幕間 ─ 機械屋の少女
時は遡って、アリス達が初めての探索に挑む前夜。彼女らが、丁度酒場でささやかな冒険の前祝いをあげていた頃──
さすが、ギルド加盟店ということか。相も変わらず外套で全身を覆い、目深に被ったフードの奥から鋭く目を光らせる女は、スラム街の一角にある店を見上げて、思った。スラム街とは大抵無計画かつ無秩序に建物が増改築された結果出来上がる場所で、そこに立つ建造物は様々だ。だが、今目の前にあるそれは群を抜いているように思う。
店の壁には金属の筒がのたくるように張りついている。扉も金属で作られていて、その上には店の名と、ギルド加盟店であることを示す真新しい刻印が刻まれていた。今まで自分が世話になってきた機械屋は、大抵が普通の民家──普通と言ってもスラム街の、だが──に怪しげな道具を持ち込んだだけで、看板をあげているようなところはなかった。ただ、他に知る機械屋がなかったからそういうものなのかと思っていただけだ。
女は外套の合わせ目から右手を伸ばし、扉についている取っ手を握ると、意外なほどの重さにすこし驚きながら引き開けた。がぱ、とまるでなにかの蓋を開けたような音がして、分厚い扉がゆっくりと開く。
扉の隙間から、吹き出すような熱気が押し寄せてきた。次いでつんと鼻を衝く、金属の匂い。鍛冶場や工房のそれとは違う、油の混じった異質な、日常からは縁遠い匂いだ。だが、女にとっては慣れ親しんだものだった。女は眉一つ動かさず、店内へと入る。
店の中は思ったよりも広く、作業台らしきいくつかのテーブルがあった。それは酒場などで見られるものとは違い、がっちりと地面に固定された土台のような造りになっていて、なにに使うのか知れない道具類が置きっぱなしになっている。恐らくはここで作業をするのだろうが、さて、それを行う者は──と、女は店の中を見回そうとして。
「あっ、い、いらっしゃい、ませ……っ」
蚊の鳴くような声で、出迎えの言葉をかけられた。この部屋の中で唯一店らしいカウンターのような長机の向こうに立っている、少女が発したものだ。
まるでそこだけ色を塗り忘れたような、不気味なほど真っ白な髪。化粧っけの一つもない優しげな顔立ちはところどころが油で汚れていて、細身の身体を包むような分厚い布の作業着を着ている。薄汚れた手袋とブーツはいかにも技術者といった風だが、それを着ているのが年端もいかない少女では違和感を感じざるを得ない。
「あ、あの……お客さん、ですよ、ね……?」
なにがそんなに怖いのか、機械屋の娘は恐る恐るといった風に訊ねてきた。
いや、外套で体を隠した怪しい風体の人間が店に入って無言で突っ立っていては、怖がられるのも当然か。そう思い直した女は、肩にかけていた背嚢から冒険者ギルドの登録証を取り出して、その刻印が見えるように示した。
機械屋の娘はぱっと表情を輝かせた。大して珍しくもないものだろうに、まるで生まれて初めて宝石を見た子供のような反応だ。
「あっ、ぼ、冒険者の……!」
「ああ。ギルドから加盟店の紹介を受けてきた。ここは機械屋で合っているか?」
「はっ、はい! そうです!」
店主は俺より年寄りの爺さんだが──ギルド長の言っていた言葉を思い出す。
「店主は年配の男だと聞いていたが」
「あっ……はい、そうです。ちょっと体を悪くしてて、今はわたしが店に立つことになってて……」
「そうか」
女は特に気にした様子もなくうなづく。店に立っているということは、この娘も同じような作業はできるのだろう。いや、できてもらわなければ困る。
「それで、あの、ご用件は……?」
「これの点検を頼みたい。問題があれば、修理も」
そう言って、女は外套の留め具を外し、その体を晒した。紫がかった髪に、琥珀色の鋭い瞳。革鎧をはじめとした軽装から見える引き締まった体つきと、凛々しく整った顔立ち。それらは熟練の冒険者を思わせるものだったが、顔や背格好だけを見れば、相対している機械屋の娘とそう変わらない年齢のように思える。
