11 モンテスパン侯爵夫人 2
数日後、薬剤師から夫人へ、ある助産師との連絡が取れた旨の手紙が届いた。早速、夫人は返信を書き、明日の来訪を求めた。
翌日の午前中、店主がベルサイユ宮殿にあるモンテスパン侯爵夫人の居室を訪れた。
「良く来て頂けました。衛兵には貴方の来訪を伝えておきましたので、問題なく正門から入られましたでしょう?」
「勿論でございます。お手紙に書かれておりましたので、手紙を見せますと直ぐに通されました。その上、門の後ろに侍女の方が侍っておりまして、この広い宮殿の中をご案内頂き大変感謝申し上げます。私一人でしたら何処に侯爵夫人のお部屋があるのか、さっぱりお手上げでございます。本当に感謝申し上げます」
「いえいえ。それは何よりでございました。この宮殿は大変広い上に、工事中でもございますので、来られる度に建物が増えたり、内装が変更されたりと、目まぐるしい程の変容がございますので。初見では分からないと存じますわ」
「左様でございます。これ程広く、豪華絢爛な宮殿は、ヨーロッパの何処を探してもございませんでしょう。噂によりますと『オスマン帝国のトプカピ宮殿よりも豪勢だ』と申す者もいる程でございますから。国王陛下の御威光を示すには、十分過ぎる宮殿でございます」
「そう言って頂けますと、陛下も大層お喜びの事かと思いますわ。国民の声として、是非陛下に言上致しましょう」
「本日はお招きに預かり、感謝申し上げます。些少ではございますが、私共で作っております香水を是非、ご夫人のお側の方々にお納め頂きたく、持って参りました。何卒ご笑納下されますよう」
そう言って、薬剤師はカバンに入れておいた小瓶の香水を取り出すと、テーブルに置いた。20個程の数になる。
「あらあら、こんなに沢山。そんな、お高い物でしょう?」
「侯爵夫人様の過日のお心遣いには大変感謝しております。そのお気持ちに幾ばくかでもお応え出来ましたならば、幸いに存じます」
夫人は思った。あれ位の金額で沢山の手土産を持って来るなんて。この男、何か下心でもあるのかしら?
薬剤師は彼なりに推測した。気に入ってもらえたか。これだけの香水、けっして安い訳じゃないのだから。少しは俺の気持ちを察してくれと。互いに相手方の意図を考えていた。
傍でそれを見ている侍女達はその数から、自分達へのプレゼントだと感じた。何せ夫人は国王の愛妾、権力者だからそれ位の心付けがあっても不思議ではない。小分けにされているのだから、当然一人で使う訳もないし、使わないだろう。夫人は専用の香水を愛用しているのだから。
「このような気遣い、痛み入ります。これ程の香水、宜しいのですか?」
「どうぞ、ご随意にお使い下さいませ。私共では大変喜ばれております品物でございますので。殊の外ブルジョワの御夫人にはご愛顧を賜っております」
「有難うございます。それ程までに仰るのでしたら、これ以上ご遠慮するのも失礼かと存じますので、お預かりさせて頂きます」
そう言いながら、夫人は侍女に目配せをした。彼女の合図を待っていたかのように、侍女がコーヒーを運んで来た。そしてさり気なく香水の小瓶を全て、テーブルから片付け、コーヒーを薬剤師に提供した。
「どうぞ召し上がれ」夫人がコーヒーを進めた。
薬剤師は一口飲み、己の店でお得意様に提供していたコーヒーと全く別物である事に気付き、夫人に提供した己の店のコーヒーの味に恥じ入った。
「これは美味しい。私がお出ししました物などとは別物でございます。これ程素晴らしいコーヒーを愛飲されております夫人に、あのような物をお出しして、大変失礼致しました」
「そのように卑下なさる事ではございませんのよ。市内に出回ります品は荷揚げされましてから結構日にちが経っておりますので、どうも味が落ちてしまいます。それを仕入れて市場でお売りになる訳ですから、致し方ない事でございますわ」
