討剣如夢(とうけんじょむ)~降魔成道(ごうまじょうどう)の章~
今より遥か昔のこと。度重なる分裂と統一を繰り返していた武術界は衰退の一途を辿り、善と悪、正と邪の戦いは混迷を窮めた。
そうした一般社会とは異なる武術界に身を置くのは武術家だけに留まらずに武者修行をする旅人や芸術を愛する風流人だけでなく、盗賊や通り魔などの犯罪者も身を潜めるようになってしまった。正と邪が入り乱れ、争乱を繰り返す武術界を一般社会の人々はまるで荒れ狂う河のようだとして、
いつしか「荒河」と呼ぶようになった。武術界に身を置く者たちも一般社会を静かなる湖に
例え、「静湖」と呼んだ。
荒河には『正道』と呼ばれる荒河と静湖の平和と秩序を守るために日々修行を重ね、切磋琢磨する武術家集団があった。そして、正道と敵対する『魔道』と呼ばれる勢力もまた存在し、数百年来、正道と魔道の戦いは果てしなく続き、長きにわたる終わりの見えない死闘は日を追うごとに激化していった。
凌開雲もまた正道の剣士の1人であり、魔道に所属する者たちを
殲滅すべく、血で血を洗う闘争に明け暮れていた。
そんな彼はいつからか、毎晩不思議な夢を見るようになっていた。
『凌開雲!貴様は魔性の者と戦い続ける宿命を背負いし者!魔道を討ち滅ぼし、世に光をもたらすのだ!!』
凌開雲はその日も同じ夢を見ていた。厳かで強靭な声に導かれ、夢の中の彼は、戦いの中で深手を負い、血に塗れていた。
彼の前には、黒い剣を持った美しい女がいた。
その剣は、一目で魔剣とわかる禍々(まがまが)しさを感じた。
女がそれをゆっくりと振り上げる。
しかし凌開雲はその動作にまったく動じることはなかった。
彼は死を覚悟し、それでもなお、女を睨みつけていた。
「貴様は何者だ。魔道に魂を売り渡し、その力を自在に操るか」
女は答えず、ただゆっくりと剣を振り下ろす。
凌開雲はそれを正面から受けようとしていたが、ふと背後に気配を感じた。
自分のものとは違う別の気配がする。
(女の仲間か?)
自分の背後に誰かいるのだろうか。しかし後ろを振り返る余裕はない。目の前に迫り来る死に絶望し、彼が目を瞑ろうとした時……。
(なんだ、この感覚は)
凌開雲の背後の気配は、何かを訴えかけているようだった。
(命乞いか?それとも……助けを求めているのか?)
しかし女の持つ魔剣がそれを断ち切る。
凌開雲が最期に感じたのは、背後からゆっくりと伸びてくる手の感触だった。
(なんだ、これは)
その手に掴まれる感覚がする。そして……。
「はっ!?」
そこで夢から覚めた凌開雲は勢いよく起き上がった。また同じ夢だ。
黒い剣を持つ女と戦う、同じ夢。しかし前回は背後から気配を感じたことはなかった。
(確かに何かを感じたはずだったが……)
凌開雲はその感覚が何だったのかわからずにいた。
凌開雲はその日から同じ夢を見続けた。
しかし彼は夢の中の黒い剣の女とは戦い続けなかった。ただ背後の存在が気にかかるのか、背後を振り返る回数が増えていた。
『凌開雲よ、戦いから目を逸らすな!魔性の者が貴様の首を狙っておるぞ!!』
夢の中の厳かな声は、いつもそんな忠告をする。
(背後に気配がする。しかし振り向いても誰もいない)
凌開雲はそう思いながら戦い続けるが、夢の中の女は以前よりも強い力を持っているように思えた。
そしてついにその日が来た。
「なにっ!?」
旅の途中、背後から殺気を感じて凌開雲が背後を振り向くと、そこには夢の中で何度も戦った黒い剣を持つ女が立っていた。
「どういうことだ?」
凌開雲はそこで初めて、この女が夢の中で戦った女と同じ存在であると確信した。
女は彼に斬りかかったが、間一髪で彼はそれを避けることができた。
(これはいったいどういうことだ?)
