狂気と痛みと憎しみと
あのとき、あの選択肢を取っていたなら、きっと未来はこうなっていただろう。
残酷で、愚かで、救いのない彼の所業。それでも彼は、死ぬことが許されなかった──。
OTERROUT『狂気と痛みと憎しみと』を是非、お楽しみください。
──痛み、そして苦しみは、彼の固く閉ざされた心の扉を開く唯一の鍵だと言えるだろう。心の扉を開いて、そしてその中から『生きている』という実感を引き出してくれる。
死んでいるか、生きているか。今の自分自身の状態はどちらなのか。それが、彼には判断できなかった。判断材料が必要であったのだ。
判断材料──苦痛は、彼にとってはそうではなかった。
「⋯⋯」
白と黒のみで構成された世界。彼の視界に映るものはモノクロで表示されていて、そこに白と黒以外の色は存在しなかった。──ある二つの色を除いて。
彼の目が、いや脳が、正常に色を判断できるものは彼自身と、赤色。だがその赤色に、お菓子のパッケージとか、インクの赤色とか、あるいは髪の毛の赤色とかは含まれていない。彼が認識できる赤色とは、ドロドロとした、いやあるいはサラサラとした、鉄臭い赤色の液体。人やその他多くの生命の体を循環する体液の一種にして、それなしで生命体は生命活動を行えない。──そう、血液だ。
もっと言えば、彼が認識できる血液は新鮮な血液。つまるところ鮮血である。死んだ直後、または傷つけた直後の鮮血こそが、彼の認識できるもう一つの色である。
この二つの色は、彼が心の底から信頼できるものであるから、色がついているのだ。逆に言えば、それら二つ以外である他者、動物、植物、景色、現象──森羅万象は、彼は信頼していない。信頼できない。
信じられない。信じることができない。自分自身という絶対に裏切らない存在と、生き物の命を示す血液以外を。
「⋯⋯ボス」
グチャグチャと、肉を抉るような──事実、肉を抉る音が部屋に、静寂が支配するモノクロの部屋に響いていた。
一般人からしてみればそれは酷く不愉快な音だろう。とても痛々しくて、生理的な嫌悪感を覚えさせる。
右手の甲から流れ出る暖かな赤色が、彼の目に映っている。痛覚なんてとうの昔に消失しており、むしろ信頼できる色を見たことによる安心感と安堵感と充実感を覚える。
自傷行為。普通の感性では行わないこと。だがまあ、彼は普通ではなく異常なのだからそれをしたって何もおかしくはない。
「ボス。聞いてるのか?」
部屋に入ってきた屈強そうな男の呼びかけを、先程からずっと彼は無視し続けていた。
屈強そうな男の言葉は敬語ではなくタメ口。タメ口で良いと言われているわけでも、かと言って忠誠心があるからこその不敬な態度というわけでもない。二人の間には確固たる忠誠心はなく、とある事情から表面上、彼の部下になっているだけだ。とは言っても、世間で言われているほど彼は冷酷ではないとも、男は知っていた。
「⋯⋯聞いている。これでもな。⋯⋯要件は?」
着ていた真っ黒なローブにはフードがあり、そのフードに隠れて彼の顔は殆ど見えないのだが、ハッキリとその暗闇に光る赤い双眸だけは確認できた。
その赤い双眸からは人ならざるものの気配を感じさせ同時に、同性であるはずなのに思わず惹かれてしまうほどの魅力も兼ね備えている。
「例の仕事の終了報告だ」
「⋯⋯そうか」
彼は一言、それだけ言って会話を終了する。
「⋯⋯なあ教えてくれ。何であんなことをした?」
男は、行った例の仕事の意味を理解できなかった。
──組織の仲間の鏖殺。一人残らず全員を殺害するという仕事。
男は赤目の彼のことを冷酷だが残酷ではない奴だ、と思っていた。しかし、その思いは今、否定された。
「この組織の目的は覚えているか?」
「⋯⋯ああ」
「この組織に入る奴らは、その目的のためなら自身の死さえ厭わないことを誓っている奴らだ。まあ、お前は例外だがな。だから、俺はお前だけは殺さなかったんだが⋯⋯お前以外は違う」
男と赤目の彼は、半ば脅迫じみたことをされて嫌々付き合っているに過ぎない関係だ。互いの信頼関係なんてないに近い。
「俺は契約は絶対であると思っている。だが逆に言えば、違約しなければ、それは受け入れるべきことだろう?」
契約に、組織の目的のためならば自身の命さえ厭わないことを誓う、とある。であれば、突然殺されることも受け入れろということなのだろう。
倫理観が破綻している。だが間違ったことは言っていない。いやそもそも、彼に倫理観を、人間が勝手に決めつけた価値観を押し付けること自体が間違っていたのだ。
人間の倫理観は所詮、人間社会でしか適応されない。合理性も正当性もない価値観の押しつけほど烏滸がましいことはない。
「⋯⋯お前は俺を憎むか?」
「⋯⋯憎む、というより、哀れんでいるな」
「そうかよ。⋯⋯はは」
彼の顔を、男は久しぶりに見た気がする。
赤い目に、犬歯が普通の人間より長い。顔つきは人間そのもので、普通の少年であるが、彼から漂うオーラは人間のそれとは正しく異なる。
「憐れむ、ねぇ。⋯⋯お前の子供と俺は、どうやらあまり年が変わらないらしいな。それが原因か?」
彼の外見年齢は、およそ十代後半くらいだし、実年齢もそれくらいだ。男の子供である一人娘と同年代であるのだが、精神は同じとは思えない。
「⋯⋯」
「⋯⋯答えないか。⋯⋯そうだな、一つ、俺からお前に子育てのアドバイスを教えてやる」
「アドバイス⋯⋯?」
「ああ、アドバイスだ。⋯⋯復讐心に囚われた人間は、何をしたっておかしくない。特に精神が未熟な子供は、その傾向が強くなる。だが両親というのは、道を踏み外しそうになった子供を、再び正しい道に導けるだろう。それほど、両親は子供にとって偉大で尊敬できる存在だ」
彼がその時見せた表情は、普段の彼からは想像もできないほどに人間らしかった。忘れていた感情を思い出したようだった。
「⋯⋯復讐なんてやったって、その後には何も残らない。ただ虚無感だけが襲ってきて、復讐心に生きる意味を見出していたなら、多分、その後生きる気力を失うことになるだろう」
「⋯⋯それはどういう」
「そのままの意味さ」
人間らしさを取り戻していた彼だが、次の瞬間、再び異形なる者に戻っていた。
「──もうお前は自由だ。⋯⋯これでお別れだな」
「⋯⋯は? 何言って⋯⋯」
彼はフードを深く被り直す。
「⋯⋯お前の妻と娘の、ここでの記憶は全て消させてもらった。今は自室で眠っているはずだ」
「おいちょっと待て、話が見えてこない。ボスはこれからどこに、何しに行くつもりなんだよ?」
「⋯⋯じゃあな。⋯⋯ヴェルム・エインシス」
「待て。まだ話は⋯⋯」
彼の立ってた床に、白色の魔法陣が展開された。それは予めセットされていたもののようだった。
「⋯⋯お前は親として、立派だったよ」
──魔法の効果が発揮されて、彼の姿がそこから消え去った。
◆◆◆
「──っ!」
気がつくと、彼はダンジョンに入る直前の時点に居た。そう、戻ってきたのだ。
死の感覚。それは理解できない漠然とした不快感であった。
(これが死、か。何度でもやり直せる、最後には必ず感動的な結末が迎えられる⋯⋯なんともまあ素晴らしい加護だぜ)
「マサカズさん、どうしたんですか?」
マサカズの突然の変貌にユナは驚き、心配する。
「⋯⋯前に話した俺の加護、覚えてるか?」
「まさか、本当に⋯⋯誰に殺られたんだ?」
重症を負っていた二人だが、今は傷一つない。質の悪い冗談でもなければ、この現象は例の加護が発動したという証明になる。
マサカズはナオトの問に答えることなく、後ろを振り向く。それこそが回答であるからだ。
「白の魔女、エスト⋯⋯そこに居るだろ?」
誰もいないはずのそこに、マサカズは声をかける。その声かけに反応するように、そこに白髪の少女が現れる。
「⋯⋯ほう。素晴らしい。私の不可視化を見破るとは」
さっきとは異なり、彼女からは一切の殺意が感じられない。代わりに感じられるのは興味である。
「⋯⋯見破って──」
もし、ここで『見破ってなんかない』と答えたらどうなるだろうか。そう考えると、マサカズはこの発言を続けることが怖くなった。
目の前の白髪の少女、エストは、前回、マサカズたちが邪魔だから殺しに来たと言っていた。ならば、自ら無力さを示すのは、むしろ悪手なのではないか。
「──いたさ。最初からな」
「へぇ。召喚者⋯⋯転移者は皆弱いと思っていたんだけどね。これは予想外だよ。⋯⋯じゃあ、これに耐えれたら合格だ」
すると、エストの背後に無数の魔法陣が展開され、それと同数の多種多様な魔法武器が創造された。魔法武器は白色の光を纏って、まるで糸にでも吊るされているように空中に停止していた。
笑えない冗談とはまさにこのこと。どうやらエストがマサカズたちを見逃す基準は非常に高いようだ。
