リザルトその1
「はあっ!」
裂帛の気合いと共に長剣が振りぬかれ、噴き出した魔物の体液が迷宮の床を濡らした。既に何度も返り血にまみれたその剣は、布で拭っても落ちない油で薄っすらと曇っているように見えるが、その切れ味はまだまだ健在のようだ。
胴体を袈裟懸けに切り裂かれ、断末魔の雄叫びをあげて、その魔物は倒れ伏した。背丈は邪妖とさほど変わらないが、その恰幅がよすぎる体のせいか動きは鈍く、牙の生えた豚、あるいは毛を抜いた猪のような顔をしたそれは、オークと呼ばれる魔物だ。コボルトが直立した犬なら、こちらは立ち上がった豚というところか。
どちらにしろ、駆け出しの戦士であっても倒すのにはそう苦労しない相手だった。
「順調ねー」
慣れた手つきで"戦利品"を回収しながら、機嫌よくエリィが言った。相変わらず僧侶である彼女の方が敵を倒す手際が良いのは、パーティのリーダーであり戦士でもあるアリスとしては頼もしいやら情けないやら。経験の差はそう簡単には埋まらないと理解はしていても、複雑な心境だった。
「そろそろ荷物も重くなってきた。呪文にはまだすこし余裕はあるけど、さてどうしたものかな、リーダー?」
まるで試すような口ぶりで、レティシアが問う。実際、彼女がアリスのことを名前ではなくリーダーと呼ぶ時は、その役目を果たす時、あるいはそうあるべきと教えてくれる時だ。
オークの死体が変じた未鑑定品のなにかをエリィに手渡し、アリスは考えながら、それを口にした。
「今日の出発は早朝だったから、時間にもまだ余裕はある。呪文も癒やしの奇跡も、まだ回数は残ってる……」
そうだよね、とアリスが顔を向けると、オークの血で汚れたメイスを拭いながら、顔だけは淑女のようにエリィが微笑み、うなづいた。
「経験を積むこともわたしたちの目的の一つだけど、持ちきれないほどの戦利品を抱えながら、ぎりぎりまで戦わなきゃいけないほど急ぐわけでもない……と思う。だから今日はこれで切り上げようかと思うんだけど、どうかな?」
リーダーとして下す決断と、それに至った経緯や考えを話し、確認する。パーティを率いる立場としては奇妙なものだが、先達であるエリィとレティシアの、特に賢者たる魔術師の意見を仰ぐのは必要なことだとアリスは思っている。
とはいえ、それも今はまだ、だ。経験を積み、彼女らと肩を並べられるくらいの冒険者になった時のためにも、こうして知識を増やし、判断力を磨かねばならない。パーティを率いるリーダーとは──言い換えれば、メンバー全員の命を握っているようなものなのだから。
リーダーの提案に、二人のメンバーは揃ってうなづいた。
「異議なし。余力を残して帰還するのは、この迷宮に限らず探索の鉄則だからね」
「あたしもさんせーい。今日は未鑑定品が多かったから、かさばって仕方ないんだもん。背嚢に穴が空きそう」
そう言って示したエリィの背嚢は、恐らくは中に収められた未鑑定品によるものだろう、歪な形に膨らんでいた。武器の類だろうか、内側から突っ張るように背嚢を歪ませているものがいくつもある。鑑定に関してはツテがあるというエリィに一任されているために、現状では彼女が未鑑定品を持ち歩く役になっていたが、このまま前衛に立ち続けるとしたら別の方法を考えなければいけないかもしれない。
懸賞金として引き換えられる倒した魔物の数と合わせれば首尾としては上々だったが、未鑑定品に期待していいかどうかは微妙なところだ。地下深い階層では貴重な武具や宝物が見つかるそうだが、地下一階で手に入る代物は高が知れている。最初の探索で得た唯一の未鑑定品も、結局はただの小剣で、既にタック商店でわずかなgpと引き換えに買い取ってもらっていた。
貴重な武具や宝物を得るにも、それらを売り払って大金を手にするにも、いまだ誰もたどり着かない深層で迷宮の謎を解き、この街を救うにも──なにをするにも、とにかく今は強くならなければいけない。
「よし。それじゃあ帰りも油断せず、出口へ向かおう」
リーダーの号令に、二人のメンバーがうなづく。
──こうして、パーティにとっては二度目となる迷宮探索はつつがなく終了した。
***
「それにしても、こんなにハイペースで探索することになるなんてねえ」
「そうなの?」