だが──口元から伸びる、長い傷痕。すり減って、醜く引きつった皮膚は下るにつれてその面積を広げながら肩当てを排した革鎧の下まで続き、左腕の付け根まで続いている。いや、そこで終わっているのだ。そして、その傷痕の終着点には──本来あるべき腕の代わりに、巨大な金属の腕が在った。少女の胴と同じくらいの太さに、膝まで届く長さ。外側は装甲板で覆われ、指の先端は剣先のように鋭く尖っている。おまけに、手の甲には鋭い鋲が打ち付けてあった。
これではいかに武装した冒険者が行き交うこの街と言えど、隠さずにはいられないだろう。それはただそこに在るだけで、抜身の剣のように人に恐怖と警戒を抱かせるものだった。
これを晒して、驚き、あるいは嫌悪しなかった者はいなかった。あの豪胆なギルド長でさえ、初めて見た時には顔をしかめたほどだ。ほんの一瞬ではあったが。無論、今まで世話になってきた機械屋たちも例外ではなかった。作業する間、露骨に顔を歪める者もいたし、好奇心に卑しく歪めた顔で傷痕の理由を知りたがる者もいた。
だが──
「戦闘用の義腕の点検、修理ですね。わかりま──あっ、か、かしこまりました……!」
機械屋の娘は、眉一つ動かさなかった。この腕を見ても、この醜い傷痕を晒しても。まるでそれが当然であるかのように、少女の注文を繰り返しただけだ。使い慣れていない敬語に苦戦しながら。
これには、少女の方が驚いた。外した外套を畳むことも忘れ、ぱさ、と地面に落ちる。
もしかしたら、彼女にとっては珍しくないものだったのかもしれない。同じようなものをつけた客が、他にもいるのかもしれない。たったそれだけのことだったが──
「──」
「あ、あの……?」
「あっ……ああ、頼む。……今日、迷宮で戦ってきたから、相当、汚れていると思う……」
怪訝そうに──あるいはなにか粗相でもしてしまったのかと心配した様子で機械屋の娘に声をかけられ、義腕の少女ははっとした。
どくん、どくん、と鼓動が激しく高鳴っているのがわかる。迷宮に潜っている時ですら、滅多にないことだ。
彼女は自分の腕を、傷痕を見ても、驚かなかった。ただそれだけのことに驚いて、戸惑って、どうすればいいのか、わからなくなった。
ただ、それだけのことなのに──
「はい。それじゃあ、まず修理が必要な箇所や壊れた部品がないか調べますね。こちらの台に、腕を乗せてください」
「ああ……」
いまだ鼓動はやかましく耳元でがなり立てていたが、少女は言われるがままに作業台の上へ、その異形の腕を乗せた。対する機械屋の様子は打って変わって落ち着いたものだ。もしかしたら、客の応対に慣れていないだけだったのかもしれない。
どうぞ、とどこからか持ってこられた簡素な椅子に腰かける。
「ちょっと、失礼しますね……」
そう一言断ると、機械屋の娘は義腕を検め始めた。今日だけで何体の魔物を屠ってきたのか、その腕は魔物の体液にまみれ、毛や肉片が部品の隙間に挟まっている。近くによれば、それらが放つ異臭にも気がつくことだろう。なんとはなしに娘の様子をうかがっていたが、彼女は真剣な表情のまま、丹念に機械の腕を調べている。
「あの……どこか、違和感を感じるところはありませんか? 関節の動きが鈍いとか、腕が重く感じるとか、変な音がするとか」
「……いや、いつも通りだった」
少女が答えると、機械屋の娘は難しげな表情を浮かべ、考え込むように黙った。
「どこか壊れているのか?」
「あっ、いえ、そういうわけではないんですけど……。装甲板を外して、もう少し詳しく診てみますね」
「ああ」
機械屋の娘は戸棚からところどころがさび付いている金属でできた箱を取り出すと、その蓋を開けた。中には鋏や金槌──に似たなにかの道具が収められている。それが何であって、それで何をするのかは、少女にはわからない。いかに機械の腕の持ち主であっても、それをどうこうするのは機械屋の仕事だ。戦士が刃毀れした剣を研ぎ師に任せるのと同じこと。結果的に元通りになっていれば、それでいい。そういうものだと、思っていた。
取り出した道具を使って器用に装甲板を外すと、普段は自分ですら見ることの少ない可動部が露わになる。本物の腕と同じように曲がる間接に、思いのまま操れる手と指。それらを機械で実現するには、どうやら膨大な数の部品の組み合わせが必要なようで、複雑に絡み合ったその造りは素人である自分が見てもさっぱりわからなかった。
ただ、他人に気味悪がられるのも無理はないと思うだけだ。これは、真っ当な人間が持つべきものではない──そう思うだけだ。