死が可視化されたようで、気分が悪い。だがあの死の感覚と比べれば、耐えられる程度だ。
予測可能回避不可能。つまり不可抗力である。
人間が死を目の前にすると、これまでのあらゆる記憶を思い出して、世界の時の流れを、不自然なくらい遅く感じるらしい。
ゆっくりと死が迫ってきているのに、頭に浮かぶのは楽しい記憶であるが、使えない記憶。この状況を打開できるようなヒントはそこになく、ただ待つのは確実な死である。
やがて魔法武器のうち、一本の短剣がマサカズの腹部を刺した。激痛が走った。内蔵が直接痛めつけられた。もう一本、もう一本と、武器が、得物が、殺人道具が、マサカズたちの命を刈り取るべく襲ってくる。
腹部に、脚部に、腕部に、頭部に、鋭利な刃物が刺さった。そのまま魔法武器は、あわれな犠牲者の肉体を貫通して、そして抉る。
原型を留めないくらいの肉片にまで解体することで、およそ150kgのミンチが出来上がった。無論、血抜きどころか衣類が混ざっていて、そもそも人肉であるため、食料としてはとてもじゃないが食べられないミンチだが。
たが、これで終わりではなかった。
その瞬間、世界の時間が逆行を開始したのだ。ビデオテープの巻き戻し機能のように、今まで起こったことは過去へ過去へと巻き戻されていく。そしてある時点まで戻っていって、ようやく巻き戻しは停止し、時間は本来の流れとなった。
「一回限りの悪夢ではない、ってわけか」
『死に戻り』には回数制限がないと、元よりそう直感していたのだが、いよいよそれに信憑性が付いてきた。
何度でも挑戦できると楽観視できるほど、マサカズは狂人ではない。むしろ、死ぬことができないと悟って、絶望しそうなくらいだ。
死とは救済。死を知る前であれば、そんなことはないと笑い飛ばしたものだったのだが、やはり、理解するには何事も経験である。こんなこと、理解したくなかったが。
「──」
今度はナオトの問を無視して、聖剣を構え、
「〈一閃〉」
戦技を行使する。
完璧なまでの不意打ちだ。まさか見破られているなんて思いもしていないはずなのだ。きっと、マサカズの聖剣はエストの首を斬り落として──
「⋯⋯へぇ」
──いなかった。
マサカズの体は白く輝いており、エストの左手辺りには魔法陣がいつの間にか展開されていたのだ。そうつまり、マサカズの最速の攻撃でさえ、エストは見てから無力化した、というわけだ。
「私の透明化を見破ったのは褒めてあげる。けど、この程度の力だと不合格だね」
マサカズの体は、不自然に働く重力に従って、ダンジョンの外壁に叩きつけられた。肋が数本折れて、それらは肺に突き刺さり、血反吐を吐く。呼吸ができない。
「か、はっ⋯⋯!」
ゆっくりと、エストは三人との距離を詰めるために、悠々と歩く。一見、隙だらけだったが、攻撃を仕掛けようとしたナオトは、
「〈血刃〉」
突如出現した血液の刃によって、全身を滅多切りにされたのだ。
「っ!」
弓を射るユナだったが、矢はエストに着矢することなく、彼女の周りに展開されていた重力の壁によって地面に叩きつけられる。
そして、ユナの頭部に血の刃が突き刺さり、即死させた。
「これにて勇者パーティーは全滅、だね」
エストは重力魔法を行使して、マサカズのボロボロな体を、近くの木の枝に突き刺す。うなじ部分から突き刺さって、首を貫通し、そして死亡した。
「──」
三度目は、『死に戻り』が発動した瞬間に後ろに振り返って、一度目の〈瞬歩〉を使って正面に行くが、それはフェイント。もう一度同じ戦技を使い、背後に回り込むと、超近距離だが、更に〈一閃〉を使う。
不意打ちの攻撃に、とんでもないスピード。そして何より、周りを怖気づかせるほどの殺気。エストは反応ではなく反射的に、マサカズの剣撃を回避した。
重力魔法の魔法陣が展開されようとした瞬間、ユナの矢が飛んできて、エストはそちらの対処をせざるを得なくなったため、対象をマサカズからユナの矢へと変更。矢は白く輝き、支配権はエストが握った。
白く輝く矢は、軌道が変化し、マサカズに刺さる。左腕を出すことで致命傷を避けたが、代わりに左腕は使い物にならなくなった。
「はぁっ!」
激痛に顔を顰める時間さえ惜しい。残った右腕に力を込めて、可能な限りのパワーとスピードを聖剣に乗せ、振るう。
見るとナオトも追撃に来ている。二人に、同時に重力魔法を行使することも、この一瞬では難しい。
「⋯⋯惜しかったね」
──そう、二人に、同時に重力魔法を行使するのは難しいはずだった。
マサカズとナオトの体が白く光って、身動き一つ取れなくなった。
「私はね、天才なの。だから、魔法をほぼ同時に多数行使することだって可能なんだよ」
その時に射られた矢を、エストは豆でも抓むようにして受け止めた。
「勿論、魔法の行使だけに全集中力を使っているわけでもない。⋯⋯悪くなかったよ。でも、駄目だ。三人がかりで、私に傷一つ付けられない程度じゃ、ね」
体にかかる重力が一気に増加して、高圧プレス機で空き缶が潰される如く、マサカズとナオトの身体も潰された。
◆◆◆
死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、また死んだ。
どうすれば良い。どうすれば勝てる。
──分からない。
そもそも、なぜこんなことをしている。
──分からない。
俺は一体何者だ。俺は生きているのか。
──分からない。
分からない。知らない。無理解。不明。未知。
答えがない。答えることができない。返答ができない自問自答。
──いや、思い出せ、殺意を。奴を殺すと誓っただろう。
殺す。殺してしまえ。殺さなくては。殺すべきだ。殺したい。
殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、そして殺せ。
他に考えるな。何も考えるな。ただ白の魔女を殺すことだけに集中しろ。白の魔女を殺す方法にのみ脳を使え。さもなければ、この死のループから抜け出すことはできない、そう、永遠に。
「⋯⋯」
「⋯⋯マサカズ?」
9177回、『死に戻り』をした。
「ははは⋯⋯アハハハハハ!」
「⋯⋯何──っ!?」
突然笑いだしたかと思えば、次の瞬間、マサカズはエストの目の前に現れた。
「死ね!」
おおよそ人間の、正常な人間の精神状態ではない。どう考えても狂ってる。どう考えても異常。
──今回で遂に、彼は限界を迎えた。
憎悪と殺意を隠す気もなく、ただそれらに任せるだけ任せて、己の全力を、正真正銘、普段は無意識的にかけられているリミッターを解除した実力を発揮した。
さながら、彼は本能のままに暴れ狂う怪物のようであった。だからこそ、エストは彼に、
「ひっ──」
恐怖した。本来畏怖される存在である彼女が、人間を恐れたのだ。
その恐怖した瞬間が、確かな彼女の隙となってしまったのだった。
エストの胸部に、一刀入り、傷をつける。
9178回目の挑戦にして、ようやく、マサカズはエストに攻撃を加えることに成功したのだ。
「──っ!」
マサカズの追撃を、エストは重力魔法によって防ぐ。だが、彼の憎悪は、殺意は、狂気はその程度では止まらなかった。彼は地面に叩きつけられ、両足の骨に罅が入っただろうと言うのに、まるで痛みなんか感じていないように、走り出した。
また距離を詰める──ことはなく、彼は、なんと、完全に接近しきる前に、その聖剣を投げつけたのだ。
「は」
ミスディレクション。彼が無意識下に、狂気に陥りながらした行動は、エストの予想外の行動であった。だからこそ、一瞬、エストはその行動への反応が遅れて、
「ぐっ⋯⋯」
喉仏に、聖剣が突き刺さった。
痛みと苦しみを同時に感じる。しかし、死ぬことはなかった。人を超越したエストたち魔女は、普通の人間なら致命傷になっても、彼女たちなら即死することは少ない。それこそ、胴体を真っ二つに切断でもしなければ、即死はまずあり得ないだろう。
聖剣を重力魔法で操り、エストはマサカズを突き刺そうとする。
「──っ!?」
しかしそれを、マサカズは避けた。普通なら死んだと油断する場面のはずなのに、どうして。
「あああぁぁぁぁっ!」
剣がなければ素手で襲いかかれば良い。
マサカズは拳をエストに振りかざすが、対象をそれが捉えることはなかった。
「っぶな⋯⋯」
直前で転移魔法を行使して、その場からエストは離れたのだ。
「⋯⋯」
治癒の魔法を自身に行使すると、エストの喉仏あたりの傷はすぐに完治した。
傷も完全になくなり、まだ魔力も全然減っていない。戦闘の持続は十分可能であったが、
「⋯⋯狂気は支配さえも覆す。そこまで狂ってしまっていたら、アイツの支配も意味がないだろうね」
支配系能力とは、精神を意のままに操る力だ。そのため、当然だが支配することができるのは壊れていない精神のみである。
