3 ダルタニャンと警視総監レニエ 1
1673年1月、パリは真冬の寒さにとっぷりと浸かっていた。通りや街を歩く人は、コートの下に幾重にも洋服を重ね着し、吹きすさぶ北風から身を守ろうと足早に過ぎて行く。この寒中に通りで留まっていたら、直ぐにも凍死してしまいそうな位気温は低く、風は凍てつく寒さだった。
前年の4月にオランダに宣戦を布告したフランスは、ヨーロッパの大国としての面子をかけて、世に言うオランダ戦争に突入していた。
かつての同盟国に戦争を仕掛けたのは、遺産帰属戦争(1667年~1668年)でフランスがスペイン領南ネーデルラントに侵攻した事が隣接するオランダの国防上の脅威となり、よりにもよって宿敵イングランド及びスェーデン王国と与して「三国同盟」を結成し、調停に乗り出してきた事が戦争の分岐点となって、潮目がフランスから離れてしまった事が引き金であった。
後にオランダは係争相手のイングランドと同盟を結ぶのだが、一番の理由は英国王チャールズ2世(在位1660年~1685年)の娘メアリー2世(在位1689年~1694年)の夫で、共同君主であるオランダ総督オラニエ公ウィレム3世(英国名オレンジ公ウィリアム3世、在位1689年~1702年)が、同君連合をイングランドと形成してフランスに対抗したからである。そもそもフランスの侵攻に際して第三次英蘭戦争を英国から仕掛けたにも関わらず、議会の反対によりチャールズは矛を収めてしまった経緯はあるにせよ、夫婦の絆が強い事を歴史に残したのは二人の愛なのか?
結果、フランスは神聖ローマ帝国との密約は維持されたが、多勢に無勢、三国同盟の調停に従わざるを得なくなった。これは領土拡張を目論んだルイ14世にとって、明らかな失政と言われている。
この様な状況下のフランスでは、国家財政の多くが戦費に費やされ、平民※の暮らしは増税や国家より課せられる賦役によって、甚だしく困窮していた。
※当時のフランス社会は聖職者、貴族、平民の三部で構成されており、平民
は人口全体の90%近くを占めていたと言われている。
ある男が足早にノートルダム大聖堂へ向かって歩いていた。バフ皮(皮の表面を毛羽立たせた)の灰色のコートを着た男は、その身なりから推測するに近衛騎兵か民兵の類いだろう。彼は大聖堂の正面右側の扉口から入り、出て来たのは1時間後だっただろうか。そのまま彼は来た道を戻り、雑踏の中に消えてしまった。
数日後、一人の司祭がパリ警察、警視の部屋で何やら相談をしていた。
「私は聞いたのです、『人を殺した』と」ゆっくり、そして慎重に言葉を選んで聴罪司祭が話した。
「それは兵士として、戦場で敵国兵を殺したのでは?」髭を生やした警視が、これも慎重に問いかけた。
「いや、違います。身なりからして兵士と判断したのですが、随分と落ち込んだ様子で告解していましたので」
「殺人ですか」
「はい。彼が言うには『ある人物の依頼で、ある男を殺した』と。名前と時期、そして場所を尋ねるますと『依頼主が特定されるので出来ない』と言いましたので。漠然とした告解でしたので、お伝えして良いものか否か判別出来ず、司教様と協議しました結果、国王教会法及び贖罪規定書に抵触しないと判断しまして、お伝えした次第です」
「何時、何処で、誰を、どの様に、何故なしたのか不明ですか・・・ 雲を掴むようなお話しですね。具体的な話しが一切ないので、信用しろと言われましても」
「仰せられる通りです。私共も初めから信じていた訳ではありません、具体的な話しをしない告解など。ですが、私共の寺院にいる侍祭の一人に、元近衛竜騎兵出身の者がおりまして、彼が言うには『あのコートは近衛兵に規定されているコートである』と後で思い出したように話したのです」
「近衛兵ですか、それは確かですね」
「はい、その者の身元はしっかりしておりますので、信用出来ると思います」
「名前は名乗りましたか?」
「はい」
「宜しければ聞かせて頂けないでしょうか」
「それは、教会法及び贖罪規定によりお伝えする事は出来ません」
「そうですか、そうですよね。分かりました。これは上に話しをして、どのように対処すべきか、後でご連絡致します。五里霧中の話しですが、折角情報提供頂いたのですから、対応させて頂きますので、大司教様に宜しくお伝え下さい」
「宜しくお願い致します。教会としましても、告解内容を他者に漏らす事など禁じられております。しかし、具体的な内容ではないので規定書に抵触しないと判断して、お伝えした次第です。その意をお汲み取り下さい。それでは失礼します」
