8 夜会の終わりと母の涙(アンドレアス視点)
幻灯祭での婚約破棄の後。
アンドレアスはリリアナと明け方まで夜会を楽しんで、王城へ戻った。
昨年までは空が白みはじめても変わらず広間にはドレスが舞い開き、楽団が次々と新しい曲を演奏していた。しかし今年は夜半が過ぎたあたりで楽団が退出し、今も残っているのは数組だ。
(フェルもマクルドも、こちらへ挨拶もせずに辞すなど……仕方がない。父上へ目通りして正式に婚約を結んだのち、改めて顔合わせの場を設けるか)
側近に新しい婚約者への挨拶をさせようと思っていたのに、アンドレアスがリリアナとのダンスに夢中になっている間にフェルナンディオもマクルドも退出してしまったようだ。退出するタイミングを逃したアンドレアスは、リリアナに誘われるがまま父王への報告も忘れて踊り、話に興じた。
もちろんこれは、早々に婚約破棄され退出したエイミーに対し、夜会の最後まで二人で仲睦まじく楽しんだ姿を伝えたいというリリアナの狙い通りでもある。
リリアナは留学時に父王より学院の寮の個室を手配されていたが、現在は王城に居を移していた。隣国の王女たるリリアナを、辺境の粗野な下位貴族と同じ寮になど置けぬと、アンドレアスが用意したのだ。
リリアナを客室へと送ったアンドレアスは、使用人に父王への取次ぎを頼んだ。
しかし使用人は首を振り、こう告げた。
「明日の午後、召喚があり次第参じるようにと陛下からのご伝言です。明日の朝食は自室にて取り、呼び出しがあるまで外に出ぬようにとのことでございます」
「婚約者にかかわる急ぎの用事なのだ。すでに父上がお休みであれば、明日の朝でも構わぬ。明日の午後はリリアナ王女と面会の約束があるのだ」
「陛下より、此度の召喚までは会わぬ、召喚にはいかなる事由があれど必ず応じよと申し付かっております。リリアナ王女殿下にはお伝えいたしますので、このままお部屋でお待ちください」
訝しむアンドレアスをよそに、使用人は頭を下げ退出していった。ガチャリと鍵の音がした。
アンドレアスは扉を開けようとしたが、外鍵がかかっていて開けられない。
「どうされましたか」と扉の外から尋ねる声は護衛騎士のもので、説明を求めても、使用人と同じ答えしか得られなかった。
もしかすると、すでに父王には婚約破棄の件が伝わっていて、私を謹慎させるつもりであろうか――やがてアンドレアスは思い至った。先に退出したフェルディナンドから報告が上がっているのかもしれない。フェルはアンドレアスのエイミーへの態度について、たびたび苦言を述べていた。あるいはエイミーに同情的な報告を上げたのかもしれない。
(そもそも、父上と母上がエイミーを選んだのが誤りであったのだ。説明すればきっと理解は得られる)
アンドレアスは諦めて休むことにした。
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召喚に応じ、アンドレアスは使用人に連れられて部屋を出た。後ろから護衛騎士が二人ついてくる。部屋の前で二人も護衛騎士が控えていたことに、アンドレアスは驚いた。
「おい、この方向は謁見室ではないか」
「左様でございます」
家族の話であるから広間の一つへでも向かうものと思っていたのに、向かう先が謁見室だと知ってアンドレアスは唇を噛んだ。父は自分に、随分とキツいお灸を据えるようだ。
謁見室の扉が開き、アンドレアスは息を呑んだ。正面には玉座に王が座し、その横には第二妃と第二王子が控えている。母は、と探すと、臣下が立つべき下がった位置に、母である正妃とその実家の侯爵家が分かれて立ち、王へと頭を下げて控えていた。
使用人に連れられ、母と侯爵の間へと進む。使用人が立ち位置を示す手振りが常よりも低く、これでは立って控える貴族向けではなく、跪く平民や罪人向けの高さに見えてしまうとやや気になった。後ほど注意してやらねばと内心で考えつつ、アンドレアスは立ったまま父王を見上げた。
王はじっとアンドレアスを見ている。侯爵である叔父が軽く咳払いをした。
「すでに報告は受けた。他に付け加えることはあるか」
たっぷり数分は待たされたのちに、王はそう言った。
「事前に許しを得ず申し訳ございません。しかし、私の婚約者はリリアナ王女しか考えられません」
リリアナ王女がエイミーと比べていかに優れているか、リリアナ王女を妻とする利点を滔々と語ろうとしたアンドレアスを、王は手振りで止めた。
「あいわかった。こちらで確認した事実と相違ない。これ以上は不要だ」
アンドレアスが口を開こうとする前に、王はきっぱりと宣言した。
「此度の騒動の責任をとり、第一王子アンドレアスの継承権を剥奪、第二王子シンケルスが継承順一位となる。また、アンドレアスの身柄は王妃の実家であるヴェッタ侯爵家へと移し、ヴェッタ侯爵令息とする。ヴェッタ侯爵家の相続に関しては、王家の関与するところではない」
「かしこまりました」
母と叔父が王に対して深く頭を下げるのを、アンドレアスは一瞬呆然と眺め、我に返って慌てて声を上げた。
「しかし父上!」
「大きな声を出すな、アンドレアス」
すぐさま横合いから叱責が飛び、アンドレアスは叔父である侯爵を見た。