そして狂気には二種類ある。
まず一つ目が、自我のある狂気だ。例えば明確な目的意識や、価値観を持っており、それに準じて行動している場合はこのタイプだろう。この狂気は精神が崩壊していないため、支配系能力は行使可能だ。
二つ目が、自我のない狂気。自分を自分だと思っていない、他者との境界線を引いていない状態である。ただ本能のままに、あるいは狂う前に強く思った目標のためだけに動く人とは言えない化物が、このタイプである。
自我を持っていないということは、精神が崩壊しているということ。壊れた道具は使えないように、支配系能力は行使できないというわけだ。
この場合、マサカズが分類されるのは後者の狂気。つまり、エストの目標は達成されたということである、
「そんな状態だ。餓死するなり、処刑されるなりしてキミは終わる。⋯⋯何より、私はキミが怖いんだ。会いたくない。こうして対面することさえ忌避したい。キミは⋯⋯そうキミは、異常な存在なんだよ」
狂気とは違った異質な感じが、マサカズからする。その感じの正体が何なのかは分からない。しかし、言えるのは、その感じとは、恐怖だった。抗うことができない絶対的な存在への畏怖。そうまるで──世界という概念存在を、彼に感じたのだ。
理解不能。だが本能がそう叫ぶ、彼にこれ以上危害を加えるべきでないと、彼にこれ以上関わらない方が良いと。
「⋯⋯」
そのとき、エストの姿がそこから消え去って、同時にマサカズの体も地面に倒れ伏した。
──たった二人の男女を犠牲に、魔女を撃退した功績は奇跡にも等しかった。だが奇跡とは、可能性があるからこそ成り立つ。ただ単に、低確率を引いただけに過ぎない。そしてマサカズは、その低確率を100%にすることができる。
彼にとって奇跡とは、必然である。
◆◆◆
彼は死と生の狭間を彷徨っていた。感情は、思考はないようなもので、何の目的もなく、ただ歩いているだけ。死人と言われても、おかしくない状態にあった。
「──ト」
掠れた声で、彼は何かを発言する。それが最早言葉なのか、あるいは単なる喘ぎ声なのかさえ分からない。本人のみぞ知る、と言ったところだ。
「──」
彼の視界は、殆どが白黒で構成されていた。どこで、どのタイミングでそうなったのかは、本人にも分からない。ただいつの間にかそうなっていただけだし、今の彼の精神状態では、その異常を気にしていられる余裕はない。
本能のまま、歩く。
それは知性ある、自我ある知的生命体には相応しくない活動であり、人としての尊厳なんて微塵も感じられない。ある意味で、アンデッドよりも非生命体らしい状態。それが今の彼だ。
だが彼はアンデッドではなく、れっきとした人間。精神が崩壊していても、肉体は正常な人間そのものだ。勿論、食事をしなければ彼はやがて倒れて、餓死に至る。それを防ぐために、彼の体は食を求め、胃が空腹を訴えた。
「⋯⋯に、く」
あれから三日が経過した。その間ずっと、彼は平原を彷徨いていた。幸いにも、いや、不幸にも、この間、他の人間と彼は接触していなかった。
だが、どうやら、世界は彼に望むものを与えてくれるほど、優しいらしい。
「なんだ、お前?」
一つの冒険者のパーティが、彼の目の前に現れた。男女四人それぞれ、ランクにして3──中堅以上の腕の冒険者だ。この辺りのモンスター程度では、足止めにさえならないだろう。
「何かあったのか? とにかく、その様子じゃ歩くのさえ厳しいだろう。ほら、王都に行こう」
冒険者には、ならず者が多い。だがそんなならず者には、高ランクの冒険者は居ない。何せ、ランクの昇格試験では、単純な強さだけでなく、人柄なども検査されるからだ。護衛任務もあるのだ。その人の信頼は重要になる要素である。
心から心配して、パーティリーダーは彼に手を差し伸べる。彼はその差し伸べられた手を取る──そう、文字通り。
「──へ?」
手首から先が、引き千切られた、一瞬で。とんでもない力によってそれは行われて、刹那、冒険者は痛みも何も感じなかったが、
「うわぁぁぁぁっ!」
血飛沫が撒き散らされて、外気に触れた神経が、脳に痛みを送る。砕けた骨が露出し、痛々しさを強調する。
「リーダーっ!?」
突然のことに、メンバーたちの思考は停滞した。だが流石はランク3冒険者。すぐに意識を戻して、哀れな少年を卑劣な化物と再認識する。しかし、いくらその思考速度が大きくても、それは所詮、普通の人間関における比較でしかない。転移者である彼──マサカズからしてみれば、ナメクジの動くスピードと、何が違うのか分からないほど、彼らは遅かった。
蹴りを入れてリーダーと呼ばれた男の頭を鷲掴みにして、破裂させる。
「ぁ」
女魔法使いの頭部を、マサカズは撫でるように触れると、次の瞬間、彼女の首は180度回転し、死亡する。
「っ! テメェ!」
屈強そうな男が大剣をマサカズに振るうが、彼は片手でそれを受け止めた。まるでそこには力が入っていないように見えるというのに、彼は爪楊枝でも折るように軽々しく鉄製の大剣を砕いた。
「なっ⋯⋯」
信じられない光景に驚愕し、そして恐怖した。だから何だというのだ。マサカズには人殺しへの躊躇なんてない。単に、空腹になったから、彼は人を殺すのだ。そこに慈悲も愉快も何もない。本能だけが、そこにある。
マサカズは屈強そうな男の首を掴み、そして握り潰す。肉が裂ける音が響くと共に、二人目の、いや二つの命を奪った。
「ひっ⋯⋯逃げ」
空腹に狂う野生の肉食動物が、目の前に居る捕食対象をそう易易と逃がすだろうか。勿論、そんなはずはない。
逃げようとした神官の少女だったが、マサカズに簡単に捕まる。右肩が砕かれた挙句、マサカズの見た目からは想像もできない剛力によって少女は地面に叩きつけられた。
だが、少女はそれで死ぬことができなかった。体は痛みで動かせなかったが、あらゆる感覚は正常に作動している。
「や、やめ──っう!」
マサカズにとって、少女の生死なんてどうでもよかった。ただそれが肉であるならば、それ以上の違いなんて気にするほどでもなかったのだ。
──少女は、生きたまま捕食行為の対象となった。
右の前腕に噛みつかれて、そして切られる。想像に絶する激痛に少女は気絶しそうになったし、気絶したかったが、できなかった。どこまでも世界は少女に厳しかった。
痛覚が麻痺してきた。しかし生きたまま食われるという不快感は今も継続して覚え続けている。
その後も、足を食い散らかされたが、少女は死ぬことを許されなかった。ただぼんやりとした意識の下、赤く染まる空を眺めていた。その瞳には光がなかった。
食われていた感触が無くなったとき、少女の意識は覚醒を開始した。だがその覚醒具合に応じて、少女の痛みは増していったのだ。
「⋯⋯〈上位治癒〉」
自分に治癒魔法を行使することで、痛みを和らげ傷を癒やす。失った肉を少女は取り戻し、ボヤケていた視界が鮮明になっていく。
「──っ!」
そして、見た。
酷い光景だった。ただの死体なんかではなく、食い荒らされた死体というのは、見た者に対して、これまでに味わった何よりもの不快感を覚えさせる。それが仲間の死体であるということが、少女のその不快感をより一層、高めていた。
「くっ! この⋯⋯殺人鬼!」
満腹になったことで、赤子のように眠る少年の口辺りは特に、他より血が付着していた。
「殺してやる!」
少女は手に持つ魔法杖で、少年の喉仏を狙い、力いっぱいに振り下ろそうとする。しかし──魔法杖が貫いたのは、少年の喉仏ではなく、地面だった。
「どう⋯⋯して⋯⋯どうしてなの!?」
少女は神官だ。人を癒やす、人を助けることがその役目だ。だから、どんなに憎むべき相手でも、命を奪うなんていう、本来の役目とは真逆の行為ができなかった。
「どうして⋯⋯どうして⋯⋯」
少女は膝から崩れ落ちて、両手で顔を覆い、涙を零す。
疑問と憎悪と哀情に心をグチャグチャに掻き回されて、しばらく、少女はそこから離れることができなかった。
◆◆◆
次にマサカズの意識が覚醒したとき、彼は王都の刑務所のような施設の牢獄に居た。それもそのはずだ。三人を殺害し、一人の少女に重症を与えたからだ。殺人及び傷害罪。前者だけで、彼は死刑執行の対象者となった。
しかし、それは彼の精神状態がハッキリとしたことで、取り消しとなった。だが、当然だが無罪というわけにもいかなかった。牢獄での治療が完了したならば、死ぬその時まで罪を償うだけの一生を過ごすことになっただろう。
彼の精神はボロボロもボロボロ、どうして動けるのか分からないほどだった。魔法という技術でさえ、彼の精神を、コミュニケーション可能なほどまで戻すのには、長い長い時間を要した。
──冒険者パーティ殺害の事件から、三ヶ月が経過した。
