2 色変雫と十年前の初恋
「姉さま、見て見て!」
帰宅してそうそう、蹴玉のように弾んで投げかけられた弟の声に、エイミーは振り返った。
そこにいた、麦畑を思わせる金髪と橄欖石の瞳の弟と、銀髪に紫水晶の目をした従弟を見て瞠目する。
「あらリオン、まだ色変雫を食べてるの?」
笑いながら言うと、弟はぷくりと頬を膨らませた。
「僕はまだ、幻灯祭では夕の部だもの。でもほら、まるで色が入れ替わったようでしょう? だから姉さまにも見せたくて」
橄欖石の目をキラキラと瞬かせて話す弟のリオネルが微笑ましく、エイミーはクスリと笑った。
「そうね。紫の目じゃないリオンは随分親しみやすく見えるわ。エドウィンも素敵よ」
「いえ……僕がアダムス家と同じ色を纏っても、やはり不相応に見えてしまうかと……」
「そんなことないよ! ウィンもとっても似合ってる!」
はしゃいで答えるリオネルに思わず「ふふ……子どもっぽい」と漏らせば、
「姉さま!」と抗議の声が返ってきた。
「ふふふ、ごめんなさいね。でもリオン、とっても似合っているわ」
「そうでしょう!」
満面の笑みで返すリオネルには、普段「氷の貴公子」と呼ばれる面影もなく。
あぁやはり、アダムス家の銀と紫の色は、冷たい印象を与えるのだわとエイミーは静かに考える。
しかし今、銀髪で紫の目をしたエドウィンの、眉を下げて困ったように微笑む姿には冷酷さよりも高貴で儚い雰囲気があり、アダムス家の「冷酷な」イメージは顔立ちにも寄るのだと思い直した。それにしても自分と同じ色を纏ったエドウィンの姿は新鮮で、ついまじまじと見入ってしまう。
「どうせなら、幻灯祭の当日にこの色が出てくれればいいのに」
「そればかりは運次第ね」
少しだけ悔しそうなリオネルに、エイミーは宥めるように返す。
色変雫は不思議な飴で、一時的に髪と瞳の色を変える作用があるが、変化する色は毎回異なる。必ず本人の元の色とは異なる色で、色戻薬を服用しなければ約1日効果が持続する。また、個人差はあるが十歳から十五歳頃には色を変える作用が減じ、やがて色変雫を食べても色味が変化しなくなることから、まさしく「子どもの飴」と呼ばれる。
創世神話によれば、かつて冬の王は夏の妃の幼い娘に一目惚れし、愚行にも冬の国へと攫い、氷の檻で囲おうと画策した。その企みを防ぐべく、娘と相思相愛だった騎士が、幾多の夜を越えて知恵の魔女を訪ね、一粒の種を持ち帰った。夏の妃によって種は数刻で木へと成長し、そこに実るは鮮やかな実。その実を食べた娘は髪と瞳の色が変じ、冬の王はとうとう娘を見つけられず国へ戻った。
それが色変雫の起源であり、今でも毎年冬の始まりに行われる幻灯祭では、子どもたちは“冬の王に見つからないよう”色変雫を食べて過ごすのが通例である。
「僕も早く夜の部に出たいな。そのときはリリカに、紫のドレスを贈るんだ」
「いいわね」
五つ離れた弟でさえ婚約者を思い遣れるのに、と内心ため息を吐き、はしゃいで去っていく弟たちを見送った。夜会まで一月を切った。
まだアンドレアスからのドレスは届いていない。
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「エイミー嬢。すみません、少しよろしいでしょうか?」
「フェルナンディオ様、どうなされましたか?」
アンドレアスの側近候補である公爵令息フェルナンディオに声をかけられ、エイミーは柔和に微笑んだ。フェルナンディオはアンドレアスの幼馴染で信頼が篤い側近候補だが、まだ「候補」で留まっているのはフェルナンディオ自身の意志によるものだと聞いている。学院ではエイミーを軽視する子息令嬢が多い中、そのことに危機感を覚え、アンドレアスを諫めている姿をよく目にしていた。
「アンドレアス殿下が、このたび留学してきたリリアナ王女との親交を深められるということで、女性立会人をエイミー様にお願いできないかと。男性立会人は私が受け持ちます」
婚約中ではない高位貴族が個室で会談するためには、男女それぞれの立会人を必要とする。
エイミーは鷹揚に頷いてみせた。
「承知しました」
フェルナンディオに案内されて辿りついた食堂の個室には、すでにアンドレアスとリリアナがいた。
フェルナンディオから微かな怒気が立ち上るのをエイミーは肌で感じた。衣擦れの音に、彼が眼鏡を直したのを察する。恐ろしくて顔を見ることはできないが、きっとレンズの奥の目は冷えているだろう。
男女の立会人をつける必要があるほどに、貞淑さが求められるのが高位貴族社会だ。現にフェルナンディオは、エイミーをここまで案内するために、食堂入口で控えている学院給仕に同伴を依頼した。
それなのに、個室には給仕の姿はなく、アンドレアスとリリアナが二人きりで歓談している。醜聞がでないようにと苦心しただろうフェルナンディオの最大限の配慮を、アンドレアスは無下にしたも同然であった。
「おう、フェル……お前も来たのか」
フェルナンディオに気づいたアンドレアスが鷹揚に微笑みかけ、すぐにエイミーに気づいてわざとらしく顔を顰めた。
「アンドレアス殿下――どうして学院給仕を下げられたのですか」
目を凍てつかせながら口元だけで笑みを作るフェルナンディオに、アンドレアスは気まずげに頬を掻く。
「歓談の場にわざわざ給仕を同席させる必要もなかろう――そもそも、リリアナ王女は御身一人で留学されているのだ。我々がいちいち給仕を同席させるのもかえって失礼ではないか?」
