1 初めに
ルイ14世はブルボン朝のフランス国王であり、彼の治世は1643年から1715年にかけて72年間にも及んでいる。この長期の君臨は、彼の後継者であるべき長男のルイ大王太子が1711年に、孫のルイ・ブルゴーニュ公が1712年に相次いで死去した不幸を彼に経験させた。因みに彼の父王であるルイ13世は、1610年から1643年にかけて、33年間の治世となっている。
彼の王位継承は勿論、彼の父王ルイ13世の逝去後から始まるものであるが、王位を継承した時には未だ5歳にも達していなかった。彼が親政を開始したのは1661年、22歳からである。その間、彼の母親アンヌ・ドートリッシュ王太后(1601年~1666年)が摂政となり、リシュリュー枢機卿の後継者であるマザラン枢機卿を宰相に任命して、国政の舵取りを行なわせた。
王朝の運営は二人のコンビネーションが良かったのか、ハプスブルグ家が継承する神聖ローマ帝国及びスペイン王国との【30年戦争(1618年~1648年)】も有利に進める事が出来た。実際問題として二人の仲は良好だったのだろうか?
彼女はスペイン国王フェリペ3世の娘であり、フランスと戦争をしている当事国の出身でもある。母国スペイン排斥を進めたリシュリュー枢機卿には反発しており、彼の施策を継承するマザラン枢機卿に対しても良い印象は持っていなかった筈である。しかし、彼女は息子の為、フランスの国益を第一に考え、彼を宰相に任命した。この事から後年、巷間ではルイは母后とマザランとの間に出来た子供であると、まことしやかに噂が流れていた程である。
これはアンリ4世の王妃であり、ルイ13世の母親マリ・ド・メディシスが信仰心及び政策方針の違いからリシュリュー枢機卿の排除を国王に迫り、反対に国外逃亡せざるを得なくなった事と好対照をなしている。
余談ではあるが、この宰相リシュリュー枢機卿の暗殺計画に加担したとされるルイ13世の王弟、オルレアン公ガストンを軍事部門の責任者として、フランス王国総司令官に任命したのもアンヌ・ドートリッシュ王太后であり、息子への深い愛情の賜物と見る事が出来よう。
こうして始まった王太后と宰相マザランによる二人三脚政策は数度に渡るフロンドの乱※を無事に鎮圧すると、絶対王政の確立へと進むのである。
※1648年から1653年にかけての内戦。対外戦争による財政危機を増税、歳出削減により対処しようとした宰相マザランに対し、既得権者のパリ高等法院が反発。逆に減税を求め、これを拒む政府に法服貴族とパリ市民が武力蜂起した後、政府と妥協した。次いで地方貴族と農民が反国王税で反乱を起こした。最後にコンデ親王による臨時政府樹立が内部崩壊して、体制側の勝利となった三度に渡る戦い。この間、ルイ14世は側近と共に国内を転々としていた。
1661年3月9日に宰相マザランが死去すると、翌10日には22歳になっていた国王は、自ら統治を行なう親政体制をマザラン配下の大臣達を前にして宣言した。そしてこれを嚆矢と捉え、最高国務会議から王太后や王侯貴族を外し、法服貴族や彼が自由に使える者を大臣に任命して、国政を取り仕切っていくのである。
彼の時代は戦争の時代とも言われている。30年戦争は彼の生前から始まっているので、これを外しても【遺産帰属戦争(フランドル戦争1667年~1668年)】、【オランダ戦争(1672年~1678年)】、【アウグスブルグ同盟戦争(プファルツ戦争1688年~1697年)】、【スペイン継承戦争(1701年~1714年)】と都合4回もの大戦争を起こしている。これはフランスの国力拡大、近隣に強大な中央集権国家出現を未然に防ぐ事を意図して起こされたものであるが、治世下に於ける相次ぐ戦費調達は、国民に多大な負担を強いた為、彼の評価は前半と後半とで全く異なったものとなってしまった。
しかし文化、芸術面での評価となると、彼程評価に値する国王が他にいたであろうか。先ず、ベルサイユ宮殿を建造出来る迄に王朝の財政基盤は盤石であり、王権の絶頂期に治世を運営していた為豪華絢爛にして、贅の限りを尽くしたこの宮殿は、現在ではイブリン県観光のメインスポットとなっており、同県の観光収入の過半を占めている。又、彼は芸術に対するパトロンとしての役割も担っており、悲劇作家であるピエール・コルネイユやジャン・バチスト・ラシーヌ、喜劇作家兼座長兼俳優でもあるモリエールなどの劇作家が隆盛を極めたのも、彼の文化振興施策に拠る処が大きい。世界文学史にその名を残す、偉大なる演劇作家が3名も彼の時代に活躍出来た事は、文化振興に対する国王の力を如実に示しているのではないか?