マサカズ・クロイは、自身の行った大罪を償うために、今日もモンスターの討伐を行っていた。
「⋯⋯知るか。人間が三人死んだくらいで、何を大袈裟に」
しかし、当の本人は、反省の微塵もしていなかった。
彼にとって人間とは、虚弱で、貧弱で、無知で、無能で、無価値で、無様な存在だ。勿論、自分自身のことも、そうだと思っている。思っているからこそ、人間如きの命に価値などないと思っている。
「あの冒険者組合長が居なければ、俺は⋯⋯」
冒険者組合長、ジュン・カブラギ。マサカズと同じ異世界人であるが、彼は転生者。対して転移者であるマサカズとは比べ物にもならないほどの力の差が二人の間にはあった。
「⋯⋯逃げ出そう」
マサカズにはある目的がある。それを達成するには、こんなところで生涯を捧げてまで、罪を償うなんてしている場合ではない。無価値な人間に、ましてや他者に、貴重な時間を使うことなんて愚かなのだから。
◆◆◆
「同郷人を殺すのは、少しだけ、そう、ほんの少しだけ気分が悪いな」
真夜中。人々が寝静まる頃、マサカズはジュンの寝込みを襲ったのだ。
胸にナイフが突き立てられ、灼熱の痛みに悶苦しむ中、ジュンはマサカズの嗤う姿を見た。
「貴⋯⋯様⋯⋯!」
無理に喋ったことで、ジュンは血を吐き出す。
「どうした、どうしたぁ? 何か喋るなら、もっとハキハキと声に出して言わなくちゃ。学校で教えて貰わなかったのか?」
マサカズの精神の治療をしたのは間違いであった。あの場で殺しておくべきだった。だがそんなのはタラレバの話であって、いくら後悔しても遠い過去は変えられない。
「『死氷──』」
自分の愛刀の名前を呼ぶ。ジュンの刀は『生きている武器』であり、その呼び掛けに反応して、きっとマサカズを殺すはず⋯⋯だったのだが、
「コイツのことか? 初見殺しだよなぁ。まさか、無機物が生きているなんて思いもしなかったぜ。一回死んだしな、これで」
マサカズは、既に、『死氷霧』を支配していた。意思があるならば、精神があるならば、それを破壊すれば無力化できる。氷魔法を無制限に使えるただの無機物へと、彼女は成り下がったのだ。
「何⋯⋯言って⋯⋯」
初見殺し。一回死んだ。マサカズのそれらの言葉の意味が、ジュンには理解できなかった。
「今から逝くお前に、我が力を教えてやろう⋯⋯何てのは、人生で一回は言ってみたいセリフだよな」
死にそうな少年を目の前に、彼はそんな冗談を言う。もっとも、笑えない類のものであったが。
「⋯⋯っと、もう時間切れか。本当に人は簡単に死ぬな」
目から生気がなくなり、体が少しも動かなくなったジュンを見て、マサカズは呟いた。
「⋯⋯俺も、簡単に死ねたら良いんだが⋯⋯」
◆◆◆
冒険者組合長、ジュン・カブラギを抹殺したことで、マサカズは自由に動けるようになった。
「白の魔女、エスト」
憎むべき相手。殺すべき相手。自分をこんなふうにしたのだから、報復として殺さなくてはならない。
マサカズの目的は、エストの殺害だ。
だが、それには、マサカズはあまりにも弱すぎた。今のまま戦ったって、今度のエストは油断の欠片もないだろう。つまり漬け込む隙がなく、剣の先さえ届かずに死を何度も繰り返す羽目になってしまうことが容易く想像できてしまう。
人間とは本当に弱小らしい。
──よって、マサカズは人間を辞めることにした。
しばらく時間が経過した。
「⋯⋯ここにもないか」
魔法技術が高水準にある国、アサイフ聖王国にマサカズは訪れて──いや、侵入していた。
この国にはリスタンス魔法大図書館というものがある。その名前通り、ありとあらゆる魔導書が集められた大図書館で、中には見ることさえ危ぶまれるような危険な魔導書もあるため、勿論一般人は入館不可だ。
一般人の分類にあるマサカズも当然入館は断られたが、夜に不法侵入し、今こうして魔導書を読み漁っているのだ。
「違う。これじゃない⋯⋯」
マサカズは人ならざる存在、不死者化が目的である。その中でもお目当てはアンデッド最強種族である吸血鬼、もっと言えば始原の吸血鬼だ。
「──あった! これだ!」
探し始めて四時間。そろそろ日も登ってくる直前に、ようやく彼は目的の魔導書を見つけられた。
タイトルは『リーテルの書』という。内容は要約すると不老不死の術についてであり、著者リーテルはそうなれる唯一の方法はアンデッド化のみである、と述べている。勿論、アンデッドになる方法も書かれていた。
まさにマサカズが望んでいるものであり、彼は躊躇なくそれを盗んだ。
しばらくして、彼は大図書館から遠く離れた位置にある廃墟、もとい隠れ家へと逃げ込むと、魔導書を開き、すぐさまじっくりと読み出す。
どうやらアンデッド化と言っても、単純に肉体構造を変化させれば良いというわけではなさそうだった。
そもそも、低位のアンデッドには知能がない。そして、普通に、とりあえずで創ったアンデッド化の魔法ではその低位のアンデッドになってしまったらしい。
目標は知能のある高位のアンデッドだ。その中でも基礎身体能力が比較的高いヴァンパイアにのみ視点を当てて、リーテルは研究した。
研究開始から五年という短期間でリーテルはヴァンパイアとなる魔法を創り出した。しかし、その魔法はあまりにも高位──推定では、第八階級魔法に分類されるらしいため、到底人間には活用できないものらしいのだが、これ以下のものにしてしまうと低位のアンデッドになってしまうらしい。
「⋯⋯」
更なる研究はそこで終わったようだ。
理論上は可能だが、普通の人間には使うことができない魔法。──しかし、普通の人間でもそれを行える術があるとも、リーテルは書き残していた。
その術とは、儀式魔法だった。とてつもなく長い時間詠唱をすることで、本来使えないほどの高位の魔法も使えるようにするといった魔法技術である。
「⋯⋯儀式魔法か。⋯⋯できるなら、やってやるよ」
◆◆◆
一ヶ月後。
褐色肌で隻眼の男は、目の前の少年に傷一つ付ける事さえ叶わなかった。
尻餅をついて、無様な姿で、エルティア公国最強の剣士は敗北したのだ。
スティレットを首に突きつけられており、彼の生死は少年が握っている。
「殺せよ」
剣士とは剣に生きる者たちのことだ。剣で負けたのならば、例え生きていても、それは死と同義。あるいは、死よりも屈辱であろう。
隻眼の男も立派な剣士である。だから、死を望んだ。
「生憎だが、俺はお前から公国最強の剣士なんて言う下らない称号を奪いに来たわけじゃない。俺はお前の力が欲しいから、ここに来たんだ」
「⋯⋯は?」
何を言っているのかが分からない。
「そうだな。分かりやすいように言い換えよう。⋯⋯俺の配下になれ。さもなくば死よりも最悪な苦痛を、屈辱を味あわせてやる」
それは脅迫だった。
「⋯⋯断ればどうなる?」
隻眼の男は恐る恐る、真っ黒なローブに身を包んで、顔が全く見えない少年にそう聞く。
「お前には妻と一人の愛娘が居るらしいな? 公国随一の美少女にして、歴代最少年で、国家魔法試験を突破した超天才だとか」
公国の国家魔法試験は、それに合格するだけで、一生、絶対に職に困らないとされる資格が獲得できるような試験だ。勿論、そんな試験に合格することは非常に難しく、合格率は、高い年でも10%ほどである。
「しかもその上、父親の身体能力も、母親の知能指数も引き継いでいて、まさに文武両道⋯⋯全く、羨ましいものだぜ。俺にはないものばかりだ」
どうやら個人情報は知られているようだった。
「⋯⋯ああ、あと、凄く良い子だったな。見知らぬ薄汚れた黒ローブを着た少年を、彼女は一日だけとはいえ家に泊めてくれた。⋯⋯ああ、凄く優しくて⋯⋯とても、美味しかった」
「──っ!?」
目の前の少年は、おそらく吸血鬼だ。そしてそんな彼が美味しいと言った意味。
ヴェルムはしばらく家に帰れなかった。だから、妻と娘の安否が分からない。
人間とはどうしてこんなにも不完全で、悲観的なのか。
彼は嫌な未来しか考えつかず、血の気が引き、そしてあとから来る壮絶な怒りに身も心も支配され、彼我の実力の差をを知っても尚、少年に剣を振る。
だが少年は軽々とヴェルムの腕を受け止めた。
「何を怒っている?」
少年は本当にわけが分からないと言いたげな表情で、ヴェルムにそう問いかけた。
「貴様ぁ!」
人間の心理を理解できない化物であると、ヴェルムは思ったのだが、それはとんだ間違いであった。
ヴェルムの雄叫びに、少年は少しその赤い目を見開いたあとに、考えるような仕草を見せた。
「⋯⋯ああ、そうか。すまないな。少し語弊があった。俺が彼女の血を啜り、干からびた死体へと変貌させたのは前回の話だ。今回は、彼女はきちんと生きている。じゃないと、お前との交渉材料にならないだろう?」
困惑。ただただ困惑。
前回? 今回?