「アンドレアス王子、お気遣いいただきありがとうございます」
リリアナは慎ましく目礼して礼を述べる。
未だフェルナンディオの怒気を感じるエイミーは、内心独り言ちた。
(そりゃあ、リリアナ王女はおそらく、“誰かと過ちを起こしてそのままこの国に居つく”ことを望まれているから、あえて一人で留学しているのでしょうし…)
隣国でのリリアナ王女の悪評は、エイミーの耳にもわずかに届いている。なんでも、友人として宛がわれた貴族令嬢たちの婚約者に粉をかけて、数組の婚約を破棄させる寸前だったらしい。王家の後ろ盾を餌に惑わされた令息たちも気の毒であるが、彼女らの婚約者たちが王女に一方的に言い寄っていると信じ込まされた令嬢たちの怒りや嘆きは隣国の運営に罅を入れるほどだったという。
リリアナ王女の、中途半端な時期に決まった突然の留学は、実質懲罰に近いものであったし、なんならこちらで過ちを起こしてくれれば厄介払いができると期待されている節もある。
隣国から留学申請が来たときから、耳の早い貴族たちは情報を集めたし、情報を持たなくても何らかの不審を感じている聡明な者もいる。彼らは表向きには礼儀正しく振舞い、王女の歓心を惹くように動くが、決して必要以上に王女と親しくなろうとはしなかった。
まさか気づかず深入りする愚か者が自分の婚約者――ましてや、この国の王族であるとは、エイミーも予想していなかったのである。
「もうすぐ、この国では幻灯祭が行われると聞き、お話を伺いたかったの」
茶の準備が整い、給仕が退出すると、にこやかにリリアナ王女が切り出した。
「私の国の冬まつりは、ドレスコードが黒という決め事があるけれど、変装まではしないの。でも、この国では子どもは飴を食べて化け物の真似をするのよね」
「そうですね。この国の幻灯祭では、冬の王と夏の姫の物語になぞらえて、子どもたちは仮装をします。化け物というか……冬の王の眷属や冬の国の民を真似る、というのが起源のようですよ」
アンドレアスからの視線を受けて、フェルナンディオが穏やかに解説をする。
「そうなのね。――実は私、一度だけこちらの幻灯祭に参加したことがあるわ。もう十年も前になるかしら。もしかしたらそのときお会いしていたかもしれませんね」
「そうなのですか?」
「えぇ……実はその場で、青い目の、吸血鬼の変装をした方に一目惚れをしてしまって。恥ずかしながら、あれが私の初恋でしたの」
「リリアナ王女の初恋など、なんと栄誉な! その幸運な男を見てみたいものです。――おいフェル、十年前の幻灯祭というのは私も参加したはずだが、誰のことだかわかるか?」
「えぇっと……吸血鬼は人気で、たしか複数いたはずですが……」
フェルナンディオが少し困ったようにエイミーを見つめる。エイミーはそっと目で笑い返し
「えぇ、確かアンドレアス殿下も吸血鬼でしたわね」
「なんだと!? そうであったか!」
喜色を浮かべたアンドレアスがフェルナンディオを見る。
「あぁ、そうでした。あのとき殿下は、紺の髪に蒼玉の目でしたね」
「まぁ」
「なんと!」
アンドレアスは満面の笑みで微笑み、リリアナ王女に向きなおった。
「リリアナ王女、私もあの幻灯祭で一目惚れをしたのです。相手は麗しき包帯姫で、ちょうどあなたのような金糸の髪に若葉色の目をしていました。あれは、貴女だったのではないでしょうか?」
「まさかそんな……私はあのとき、用意された格好に着替えただけで、なんの仮装だったかは――でも確かに、姫と呼んで差し支えないドレスだったような気がするわ」
「確かにあのとき、私は姫に恋をしたのです。あの包帯姫を娶りたいと王と王妃に懇願したけれど、なかなか色よい返事がもらえず、ようやく婚約者が決まったと思えば――そこにいる、冷たい銀髪に紫の目の女が出てきて心底落胆したのです。しかし、十年前といえば貴国の第一王子も生まれる前のことですから、第一王子である私と、唯一の王女であった貴女との婚約は結べなかったに違いない。この学院で貴女と再開して以来、その美しい髪と目から離れがたく思っていました。あぁリリアナ王女、私の麗しき姫が、まさか貴女だったとは!」
「アンドレアス王子……嬉しい! 本当に、初恋の君に出会えるなんて――」
今にも抱き合わんばかりの二人の様子にとっさに扇で顔を隠し、ここが個室でよかったとエイミーは安堵する。
安堵のため息を別のものと捉えたのか、フェルナンディオが気づかわし気な瞳を向けてきた。
「こちらもなぜ婚約が結ばれたのか不思議だったのです。ようやく合点がいきました」
正面を向き、扇の下で小さく囁いたエイミーに、フェルナンディオも眼鏡の位置を直す仕草で口元を隠すと囁いた。
「あのときの儚いお姿もよくお似合いでしたよ」
「実は顔を見せたくありませんでしたの――念願が実る間際で、冬の王を恐れていたので」
「それは――」
察したフェルナンディオが思わず黙り込む。彼は公爵令嬢のソフィアと相思相愛の婚約者だと聞いているから、自分の身に置き換えたのかもしれない。
恋に溺れた愚か者共が一線を越える前に見事な手腕で会談を切り上げた後、フェルナンディオはエイミーに立会いの礼を述べ、教室まで送ってくれた。
その二日後、フェルディナンドの婚約者であるソフィアからお茶会の誘いが来たのである。