スプレー・アンド・プレイ 5
しかしそれは意外にも、スピネルをますます苛立たせた。彼女はオブシディアンの丁度真後ろの、二本の柱と上層階に続く坂を挟んだ手すりの陰に身を寄せていた。
スピネル。ラテン語で棘を意味するこの宝石には、オブシディアンの考えていた通り、ルビーの紛い物としての意味も備えているが、かつて黒魔術師が悪魔を従えるために使っていたという、そうした逸話もある。スピネルの魔法はそれが色濃く出た魔法であり、彼女は自分の魔力を消費、その身に苦痛を受けることで自身の“願い事”を叶えることが出来るのである。
ラブラドライトのタワーの広間からオブシディアンが出た際、屋上へ先回りしていたのも、頭が潰れても意識を保っていたことも、姿を消すことも傷を治すことも、すべてスピネルの魔法の力だった。
便利な力だ。スピネル自身は魔法少女という存在自体、自分の下に見ているところがあるし、自分が魔法少女になると知ったときもなにかの冗談かと思ったが、なってみてこの魔法であれば悪くはないとも考えた。
スピネルはもとは魔法の国の軍人である。アンバーもそうだが、彼女は研究開発部門のスタッフであり、彼女が軍人になったのは彼女の発明品を軍の部門で特許申請するためだった。
スピネルは防諜部門の兵士だった。仕事は年がら年中、国民の電話を盗聴して記録することだが、これは彼女の名誉欲を満たすことはない。特殊部隊や国際諜報部門に入るには体術や魔術が一定以上、使えなければならないがスピネルはどちらも満たしておらず、国際諜報部門に入ることはできなかった。
他国と戦争状態にあった人数不足のときでさえそうだ。周りの同僚が手伝いに駆り出される中、いもしないスパイを見つけ出すという名目でスピネルや一部の女性スタッフが防諜部門に残されていた。魔法の国においても軍閥は男社会であり、いくら優秀であっても上には行けない。女性で国際諜報部門に入るものはみな天才と呼ばれた本当の一握りであり、それ未満の女性はどれだけ結果を残しても使われなかった。
スピネルはコンプレックスを抱えていた。防諜部門が笑いの的になっていることは気付いていた。なにもせずに座ってるだけの連中と思われるのが嫌だったし、それを受け入れて死んだような目で働いている同僚と同じ目で見られるのは耐えられなかった。自分の隣にいた日に何度もタイプミスをし、いくら言われても訛りの一つも覚えなかった同僚が駆り出されたとき、スピネルはキレ、その同僚を呪い殺した。
彼女は気付いていなかったが、彼女が国際諜報部門に入れなかったのは魔術や体術のせいだけではない。魔法の国の軍閥が未だに女性は事務をやっているべきなどという旧時代的な価値観で生きているのは事実だが、彼女の場合は彼女に精神異常の気があり、メンタルチェックをパスできなかったのだ。
同僚を呪い殺した後、彼女は収監されたが、軍刑務所に移送される直前になって魔法少女部門のスタッフからコア・ストーンとの同調を試すよう申請が入り、適性の高さを見出された。
彼女は魔法少女になった。紆余曲折あり、軍が新しく契約を結んだ軍事会社の新商品、ホーリー・シリーズとして、異界での実地テストをスムーズに行うためのならしを命ぜられた。
馬鹿げたドレスを着て、馬鹿げた魔法を使って、そんなのはスピネルの趣味ではない。でも魔法少女になれば罪は免責される。
スピネルは体中に痛みを感じている。魔法少女は人間と同じ姿だが、人間と同じようには傷つかない。呼吸や大きな欠損にたいし、脳がそれに相当するショックを与えることはあるが、傷はほとんどつかない。
オブシディアンの体術はかなりのものだが、力自体は大したことない。コア・ストーンの硬度もスピネルのほうがやや上だ。
でなければスピネルはもっとダメージを受けているかもしれない。あのラッシュを耐えきり、逃げるのに魔法を使い、加えてオブシディアンをこの駐車場に閉じ込めた。
“オブシディアンを出さないで欲しい”