何を言っているのかがさっぱり、少しも、全く理解することができない。
「⋯⋯」
「まあ、そう怒るな。お前の娘は生きている。これは本当の話だからさ」
少年の声質や、瞳からは、嘘の気配がしない。それは本当である確率が高いし、少年が言うように、娘を殺してしまえば、彼の目的であるヴェルムを仲間にするということが不可能となる。
「⋯⋯分かった。お前の仲間になる」
ヴェルムは、少年に対して跪き、忠誠を誓った。
「それが聞きたかった。⋯⋯俺の組織、『マギロサフォニア』へようこそ、ヴェルム・エインシス」
裏組織『マギロサフォニア』。
一ヶ月ほど前に創設されたばかりだというのに、今や世界中で暗躍する大組織である。その創設者にして、支配者であるのが、
「マサカズ・クロイ⋯⋯俺の役目はなんだ?」
「そうだな⋯⋯側近にでもなってくれ。お前を止められるのは俺だけだろうし、監視もできる」
ヴェルムほどの強者に匹敵する実力者は、早々居ない。
それこそ、彼を超える実力者であり、かつ表舞台に立つ人間なのは帝国の神父くらいだろうが、つい最近、その神父は魔女に、ついでに帝国ごと滅ぼされたそうだ。
「⋯⋯ああ、そうそう」
少年、マサカズはとても軽い口調で、後ろに居るヴェルムに見向きもせず、その場から、血の匂いが充満する公国の大聖堂から離れるべく歩きながら喋り始めた。
「俺たち『マギロサフォニア』は、当然だが危険な仕事が多い。いくらかの大組織とも敵対していて、抗争ばかりでうんざりするくらいだ。つまり、いつ死んでもおかしくない状態にある」
創設直後の組織が、一気に肥大化し、大きな力を有する。当然、同じような組織たちからは目の敵にされ、表の、所謂正義を語る組織からは、大変警戒されている。何度か、マサカズの暗殺命令が出ているほどだ。
「だから、お前の家族は保護した。一日中とても安全な部屋の中で、一日三食、十分な食事と娯楽を提供している。俺の命令をすぐに聞く部下を監視につけてるから、侵入者が出たとしても安心だ」
口ではそういうが、保護したなんていうのは上辺だけだ。本質は、その価値にある。つまり、人質である。
「⋯⋯性格が悪いな」
「そりゃどうも。だが、客人として、最上級のおもてなしをしていることも、何も悪いこともしていないことは保証してやるし、面会どころか一緒に遊ぶことも自由だ。まあ勿論、その際にも監視の目はあるがな」
本当に性格が悪い。
どこまでも、逆らわせようとさせてくれない。絶妙な束縛加減を知り尽くしているようだ。反発を、満足という形で抑えている。
「⋯⋯さてと⋯⋯今日は休んでいい。だが明日からは働いて貰う」
少年は被っていたフードを脱ぎ、ヴェルムにその素顔を見せる。
「⋯⋯!」
「俺は今年、吸血鬼になったばかりだから、外見年齢がそのまま俺自身の年齢だ。⋯⋯驚いたか? まさか、自身の娘と同じくらいの年齢の子供だとは思わなかっただろう?」
まだ、若い。まだ、子供だ。
だが、彼は人ではない。精神も、同年齢くらいの子供とはまるで違う。どこか壊れていて、どこか死んでいる。
人を知っていて、理解しているが、共感はしない。しようとしないのが、目の前の少年の本性だ。
彼は──吸血鬼。異形の化物である。
◆◆◆
「初めまして、ボス! 今日からお世話になります!」
『マギロサフォニア』の本部にて、マサカズはたまたま廊下で出会ったガタイの良い大男の部下にそう挨拶された。
マサカズは冷酷で無慈悲で残酷だ。しかし、意味もなく部下を殺したりすることはないし、普通に接してくるならば彼は良い上司として接し返す。
「⋯⋯ああ」
今日、その大男はこの組織に加入して、初めてボスに出会った──そう、彼は認識しているだけである。
本当は、もう彼は何度も今と同じことをしている。
これは大男が意図してやっているわけではない。単に──記憶が消されているだけなのだ。
「⋯⋯面倒だな。毎回挨拶されるというのも」
マサカズは自分と血以外を信用することができない。他の人間なんかもってのほかで、自分に友好的で有能な人間以外は即殺害するほどだ。
一度仲間になったって、そのときは忠誠を誓ってくれていても、時間後経てばもしかしたら裏切るかもしれない。
「⋯⋯でも、信用できないから仕方ない、か」
マサカズは独り言を呟きながら、自室へ戻った。
部屋は殺風景だった。書類を保管するための棚と、机と椅子だけがある、無機質な部屋。寝る必要がないため、そこにベッドなどはない。
何もないように思われる壁にマサカズは近づき、ある魔法を詠唱すると、壁は消失し、地下に続く階段が現れた。
階段は、一人の少年が通るくらいならば何も問題はない程度には広く、明かりは一切ないが、彼には必要ない。
降りきった先には、鉄製の重々しい扉があり、マサカズはそれを開いた。
少し広い場所に出た。一般家屋のリビングほどの面積だろうか。だがそこには、そのスペースを有効活用できるくらいの家具などは置かれておらず、代わりに、部屋全体に、光を失った魔法陣が描かれているばかりだったが、マサカズがその部屋に入るやいなや、自動的に、その魔法陣は白い光を発しながら、いつでも発動可能な状態となる。
「⋯⋯正直、行きたくないが⋯⋯まあ、無断で行かなかったら、今度は部下何人が死ぬかわからないし⋯⋯仕方ないか」
マサカズは魔法陣の上に立つと、魔法陣は効果を発揮し、彼を転移させた。
転移先の、先程までとはまた異なる部屋は、妙に息苦しかった。たしかにこの部屋の、いや、この居住区全体の時間の流れは異常であり、それが原因の一つでもあるのだが、やはり、一番大きな原因はそれではない。
「⋯⋯時間ギリギリですね。もう少しで、あなたの可愛い部下と戯れに行こうとしましたよ」
「それは勘弁してくれ。文字通り、骨抜きにされてしまうからな」
マサカズが会いに来たのは、とても長い黒髪を持ち、黒目の、東洋人風の女性だった。豊満な体から漂う妖艶かつ不思議な魅力には、あまり人間の異性への関心が少ないマサカズでさえ、思わず惹かれそうになるくらいだった。
彼女の名は、分からない。誰も彼女の名を知らなくて、彼女自身も、その名を名乗ろうとしたことがないからだ。だが、彼女には二つ名がある。それは──黒の魔女だ。
「⋯⋯お前に言われた通り、駒は確保した。だから、さっさと計画について話せ」
「まあまあ、そう急がないでくださいよ。時間はたっぷりとありますので」
マサカズは明確に殺意を、黒の魔女に向けることで威圧する。
「ああ、怖いですね。思わず震えてしまいそうです」
「本当に怖いと思ってるなら、そんなこと言うことさえできないだろ。⋯⋯化物め」
黒の魔女は、白の魔女と互角とされる。だから、マサカズは腕試しに黒の魔女を何度か殺そうとしたのだ。
だが⋯⋯結果は惨敗。殺すどころか、傷一つつけることなく、ただ『死に戻り』を何度もしただけで、1mm足りとも勝利というゴールに近づいているという感触がしなかった。
黒の魔女には勝てないと、確信したのは、5227回目のことだった。
「俺はお前を打ち負かして、俺の目標のための手駒にするはずだった。だが、結果はこの通り、お前に協力するという形になった。これだけでも、俺は⋯⋯結構頭に来てる。自分の思い通りに行かないということが、これほどまでに不愉快だとは思わなかったんだぜ? だから、これが終わったらお前をまず殺してやる」
「そんなことで、わざわざ私の部下たちを殺し尽くしたのですか」
黒の魔女本人には手も足も出なかったマサカズは、それならばと黒の教団を殆ど壊滅へと追いやった。今殺せていないのは教祖だけである。
今のマサカズにとって、世界各地に散らばっている黒の教団幹部を各個撃破するのは容易であった。
だが、黒の魔女は、そんな事をされても、マサカズに屈服することさえせず、あまつさえ、興味を示し、また、マサカズを圧倒し、絶望させた。
「しかも、協力したあとは殺す宣言⋯⋯自分でおかしいと思わないのですか?」
「約三日間の付き合いで分かるぜ、お前のその狂気くらい。普通なら断るどころか殺すべき相手でも、面白そうだと判断したならお前は受け入れる。俺自身もだいぶ狂ってるんだろうなとは自覚しているが、お前の前じゃ俺の狂気も所詮、正気らしい」
次元が違う。強さ的な意味でも、その狂っている具合でも。何もかもが、黒の魔女の前では下位互換である気さえする。
「そうですか。そうですか⋯⋯まあ、あなたの提案は受け入れますが、殺される気はありません。一時の協力関係、ですね」
黒の魔女からしてみれば、マサカズと協力するなんて、一つもメリットはない。ただ彼が面白そうだと、彼女の興味を惹いたからに過ぎない。
「俺もそこまでの高望みはしない⋯⋯が、女性に断られるのは少し残念だし、心に来るな」
「そんなことを言う人間は珍しいですね──いえ、あなたは既に人を辞めた存在でしたか」
「ああ。元人間、だ」
黒の魔女は嫣然とする。とても魅惑的であるはずなのに、狂気を感じてしまい、マサカズでさえ思わず恐怖してしまう。今こうやって会話している間にも、彼の精神力は更に削れていっていたのだ。常人なら、四ヶ月前の彼ならば、既に発狂していただろう。
「さて⋯⋯そういえば、あなたにはまだ名前を教えていませんでしたね。これから協力していくのです。いつまでも『黒の魔女』と二つ名で呼ばれるのも少し余所余所しい」
ここ数百年、彼女は、自身の名前を誰にも言ったことがなかった。
だが、マサカズからしてみれば、そんなこととても下らなかった。
「⋯⋯好きにしてくれ。そんなどうでもいいこと」
「ええ。では好きにします。⋯⋯私の名前は──」
◆◆◆
「クソ⋯⋯黒の魔女め」
自室に戻ってきた途端、マサカズはいきなり黒の魔女に向かっての愚痴を一人寂しく吐く。
「あんな狂気的で理性の欠片もない思考をしてるってのに、なんであんなにも頭が切れるんだよ。まんまと奴の思い通りに俺は動いたってわけだし⋯⋯しかも対策まであの一瞬で思いつきやがって⋯⋯」