地上へ出て、迷宮前の広場を行く道すがら、ぼやくように言ったエリィにアリスが聞き返す。最初の探索を終えたアリスたちは、一日だけ休養を取り、次の日──つまり今日、こうして探索に乗り出していた。
「大抵のパーティはもっと間隔を空けるものなのよ。毎日のように死と隣り合わせの戦いの日々を送ってたら、普通の人はもたないもの。この迷宮だとなおさら、よ」
「そうだね。よく聞くのは週に一度とか、二週に一度とかかな。それだけ一度の探索で安定して稼げる実力も、必要とされるけど」
「でも、今回は……」
「いや、わかってるわかってる。あたしが悪かったわ。必要なことだったもんね……」
はあ、とため息を吐いて、エリィはまだ陽も高い青空を仰ぐ。
「まさか初陣の稼ぎの半分が、その日の酒代に消えちゃうとは……」
大仰に嘆いてみせるエリィに、アリスとレティシアは苦笑するしかない。正確に言えば酒場での食事代だったが、いささか羽目を外し過ぎたというべきか。エリィはまるで水のように次から次へと麦酒を飲み干し、アリスも酒は程々に付き合いつつ、見たこともない料理を夢中になって食べた。レティシアが言っていた、この酒場の料理はどれも絶品だという言葉に嘘はなかったというわけだ。二人に比べればごく小食なレティシアだったが、彼女が注文した葡萄酒も結構な値段がしたのだろう。
そして酒場が店じまいを始めるまで飲み明かした三人は、勘定を見て蒼白になったというわけだ。
その日の稼ぎの半分で済んだのはまだ幸いだった。これがもし全て使い切ってしまっていたなら、二日酔いに悩まされながら連日の探索に挑む破目になっていたところだ。
一日だけでも休養を挟む余裕があったのは、不幸中の幸い──と、思いたい。
「でも、楽しかったな。あんなにお酒を飲んだのは初めてだったし、ご飯も凄くおいしかった。色んな話もできたし」
「……うん。楽しかったね」
「そうだね。まあ、次からは節制を心がけるとして、初陣の祝杯としてはあれでよかったのかもしれない」
三人とも、それだけ浮かれていたのだ。初めての探索は、稼ぎの多寡はともかくとして、誰一人欠けるようなこともなく、無事に終えることができた。それがこの街では、そしてあの迷宮においてはどれだけ価値のあることか。
初陣で壊滅的な被害を受け、それっきり解散してしまうパーティとて決して少なくないのだ。
「それにしても、あれだけ飲んでたエリィが翌朝ピンピンしてたのはびっくりしたな」
「あたし、お酒は結構強い方なのよね。それに、ちゃんと次の日に残らないように量はセーブしてるし」
えっ、あれで? と思わず聞き返したくなるくらいの量を飲み干していたように思ったが、実際翌朝に元気に挨拶を交わした身としては、うなづくしかなかった。
「レティシアは昼過ぎまで寝てたね」
「ボクはあまり酒に強い方ではなくってね。せっかくの席だからと付き合ったけれど、次からは控えるとしようかな」
「嘘おっしゃい。あんた、普段から起こさなきゃお昼まで寝てるでしょ」
今回はかなりの余力を残しての帰還となったからか、そんな風に談笑しながら三人の少女たちは迷宮前の広場を過ぎて、大通りへと出た。
「それで、どうする? このまま換金に行くか、荷物が重いなら鑑定を先にするかい?」
迷宮の魔物すべてに対して懸けられた懸賞金。それは形式上領主が発行した依頼として扱われているため、──ゴミ拾いの方も──換金には領主の館へ向かう必要がある。領主の館は迷宮から一番近い場所に建っているため、今から向かえばすぐに用事は済むだろう。
ただし、領主の館は冒険者ギルドやアリスたちが利用している商店、宿や酒場とは別方向になる。
街で一番偉い人が住んでいるところなのに、どうして危険な迷宮の近くなんだろう──そんな素朴なアリスの疑問に、レティシアが答えてくれたことがあった。
『簡単に言ってしまえば、領民へのアピールさ。街中に地下迷宮なんて危険な代物がある上に、現状それを封鎖することすらできていない。それなのに、民衆を差し置いて自分だけ遠く離れた安全な場所に居を構えては、示しがつかないからね』
まあそんなことを気にしない領主もいるんだろうけど、この街の"領主どの"は違うらしいよ──と、珍しく皮肉交じりに言っていた。
