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「救いがたい無知さ加減だ。バーナードと結ばれる道を作ったとて、変わることができるとは到底思えん」

「結ばれる? やっぱり私、愛人になれるの? もう、よくわかんないよ……」


 アーティの瞳に涙が浮かびました。

 べそをかくアーティの姿は、テイラー公爵夫妻を大いに呆れさせました。私の両親もそうです。

 自分を取り囲む冷たい視線を感じたのでしょう、あろうことかアーティはブランデーの入ったデキャンタに手を伸ばしました。

 困ったものね、と思いながら私はアーティの手に己の手を重ねます。


「駄目よアーティ、あなたは母親になるのでしょう。八大公爵家のひとつ、テイラー公爵家の血を引く子どもがお腹にいるのよ。『気付け薬』として少量飲む分には構わないけれど、『飲酒』になってしまうと赤ちゃんに悪影響が出るわ」


 飲酒の場合のブランデーは紳士のためのものです。既婚女性ならば夫と一緒に嗜むこともありますが、若い淑女はシャンパンやリキュールを楽しむもの。まあ、アーティは妊娠中なのでそれも飲めませんけれど。


「アタシ、落ち着きたくて……」


 あらあら、と私は微笑みました。アーティの目が未練がましくデキャンタを見つめています。よほど気付けの効果があったのでしょう。

 まさか、ブランデーの味が気に入ったということはありませんわよね。たしかにひと瓶でちょっとした宝石が買えるほどの高級品ですが。


「では、いまは深呼吸をなさい。ブランデー入りの紅茶は、一日に一杯のお楽しみにするといいわ。バーナード様と結婚するあなたが、厳しい教育を乗り越えるために」

「アタシがバーナードと結婚?」


 ようやく意味が分かる言葉が出てきたものの、アーティはきょとんとしています。


「結婚って、夫と妻になるっていう意味?」

「そのとおりよ」


 私はうなずきました。


「貴族だろうと平民だろうと、真実の愛を見つけた人は幸せよ。偽物の愛では決して満足できなくなる。バーナード様にとって、あなたへの愛は命そのもの、人生のすべて。だから私が身を引くことにしたの」


 難しい説明は一切省いて、私はアーティの心に届きやすい言葉だけを選びました。


「じゃあ、アタシがバーナードと結婚できるの? あの人のたったひとりの奥さんになれるの……?」

「そうよ。ただし、決して容易なことではないわ。テイラー公爵ご夫妻は条件をひとつ付けたうえで、二人の結婚を許すことに同意してくださったの」

「条件って、何?」

「三か月のうちに、あなたを誰が見ても公爵家の令嬢としか思えないような、完璧な淑女に仕立て上げること」


 アーティは子どものようにぽかんと口を開きました。


「あなたには今日から、男爵家の養女になってもらいます。数週間後にテストをして、合格できたら子爵家の養女に。次のテストで伯爵家の、さらに次のテストで侯爵家の養女に。最終テストを乗り越えたら、我がミルバーン公爵家の養女になるの」

「アタシが公爵令嬢……」


 いまはまだ淑女教育の厳しさについて、詳しくは教えません。遠大なこの計画はまだ始まったばかり、ここで委縮されては困りますので。


「まあ、簡単なことではないわね。愛の力で人は強くなるというけれど、あなたにできるかしら?」


 私は挑発するように、にっこり笑って見せました。

 アーティはカチンときたようです。人様のものに手を出すくらいですから、やはり気の強いところがあるのでしょう。


「で、できます! バーナードのためなら、どんなことだって耐えられるもん!」

「これから三か月間、バーナード様とは一切会えないけれど、それでも?」

「え…………」


 アーティが絶句しました。


「この計画を成功させるためには、あなたの素性を秘密にしておかなければならないの。不道徳……はしたない行動は慎まなければね」

「でも、でも」

「イブリン嬢が手を差し伸べてくださるのだ、彼女の命令とあらば、たとえ何であろうと黙って従え!」

「ひっ、……ふぇ」


 テイラー公爵の怒号に、またもやアーティが泣き始めました。


「落ち着いて、深呼吸をしましょう」


 私はアーティの手のひらをぽんぽんと叩きました。彼女は素直に深呼吸をします。ええ、素直な子は好きですわ。だって教育の成果が出やすいですもの。


「三か月なんてあっという間よ。あなたとバーナード様は結婚式で再会するの。きっと驚かれるでしょうね、花嫁のベールをめくったら、そこに愛するあなたがいるのですもの! 彼は感動に打ち震えて、あなたを抱きしめてくださるはずよ。乗馬クラブの下働きから公爵令嬢へと華麗に変身したあなたに、平民たちも夢中になるに違いないわ」