司祭が伝えた内容は、直ぐに警視から警視総監へ報告された。近衛兵が係わる殺人事件となると軍隊内部、又は宮廷に係わるものと思われ、慎重な対応が求められたからである。
その頃、警視総監は毒薬密売事件を抱えており、海の物とも山の物ともつかない事件など眼中になかった。実際に起こった事件なのかも判断出来ない事が、一層彼の判断を鈍らせたのだ。パリ市民からはその類の情報は寄せられてはいなかった。その為、近衛兵が係わったとされる事件が表に出たのは、それから4年後の事であった。
パリ市外ガスゴーニュ連隊野営地に宿泊しているダルタニァン元帥は、オランダ戦争の経過報告と作戦立案を兼ねたルーブル宮殿出仕を終えて野営地に戻ると、当番兵士からパリ警察、警視総監ニコラ・ド・ラ・レニエの訪問を告げられた。彼は近衛銃士隊解散以降余り目立つ活躍をしていなかったが、軍隊での昇進はルイ14世の引き立てにより元帥に叙されていた。
何年振りなのか彼には分からなかったが、かつての部下が訪ねて来た事で昔の思い出が甦り、センチメンタルな気持ちになった。部屋には確かに、かつての部下であったレニエが直立不動の姿勢で待機していた。そして彼が入室すると、直ぐにフランス式敬礼をして彼を迎えた。
「最早、私の部下ではなく、パリ警察、警視総監殿ではないか。そんなに畏まるな」相好を崩しながらダルタニァンが口を開いた。
「閣下、お久しぶりでございます。遅ればせながら陸軍元帥就任、おめでとうございます」敬礼をしながらレニエが応じた。
「ありがとう。それよりも君こそパリ警察、警視総監に就任して良かったではないか。おめでとう」
「ありがとうございます。これも偏に閣下の薫陶を受けたお陰と、感謝しております」
「立ち話では落ち着かないから、腰を掛けなさい」
そう言ってダルタニァンがレニエに椅子を勧め、自ら椅子に腰かけた。彼が腰を下ろした後、レニエも勧められた椅子に腰をかけた。
「何を言うかと思えば、そのような昔の事。君の努力の賜物ではないか。それに私と違い、君はコルベール殿の覚えもめでたいと聞き及んでいるが」
「何を仰せかと思えば、私など歯牙にもかけられておりません」
これはレニエの気遣いであった。それと言うのも、元帥はコルベール財務総監と自分の年金受領の件で一悶着あり、それ以降コルベールとの折り合いが悪くなっていたのだ。
「そのように気を使わなくとも。今は単なる老元帥だからな」そう言って、元帥は自嘲気味に笑った。若かりし頃、近衛銃士隊時代の活躍を思い浮かべると、今の自分から若さのなくなった身体に見合う気概を嘆いた。
「お元気そうで何よりでございます。昔と全くお変わりなく、安堵致しました」
「そう言ってくれるのか、有り難い。銃士隊長代理補※の時のような気力と体力が残っておれば、この度の戦いも縦横無尽に活躍出来たであろうものを。それを望む事は詮無い事であるかな?」
※銃士隊は国王が隊長であり、代理補はイタリア在住のマザラン枢機卿の甥
が就任していたので、実質的な隊長に遇されていた。
「閣下。戦いの帰趨は如何ですか」元帥の嘆きには応えず、彼は話題を変えた。
「今、国王陛下とオルレアン公・フィリップ殿下にご注進して来た処でな。オランダ総督オラニエ公ウィレム3世の登場で、ドイツ諸侯との第二戦線が出現して以来、オランダの戦線は南ネーデルラント(今のベルギー・ルクセンブルグ辺り)迄後退したし、フランシュ・コンテ(ブルゴーニュ地方の東に隣接する地域)側の前線を押し上げるには兵力不足で、屈服させる程の攻勢がとれないのだ。兵力増強をお願いしてきたのだが、作戦自体は承認を頂けたので、大丈夫とは思うのだがなあ」
オランダ戦争はフランスにとっては必ず勝たなければならない戦いであった。先の遺産帰属戦争に於いて、南ネーデルラントの正統なる相続人を主張して始めた戦いを中途半端に終えた大きな理由として挙げられるのは、オランダがスペインからの独立を求めた戦いに於いて、カトリック教国であるにも係わらず、反スペイン政策に拠ってプロテスタントのオランダを助けたからである。その恩をよりにもよって、スペインの味方になって仇で返したオランダが、ルイ14世はどうしても許せなかったのであろう。元帥の言葉はそのままフランスの国際的立ち位置を表している。何が何でも勝たなければ、ヨーロッパ各国の調停役としの大国フランスの面子が立たないのだ。