「あー、それなんだけど。できれば鑑定の方を先にしてもらってもいいかな?」
そう言ったのは、未鑑定品を自らの背嚢に入るだけ収めているエリィだ。なるほど、こんな状態でうろうろするのはさすがの彼女でも厳しいのだろう。
そう思ったアリスたちを先んじて断るように、付け加える。
「言っとくけど、荷物が重いからってだけじゃないからね。前回は一個だけだったからあたし一人で済ませちゃったけど、今回はそれなりに数もあるし、これから長いことお世話になるなら、挨拶くらいはしておいてほしいのよ」
「あ、そっか……。その、鑑定──を、してくれる人、だよね。確かに、挨拶くらいはしないと失礼だよね」
「まあ、それくらいで怒ったりするような人じゃないけどね。もうお昼も済ませてる時間だし、今から行けば邪魔になることもないからさ、丁度いいかなって」
「そういえば、その辺はエリィに一任していたね。詳しい説明は道すがらするとして、料金はいいのかい?」
鑑定というからには、なんらかの専門的な技術が必要なのだろう。そして、そうした技術を求める場合は引き換えに金銭を支払うのが常だ。技術という目に見えない品物を買う、というわけだ。実際、それで生計を立てている司教の冒険者も少なくない。
だが、幼馴染の言葉にエリィはむっとした表情で反論した。
「そんなの、あの人がとるわけないでしょ?」
「いや、支払うべきだね。鑑定だってノーリスクじゃないんだし、取り決めはきちんとしておかないと。相手が大切な人なら特に、ね」
「それは……」
商店で品物を買う場合、その品物に、つけられた値段分の価値があるのだと判断して、客は金銭を支払う。同様に、技術者に対して金銭を支払うということは、それだけ相手の技術を文字通り買っているという証左でもあるのだ。
エリィの口ぶりから察するに、どうやら相手は親しい人物のようだ。だからこそ、金銭のやり取りをするのが逆に難しいのかもしれない。エリィはしばらく黙って考え込むと、不承不承といった様子でうなづいた。
「……わかった。今日、そのへんの話もちゃんとするわ」
「まあ、料金という形に抵抗があるなら別のもので支払うって手もあるさ。それを話すにも、丁度いい機会かもしれないね」
「うん……」
慰めるようなレティシアの言葉にも、エリィはやはり気が進まないようだ。こっち、と言葉少なに先導し始めたエリィの背中を見て、レティシアは肩をすくめた。
「なんだか、デリケートな話みたいだね」
遠慮がちにアリスが言うと、レティシアは苦笑した。
「ああ……そうだね。デリケート、か。幼馴染なんてものをやっていると、つい忘れてしまう言葉だ」
先を歩くエリィの背中を見ながら、その背に届かないように、レティシアは声を落として言った。
「今から会いに行く人はね。エリィにとっては、大切な人なんだ」
***
大通りを端まで歩き、三人がたどり着いたのは街はずれの原っぱだった。街全体から見れば丁度、迷宮の反対側になるだろうか。
「この街は生まれてから今に至るまで、ずっと成長し続けている。迷宮からもたらされる富によって、ね。移り住んでくるのは冒険者だけじゃないし、住民が増えれば家を建てる場所が必要になる。そうして何度も街の拡張を繰り返し、今のところその最果てがここってわけさ」
この街はいわゆる城塞都市と呼ばれるような、堅固な防壁に囲まれているわけではなかった。アリスも街へ入る時に目にしているが、街を囲っている壁はせいぜい小さな魔物や野獣の類を防ぐ役割しか持てないような代物だった。それでもそこらの村に比べればよほど安全だろうが、もしもよその国が軍を率いて攻めてきたらひとたまりもないだろう。
「うず高く積み上げられた壁は堅牢な反面、作るのに時間がかかる。そして、壊すのにも、ね。一度城塞を築いてしまえば、拡張は難しくなる。それは常に成長し続けるこの街にとっては致命的なのさ」
今のところここに攻め入ろうなんてことを考える輩がいないせいもあるけどね──ここへ来る道すがら、暇つぶしのようにレティシアが教えてくれた。
二人を先導するエリィは、途中露店でなにかを買った時以外こちらを振り向くこともなく、この場所まで歩いてきてしまった。レティシアが声をかけようともしないから、アリスもそれに倣っていたのだが──