凌開雲の頭の中は混乱していた。なぜ背後の気配に気づかなかったのか。そしてなぜ夢の中でしか現れてこない女が今こうして目の前にいるのか……。
「貴様は何者だ」
女はただじっと彼を見つめて動かない。
(俺を殺すために現れたのか?それとも俺を試しているのか?)
凌開雲は思考を巡らせるが、彼の答えが出ることはなかった。
(魔性の者を殺さなければ)
彼はそう思い、剣を抜いた。
(あの女が持っている魔剣は夢で見た剣と同じか……いや、そんなことはどうでもいい!)
凌開雲は自身の中に湧き上がる疑問を払拭するように剣を振るった。
女はそれを魔剣で受けようとしたが、受け止めきれずに後ろに吹き飛ばされた。
凌開雲は女と間合いを詰め、剣を振り上げる。
(これで……終わりだ!)
女は後ろに吹き飛ばされ、地面に倒れ込む。凌開雲はそれを見届けて剣を振りかぶったが……。
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
女が悲鳴を上げた。その刹那、凌開雲は何かに取り憑かれたように動きを止める。
(今、俺は何をしようとした?)
彼は初めてそこで我に返った。
(女を殺そうとした……のか?)
女は倒れたまま動かない。凌開雲はその女のことが気になって仕方がなかった。
「貴様は一体何者だ」
凌開雲はそう言いながら女に近づいていく。しかしその足はゆっくりとしか動かない。
(なぜ動きが止まるんだ!なぜ斬りかからないんだ!俺にはやらねばならないことがあるのに!!)
凌開雲は心の中でそう叫んでいた。しかし彼はもうわかっていた。
自分がすでに魔性の者に取り憑かれていることを。
「なぜお前は俺を殺そうとする?なぜ俺の夢の中に現れるんだ」
凌開雲の問いかけに女は答えない。彼はその女の正面に回って膝をつき、女の顔を覗き込んだ。
女の顔は美しかった。その緋色の髪も、白い肌も、そしてその瞳も。
彼が今まで見たどんな人間よりも美しかった。彼は初めて、女の瞳から目をそらすことができなくなっていた。
「俺に教えてくれ」
凌開雲は女に手を伸ばそうとしていた。
(だめだ、俺の意思でこの女を殺すんだ!)
彼の中でそう叫ぶものがあるが、自身が手を伸ばすのを止めることはできなかった。
(くそ!俺は何をしようとしている?わからない!!)
彼は心の中でそう叫びながら女の目を覗き込んでいた。
女はそんな凌開雲にゆっくりと手を伸ばし、そして彼の頬に触れた。
(なにっ!?)
