神に願いは通じなくても、悪魔が叫びを聞きつけたのか。
「チテン陛下。……少々お遊びがすぎるのではないか?」
突然、そう、声が聞こえた。
チテンは動きを止め、扉の方を見る。そして現れた人物に忌々しそうに顔を歪めた。
「……バルト」
現れたのは、赤毛の将軍、バルトだった。予期せぬ訪問者にチテンは驚いたようだった。でもそれは私も同じだった。
――もしかして、助けに来てくれたの?
「なんだ貴様……覗きの趣味があったのか? それとも混ざりに来たのか? せっつかんでも、オレが楽しんだ後でくれてやる」
バルトは無表情だ。いつもの笑みすらない。月の明かりが彼に陰を作り、それも相まってひどく怖い顔に見えた。
そして静かに口を開いた。その声色には、罪人を断罪するように心の底からの軽蔑が含まれていた。
「一国の皇帝ともあろうお方が、抵抗できぬ娘相手にかような真似はいかがなものかと存じますが。誇り高きガンディア人とは全く思えませんな。あの父上が生きておられたらなんとおっしゃるか」
「死人に口があるものか。貴様、誰にものを言っている? ガイアスといい……。オレはガンディア帝国の皇帝だぞ」
「では私はこの国から手を引きますぞ? よもや忘れたわけではありますまい? 私も『加護』がございます故、万が一、我々の協力が失われでもしたら、ガンディアは“帝国”ではなくなるでしょうな」
“我がエルドール”という言い方が気にはなったが、バルトがそう言うと、私にかかっていた重さが退くのを感じた。
チテンはゆっくりと私の上から移動し、椅子に座る。一方私は急いでそこを離れた。扉からすぐに逃げ出したかったが、バルトが立っているので行きたくても行けなかった。
そんな私の様子を察してか、バルトが言った。
「聖女りんね、こちらへ来い。今は危害は加えない」
今度は“今は”というのが気になりはしたけど、迷ったのは一瞬だけで、私はバルトの方へ進んだ。
殺されるにしても、犯されてから殺されるよりも、何もされずにただ殺された方がましな気がしたからだ。
「……貴様覚えていろよ」
チテンがバルトに憎々しげにそう言った。バルトはその言葉が聞こえていないかのように黙って扉を閉じる。
「クソガキが」
バタンと扉を閉めた瞬間、バルトがそう呟くのが聞こえた。
「あ、あのう、ありがとう、バルト……さん」
バルトは背中を向けたままどこかへ進んでいく。私が後をついて行くことを当然だというように、彼の歩みには迷いがなかった。
私を助けてくれた。この人は、本当はいい人なのかもしれない。
そう思っていると、バルトの声が聞こえた。
「……やはり甘いな聖女りんね。私のことを『本当はいい人なのかもしれない』とでも思ったか?」
図星だ。
答えを探しているとバルトは「私はただ、ああいう下品な行為が嫌いなだけだ」と言ってそれきり黙った。
バルトの背中は大きい。もし、この人が味方だったら心強かっただろう。
……実際のこの人は、どんな性格なんだろう? どうして『聖女』を追ってきたんだろう? 利用するためだけ? どうして助けてくれたの? もしかして、彼自身にも分かっていないの?
つい昨日まではお互いに相手を殺そうとしていたけど、今日助けられたことには変わりない。
「確かに甘いのかも……。でも、やっぱり、ありがとうございました」
もう一度お礼を言ってみるが、返事が返ってくることはなかった。
バルトに着いていった先で、私はようやく友達と再会することができた。
「りんね!」
彼はぱっと顔を輝かせた。私も安心した。
よかった、無事で。
宮殿の中の一室にバルト一味の幹部たちが集まっていたらしい。女騎士イグリスさんと魔法使いのルーメンスおじいちゃんの姿もあった。
そこにレオがいた。
縛られていた彼は、私を見ると立ち上がった。とっくに解いていて、縛られたふりをしていたのか縄は床に落ちた。
それをイグリスさんがキッと睨み付けた。
なんて不思議な集まりだ。なんなんだろう、この状況。敵、敵、敵、敵、敵、敵、味方、敵くらいの割合だ。四面楚歌? いや、八方楚歌?
