4 勿忘草と色戻薬
テオドールのもっともな指摘に、高位貴族の四人はさっと目線を交わした。フェルナンディオがエイミーに微笑みかける。
「エイミー嬢はどう考える?」
「――子どもの記憶ですもの。一度しか参加なさっていないのなら、色変雫のことも覚えていらっしゃらないかもしれませんね。私も、リリアナ殿下がどんなお姿だったかまでは思い出せずにおりました」
エイミーは背筋を伸ばし、淑女の笑みで答えた。
「王家の婚約者としては完璧な答えだ。――エイミー嬢がどのように認識しているか、教えてほしい。この場の話は外へは出さない」
「はい……先日のアンドレアス殿下は、ご自身がどのような仮装だったかも忘れていらっしゃるご様子でした。ご存知の通り殿下と私は、十五歳でデビュタントして夜の部への参加を認められるまで、夕の部への参加はあの一度きりです。それが王族の習慣である、とは考えにくいため、おそらくあえて幻灯祭とは遠ざけられていたのだと思います」
エイミーの答えに、フェルナンディオは頷いた。
本来であれば夕の部は、数少ないデビュタント前の社交経験として色変雫の効き目がある間は参加するものである。そこに参加していればエイミーはこの場の四人とも交流を深められ、今ほど孤立することもなかっただろう。
「聞いたところだと、十年前の冬の初めにアンドレアス様は“勿忘草”の花弁を舐めてしばらく寝込んだらしいね。高熱の影響で記憶が曖昧なようだ」
隣でテオがヒュッと息を呑む気配がした。エイミーはすべてを理解した。
「勿忘草を服用する」とは、忘却術を掛けられるということだ。
完全に記憶を失うほどの忘却術は精神に影響を及ぼすし、記憶が失われていることに本人が気づけば術が綻びる可能性もあるという。おそらく決定的な記憶だけを消し、他は飛び飛びにしているのであろうとエイミーは悟った。それは王妃教育の一環で知った知識なので、この場で詳しく説明はできない。
エイミーはフェルナンディオに頷きかける。ここが勝負どころだと腹を決めた。
「そうだったのですね。それはお気の毒なことですが、少しだけ羨ましくも思います」
「あら、どうして?」
ソフィアがゆったりと微笑む。
「実はあの日、テオドール様と少しだけはぐれてしまい、間違って別の吸血鬼に声をかけそうになったのです。寸前で気づき、探しに戻ろうとしたのですが、強く腕を掴まれて、顔の包帯を毟られそうになりました。悲鳴をあげかけたところで侍従が気づいて助けていただきました」
「まぁ、なんて粗暴な」
「エイミー……」
初めてその話を聞き、思わず身体ごとこちらに向き直ったテオドールにエイミーは微笑みかけた。
「その後はテオから離れませんでしたし、テオはリリアナ殿下からも守ってくれました。その……金髪に黄金の目の吸血鬼は会場に現れませんでしたし、私も忘れることにしてしまいました」
「エイミー嬢……その、話してくれてありがとう。その吸血鬼のことは私も知っている。その上で、あと一つ。
君は婚約後の生活を、どのように理解していた?」
エイミーは静かにフェルナンディオを見つめ返した。
「第一王子妃として、もしくは中継ぎの王妃として、建国の祖と同じ黄金色を併せもつ第二王子のシンケルス殿下の即位を、お支えする立場と心得ております。――アンドレアス殿下をお諫めできるかは、正直なところ自信がございませんが、万一の際には殉ずるものだと思っておりました」
「――アンドレアス様への想いはなくとも?」
「えぇ……もしかするとすべて私のせいだと、アンドレアス様は責めるかもしれませんね。でも、実家と、ブルノン家に、咎めがなければ、耐えられると、いえ、耐えてみせますので……」
「……」
フェルナンディオ、ソフィア、マクルド、マリアステラが揃って息を呑む。
誰にも言わずとも、内心覚悟はしていた。しかし予想外のタイミングで心の内を明かすことになり、震える声を隠し切れずに俯く。涙をこらえ、そっと指を伸ばしてテオドールの袖先に触れさせた。