その瞬間、彼の心の中にあった何かが消えた気がした。それと同時に彼は気づいた。自分が夢を見てから初めて感じる感情が芽生えていたことを。それは恋慕であり、執着でもあったが、同時に彼は確信した。
(俺はもうこの女の虜だ)
女の瞳と凌開雲の瞳が合う。その時、二人の目が金色に光ったような気がした。
(なんだ?これは)
「なに?」
女が何かを呟いたが、凌開雲にはそれが聞き取れなかった。しかしそれは彼にとって問題ではなかった。
(この感覚はいったい……)
彼は初めて感じる感覚に戸惑ったが、不思議と心地よかった。
「お前の名を教えてくれないか」
彼は女の目を見つめながらそう尋ねた。女は何も答えない。しかし彼はそれでも構わなかった。目の前にいる女の名前を知らなくても、彼女を愛していたから。
「お前を殺すことはもうできない。俺は何故戦い続けていたのかわからなくなった。だが、それでも構わない。俺はずっとお前のそばにいたい」
凌開雲はそう言いながら女の緋色の髪を撫でた。その髪は柔らかく、絹のような触り心地だった。
「お前は俺をどう思う?」
女は何も答えないが、彼はそれが答えであるかのように思った。
「お前が何者でもかまわない。俺はお前を愛そう」
「何故私にとどめを刺さないの?あなたは魔道の者を斬るために生まれた剣士でしょう?」
女は初めて口を開いた。その声もまた美しいと凌開雲は思った。
「お前と共に生きたい」
「それはだめよ。私はあなたを殺そうとしたのだから」
彼は女が何を言おうとしているのかわからなかったが、それでも構わないと思った。今、彼がすべきことは目の前の女を愛することだから。
「お前が何者なのか俺にはわからない。だが、そんなことはどうでもいいんだ」
凌開雲の声に迷いはなかった。この女は何があっても手放すことはできない。たとえどんなことがあっても、彼はこの女だけを愛し続けると心に決めたのだ。
「ふふっ」
女はそう言って笑った。それはどこか楽しそうな声だったが、彼が見た中で彼女が初めて見せた笑顔だった。
「あなたがそんな人だとは知らなかったわ」
「俺も自分がこんなふうになるとは思っていなかったさ。だがそれも悪くない」
凌開雲はそう言いながら女の髪を撫で、女の体を抱きしめた。
その日、凌開雲は正道の剣士であることを辞め、その女、殷緋宵と共に生きることを決意した。
彼はその日から殷緋宵と共に、多くの民を助けた。また時には悪人を斬り伏せた。裏切り者となった彼に罪悪感はなかった。なぜなら彼には殷緋宵さえいればそれでよかったから。そして2人は静湖の人々にも慕われるようになっていた。
「凌様!殷様!このご恩は一生忘れません」
「ああ、困ったことがあったらいつでも呼んでくれ」
凌開雲は多くの民に慕われながら過ごしたが、それでも彼には一つの不安があった。魔道に属する女と生きるために正道の剣士たちから追われる身となってしまったのだ。
それは殷緋宵も同じだった。彼女も正道の男と共に生きることを選び、魔道の剣士たちから裏切り者の烙印を押されたのだった。
「まさか私が正道の者に情が湧くとは思わなかったわ……」
殷緋宵はそう言って自嘲した。彼女は元々、正道、魔道の両者が和解することを望んでいたのである。
「私はもうこの剣を持つことはできない」
そう言って殷緋宵は黒い魔剣を凌開雲に渡した。
「これであなたは魔道の者を殺さずに済む。でも、くれぐれも気をつけて」
「ああ、わかっているさ」
凌開雲はその剣を受け取ると、それを腰に差した。そして二人はまた旅に出る。
「私はあなたと共に生きると決めたのだから……どこまでもついていくわ」
殷緋宵はそう言って微笑んだ。それはとても美しく、優しい笑顔だった。凌開雲は自分の身に何が起ころうともその笑顔を守り続けると誓った。それから2人は国中を旅した。その過程で多くの民を救い、人々から慕われるようになった。それはとても幸福なことだった。しかし……。
「あなたはずっと私を騙していたのね」
ある時、2人がとある山中で休息をとっていた際に殷緋宵は突然そう言った。彼女は凌開雲に剣を向けている。
「凌開雲は正道の者だもの……信じた私が馬鹿だったわ」
「何を言っているんだ?俺は君のことをずっと愛している」
「愛しているですって?そんな空虚な言葉はもう信じない!」
そう言って殷緋宵は問答無用で凌開雲に斬りかかった。
「やめろ!なぜ俺に剣を向けるんだ!」
凌開雲も剣を抜いて応戦するが、彼女の猛攻を受け止めるのが
精一杯だった。
(だめだ……俺は緋宵を殺すことはできない)
彼はそう思った。このままでは殺されるとわかっているのに、何故か体が動かなかった。それは彼女に対する恐怖からではなかった。その逆だった。
(俺は緋宵を愛している、ならば彼女の手で討たれるなら本望ではないか。俺の手は数多くの彼女の同胞たちが流した血で血塗られている。その俺が愛した女の手によって斬られるのならば、この上ない幸せじゃないか)
凌開雲はそう思った。彼は結局、魔道の者を討つために生まれた剣士だった。そして彼の剣は血塗られていた。だからこそ凌開雲は殷緋宵に討たれることを受け入れることができたのだ。
「緋宵、俺を殺せ」
凌開雲はそう言って剣を構えることをやめた。
(ああ……ようやく楽になれるのか)
彼が目を瞑ってそう考えた瞬間……。
ガキン!!