当時のコーヒーは、トルコからオスマン帝国の商船によって地中海経由でマルセイユに、交易品として港に陸揚げされる。市場に出回る迄日にちが掛かり、中には塩水にさらされても高価な品物なので破棄されたり、選別される事なく市中に出回るのだ。
「そのように仰せられますと赤面の至りでございます」
「それはそうと、お手配の件、如何でございます?」
「そうでございました。無駄話をしてしまいまして、本題を忘れる処でございました。明後日、サン・ドニ城門の手前に、モンボワザンと言う助産師が店を構えております。既に手紙で来訪の旨伝えておりますので、お安心下さいませ。しかし、本当に私がご案内しなくとも宜しいのでしょうか? あの辺りは城壁の近くでございますので、良からぬ者も大変多く目にする処でございます」
「その点でございましたら、ご心配には及びません。王家の墓所がそちらにございますので、国王陛下の代理として幾度か伺った事がございます。それに近衛兵も付きますのでご安心下さい」
「そうでございましたか。あちらの地理にお詳しいとは存じ上げませんでした」
「何から何迄お世話になりましては申し訳ございません。ご心配なさらずに」
余り首を突っ込む事ではないと薬剤師は解釈した。夫人の機嫌を損ねては今後の付き合いに響いてしまう。是が非でも宮殿への出入り商人になりたい一心が見え過ぎてはならない、と考え彼は遠慮した。
彼がコーヒーを飲み終わる頃、侍女が小さな布袋を持って来て、夫人に手渡した。夫人はそれを受け取ると、テーブルの上に置き、彼の方に差し出す。
彼は「金貨だ」と瞬時に分かった。この前もルイ・ドールを夫人から頂戴した。これは口止め料だな、彼は心の中で夫人の気持ちを推し量った。
「お高い香水へのお礼と言っては失礼かと思いましたが、お受け取り下さいませ」
彼は出された袋を手に取って重さを量り、袋の中身が金貨である事を確信した後、夫人に対して、丁重にお礼の言葉を述べた。
「このような身に余るご厚情を賜り、感謝の言葉しかございません。今後は私、モンテスパン侯爵夫人様に対しまして、より一層の献身をさせて頂きますので、何卒良しなにお引き立ての程、宜しくお願い申し上げます」
彼の言葉には彼の魂胆がはっきりと表れていた。絶対に夫人のコネクションを己の商売に利用するのだという意思が読み取れた。
彼の意図を見抜いた夫人は彼との付き合いをこれきりにしたい気持ちを押し殺し、さりとて付け入られないよう慎重に応えた。
「私、それ程感謝される事は致しておりませんので、どうぞお気を楽にして下さいませ。そろそろ私、所要もございますので、これにて失礼させて頂きます」
夫人に会見の終了を告げられ、男は失敗したと思った。
《己の欲が出過ぎたのか?》慎重にした積もりが、何処かに自分の我欲が滲み出たのかもしれない。必死になって取り繕うとしたが夫人が席を立ってしまった。
仕方なく彼も席を立った。そして侍女に導かれて、もと来た順路で正門に向かった。
途中、彼はこのまま手切れはご免だとばかり、侍女にカバンの中にある残った香水をそっと彼女の手に握らせた。侍女は直ぐにそれを懐に仕舞い込んだ。
「これは残り物ですから、どうぞ貴女のお好きにお使い下さい。何でしたら、ご要望の数だけお届け致しますので」
彼女は薬剤師の意図を理解した。彼も彼女が受け取りを拒否しなかったので、脈ありと考えた。何とか繋ぎが出来た。少し安心したのか、彼女に夫人の対応について尋ねた。
「侯爵夫人様はどのようなご用だったのでしょうか?」
彼女はくすりと笑って「薬剤師の物欲しげな態度が目についたので夫人が会見を終了したのだろう」と彼に告げた。
《矢張り、我欲が顔に出てしまったか。これで夫人専用の出入り商人になるチャンスを失ってしまった。しかし、この女に何とかコネをつけて商売の足しにしよう》
すぐさま気持ちを切り替えて、彼は侍女に付き従った。その足取りは軽いのか、重いものか傍目には分からなかった。