マサカズは自身の加護である『死に戻り』の力を、黒の魔女に知られてしまった。
凄まじい洞察力だ。彼女からしてみれば、マサカズは正体不明で、どんな力を持つかわからない、言うなれば特異点のようなものである。そんな相手をしてその力を一瞬で考察し、理解し、試し、そして確定付ける。発想にさえ出にくいような彼の力を、だ。ただの力のある狂人ではないことが判明した。してしまった。
何か裏があるのではないか。もしあったとしたらその目的は何か。いやこう思わせ、嘘と本当の入り混じった情報を与えることで、間接的に思考を操作しようとしているのではないか。
黒の魔女のあらゆる能力が不明だ。一方的に情報が抜き取られているにも関わらず、マサカズが知っている彼女の情報は世間一般で知られているようなものだけだ。
情報戦でも、直接戦闘でも、負けている。
自分が自分のために自分だけで、練って考えて思索したことでさえ、全て黒の魔女の思い通りのことなのではないかと思わせられる。
「⋯⋯ああもう。俺の十八番は頭で考えることじゃない。未来をカンニングできることだろ。──黒井正和、いくら泣き喚いたって、いくら嘆いたって意味はない。いくら考えたって、いくら事前に準備したって、そんなのは所詮、確率を上げるだけだ。試験に合格するのだって、どれだけ勉強してもその当日のコンディションによっては水の泡になることもある。しかも試験勉強は確率を100%に近くすることはできるが、今この状況は試験なんていうぬるま湯じゃない。努力でなんとかできるのは0%を1%にする程度のことだ。でも、お前は何度でも世界をやり直せる。お前は何度でも不条理で理不尽でクソッタレなゲームに挑戦できる。だって『死に戻り』の力があるから。その1%を、いやもしかしたらそれに満たないほどの低確率でも、何度も試行すればいつか必ず引き当てられる。だったら、何をそんなに怖がる必要がある? 今更お前は死を恐怖するような正常な感性は持っていないだろ。お前はアンデッドであって、生者ではない。死んでも死んでも、何度死んでも、どれだけの時間軸を捨てようとも、どれだけの人間性を捨てようとも、結局最後に生きてた奴が勝者だ。生きることが、生きていることが、死なずに明日を迎えることができれば、それで良いだろ。生か死か。生者か死者か。勝者か敗者か。そして俺の力は最弱だが死ぬことは決してない。そう、それは敗者には決してならないということだ。引き分けなんて生易しいルールはこの世界にはない。つまり、俺は常に勝者で居続けられるということだ。負けない負けることができない死なない死ぬことができない。最弱であり最強の存在がこの俺だ。黒の魔女は決して俺を前に勝者にはなれない。いつか絶体、敗者になる。⋯⋯信じろ。そう信じて、生き続けろ。魔女も魔王もこの世に存在するあらゆる俺の障害になる者を全員殺してから、永遠の安心を得てから。お前はきっと成し遂げなくちゃならないことがあるんだろ。この殺伐としている世界から抜け出して、普通の黒井正和で居られるあの世界に帰ること。俺を暖かく迎えてくれるあの二人の元に帰ること。そして普通で幸せなあの日常を取り戻すこと。それらが叶うまで、そんな幻想が現実になるまで、俺は生き続けなくちゃならないだろ。勝者であり続けなくてはならないんだろ。だから、捨てろ。感情なんて。自立精神なんて。自我なんて。勝者であるために必要なら、全てを捨てる覚悟をしろ。俺が、弱い俺が、強くない俺ができることなんて、それしかないんだからよ」
◆◆◆
──。
────。
────────。
「⋯⋯ぁ」
長い間、彼女は、ただ、その生気を感じさせない目で、光が一切ない瞳で、開いているか怪しい瞳孔で、虚空を眺めていた。
彼女は義姉を失った。彼女は旧友を失った。目の前で、神父に殺された。
無気力に、生きているのかどうかさえ怪しい状態だった。
何日間も飲食しなくても彼女は生きていられる。老化もほとんどしていないようなものだ。だから、彼女は実質的な不老不死である。
だがそれが、果たして、生きている、ということなのだろうか。
──分からない。知らない。どうでもいい。
「⋯⋯」
ただ彼女は、絶望していた。
生きる意味を見出すことができずに、虚無の如き心を持ち、一日一日を怠惰に過ごしていく。
「⋯⋯⋯⋯もう」
生きる意味ではなく、その逆、死にたい意味ならば、彼女は持っていた。
愛する人を、また喪った。それだけで、彼女を自殺に追い込むには、十分過ぎたのだ。
死にたい。消えたい。楽になってしまいたい。
こんな世界に、愛する人が居ないこの世界に、価値なんて、もう──ない。
壊したところで、喪った者が帰ってこないなら、壊す意味さえないのだ。
ならば、死ねば、死んでしまえば、それで終わり。死は恐怖であるが、また、救済でもあるのだから。
「⋯⋯」
魔女は、ほぼ不老不死の存在である。
そう、あくまで『ほぼ』なのだ。完全な不老不死の存在ではない。首や胴体が真っ二つに切断されるわけでもなければ、即死することはないにせよ、なんの処置もされなければそのうち死亡する。生命力が高いだけで、魔女は、ドラゴンの鱗のように硬い皮膚など持っていないのである。
だから、自殺をするならば、普通の人間と同じように自殺できる。
「⋯⋯っ」
無詠唱化された創造系魔法によって、彼女の手に短剣が創られた。勿論それには殺傷能力があり、人に刺せば殺せる。
その短剣を、彼女は両手でしっかりと握りしめてから、自身の喉に、刃の先端を向ける。そしてゆっくりと、刃を喉に触れさせるべく、刺し込んだ。
──痛い。
皮膚と一緒に血管が斬れて、体内を循環していた血液がその斬れ目から流れる。
熱くて、しかし、どこか冷たい。
涙が溢れる。それは哀しみによるものなのか。もしくは痛みによるものなのか。最早、彼女自身でさえ、分からなかった。あるいは、その両方なのかもしれない。
痛みに屈するほど、今の彼女は正気でない。だが苦しむのを嫌がるくらいの考える脳はあるようだ。ゆっくりと刺すのではなく、もういっそのこと、一気に突き刺して、即死しようと思い、彼女は短剣に込める力を強めようとした。
「エスト」
──その瞬間だった、声がしたのは。
声には、聞き覚えがあった。いや、声の主が誰であるかを断言できるほどだ。
綺麗で、美しくて、透き通っていて、穏やかで、優しくて、懐かしくて心温まる声。
そして、二度と聞けないはずの声。
あのとき、死んだはずの、お義母さんの声だ。
「え⋯⋯」
碧色の瞳は月明かりが反射して煌めいていた。
もう少しで地面に付きそうなくらい長いサラサラとした髪は銀色であり、女性にしては身長が高い。黒色の、鍔のついた大きな帽子を被っており、漆黒のローブは彼女の美しさを強調していた。
彼女は先代の白の魔女にして、
「お義母、さん⋯⋯?」
エストの義理の母。名をルトア。
「⋯⋯そんな。だって、お義母さんはあのとき⋯⋯」
死者蘇生の魔法は、体の七割がそこに存在しなくては行使できない。つまり、六百年前の死者の復活なんて、あり得るはずがない出来事なのだ。
魔法について非常に詳しいエストだからこそ、目の前の現実を受け入れることができなかった。
「⋯⋯エスト、ごめんね」
ルトアは両手を広げて、エストを抱擁する。
確かな温かさを──暖かさを、エストは感じる。
心地良い。とても、安心できる。されるがままに、エストはルトアに全身を委ねた。そうしたかった。
「ごめんね。キミを一人にして」
「かあ、さん⋯⋯」
首の傷はいつの間にか完治しており、既に血は流れていないし痛みもない。きっと、ルトアが治癒してくれたのだろう。
「うっ⋯⋯うう⋯⋯」
目頭が熱くなり、溢れ出る涙を堰きとめることができなかった。頬に涙を流して、エストは久しく、本当に久しく泣いた。二度と会えないと思っていたお義母さんと会えたことによる感動は、彼女を絶望の淵から救ったのだ。
──どれだけ、エストは泣き喚いたのだろうか。でも、それはとても長かったことは覚えている。
「──」
気づいたとき、エストはベッドに仰向けに寝転がっていた。窓に映る、少しばかり明るくなりつつある空を見て、あれからいくらか時間が経過したのだと分かる。
「⋯⋯夢⋯⋯?」
あれは夢だったのだろうか。それとも、現実の中の幻だったのか。
いずれにせよ、ルトアは今、この瞬間にも、世界には実在していないことは確実だろう。六百年前に死亡したルトアが、今生き返ったなんて、絶対にありえないのだから。それこそが、『世界の理』なのだから。
──しかし、例えあれが妄想だとしても、エストの壊れかけていた心を癒やしたことは、絶対普遍の事実である。
今ではあの自殺が、非常に馬鹿馬鹿しく思えてきた。ならば、そんな細かいことは考えなくて良いだろう。
「⋯⋯さてと」
生きる気力を取り戻したことで、同時に、自身の目的も思い出した。
エストの『欲望』は、あらゆる知識を収集すること。己が知識欲を満たすことである。そのためにも、世界の終焉を導くであろう危険因子である黒の魔女は、殺さなくてはならない。
エストは『欲望』のために決意する、が、
「いや、眠たいし、寝よ」
しかし、それは後日に回すべきだろう。
一瞬で泥のように眠ってしまうほどに、今の彼女には疲労が溜まっているのだから。魔女という種族において、それは危険とも言える状態だ。
彼女は再びベッドに身を投げる。反発することによって彼女の細くて軽い体は一度だけ少し跳ね上がった。
「あ⋯⋯お風呂入るの忘れてた」
意識が暗闇に落ちる寸前、彼女は大事なことを思い出してその体を起こすと、そのまま浴場へ向かっていった。
◆◆◆
殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい──。