そんな金属と金属がぶつかり合う音が響いたと思うと、凌開雲は背後を振り返った。見れば正道の剣士たちが続々と集まっていた。
「開雲!無事だったか!」
「魔道の女め!覚悟しろ!!」
(正道の剣士たち……何故俺を助ける?)
凌開雲はそう心の中で思った。しかし不思議と怒りや憎しみは湧いてこなかった。ただ、これでもう殷緋宵とは共にいられないという寂しさだけが彼を支配した。
「殷緋宵を殺せ!」
誰かがそう言った時、殷緋宵は自ら剣を投げ捨てた。それは彼女の剣士としての最期だった。そして彼女は涙を流しながら谷底へと身を投げた。何故かその顔には優しい微笑みを浮かべていた。
「緋宵!」
凌開雲は慌てて彼女に駆け寄ったが、すでに殷緋宵の姿はなかった。
(どうしてだ……何故なんだ?)
彼は涙を流しながら彼女を探したが、とうとう見つけることはできなかった。そして彼は再び孤独となったのだ。
「開雲、お前のおかげで魔道の女を討ち取ることができた。大手柄だぞ!お前は魔道の首領の娘、殷緋宵を籠絡し、油断させて討つことに成功したのだ!これで
荒河において我等正道は安泰だ!」
「魔道壊滅に尽力してくれたお前のおかげだ。皆、お前を褒め称えているぞ」
そんな賞賛の言葉を聞きながら凌開雲は全てを理解した。殷緋宵は正道の追手が迫っていることにいち早く気付き、凌開雲に正道を裏切った大罪人の汚名を着せないために敢えて敵対し、斬りかかったのだ。それは谷底へ飛び降りる直前に見せた微笑みを思い出せば一目瞭然であった。
(緋宵、お前は最期まで俺を愛し続けてくれていたのか……)
凌開雲は殷緋宵の想いに気付くことができなかった自らの愚かさに涙を流しながら殷緋宵を想い、谷底をいつまでも見つめていた。
その後、凌開雲は正道の剣士たちの本拠地に連れていかれ、正道の長老たちから
賛辞の言葉を賜ったが彼にとってそれらは全てどうでもいいことだった。
「お前は魔道の者を討ち取ったのだ。褒美をとらせる」
長老の1人はそう言ったが、凌開雲には欲しい物はなかった。ただ、心残りがあるとすればそれは……。
(俺はもう誰かに必要とされる人間ではない)
彼は心の中でそう思った。
「所詮俺は魔道の者を討つことしか能のない男さ」
凌開雲はそう言って自嘲した。その目からは一筋の涙が流れていた。そうして彼は長老たちの褒美を受け取らずにその場を後にした。
(最早、俺の人生に生きる意味は無くなった)
大勢の人々が凌開雲を英雄と称えたが、彼の心には何も響かなかった。
(愛する女を死に追いやった男のどこが英雄だというのだ……!)