閑話休題
バレエが好きと言うか得意で、アポロン(太陽神)に扮装してバレエに興じた事から【太陽王(Le Roi Soleil)】と、その後呼ばれる事になるのはご愛嬌か?
この輝かしい業績を色褪せさせる程に、彼の女性遍歴は際限がなかった。正妻、後妻以外に数多くの愛人や娼婦と関係を持ったし、市中の一般女性に迄手を出してもいる。更には愛人、愛妾をベルサイユ宮殿に住まわせ、時には王妃の役割でもあるサロンの主催まで仕切る女性もいた。最も英国や神聖ローマ帝国等の宮廷と違い、愛妾にも爵位や王妃並みの権威と待遇を与えるのも、フランス国王の特色ではあるのだが。
その事を回顧録作家サン・シモン公爵は「艶福家ではあるが、英邁な国王である」と回顧録に記している。最も、サン・シモンは王弟オルレアン公フィリップに忠誠を誓い、ルイ14世の孫ブルゴーニュ公の支持者であり、その上、望んだ官職に任じられなかった遠因はルイ14世にあると思い、皮肉たっぷりに批評したと世評では思われていた。
このような国王を貴族は、宮廷官吏は、軍人は、国民はどのように評していたのであろうか。そして女性達は。前半の治世下では歓喜をもって迎えられるも、晩年は無関心になってしまい、国王の訃報は国民に安堵の念を抱かせた程である。
彼の治世下1673年、オランダ戦争の最中、後にパリで起こった【モンボワザン事件】という毒殺事件の発端となった殺人事件が起こった。この事件は毒薬販売及び毒殺、堕胎事件並びに黒ミサと妖術事件迄含めたもので、関係者は貴族だけでも数十人。教会や占術師も含めると容疑者は319人に及んだ。その中にはルイ14世の愛妾もいたのだ。
貴族達は黒ミサを開催して、“悪魔アスモディウス”や“悪魔アスタロス”を召喚しようとしていたとされ、これにルイ王朝の宮廷貴族やカトリック教会関係者も関与していた。
パリ社交界で起こった黒ミサと毒殺事件。それ程までに黒ミサは上流階級に浸透していた。宮廷内での事件をルイ14世はウヤムヤにしようと、各方面に圧力をかけたが、国王でさえも無視出来ない位に貴族が関与していた事件であった。話しはこれに関連して始まる。
参考資料
聖なる王権ブルボン家 長谷川輝夫著 講談社選書、ベルサイユ宮殿の歴史 クレール・コンスタン著 伊藤俊治監修 遠藤ゆかり訳 創元社、フランス史 井上幸治編 山川出版社、魔女上下 ジュール・ミシュレ著 篠田浩一郎訳 現代思想社、ダルタニアン物語 アレクサンドル・デュマ著 鈴木力衛訳、オスマンvs.ヨーロッパ 新井政美 講談社選書 港湾と文明近世フランスの港町 深沢克己著 山川出版社、悪魔考 吉田ハ岑 出帆社、真実のルイ14世 イブマリ・ベルセ著 阿河裕次郎・嶋中博章・滝澤聡子訳 昭和堂