 私はじっとアーティの目を見つめました。


「あなたは幕が上がったばかりのおとぎ話の主人公なのよ」

「す、すてきだけど……でもあなたは……イブリンさん、は、本当にそれでいいの?」


 私は笑みを深くしました。ちょっと眉を上げたり、微笑んだりするだけで、人は勝手に相手の気持ちを推し量るもの。アーティも私の表情から、勝手に何かを読み取って感動しています。

 私はテイラー公爵夫妻、そして両親とレイクンを順番に眺め回しました。


「さあ、早速アーティの教育に取りかからなくては。まずは彼女の外見を『男爵令嬢』らしくするところから始めようと思いますの」


 テイラー公爵がはっと息を呑む音が聞こえました。


「そういえば先ほど『今日から男爵家の養女』だと言っていたな。もう受け入れ先を見つけたのか?」

「ええ。昨晩急いで、使用人をサビナ通りに向かわせましたの」


「手ごろな価格の服飾店が並んでいるところだな。最新流行の高価なドレスならルネド通りの方だろうに。サビナ通りの店はどうもぱっとせん。しかしそれが、受け入れ先と何の関係がある?」

「格式を大切にするのは伯爵令嬢になってからで十分ですわ。今はとにかく急ぐ必要がありましたから、サビナ通りで『どこかの令嬢のために用意したドレスで、支払いがされていないもの』がないか、聞いて回らせましたの」


 私はにっこりして、壁際に立っているテッド、それから端の方の椅子に座っているエリスを手ぶりで示しました。


「その結果、ウォーレン男爵のお嬢様のドレスや服飾雑貨が、何か月も引き取られないままになっていることがわかりました。お金の問題を抱えていることは明白ですから、私の代理として、エリス――サトフォード伯爵未亡人を男爵のお屋敷に向かわせたのです」

「なんと……。さすがイブリン嬢、思いもよらない方法で金に困っている下級貴族を探し出したのだな。すでに出来上がったドレスも手に入って、一石二鳥だ」


「お褒めいただいて光栄ですわ」

「ウォーレン男爵の領地はじめじめしていて、作物が育ちにくい。昨年は特に水害が酷かったと聞く。金がないのはそのせいだな」


「その通りです。アーティを養女にすることで得られる金銭の他に、男爵のお嬢様の社交界デビューを支援する約束もしましたの。サビナ通りの服飾店のドレスはアーティのために買い取りましたから、ルネド通りの高級服飾店をご紹介したんです」

「つまりウォーレン男爵の娘を人質に取ったも同然……上手いやり方だな。あの男爵は口が堅い、誠実な人柄との噂だ。娘の社交界での成功がかかっているとなれば、アーティの秘密は漏らすまい。我々の目的にはうってつけというわけだ」


 テイラー公爵は感心しきりです。私は微笑みながらうなずきました。それからテッドに目配せをします。彼は静かに退室しました。


「田舎の男爵家の養女なんて、気にする貴族はいないだろう。しばらくは教育に専念できる。素晴らしいぞイブリン嬢!」


 テイラー公爵が手を叩き、妻のユリアナ様と喜び合っています。ほどなくして、テッドが大勢の従僕と侍女を従えて戻ってきました。全員が、大小さまざまな大きさの箱を抱えています。


 アーティの前にたくさんの箱が置かれました。彼女は目をぱちくりさせています。

 私は立ち上がり、箱のひとつを引き寄せました。中には明るい緑色のドレスが入っています。次の二箱はそれぞれ、バーナード様の赤毛にマッチした桃色と黄色のドレスでした。


「わあ、きれい!」


 アーティが歓声を上げます。


「差し当たって必要な物はすべて揃っているわ。朝のドレス、午後用のドレス、夜会のためのドレス。寝巻きに化粧着、室内用の上靴、手袋、帽子、絹の靴下やペティコート。外出用のハーフブーツ、ケープコート、香水にちょっとしたアクセサリー。間に合わせだけれど、男爵令嬢の地位にふさわしい品々よ」


 最新流行のドレスは、コルセットを使わないエンパイア・スタイルです。妊娠中のアーティには好都合ですね。


「これはまた、大量だな……」

「ええ。商店を丸ごと買い取ったみたい……」


 ドレスや小物の山を、テイラー公爵夫妻が呆然と眺めています。


「商店主には顧客情報を流してもらったわけですから。労をねぎらう意味で、他の売れ残りも引き取りましたの」


 私はにっこり微笑みました。


「全部アタシのものなんて、嘘みたい! アタシ、新品を貰うのは初めてっ!」


 私からすれば質素な品々ですが、アーティは興奮しているようです。

 つまり、私の借り物ではないドレスは初めてということ。バーナード様から愛情たっぷりのプレゼントのひとつも貰っていないなんて、そっちの方が驚きです。


「そういう格好で人前に出るのは、今日で最後よ」


 私はアーティの木綿のワンピースを手ぶりで示しました。



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