「着いたわ」
足を止めて振り返ったエリィの表情には、悩みや考え込んでいる様子もなく、いつも通りの明るい表情に戻っていた。ほっとしたアリスは歩を進め、レティシアとともにエリィの隣へ並び立つ。
着いた、といっても辺りには短い草が点々と生えた、草原と呼ぶにも微妙な場所が広がっているのは変わらない。しかし、そんななにもない場所にぽつんと、まるで街から取り残されたようにそれは建っていた。
遠目でもわかるくらい古びている、大きな建物だ。入り口と思しき場所の上に教会の刻印が掲げられている。
そして、その建物の周りには──小さな子供たちがいた。皆めいめいに好きなことをして遊んでいるようだ。
「これは……?」
「孤児院よ。あのシンボルの通り、教会が運営してる。ここの責任者っていうか……まあ、子供たちの面倒を見ている人がいるんだけど」
「その人が、鑑定を?」
驚いたように聞くアリスに、エリィはうなづく。アリスが驚くのも無理はなかった。ここへ向かう道すがら、鑑定とは、そして今エリィが抱えている未鑑定品とはどういうものかを説明されたばかりだったからだ。
『前回の探索で、未鑑定品は魔物と同じような状態にあると言ったのを覚えているかな? 繰り返しになるけど、あれは一種の魔術、あるいは呪いと言ってもいい類のものでね。周りからの認識を歪める──要は正体を隠すような効果がかかっている状態なんだ。そして鑑定は、その効果を打ち消し、正体を明らかにする術のこと。これには魔術的な知識と、神聖魔法──神の奇跡に因るところの解呪の儀式が必要になる。教官の言葉を覚えているかな? 魔術と奇跡の両方を修め、鑑定技能を持った司教……つまり、その両方を修めていないと鑑定はできないのさ。ボクやエリィのように片方だけを修めていても駄目だし、二人で協力してどうこうなるものでもないんだ』
もっともその鑑定自体にも巧拙の基準はあるらしく、失敗した時には相応の呪いが跳ね返ってくる──レティシアが言っていたリスクと取り決めとは、そうした場合にどう対処をするのかという話だったのだろう。確かに、親しい間柄だからとなにも決めずにいたら、いざそうした事態に見舞われた時に困ることになる。だからエリィも最後には納得したのだ。
しかし──魔術や奇跡など全くもって門外漢であるアリスにとっては、その両方を修めた人物など想像もできない。いったいどんな大魔法使いなんだろう──そんな勝手な想像をしていたから、着いた場所が街はずれの孤児院では戸惑うのも無理はなかった。
こんな場所に、そんな高等技術を修めた人がいるのだろうか。
「おーい!」
片手を口の傍に当てて、よく通る声でエリィは叫んだ。遠くで遊んでいる子供たちのうち何人かがそれに気づいて、こちらを見る。エリィが手を振りながら歩いていくと、きゃあ、と歓声をあげて子供たちは走り出した。
「やれやれ、相変わらずみんな元気いっぱいだ。気は進まないけど、ボクたちも行こう」
子供が苦手なのだろうか、苦笑しながらそう促すレティシアに倣い、アリスも子供たちの方へと歩いていった。エリィはと見れば、もう子供たちに十重二十重に囲まれている。
「エリィー!」
「ねえねえ、またボーケンの話聞かせてよ!」
「やだー! あたし、エリィとおままごとがしたい!」
エリィの足元にまとわりつくように騒ぎ立てる子供たち。てんでばらばらのことを言いながら、それでも嬉しそうにはしゃいでいるのは、それだけ彼女が慕われているということだろう。
「はいはい、遊ぶのは後でね。今日は大事な用事があって来たから。リク、シスターは?」
リク、と呼ばれたのは子供たちの中でもすこしだけ年長の少年だった。両手にまだ歩きがおぼつかない幼子の手を繋いでいて、エリィを囲む輪の中には加わっていない。
子供たちのリーダー格なのだろう、リクはエリィの問いに背後にある建物の方を向きながら答えた。
「向こうで洗濯もの干してるよ。呼んでこようか?」
「ああ、それならあたしたちから行くからいいわ。ちょっと大事なお話があるから、みんなのこと、お願いね」
「うん。わかった」