凌開雲はそう心の中で叫びながら夜の闇へと消えていった。もう彼には何も残されていなかったのだから……。
しかし、彼は新たな出会いを果たすことになる。それが凌開雲の運命を大きく変えることとなるのであった。
ある日の夜、凌開雲が山中を歩いていると目の前に一匹の狐が現れた。その狐は美しい銀色の毛並みをしており、どこか高貴な気配を持っていた。その美しさに彼は目を奪われていると、その狐が声をかけてきた。
「お前が殷緋宵を討った男か?」
その言葉に凌開雲は思わず硬直した。そして次の瞬間には殺気を放ちながら剣を抜いていた。
「貴様に何がわかる!!」
凌開雲はそう叫びながらその狐を斬ろうとした。その時、彼は気付いた。今自分が斬りかかろうとしているのは明らかに自分よりも強い存在であることを。しかし、それでも彼は止まらなかった。たとえ相手がどんな存在であろうとも……。だが、その瞬間だった。彼の目の前に銀色の閃光が走ったと思うと、そのまま地面に倒れたのだ。
「くっ!」
彼はすぐに立ち上がろうとしたができなかった。
「話は最後まで聞け、愚か者!」
凌開雲は剣を強く握りしめるが何もできなかった。
すると銀色の狐は言った。
「私はお前の敵ではない」
「信じられるか!!」
凌開雲はそう叫びながらなんとか立ち上がったが、その瞬間全身に痺れが走った。
(これが……魔性の者の力なのか……?)
その狐の放つ異様な雰囲気と威圧感に彼は冷や汗を流した。
「安心しろ、お前に危害を加えるつもりはない」
「ならば何の用だ!」
そんな凌開雲の言葉を聞いた銀色の狐はどこか楽しげに笑ったかと思うとこう言った。
「私と手を組まないか?」
「何……?」
「お前が望むものは全て私が与えよう。だからお前の力を貸せ」
凌開雲はその言葉に眉をひそめた。彼は狐が言った言葉の意味が理解できずにいたのだ。
「貴様の目的はなんだ?」
凌開雲は尋ねる。すると銀色の狐は目を細めながら言った。
「私は殷緋宵に恩がある。だから真実を知りたい、世間の人間はお前を魔道の女、殷緋宵を討った英雄だという。しかし、お前からは彼女への強い愛情を感じる。何故お前は殷緋宵を討った?」
「俺は緋宵の想いに気付けなかった薄情者だ、狐よ俺が憎いならこの場で殺してくれ。死んで緋宵のところへ行きたい」
凌開雲はそう叫んだ。すると銀色の狐は憐れむような目で彼を見た。
「哀れな男よ。ならば私と共に来るがいい」
そう言って銀色の狐は姿を消した。凌開雲はしばらくの間、その場を動けなかった。しかし彼は覚悟を決めるとゆっくりと歩き出したのだった……。
狐は姿を消したかと思うと、再び姿を現し、また姿を消すのを繰り返しながら凌開雲を道案内した。
やがて、ある小さな祠の前に辿り着いた。
「ここだ」
狐はそう言って凌開雲を導いた。彼は戸惑いながらもその祠の中に入った。するとそこには大きな翡翠でできた台が置かれ、その上に寝かされていたのは紛れも無い殷緋宵その人であった。
「緋宵!」
凌開雲は殷緋宵のもとへ駆け寄ろうとした。すると狐が言った。
「殷緋宵はまだ生きている。しかしこのままでは彼女は近いうちに死ぬ」
「な、何……?」
凌開雲は狐の言葉に驚いて足を止めた。そして狐に尋ねた。
「どういう意味だ?」
すると狐は言った。
「人を生き返らせる妖術は彼女の体との相性が悪いのだ。だから私の力を使って無理矢理眠らせているがそれももう限界が近い」
「どうにかならないのか?お前は緋宵に恩があるのだろう?」
そんな凌開雲の言葉を聞いた狐は小さくため息を吐いた。
「私は彼女の願いを叶えただけだ。それ以上はどうすることもできない」
「緋宵の願いとは何だ?」
凌開雲は狐に尋ねたが、狐はそれ以上何も答えなかった。しかし、凌開雲にはわかっていたのだ。彼女が何を望んだのかを……。
「緋宵はまだ生きていると言ったな?では彼女を救う方法を教えてくれ」
