手を借りてテキパキと進めます。
「惚れ惚れするなあ。イブリンは本当に仕事が早いね。君が王太子妃になったら我が国は安泰だ」
「なりませんし、なれません」
私はペンを走らせながら、きっぱりと答えました。
しきたりというのは、誰にも変えられないまま長い時が過ぎたから、しきたりとなったのです。首尾よくアーティにバーナード様を押し付けることができても、四歳も年上の私が王太子妃候補になることはない。
次の瞬間ノックの音が響きました。私が「どうぞ」と答えるとドアが開き、シェンダが顔をのぞかせます。
「アーティ様のお支度が整いました」
「そう」
私はペンを置いて立ち上がり、ドアの方まで歩きます。
「顔色が悪いわ、シェンダ」
「ちょっと……疲れているだけです。精一杯淑女らしく見せようと心を砕き、それなりの出来栄えになったとは思いますが。アーティ様はまるで、調教が済んでいない馬のようで……」
私の背後でフレデリック様が笑い声を上げました。
「とことんバーナード好みの女というわけか。あの男が、貴族の常識では考えられないほど平民の女に夢中になった理由が、やっとわかったよ」
先ほどの私とスタントンの「バーナード様は調教されていない馬が好き」という会話のせいで、フレデリック様は笑壺に入ってしまったようですね。
「じゃ、早速見に行ってみようじゃないか。アーティを『愛人』ではなく『令嬢』にする第一歩だ。完璧に、徹底的に作り変えて、バーナードへ効果的な復讐をしてやろう」
「フレデリック様のおっしゃる通りですわ」
エリスがうなずきます。
「アーティのお腹には子供がいますから、身体的に痛めつけることはできませんけれど。精神を苦しめてやってもいいはずです。つらく厳しい教育で、巧妙に苦痛を与えてやりましょう。これなら傷跡も残りませんしね」
エリスの言葉に、私はため息をつきました。
「淑女教育中に復讐のことばかり考えていたら効率が良くないでしょう。私は憎しみをいったん忘れて、教師役に専念するつもりよ」
「君って真意を掴ませないよねえ。ますます王太子妃にぴったりだ」
フレデリック様の言葉を黙って聞き流します。真意など、誰にも理解されたくありません。これでも傷心中で、自分でも自分の心がわからないところがありますし。
(確かに、過酷な教育は懲罰になり得る。本物の教育は甘いものではないわ。アーティをびしびし鍛えるのは私の役目。地獄の苦しみであっても、バーナード様への愛があるから耐えられるはずよね)
シェンダを先頭に廊下を歩き、私たちは二階へ向かいました。
アーティの部屋に入ると、座っていた彼女がよろよろと立ち上がります。
あっさりとした仕立てで、美しいけれど飾りの少ない緑色のドレス。丁寧にブラシでとかした髪、巧みなメイク。
男爵令嬢用のシンプルなドレスだからこそ、わずかな手直しで済んだのですね。とはいえシェイダたちが、手厚くアーティの世話を焼いたことは間違いありません。
「少なくとも平民には見えないね」
フレデリック様が私の耳元で囁きます。
「とはいえ、小綺麗なだけの安物だ」
それについては私も同感です。
外見的な問題は解決しているので、短い時間なら男爵令嬢として人を欺くこともできそうです。しかし、どうにも板についていない。淑女とはどういうものかを教え、根本から変えていかなければ。
「み、みんなしてアタシの体をいじくり回して、ため息をついて。心の中で、何も知らない平民だって馬鹿にしてるんだ」
アーティが不機嫌そうな顔をします。
「アタシ、自分でどうにかできるから侍女なんかいらない!」
シェンダが眉間を押さえ、深々とため息をつきました。
「それは無理です。貴族のご令嬢は、常に背中の美しさを見られるのです。アーティ様が今着ていらっしゃるドレスも背中編み上げタイプですが、それは使用人にかしずかれる存在であることを表しているのです」
シェンダはさらに言葉を続けます。
「確かに、次から次へと一方的に指示したかもしれません。でもそれは、あなた様が私たちの指示にきちんと従ってくださらないから。協力的でない方に着付けをするのは、本当に骨が折れるのです。ため息のひとつも出ようというもの……」
私はうなずき、アーティを真っすぐに見つめます。
「侍女の手を借りて身なりを整えることは、淑女になるための第一歩ですらないわ。息をするように当たり前のことなの。どうしてもひとりで着ると言い張るのなら、バーナード様の花嫁になることは諦めなさい」
私はきっぱり言いました。
「当初の予定通り愛人に収まったとしても、毎回バーナード様が着付けてくれると思わないことね。そう、あの屋敷の寝室でのように」
アーティがぐっと息を呑みました。
あの時の私には衣擦れの音しか聞こえませんでしたが、やはりバーナード様が着付けを手伝ったのですね。背中までは見ませんでしたが、正面の立ち姿だけでも美しい仕上がりではないのがわかりましたし。
「幼児以下の振る舞いしかできない愛人など、いずれはお荷物になるわ。『一生懸命勉強して、完璧なレディになっておくれ』という彼の言葉を忘れたの?」
私の言葉に、アーティ唇を嚙み締めます。
「だって……バーナードは『ひどい仕打ちはさせない』って言ったもん。この屋敷の人は全員、アタシが嫌いなんだ。悪人を見るような目をされるのだってひどい仕打ちだよ!」
アーティは個人的感情、好悪などを一切隠さない。自分の感情に押し流されてはいけないと、厳しくしつけなければ。
(平民には、時には鞭が必要だと主張する貴族もいるけれど。やはりそれなりの理由があるのよね)
馬の調教にすら、私はあまり鞭を使いません。人も馬も鞭で支配するより、精神で支配したいのです。
(アーティを操る自信はあるけれど、この様子では少し時間がかかりそうね)
そんなことを思ったとき、私の後ろにいたフレデリック様がにっこり笑いながら前に出ました。