彼女は、他者を殺すことを楽しむ狂人だった。人の儚い命が砕けて、消滅するとき、冷たくなるときこそが、最も美しくて、最も愉快だからだ。
だが、いつからか、その殺す対象を彼女は厳選するようになっていた。昔のようにただ殺すだけでは、彼女の枯れきった心を満たすことはできなくなっていったのだ。そうつまり、彼女は弱者を蹂躙することに何の価値も感じなくなったということだ。
彼女が求むのは強者。殺し合いをしていて心の底から楽しいとも思えるほどの強き者。戦っていると思わせるほどの実力者なのだが、彼女のその基準もまた、年を重ねるごとに高くなっていった。
等々、その基準は魔女クラス。それもその中でも最上位のレベルにまで上がっていった頃には、彼女の心は常に、砂漠のように枯れていた。水を求めるように、死の観察を求めていた。
「ああ⋯⋯私はあなたを」
──殺したい。
彼女はまるで欲情しているかのように頬が紅くなっていた。いやまさしくそうなのだろう。
人の三大欲求には食欲、睡眠欲、そして性欲がある。彼女には食欲も睡眠欲も性欲もないのだが、彼女に唯一ある殺害欲はその三つのうち、性欲に当てはまるだろう。
彼女にとって、殺害欲とは性欲に同等するほどの、原始的で本能的な『欲望』なのだ。性欲を感じたときに起こる生理的な現象が、殺害欲を感じたときに起こる。
「優しく。抱きしめて。可愛がるように。そして酷く──」
彼女のその精神構造は一体何なのだろうか。
あるいは狂人。あるいは人外。あるいは冒涜的。あるいは無理解。あるいは虚無。あるいは──唯一無二。
しかしこのうちのどれであっても、正常で健康で倫理観のある精神でないことは共通だ。
「⋯⋯ふふふ。これでもっとあなたの才は磨かれる」
嬉しそうに、狂気的に、慈愛に満ちたように、愉快に、彼女は笑った。
真に美しいものはいつも一瞬だけしかこの世界に現れない。時間を止めてしまっては、その美しさは失われる。動く時間の中で観測するからこそ死は美しいのであって、死ぬ瞬間に時間を止めたって、それはとても醜くい。
殺すことでようやく美しくなる。それが生命である。そして、元が強ければ強いほど、その死はより美しさを増す。
ああだから、生命は死ぬんだ。美しくなるために、生命は必ず死ぬんだ。そうとしか考えられない。
生への執着は死への恐怖ゆえにあるのだ。
どちらかが強まったとき、もう片方も強まる。
どちらかが弱まったとき、もう片方も弱まる。
生きることと死ぬことは真逆のように思えて、実は、それらには相互関係にある。
ならば、彼女はこう思うだろう。
──最も美しい死とは、最も強い生への渇望の先に生まれるのだと。
◆◆◆
ウェレール王国の王都を全て囲むのは、灼熱の炎の壁であった。炎は軽く10mを超えており、また、それを無理矢理にでも越えようとしたならば、人間如きは一瞬で真っ黒な消し炭に成り果ててしまう。
炎のおかげで、夜の冷たさは和らいだ。だが、今は、そんなこと気にしていられるような状況ではなかった。
「──」
老若男女の悲鳴、喉がはちきれんばかりの絶叫が、王都中で響いていた。
それもそのはずだ。突如として、王都には大量のアンデッドが発生したのだから。それも、普通の冒険者では到底太刀打ちできないほどの高位のアンデッドたちだ。何の戦闘能力も持たない一般人が、どうにかできるような相手ではない。
天に願おうにも、どうやら夜空に浮かぶ星々は、この惨状を目にしても、何の救いの手も出さないらしい。一時間ほどで、王都の人口のうち、およそ七割が死亡した。残り三割も、あと半時間ほど経過すれば、殆ど死亡するだろう。
「⋯⋯俺は、元には戻れない。たかが人間を同種だったとは思えないし、同情心は微塵も生まれないな」
肉体と精神は相互に関係し合う。つまり、肉体が変化すれば、精神も変化する。
吸血鬼へと変化を遂げたマサカズの精神は、既に人間のものからは大きく離れ、異形の者の精神となっていた。
劣等種たる人間への同族意識など疾うになく、勿論、人間の死を悼む心も持ち合わせていない。道端に転がる虫の死骸を見て、果たしてどれだけの人が涙を流すだろうか。それと同じな話だ。気持ち悪いだとは思っても、虫の死を哀れむような気持ちになるわけがない。今のマサカズにとって、その虫と同じ存在が、人間であるというだけなのだ。
寧ろ、アンデッド特有の生者を憎むという性質がないだけ、まだマサカズは人間の残滓に囚われているのかもしれない。
「⋯⋯そうですか。でも、あなたからはそれを悔やむ気持ちが感じられませんが」
マサカズの隣には、黒髪黒目の女性が居た。肩や胸元が露出した真っ黒なドレスを着ている、妖艶で豊満な体を持つ美女だ。
「⋯⋯ああ。俺は、人間であることへの執着心なんてない。俺のモットーは、生き残るためならば、目的のためならば、どんなことでもする、だからな」
欲望に忠実な男。それが、黒井正和である。彼が本来持つその性質は、あの日を境により強くなった。より、彼の、生への執着心を助長した。そして、残虐性を与えた。
「人間が一人や二人──別に、国一つ分の人口が死滅しようと、どうだっていい」
殺人に躊躇を無くしたとき、既に、そいつは正常とは言えない状態だ。だが、これは、あくまでも人間世界における倫理観から構成された見方である。
そもそも、何を持って正常だと言えるのだろうか。人間の正常とは、世界の正常なのだろうか。
「⋯⋯結局、俺が気にするのは、俺だけだ」
どこまでも自分勝手。どこまでも自分のみを考えて、行動する。それが彼、マサカズの行動理念である。
完全な他者主義のために自らを切り捨てるなど、愚弄されて当然の思想だと、彼は思う。
「ふふ⋯⋯あなたは本当に面白い。狂人を傍から見たら、こんなにも楽しめるなんて思いもしませんでした」
「⋯⋯お前ほどじゃないさ、黒の魔女」
「私の名前は教えたはずですがね。呼んでくれないのですか?」
「もう引っかかったろ? 二の舞を演じる気にはなれない」
黒の魔女の名前、『────』をマサカズは知っている。だが、マサカズはその名を口に出して言うことはできない。それが、何を意味するか。文字通り体験したのだから。
「⋯⋯で、これが本当に、俺の目的を達成できる手段なのか? この単なる虐殺に意味があるとは思えないんだが」
マサカズ・クロイの目的は、白の魔女、エストを殺すこと。だがそれとはまた違う目的が、彼にはあった。
「ええ、勿論。あなたはきっと、元の世界に帰れるでしょう。同時に、その加護も外れることになりますし、ついでに記憶も消しましょうか?」
「ああ、頼む」
彼の目的は──彼が元居た世界に帰ること。転移直後からずっと抱えていた最終目的であり、現状、彼が彼を取り戻すための唯一の手段。
「⋯⋯正直、お前のことは大嫌いだ。何者なのかもわからないし、俺の思い通りになる気がしないからな。俺が何度世界をやり直しても、おそらく俺個人の力だけだと、到底叶わない。それこそ、何万回試行錯誤しても、だ」
黒の魔女に対して、約5000回の『死に戻り』の末に辿り着いた結論は、どう足掻いても勝利するどころか、その身に傷一つ与えることができないという事実だけ。一度たりとも死ななくても、得られるであろう結論だ。結果論的には、あの体感時間にして丸々三日間は、とんでもなく無駄だったと言える。
「それに何より、アイツにも似ている」
「⋯⋯アイツ?」
「白の魔女、エスト。俺が殺すべき相手だ」
マサカズの脳内に、白髪の少女の姿が浮かぶ。今すぐにでもその真っ白なゴシックドレスを、真っ赤な液体で染め上げてしまいたい。
「⋯⋯どの辺りが?」
黒の彼女から、狂気以外の感情が、久しぶりに現れた気がした。それにマサカズは少し驚きながらも、言葉を紡ぐ。
「⋯⋯分からない。ただ、どこか似ている気がする。外見だとか、精神だとか、考え方だとかは何もかも違う。でもどこか⋯⋯そう何かが、一緒な気がする」
言葉では言い表せない何か。本質的な何か。感じるだけの何か。それ以外は全く違うのに、それだけは同類。似ている。分かる人にしか分からない同じ点だ。
「その似ている点が、俺の一番嫌いな点だ。本来そうあるべきものを、超える力。俺の加護が通用しない力。俺がどうしようもできない力。それが、一番嫌いなものだ」
『死に戻り』という、神の力でさえ、世界の寵愛でさえ、どうにもなる気がしないほどの力を持つものが、マサカズが嫌いなものだ。
「盲目的な褒め言葉も悪くありませんが、そのような褒め方の方が私は好きですね。あなたは本当に私を嫌っているようですが」
マサカズは本当に黒の彼女を褒める気なんてなかったが、捉えようによっては、その言葉は実力を認める言葉だった。
「⋯⋯そうですね。あなたが嫌う彼女を、同じく嫌う私は好きなんですよね」
「⋯⋯どうせ理解し難い理由だろ。別に言わなくていいぞ」
「分かりました。私が彼女を好む理由はですね」
「お前、俺の話聞いてた?」
もしかしたら、マサカズが彼女を嫌う理由は、他にあるのかもしれない。そんな気が一瞬したが、そうではないだろう。だが、好ましくはない。
「単純に、彼女には才能があるからです。私に本当の──」
言うからには、聞く。そう思って、マサカズは嫌々ながらも黒の魔女の話をちゃんと聞こうとしていた。だが彼女はそこまで言ったところで、話を辞める。
自分の思い通りにならないことは、やはり苛立たしい。
「⋯⋯話の途中だ、ろ⋯⋯?」
黒の魔女は、話を自らの意思で止めたのではなかった。口を閉じたのではなかった。彼女は、話すことができなかったのだ──頭を、潰されたのだから。
「──どうやら、私の公開告白は阻止されたようですね」
潰されて、グチャグチャの肉片に変貌して地面に落ちた頭蓋骨や肉片、脳髄液はそのまま、黒の彼女の頭部はいつのまにか再生していた。それを見たマサカズは、より、彼女を殺すことがどれだけ無謀で無理なことだったかを思い知ったが、今はそれどころではなかった。
「お前、は⋯⋯」