孤児院の関係者でもないだろうエリィの言葉に、リク少年は素直にうなづいた。孤児院という場所で育ったゆえだろうか、子供ながらに自分の役割──つまり自分より小さな子供たちの面倒を見る役目を、しっかりと理解して、果たしている。
「えらいえらい。あとでお土産、あるからね」
「う、うん……」
そう言ってエリィに頭を撫でられて顔を赤くしているあたりは、微笑ましい子供らしさだ。
「ああ、それじゃあボクたちも行こうか。ほら、退いた退いた。カイル、ローブの裾を引っ張らない。男の子が女性の服を引っ張るものではないよ。クーデリア、短杖が気になるかい? これは玩具ではないから、触ると危ないよ。そうだね、今度子供用のものを買ってきてあげよう──」
いつの間にか数人の子供に取り囲まれていたレティシアが、億劫そうに歩き出した。なるほど、気が進まないのはこういうわけか。それでも一人一人の名前を覚えて相手をしているあたり、子供が嫌いというわけではなさそうだ。
一方、アリスには誰も近寄ってこようとしない。遠巻きにじっと見てくる子供もいれば、視線が合った途端ぴゃっと驚いて逃げ出してしまう子もいた。
「……なんか、わたし警戒されてる?」
「孤児だからね。多かれ少なかれ、知らない"大人"には抵抗があるのさ。なに、初対面の今のうちだけだよ。キミもすぐにもみくちゃにされるようになるさ」
はは、と乾いた笑いをこぼして、二人はエリィを追いかけた。
***
孤児院のほど近くに、地面に突き刺した棒に紐を結んだだけの簡素な物干しがいくつも立てられていた。周りには日差しを遮るものがなにもないから、さぞ洗濯物も乾きやすいことだろうが──いかんせん、数が多い。いや、あの子供たち全員分と考えれば妥当なのだろうが──
とても一人でこなす量ではないそれらを、たった一人、一枚ずつ丁寧に取り込む女性の姿があった。艶やかな金色の髪は日差しにきらきらと輝き、対をなすように身に纏った黒く陰気な教会の制服は、むしろ質素で落ち着いた印象を受ける。
「シスター!」
声をあげて駆け寄るエリィに、女性ははっとして振り返った。その優しい顔立ちは儚げで、同性のアリスから見ても綺麗だと思えるほど整った容貌をしている。清楚で優しげで美しい、絵に描いたような修道女だ。
「エリィ……!」
シスターと呼ばれた女性はエリィに気がつくと、ぱっと表情を輝かせた。その外見に相応しい可憐な声をあげると、いそいそと洗濯カゴを地面に置いて、制服の裾を揺らしながら小走りにこちらへ向かってくる。その行動だけ見れば、まるで少女のそれだった。
エリィも早足で彼女に近づき、いっそそのまま抱擁でも交わした方が自然に見えるほどだったが、二人はそうなる一歩手前くらいでぴたりと足を止めた。
「……今日は、お仕事の方はもう終わったのですか?」
「ええ。今日は早くから行ってて、ついさっき、終わったところで。時間も丁度よかったし、また鑑定をお願いしたくて……すみません、急に押しかけちゃって」
「そんなこと! ……ない、です。貴方が来てくれるだけで、私も……子供たちも、嬉しいですから」
「シスター……」
二人の会話は内容自体は他愛のないものだったが、アリスにとってはエリィの態度が驚きだった。彼女と出会ってまだ数日だが、こんな風に敬語を使っているところなど見たことがない。一応所属する組織の長という立場のギルド長にすら、気安い調子で話しかけていたのに。
それになんだか、二人ともなんだかもじもじしているというか、落ち着きがないというか──
「はいはい、いい雰囲気のところ失礼するよ。こんにちは、シスター」
見つめ合う二人を現実に引き戻すように、レティシアがわざとらしく声をかけた。二人ははっとしてこちらを見ると、慌てて一歩後ろへ下がる。
「こ、こんにちは、レティシアさん。ごめんなさい、ご挨拶が遅れてしまって」
「いやいや、ボクとしては気にせずそのまま抱き合って熱い口づけの一つでも交わしてくれてもよかったんだけどね。それは用事が済んでからゆっくりしてもらって」
「ちょ、ちょっと──!」
「さっきエリィが言った通り、また鑑定をお願いしたいんだ。それも、今回はそれなりの数をね。それと、紹介したい人がいるんだ」
顔を赤くして反論する幼馴染を無視してレティシアは話を続けると、隣に立つアリスの背をとん、と軽く押した。