凌開雲は狐にそう尋ねた。すると狐は答えた。
「翡翠の台をどけて彼女を起こせば良い」
「そんな事でいいのか?」
凌開雲は驚いたようにそう言ったが、同時に彼は困惑した。
彼は困惑しながらも翡翠の台に近づき、殷緋宵に歩み寄ると彼女を優しく抱き起こす。
「緋宵、起きろ。俺だ……凌開雲だ」
彼は優しく彼女の体を揺らしながらそう言った。しかし、彼女が目を覚ます気配はなかった。だが、その時だった。急に翡翠の台が光り輝き始めたのだ。それはまるで何かを呼び覚ますかのように光っていた。そして次の瞬間にはその光は消え去り、その中心にいたのは紛れもなく殷緋宵であった。彼女は静かに立ち上がると凌開雲の方を見た。
(ああ……ついに生き返ってくれたのか)
凌開雲は歓喜した。だが、次の瞬間には彼は絶望する事になる。何故なら殷緋宵の目には以前の様な優しさが無くなっていたからだ。彼女の目は氷のように冷たい目をしていた。そして彼女は凌開雲に残酷な言葉を告げる。
「お前は誰だ?」
その言葉に凌開雲は一瞬固まると、ゆっくりとその場に座り込んだ。
(緋宵は本当に生き返ったのか?それともこれは夢なのか?)
そんな混乱の中、彼は無意識のうちに涙を流した。するとそんな彼に狐は言った。
「目覚めたばかりで混乱しているのだろう。彼女はしばらくすれば以前の記憶が蘇る筈だ」
(記憶?)
凌開雲はそんな狐の言葉を聞きながら思った。
(緋宵は俺のことなどもう覚えていないというのか?)
そんな考えが頭をよぎる中、殷緋宵は言った。
「お前が私を生き返らせたのか?」
彼女のその言葉を聞くと凌開雲は顔を上げたがすぐにうつむいて答えた。
「そうだ……」
(本当にそうだと言えるのか?俺は本当に彼女を救えたのだろうか?)
彼は心の中でそう思っていた。すると殷緋宵は続けた。
「私を生き返らせたのには理由があるのだろう?」
その問いに対して凌開雲は何も答える事ができなかった。そんな彼の様子に何かを察したのか狐が代わりに答えた。
「この男はお前に会いたがっていたのだ」
今度は殷緋宵が口を開いた。
「お前は今まで何人の人間を殺めた?その命を奪ったことに罪の意識は無いのか?」
「それは……」
凌開雲はそれだけ言うと黙り込む。すると殷緋宵は言った。
「私はもう人間ではない、妖怪として生きることに決めたのだ」
「やはりお前は死んでしまったのか……緋宵……」
凌開雲はそう言いながら涙を流した。そんな彼に対して殷緋宵は言った。
「お前は私を愛してくれた男だ。だからもう一度だけお前を愛そうと思った」
その言葉を聞くと彼は涙を流しながら言った。
(これは夢なのだろうか?)
と心の中で思いながら。しかし、同時にこう思った。例えこれが虚構であったとしても構わないと……。そして彼はこう言った。
「緋宵、俺は君が生きていてくれるだけで嬉しい」
凌開雲はそう言いながら微笑んだ。彼は彼女の言葉に喜びながらも同時に悲しみを感じていたのだ。何故なら以前の殷緋宵はもうこの世にはいないのだから……。するとその時だった。急に祠の中が揺れ出したのだ。
「な、何だ!?」
凌開雲は驚いたがすぐに狐が言った。
「時間切れだ」
すると祠の中が激しく揺れ始める。そしてそれと同時に祠の床から無数の黒い手が生えてきた。それはまるで生きているかのように蠢き、殷緋宵に絡みついた。次の瞬間には彼女はその手によって地面に押し倒された状態になっていたのである。
そんな殷緋宵を守るために凌開雲が前に出た。彼は剣を抜くと黒い手を縦横無尽に切り裂いた。しかし黒い手は次々に現れ、凌開雲に襲い掛かる。彼はそれを必死になって斬り続けたが、やがて限界に達しようとしていた。そんな彼に対して狐は言った。
「退け!これ以上ここにいては危険だ!」
しかし凌開雲はその忠告を無視して言った。
「俺は緋宵を助ける!!」
(たとえこの命が尽きようとも彼女を守りぬく、今度こそ必ず!!)