綺麗でサラサラな長髪は、さながら雪のようで、色素が抜けている。肌も同じように色素がなくて、アルビノというものだろう。幻想的で、創られたと言われても頷くしかないほどの美貌を彼女は持っていた。
真っ白なゴシックドレスの、十代後半くらいの少女。彼女の灰色の瞳にマサカズの姿が映っている。
「エスト⋯⋯っ!」
それぞれ六色のうち、白を司る存在、白の魔女。名を、エスト。
マサカズを今の彼にした張本人であり、復讐対象だ。
「キミが生きていたなんて驚きだね。死んだと思っていたよ」
「生憎だが、俺は死ねないからな」
マサカズはスティレットを取り出す。魔族であるエストには聖剣が有効打になるのだが、今のマサカズでは、あの剣を握ることはできない。
「あなたが彼女の相手をしてください。私は計画の実行のために、今はマトモに動けないので」
「言われなくても、コイツを殺すのは俺だ」
スティレットの先をエストに向け、構える。
「私を殺す、ね。⋯⋯どれくらい時間を稼げるのかな?」
「何時間でも稼げるさ」
マサカズの中に潜む殺意が溢れ、辺りに殺気が漂う。アンデッドの生者を憎むという性質は、彼の中で、エストを憎むという性質に変化していた。その憎悪は、殺意は、筆舌に尽くしがたいほど強大だ。
「今度は、確実に殺してあげる」
エストはマサカズに向かってそう言いながら、嗤った。
◆◆◆
マサカズの立っている地面に赤色の魔法陣が展開され、次の瞬間、無数の氷の棘が彼を突き刺そうとしたが、彼は吸血鬼としての身体能力を駆使して跳躍し、そのままエストに飛びかかる。
「〈重力操作〉」
だがマサカズの体は白く光って、地面に叩きつけられる。
なんとかマサカズはエストの魔法の抵抗にするも、一気に消耗した。
追撃の氷の棘を、マサカズはスティレットで弾き飛ばすが、弾幕のように張られたそれを全て弾くことはできず、何発か命中する。
「〈瞬歩〉」
無理矢理にも距離を詰め、スティレットで一突き。だがエストの腹部に刺さるはずだったスティレットは氷によって妨げられ、重力魔法がエストの体を持ち上げつつ、氷の槍がマサカズの足元から突き上がり、二者の距離を再び離した。
エストは前回とは異なり、最大限マサカズを警戒している。だからこそ、彼女本来の戦闘能力が発揮されていた。
このまま普通に戦えば、消耗戦になる。
アンデッドと言えど、負傷すればするほど体は動かしづらくなる。エストの魔力が尽きるより先に、マサカズの体は削がれて、動かなくなるだろう。
前回よりも遥かに戦いになっているとはいえ、力にはやはりまだまだ差がある。
つまり、マサカズは何か、エストに対して何か大きなダメージが与えられる策を考えなければならないということである。
「⋯⋯っ」
マサカズは愚直にもエストに走り出して、スティレットを構える。
勿論、エストがマサカズのその動きを見切れない訳がない。彼女は反応して、振りかぶられたスティレットを注視し、そのあとの動きを考え──
「〈血気鋭爪〉」
──マサカズは持っていたスティレットを手放し、それにエストの目は持って行かれた。
その一瞬の隙を付き、マサカズは紅く長く鋭利になった爪で、エストの肉を抉ろうとする。
しかし、エストもマサカズと同じように人の姿をしただけの化物だ。殆ど見てからの状態だというのに、致命傷になるはずだったそれを避けた。
「──」
エストは左腕に五本の切り傷が付く。傷はかなり深く、腕の感覚が鈍い。
重症だが、この程度では駄目だ。
「〈獄炎〉」
灼熱の炎がマサカズを包む。
「あぁぁぁぁぁっ!」
熱くて、苦しくて、痛い。皮膚が沸騰し、水分が蒸発し、ハッキリとした意識のまま焼かれる不快感は想像を絶する。
炎は一瞬マサカズを焼いたあと、消える。
「っ!」
アンデッドは負のエネルギーを生命エネルギーとして活用している。そのため、生者を殺す魔法が、アンデッドにとっての治癒魔法である。
「〈苦──!」
「させると思う? 〈獄炎〉」
勿論、回復行為を眺めておくほど、エストは間抜けじゃない。
またもう一度、マサカズを燃やす。
炎を吸い込んだことで声帯が焼かれ、声が出せなくなった。空気を含みすぎた掠れ声で叫び、苦痛に嘆く。
ローブが真っ黒な燃えカスになって、見るに耐えない火傷を負った上半身が曝け出される。
「キミが死ぬまで、何度でも燃やす。灰一つ残さず、燃やし尽くしてあげる」
業火が、烈火が、爆炎が、灼炎が、獄炎が、マサカズを何度も燃やす。皮膚は完全に焼き焦がされ、真っ黒に変色していた。一滴も血が流れないのは、血管が焼かれて止められているからだろう。
人の形をした真っ黒いナニカに変わり果てても尚、彼は活動を停止していなかった。
「──」
始原の吸血鬼。吸血鬼の始原にして、最強の吸血鬼。そして、今の彼の種族だ。
不死者、とはよく言ったものだ。本当に、物理的な殺害方法では、簡単には死なない。
彼の全身から蒸気が発生し、見ると火傷がゆっくりとだが治癒していっている。
「⋯⋯しぶとい」
赤色の、炎の魔法陣がいくつも展開される。多重化されたそれは、とんでもない熱量を持ってして対象を焼き尽くす。
「本当に⋯⋯」
しかしそれでも、殺すことはできなかった。
仕方ない。これではいつまで経っても埒が明かない。反動を受けることになるが、神聖魔法を使う必要があるとエストは判断し、それを行使しようとした時だった。
──血が、エストの口に流れ込んだ。
動けるはずがないその体を無理矢理に動かし、マサカズはエストの口に、手首辺りから伸ばした血管を入れこんだのだ。
「かはっ⋯⋯ゲホっ、ゲホッ⋯⋯」
それだけすると、力尽き地面に倒れる。だが死んだわけではない。動けなくなっただけだ。
──やってやった。
マサカズの狙いは、最初からこれだった。自身の血液をエストの体内に流し込み、内側から腐食し、殺す。
神聖属性の魔法や体をみじん切りでもされない限り死なない不死性を利用した、不意打ち。武力では負けていることを見越しての対策だ。
少しでも血液を取り込んだならば、そのうちエストは完全に死亡する。
勝った。殺した。やった。ようやく、俺はエストという悪夢から開放される。
勝利を噛み締める。エストの苦しむ姿を確認できないことに少し不満を覚えるも、しかし悲願が達成できた満足に比べれば大したことない。
「⋯⋯え?」
少女の声がした。困惑の声だ。しかし、苦しんでいる様子のない声でもあった。
何故だ。何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ。
どうして、苦しんでいない。どうして、痛がっていない。
どうして。どうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
あってはならない。苦痛に喘いでいるべきなのだ。
「──」
分からない。どうなってる? 今、エストはどんな状態だ? 腐食する血液から、どのようにして逃れた?
「──」
駄目だ。聴覚も死んだ。何も聞こえない。何もわからない。視界が真っ暗だ。現状を把握できる手段がない。
◆◆◆
ただ憎悪し、怨嗟し、自我を捨て、狂気に囚われる。
狂い、狂って、狂い藻掻いて、殺意に満ちた、殺意だけに満ちた心を飾って。
他に道があったのだろう。この過ちは、最もしてはならないものだったのだ。
炎の結末。
──無意味。
そう、無意味だった、彼が行った全ては。
復讐とは、結局、何も産まなかった。何も得られなかった。それどころか、後悔を孕んだ。意味がなかったんだ。
確かに、彼は間違っていたことを、知っている。
──だけど、何を間違っていたかは知らない。
確かに、彼は、結果がどうなるかなんて、知っていた。
──だけど、どうすれば良かったかなんて、知っていなかった。
肝心なことだけ、知らなかった。そしてそれは己の無知ゆえに引き起こされたことだった。
後悔するのが、遅すぎた。気づくのが、遅すぎた。
本当に、無意味だ。本当に、愚かだ。
どうしようもない、どうにもできない、手の施しようがないクズだ。
こんな簡単に思いつくような、簡単に想像できるような未来を見なかった、考えなかった彼は、本当に怠惰だった。
利己に走り、復讐と言って、自身の合理性に欠けた愚かな選択肢を正当化したいだけだった。
自分の身が、可愛かった。死にたくないと強く願ったのが、あの死の感覚を味わいたくないと欲望したのが、全ての間違いの始まりだった。
そして、黒の魔女と手を組んだ。これこそ、最も唾棄すべき過ちだっただろう。
彼は何度繰り返しても、間違う。何度繰り返しても、現実を見ない。その時その時を適当に生きて、しかしいつも最期には後悔する、どうすればよかった、と。そして思う、もう一度やり直したい、と。
何と傲慢。何と強欲。彼は、本当に、救えない。救われるべきではなかった。もう何度、同じことをしたと思っているのか。
でも、それはあまりにも、可愛そうだ。あまりにも、彼に相応しくない。
ああ、だから、きっと、世界は──。
〜fin.〜
文量およそ三万文字。本編の話数でいくなら六話くらいってマジっすか?
まあ私の苦労話は置いておいて、最後まで読んでくれたあなたに感謝を。長ったらしいこの話を読んでくださり、本当にありがとうございました!
⋯⋯さて、では、自分語りをしていきましょうか。
このルートを書いた理由ですが、一番大きいのは私が白の魔女の世界救済譚を書くきっかけとなった某作品のIFルートを読んだから。あとは単純にこういう、ナオトとユナが即死するわ、王国滅亡するわ、マサカズ吸血鬼になるわ、エスト自殺未遂するわの絶望的ルート。救いの一つさえないシナリオを書いてみたかったってのが大きな理由ですかね。
あと、このルートにも本編の伏線がある⋯⋯というか、この話自体が伏線というか、本編にも結構関係していたりするんですよね。
ちなみに、これをOTERROUTと呼んでいるのはわざとです。