「これより、お前の養父はこのヴェッタ侯爵となる。――陛下と呼びなさい」
アンドレアスの唇がはくはくと動いた。少しの後、アンドレアスは王に
「……陛下、恐れながら申し上げます。どうして私の継承権が剥奪されるのでしょうか」
「貴族典範に照らし、此度の処分は降爵に相当すると判断した。アンドレアス個人には爵位がないため、継承権の剥奪となった。せめてもの情けとして王妃の実家に養子を請うたのだ」
「しかし! 母上の実家は侯爵家です。せめて公爵家では――」
「我の種かわからぬお前を、引き取る貴族など他におらぬ」
「――!?」
アンドレアスは思わず王妃を見やった。王妃は正面を向いたまま目を伏せている。
スッと顔から血の気が引く音がした。冷えた蟀谷がキンと痛む。氷のような手足がじんじんと痺れ、ドクドクと耳元まで鼓動がせりあがってくる。
幼い頃、先代侯爵とその嫡子、つまり母方の祖父と伯父が、流行り病で亡くなったことを思い出した。感染する惧れがあるからと葬儀も内々で行ったため、アンドレアスも参列しなかったが、あれは――そういえば、それはちょうどエイミーと婚約を結んだ後ではなかっただろうか。
正式な側近になるよう告げても、言葉を濁し、のらりくらりと躱していたフェルナンディオとマクルド。確かシンケルスの婚約者はメイ公爵令嬢ではなかっただろうか。
ようやくすべての点が繋がった気がした。
アンドレアスは冷たい目で王と対峙した。
「――陛下が、シンケルスに公爵令嬢を与え、私に伯爵令嬢を宛がったのは、そういうことでしたか。しかし、私はリリアナ王女に選ばれました。隣国には、どう申し開きするのです?」
仮にも第一王子が王家の血を引かないなど、隣国に正直に告げられることではないはずだ。第二王子であるシンケルスはまだ七つで、即位まで少なくとも十年は必要だ。その間に隣国に付け入られるようなことを、王としてはできないに違いない。できるものなら、祖父と一緒に流行り病を得ていただろう。
王家の血を引かない自分をリリアナ王女が捨てるという可能性は考えないことにした。あれだけ多くの前で愛を誓い合ったのだ。今さら王女も引けまいと考えを巡らす。ようやく見つけた“包帯姫”を手放すことなどできそうになかった。
王は冷たく笑った。
「エイミーにも伝えたが、エイミーは王妃の役割を充分にこなせる資質があった。お前が最低限の水準を維持していれば、アンドレアスを後継者にする未来もあった。
しかし、隣国での外交ができないリリアナ王女を王妃にするわけにはいかぬ」
「隣国での外交ができない…?」
「知らんのか」
王は鼻を鳴らした。
「リリアナ王女は隣国で問題を起こし、社交界に出ることを禁じられた身だ。留学という建前だったが、こちらで縁づいて隣国に帰ることなくこの地で骨を埋めるなら、隣国としても望むところだろう。
隣国からは男爵でも平民でも構わぬと言われたが、さすがに配慮して、せめて侯爵を与えたのだ。
お前はリリアナ王女を娶るために王にはなれぬが、リリアナ王女のおかげで侯爵家へ入る資格を得た。大事にするように」
「そんな――」
混乱するアンドレアスを、王は「自分で調べよ」と切り捨てた。
「エイミーは、自分の立場を理解したうえで、好きでもないお前と殉じる覚悟すらしていたそうだ。まさに忠臣の鑑であった。
――アンドレアス、お前がそんなにエイミーを厭うなら、なぜもっと早くに婚約解消をしなかった?」
「……」
アンドレアスは目を逸らして黙り込んだ。
その姿は王に、悪戯をして叱られた幼少期のアンドレアスを思い出させた。すでにアンドレアスを侯爵令息として遇しているが、本来はこれが親子としての本当に最後の場になる。王はアンドレアスが口を開くのをじっと待った。
「あれは私の望んだ令嬢ではなかったのです。しかし、父――陛下が、苦心して縁を結んでしまったと聞いたので、私から解消してはいけないと思いました。
エイミーのほうから、やはり身分不相応だと、自ら気づいて身を引くのを待っておりましたが、諦めが悪く――このままでは本当にアレが王妃になってしまうと思い、やむなく破棄をしたのです」
「下位の者からの解消がどれほど難しいか思い至らなかったのか……いや、まさか、難しいとわかったうえで伯爵家から解消させ、それに乗じてアダムス伯爵家より便宜を得ようと思ったのではあるまいな?」
図星であったようで、咄嗟に唇を噛んだアンドレアスに、王は目の前が暗くなった。
「此度のことがなくとも、お前には王の資質はなかったようだ。――下がれ」
なにか言いたげにしていたアンドレアスは、侯爵に連れられて退出していった。
その様子を見た王は、使用人を呼んで走り書きを渡す。すべての手続きが完了し、アンドレアスの身柄が完全に侯爵家へ移るまで、学院への通学を含め一切の外出を禁じさせる旨を、侯爵に申し付けた。
御前失礼いたします、と第二妃が囁いて段を降りる。
第二妃が正妃の震える肩をそっと支えると、堪えきれなくなった正妃が嗚咽を漏らした。
「お前は、母を泣かせるなよ」
その様子を目に焼き付けるようにじっと見ていたシンケルスに、王は言った。
シンケルスはこちらを向き、一つ頷いた。