彼はそう決意しながら剣を振り続けたが、ついに黒い手に捕まってしまった。そしてそのまま体を締め付けられても手にした剣を縦横無尽に振り回し、自信を捕らえた黒い手を粉砕した。
彼が修得した剣技『天息呵成』の型である。彼は荒い呼吸を繰り返しながらも、再び剣を振るおうとしたが、突然体に力が入らなくなった。
(そろそろ限界か……)
そんな考えを巡らせながらその場に倒れ込む。すると狐は彼に近づいて言った。
「よくやったぞ」
狐はそう言って彼を労った。しかし凌開雲は力を振り絞りながら立ち上がると殷緋宵の元へ向かって歩き始めた。だがその体はもう動かなくなっており、彼の命も残りわずかである事を示していた。それでも彼は歩みを止めなかった。
(まだだ……まだ、俺は倒れるわけにはいかない。緋宵を連れ帰るまでは、決して……!)
彼は心の中でそう叫びながらも、遂に力尽き倒れてしまった。そんな彼に対して狐は言った。
「残念だがここまでのようだな」
そんな狐の言葉を聞くと凌開雲は僅かに微笑みながら言った。
「あきらめて……なるものか」
彼はそう言って立ち上がろうとするがやはり体に力は入らない。そんな凌開雲の様子を見た狐は彼にこう言った。
「一つだけ方法がある」
その言葉に凌開雲は目を見開いた。そして彼は藁にもすがる思いでその方法を聞いたのだ。すると狐は言った。
「私がお前に妖術をかける、それでお前の体は再び動くようになるはずだ」
それを聞いて凌開雲は驚いたがすぐに冷静になった。しかしそんな彼に対して狐が言う。
「ただし、一度妖術にかかればお前は殷緋宵同様に魔性の者となる。二度と正道へは戻れなくなるぞ、それでもいいのか?」
狐の忠告を聞いた凌開雲は少しの間黙っていたがやがて口を開いた。
「構わない、俺は緋宵と共に生きられればそれで良い」
彼はそう言いながら微笑むと言葉を続ける。
「それに俺はもう正道に背いた身だ、今更恐れるものは無い」
凌開雲の言葉に狐は小さくため息を吐くと言った。
「いいだろう、ならばお前に妖術をかけてやる」
狐はそう言って凌開雲に尾をかざした。すると突然体に力が入るようになった。凌開雲は立ち上がると狐に礼を言った。
「ありがとう」
しかしその時だった、突然祠の中に何か黒い煙が立ち込め始めたのである。それは煙というよりも霧のようにも見えたが、徐々にその濃さを増していった。そして次の瞬間には視界が全く効かなくなっていた。
(これは一体……?)
凌開雲がそう思っていると狐の声が聞こえてきた。
「急げ、凌開雲。間に合わなくなる!」
「間に合わせるさ!」
彼の肌は雪のように白くなり、顔には血のような赤い紋様が現れ、髪の毛も白く染まっていた。
「その姿は……」
殷緋宵は驚きながらも凌開雲に話しかけた。しかし彼はそんな殷緋宵の言葉を気にせずに彼女に言った。
「時間がない、早く行こう」
凌開雲はそう言って彼女を抱え上げ、祠の外を目指して風の様に走り出した。そして外に出るとそのまま山を下り始めたのである。
(急がなければ……!)
そんな考えを巡らせながら走り続けていると突然目の前が真っ暗になり、気を失ってしまったのだった……。
凌開雲が目を覚ますとそこは見知らぬ場所であった。自分の隣には殷緋宵と狐が倒れている。
(ここはどこだ?)