心の動揺を落ち着けようと敵の数を数えている私に、レオは心配そうな視線を向け、言った。
「大丈夫かい? 元気ないな」
そう言って、私の顔に触れようとした。瞬間的にチテンの手が記憶から蘇る。
パシッ。
思わず払いのけた手を、レオはびっくりした様子で見た。しまった、と思う。レオとチテンは全然違うのに、男の人の手に恐怖を感じてしまった。
レオの目は私の顔を見て、そして、首元で止まった。そのまま彼は凝視する。チテンの唇が触れた場所だった。
「りんね。それ、まさか」
言われて首を隠す。何があったか、気づかれた? 今更ワインが効いてきたのか、お腹がカッと熱くなる。
「ご、ごめん……。違うの、なんでもない」
「バルト貴様! りんねに何をしたんだ!?」
レオは誤解している。バルトはむしろ助けてくれたんだ。でも何があったかを、全部ここで話したくない。こんなに大勢の人がいる前で。
「私が? 知らんよ。聖女りんねはずっと牢にいたのだ。虫にでもさされたんだろう」
私が何かを言う前に、バルトが静かにそう言った。
◆
りんねがもし、誰かに傷つけられていたなら、そう思った時、レオナードには自分でも驚くほどの怒りがわいた。だが、その相手がバルトでないことも確かだろう。
目の前のこの将軍がかつては人の道理を重んじていたことは知っている。……そして、過去、彼の家族に何があったかも、知っている。
りんねが彼に黙って連れられてきたことを思えば、確かにバルトが危害を加えたわけではないのだろう。
(守ると誓ったはずが、逆に守られるなんて……! りんねに何かあったなら、それは僕のせいだ)
弓は隠されたし、他の武器も奪われている。残された魔法で切り抜けられるだろうか、否、無理だ。ルーメンスがいる。
「孤軍奮闘するつもりか?」
考えを読んだかのようにバルトが言う。
(ウィルがいたら、それでもなんとか切り抜けただろうか)
あの男なら、きっとそうするだろうと思った。しかし、自分はできない。あの男と自分とでは、違うのだ。この圧倒的な敵の前では、諦めるしかない。
疲れたのか、ベッドで眠るりんねの側にレオナードは座っていた。敵ばかりのこの中で眠れる彼女はやはりすごいな、と思って少しだけ笑った。
バルト兵は交代で見張りについている。イグリスは無言で部屋の中に立っている。どうやら寝ずの番を決め込んだらしい。
それでも縄を解かれ、牢でもないこの部屋にいて、眠るりんねの側にいられることはレオナードにとって少なからず嬉しいことではあった。
もしも、この少女に何かあったら。この少女を傷つける奴がいたら……。
(いつの間に、りんねの存在がこんなに大きくなってたなんて)
間抜けで、考え無しで、突拍子もなくて、勢いだけで生きる少女だ。でも、放っておけなかった。
レオナードがここまで旅をしたのは、親友について行きたかったから、聖女とともに世界を救いたかったから、それだけではない。
(僕は聖女が君だったから、ここまで来たんだよ)
そっと心で呼びかけた。
だが、りんねの胸の中にいる人は、自分ではない。りんねが頼り、助けを求めるのは、側にいて欲しいと願う人は、自分ではないのだ。
眠るりんねの手に口づけをした。愛しい人にするような、慈しむような仕草だった。
(……ねえ、りんね。僕じゃだめか? 僕ではだめなのか。僕は、僕が一番……)
君を本当に大切に思っているのに。
その想いは、ついに言えないままだった。
人の心の中は、誰にもわかりません。