やがてソフィアが、マリアステラとフェルナンディオが、やや遅れてマクルドが立ち上がると、エイミーの前に跪いて頭を下げた。
「外では言えない――言えないから、せめてここでは言わせて。貴女のような臣下は、この国の宝です。そして――本当にごめんなさい。貴女がすべてわかったうえで、すべてを諦めていたことをようやく知ったわ。本当に辛かったでしょう」
ソフィアの目から、一筋の涙が流れ落ちた。フェルディナンドが続ける。
「すまなかった。私たちはいずれシンケルス殿下に付く。だからアンドレアス様の婚約者であるエイミー嬢に肩入れをすることができなかったのだ。――しかし、貴女がそうまで思い詰めていたとは思わなかった」
「もっと早く貴女と話せていたら、きっとお友達になれた。これまでのことを許してとは言わない。せめて、貴女の安全は保障したい。――アンドレアスがいかに愚かでも、婚約破棄すれば貴女に傷がつくことが申し訳ないけれど」
「エイミー嬢は嫋やかな姫だと思っていたが、騎士だったな。俺はアンドレアスに仕えるつもりはないけど、エイミー嬢だけなら、多少便宜を図ってもいいと思ってるぜ」
「過分なお言葉をいただきありがとうございます。とても、とても嬉しく思います」
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エイミーはそっと脳裏にあの忌まわしき幻灯祭を思い浮かべる。
金髪に若葉の目を半分覆った包帯女のエイミー。
銀髪に紫水晶の目で、どんな化け物なのかわからない豪奢なドレスに身を包んでいたリリアナ。
黒髪に藍玉の目で、本物の高位貴族のような高貴さを漂わせていた吸血鬼のテオ。
金髪に黄金の目で、エイミーの腕を乱暴につかんだ吸血鬼のアンドレアス。
色変雫は、必ず本人の元の色とは異なる色に変化を起こす。それは庶民でも知っている常識だ。
しかし実際には「本人の元の色」だけでなく「父母の色」にも変化しないといわれている。こちらはあくまで公然の秘密だが、貴族の当主やその後継者であれば知っていて当然の知識だ。
朱色ではなく赤色のように、近い色味になることはままあるため、確実な話ではない。しかし、少なくとも現在までの長きにわたって父母と全くの同色に変化した例はなく、色変雫で父の色になったことがきっかけで不貞が発覚した例は複数ある。
創世神話では、夏の妃は太陽のように輝く白金の目をしていたという。その愛娘の瞳は夏空色だったというが、確実に冬の王の目を晦ますためには、ありふれた夏空色だけでなく珍しい白金色も避ける必要があったからでは、と囁かれている。
もしかするとアンドレアスは父の色に変化した希少な第一例なのかもしれないが――万一そうであったとしても、普通であれば醜聞を隠すために、人目につく前に色戻薬を飲ませるはずだ。
あのときアンドレアスは、色戻薬を飲ませようとする侍従から逃れて会場まで忍んでいたのだろう。甘酸っぱい果実のような風味の色変雫とは異なり、色戻薬は苦さが喉に絡みつく飲みづらい液体だと聞いている。
腕をつかまれたエイミーが思わず悲鳴を上げたことで侍従が気づき、引き離されたアンドレアスが次に戻ってきたときには紺の髪に蒼玉の瞳になっていた。
エイミーは戻ってきた“テオ以外の吸血鬼”には近づかないよう心掛けたし、その髪や目の色について口に出すこともしなかった。成長してその意味を理解してからは、心の奥底で王妃を軽蔑していた。
これまでエイミーは自分を、王族と高位貴族にとって都合のいい捨て駒なのだと理解していた。
しかし今日、時代を支える四人は自分を見捨てないと言った。表立って親しくすることはまだ難しいが、これからそれぞれの当主も交え、さまざまに調整を図ってくれるという。
今度は信じてみてもいいのかもしれない。エイミーは少しだけそう思った。