彼はそう思いながら立ち上がると周囲を見回す。すると気が付いたのか、殷緋宵と狐が目を覚ます。
「開雲?」
彼女はそう言いながら彼を見た。
「大丈夫か、緋宵?」
凌開雲は彼女にそう声をかけたが彼女は不思議そうに言った。
「あなたはもう人間ではないの?」
その言葉を聞いて彼は自身の姿を確認し、静かにうつむいた。
凌開雲はため息を吐いた。その顔は血の気を失い蒼白になっている。耳は角のように鋭く、瞳は金色に輝いていた。
彼は今、妖怪の姿になっているのだ。それは彼が人間ではなくなったということを意味していた。
そして凌開雲はゆっくりと立ち上がると殷緋宵の元に近づいていった。そして彼女を優しく抱きしめると言った。
「緋宵、怪我は無いか?」
それに対して彼女は答えた。
「あなたまで妖怪になってしまうとは……」
すると殷緋宵は大きなため息を吐いた。その瞬間、彼女の瞳には涙が浮かんでいた。そして凌開雲に向かって言う。
「私はあなたに謝らなければならないことがある」
その言葉を聞くと凌開雲は首を傾げる。そして殷緋宵は続けて言った。
「私は……あなたに酷いことを言ってしまった。あなたに正道の剣士として生きてほしかったからあなたの敵として振舞った……それだけじゃない、私が妖怪になればあなたは私のことを忘れて別の女性と幸せな家庭を築いてくれるだろうとさえ思った。あなたはずっと私を愛し続けてくれたというのに……」
その言葉を聞いて彼は微笑むと優しい声で言った。
「そんな事はもう良いんだ、緋宵が生きているというだけで俺は嬉しいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、彼女は涙を流し始めた。そんな彼女の体を凌開雲は優しく抱き寄せると彼女の頭を撫でた。その時だった、それまで黙っていた狐は凌開雲に向かって言った。
「お前たちの想いは本物なのだな。たとえ人でなくなったとしても、魂の輝きが変わらぬとは……」
狐はそう言いながら2人に対してついてくるように言った。凌開雲と殷緋宵が狐の後を追うと、狐は二人を引っ張った。そして外へ出るとそこに広がっていたのは美しい山の景色だった。そこから見える風景は、まるで絵画のようであった。しかしそんな景色に見とれている余裕はなかった。狐は凌開雲に言う。
「単刀直入に聞こう。お前はこれからどうする?」
凌開雲は狐の問いに力強く応えた。
「決まっている。俺はこれからも世の平和のために剣を振るい続ける、その志には正道も魔道も無い。
これからは俺の意思で人々を守る」
その言葉を聞くと狐は優しく微笑みながら言った。
「ならば私はお前たちの行く末を見届けてやろう」
その提案に凌開雲は一瞬驚いたがすぐに首を縦に振ったのだった。そして彼は狐に向かって言った。
「よろしく頼む」
その言葉を聞いた狐は嬉しそうに微笑むと凌開雲の肩に乗った。そして彼は殷緋宵の方を向いて手を差し伸べた。
「行こう、緋宵。俺は君と共にこの世界を見て回りたいんだ」
「はい……!」
彼女はその手を取ると二人は山を下り始めた。
その後、荒河と静湖において1つの噂が流れた。人々を悪しき力から守ろうと戦う小さな銀色の狐を連れた男女の話である。その2人と1匹は悪人や悪しき妖怪たちから恐れられる存在となっていった。
曰く、その2人は人であって人ではない。曰く、その2人は妖怪であって妖怪ではない。曰く、その者たちの力は人知を超えており、いかなる存在も太刀打ちできない。そんな噂がまことしやかに囁かれていた。
そしてその2人のうち、男の方は行方知れずとなった正道の剣士、凌開雲ではないかと
噂されたがその真偽は定かではない……。
こうして荒河と静湖の歴史に新たな伝説がまた一つ書き加えられたのである。
劇終。