一歩進み出たアリスは、軽く辞儀をして名乗る。
「初めまして。アリス、と言います。エリィとレティシアと三人でパーティを組んでいて……その、リーダーをしてます」
たどたどしい自己紹介だったが、見るからに一般人のシスター相手に戦士がどうのとか探索の経験がどうのとか、冒険者風の自己紹介をするわけにもいかなかった。
それに──
「まあ、ご丁寧にありがとうございます。私、マリアン・ピエリスと申します」
そう言って優雅に辞儀をするマリアンに、気圧されるような感覚を覚える。
なんというか、住む世界が違う人だ。直感的に、アリスはそう思った。威圧されたわけではない。マリアンと名乗ったその女性は、天使のような微笑を浮かべて、挨拶をしただけだ。
ただ──田舎の小村で生まれ育ち、冒険者を志した自分とは根本的になにかが違う。優雅で、綺麗で、華やかで。そういう意味では、こんな街はずれの孤児院に居るには相応しくないように思える。
「シスター……マリアンとはね、あたしが街に着いたばかりの頃にお世話になってたの。その縁で今もこうして仲良くしてもらってて、鑑定もお願いしたってわけ」
「そんな、私の方こそエリィにはお世話になってばかりなんです! 聖職者としても、教えられることばかりで──」
「はいはい、そのへんの話は追々ね。早速だけど鑑定の方、お願いしてもいいかな? リクに子供たちのことを頼んだんだけれど、あまり時間をかけるのもよくないかと思うからさ」
「あっ、そ、そうですね……!」
二度目の指摘を受けたマリアンは顔を赤らめ、こくこくとうなづく。どうも、エリィと話したりその話題に触れたりすると、途端に優雅な淑女からまるで恋する乙女のように、雰囲気を一変させてしまうようだ。これではレティシアがからかうのも無理はなかった。
もっともそのどちらが彼女の素顔なのか、エリィのことをどう思っているかなど、会ったばかりのアリスが知り得るはずもない。──暇を見て、レティシアに聞いてみよう。
「そ、それではこちらへどうぞ……!」
若干ぎくしゃくした足取りでマリアンが孤児院の入り口へ歩き出し、エリィが慌てて後を追う。置き去りにされた洗濯カゴは──レティシアがちらりとそれを見て、次いで無言でアリスを見上げた。ふう、とため息を吐いたアリスは、仕方なくカゴを持ち上げると二人のあとに続く。つくづく肉体労働を嫌うものだ、この魔術師は。
「鑑定って、司教の職に就いている人しかできないんだよね?」
せめて頭脳労働くらいさせてやろう……と、そんな意図があったわけではなかったが、アリスは前を行く二人に聞こえないようにこっそりとレティシアに訊ねた。
魔術呪文と神聖魔法の両方を修め、鑑定技能を持つ者を司教と呼ぶ。最初の審査の時に、訓練所で教官から教わったことだ。魔法に関しては門外漢であるアリスだが、それがどれほど困難なことであるかは想像できる。エリィとレティシアだってアリスから見れば立派な術師だが、それでも片方しか扱えないのだ。
とてもではないが──あのいかにもか弱そうなシスターが、司教と呼ばれるような存在には見えなかった。
「ああ、心配しなくても大丈夫だよ。無理もないけどね。彼女……シスター・マリアンは見ての通り教会の人間でね。そこで魔術と奇跡を修め、司教の職に就いたそうだ。今よりももっと若かっただろうから、まさに天性の素質を持っていたんだろうね。それがどういうわけで孤児院の世話係なんてしているのか、あいにくとボクは知らないけれど、鑑定については心配する必要はないさ」
事実、最初の一つは見事に鑑定されたわけだしね──と、レティシアも小声で答える。
そう、初陣で得た唯一の未鑑定品を鑑定したのは彼女だ。だからここに来るまで、そのことについてアリスは疑問を持ったりはしなかった。
だが、いざ会ってみた当人は自分たちとそう変わらないか、すこし年上くらいの若い女性で、おまけに──
「まあ、あんなに可愛らしいところを見せられたら、疑いたくもなるというものだね? エリィも、彼女と話す時だけは無理して敬語なんて使うから──」
くひひ、とレティシアは意地悪そうに笑う。そんな彼女も含めて、好き合う二人とそれをからかう子供のようだとは、さすがに口にはできないアリスだった。