規模や曖昧さが大きいほど、スピネルの消費する魔力は大きくなる。これはかなりの痛手だった。スピネルは肩をいからせ、歯ぎしりをする。
――あのクソガキ! 絶対に許さない。もう一度、今度は頭を粉砕させたりしない。コア・ストーンを目の前で少しずつ削ってやる。あいつの大事なもの全部、この手でぶち壊してやる。まずはあのマスコットから……。
そこで、スピネルは感情を鬱から躁へ転換させ、にまりと露悪的な笑みを浮かべた。
「そうでしたわ。あいつを外に出しさえしなければ、外の魔法使いがあそこにいるやつらを全員、殺してくれるんでした」
スピネルは愉快な気分になった。あいつがいくら吠えても所詮、籠の鳥。ここから出ないことには事態は動かない。であれば、自分があいつに倒されなければいいだけ。
「フフフッ、そんなの、簡単なことですわ。影に隠れていればいいだけですもの」
それに、それにだ。さっきは不意をつかれてやられたが、屋上では逆にこっちがオブシディアンを一方的に痛めつけたのだ。戦い方さえ間違えなければ、あんなピーキーな魔法少女、いくらでも料理のしようはある。
「わたくしったら、なにを焦っていたのかしら」
――ボウガンで遠くから射撃して、昆虫標本みたいに壁に貼り付けたやるんだわ。そして肩の肉から順番に削いでやる。
スピネルは気付いていなかった。
▽
オブシディアンが先ほどから、スピネルの姿を捕捉していることを。オブシディアンは屋上でもやっていた通り、黒曜石を使って魔力を探知できるのである。それはマスコットの持つ探知魔法ほどの精度はないものの、自分と同じ空間にいるたった一人の魔法少女を見つけるだけならば、そう難しくはない。
ただこちらはこちらで、だからといってすぐ動くことのできない事情があった。死の恐怖だ。オブシディアンはスピネルに殺されかけたことで、普段の警戒心をより一層、強めていた。スピネルはこちらがもう自分を捕捉していることに気づいているかもしれない。
そうであれば、あの屋上のときのように、自分に対してカウンターを放ってきてもおかしくはない。
あの時はダイヤモンドに助けられたようだが、今度やられればそう都合よく助けてもらえはしないだろう。
――それにしても、あのダイヤモンドがわたしを助けるとは……。
彼女はこちらが気に入らないのだと思っていた。もちろん、気に入らないからといって命を救わない理由にはならない。彼女が魔法少女であればよりそうだ。しかし、オブシディアンはダイヤモンドが自分を助けたのが魔法少女であるからという、高潔なものではなければいいと考えた。
そもそも高潔さなど信じていないのだ。オブシディアンは、自らの心に従って生きるだけなのだ。
オブシディアンは胸のあたりで衣装を巻き込んで拳を丸める。
――恐怖はある。いつもある。アンホーリー・トライフェルトと戦ったときも、ラブラドライトのタワーへ向かったときも、昼間、商店街であの毛むくじゃらの魔法使いを倒したときでさえ。
――恐怖はある。だからなんだ。
オブシディアンは血を滾らせた。
▽
スピネルは完全に油断していた。自分とオブシディアンの間に一列の黒曜石が並べられていることなど、気づきもしなかった。
影へ隠れる。ゲームで言う、裏世界へ行く魔法。
自らの魔力を消費し、その魔法を行使する。苦痛の形は、いつも同じ。コア・ストーンを中心としてそこから出た棘が体を貫く。「う、う、う、あああああ……」彼女の脳が痺れる。彼女はオブシディアンと最初に対面したあと、そこにいた人々をゴキブリもどきに食わせたときと同じぐらい興奮している。
「はあ……」と、彼女は官能的な息をもらす。そして、パキン、と音がして、彼女の足が割れる。
驚く間もなく、オブシディアンが目の前に現れる。彼女は手を黒曜石で包み、黒曜石の義足を付けている。黒曜石でできた爪が彼女の腹に突き刺さる。彼女の内臓のある場所をぐちゃぐちゃにし、スピネルはカッと眼を見開く。
「終わりにしてやるよ……サイコ女……!」
オブシディアンが唸り声をあげ、爪を捻る。
スピネルがなぜか笑みを浮かべる。