彼女は、どう思っているのだろうか。相変わらず真剣な表情で、丹念にこの腕を調べる彼女は──そう考えている自分に気がついて、義腕の少女は愕然とした。
自分が、他人にどう思われるかを気にするなんて。
「あの……すこし、時間がかかりそうです」
「……と言うと?」
一通り調べ終えたのか、申し訳なさそうな表情で、機械屋は言った。少女は内心の動揺を悟られないよう、すこし間を置いて答える。
「まず、動力管が劣化しているので交換が必要です。それと、装甲板にいくつか歪みが見られるので、これも交換しないとフレームに干渉する恐れが──」
「すまない、そういう話はわからない。どれくらいかかりそうなんだ?」
自分で聞いておいてなんだが、彼女の話す内容はほとんど理解できなかった。
「あっ、ごめんなさい……。えっと、今からなら、朝までにはなんとか……。ですので、一晩預けていただいて、明日の朝以降、受け取りにきてもらえれば……」
「ふむ……」
今度は少女が考え込む番だ。一晩預けるとなると、その間、当然ながら自分は片腕で過ごすことになる。もちろんその間は迷宮には立ち入れないし、戦闘を伴うようなことはほとんどできないだろう。とはいえ、たった一晩であれば問題はない。
それが、ただの武器であったなら。
「……私にとって、この腕は武器であり、商売道具であり、体の一部なんだ。あんたやこの店を信用していないとかそういう話ではないが、預けることはしたくない」
「あ……そう、ですよね……。どうしましょう……」
自分にとって、この腕はただ戦うための道具ではない──そんなことを言えば、まず奇異の目で見るのが普通の人間だ。しかし機械屋の娘は、それを疑問に思う様子すらなく、困ったように眉を八の字に下げただけだった。
また明日、昼間にでも出直す──それが一番無難で手っ取り早い選択肢だ。昼間なら預けずとも、ここで作業が終わるのを待つことができるだろう。
「朝までには、と言ったな。あんた、ここで夜通し作業をするのか?」
「えっ? あ、はい。そうです、けど……」
「ならその間、ここで待っていてもいいか?」
「え……ええっ!?」
予想外の申し出だったのか、機械屋の娘はこれまでで一番大きな声を出して驚いた。なんということはない、明日の昼に出直して待つのも、今からここで待つのも、そう変わりはしないだろう。
「駄目か?」
「い、いえ、その……駄目ってわけじゃ、ないんですけど……。ここ、ベッドもないし、熱いし臭いし、作業中はうるさいし、とても眠れないと思いますよ……?」
「別に、ここに泊まろうってわけじゃない。あんたの作業が終わるまで、待ってるだけだ」
彼女の口ぶりから察するに、途中で仮眠をとる気すらないようだ。であれば、自分が同じように起きて待っていても問題はないだろう。
「わ、わかりました……。あの、本当に、なんのおもてなしもできないですけど……」
「気にしないでくれ。こちらが言い出したことだ」
「……わかりました。それじゃあ、作業を始めますので、痛かったり違和感があったら、言ってくださいね」
「わかった」
そう答えると、彼女は気持ちを切り替えるようにふう、と息を吐いて、"仕事"を始めた。
──本当は、ただ明日出直せばいい話だった。こんな風に、無理を通す必要はなかったのだ。
ただ、なんとなく、彼女のことが気になった。興味がわいた、と言い換えてもいい。自分でもうまく言葉にはできなかったが──例えばこの娘は、どんな風に作業をするのだろう、とか。それが終わった時、どんな表情をするのだろう、とか。そんな、普段の自分ならどうでもいいと思うようなことを、知りたいと思った。
理由だけは、わかる。彼女がこの腕を、傷痕を見てもなんの反応も示さなかったからだろう。それは自分にとって、初めての経験だった。
どうせ職業柄見慣れているからとか、そんな理由に決まっている。それともまさか、たったそれだけのことで、自分を受け容れてくれたとでも思っているのか──?
義腕の少女はかすかに抱きかけていた感情を、自嘲とともに胸の奥へと押し込んだ。それは、こんな異形の腕を抱えた自分を受け容れてくれるのではないかという、一方的な期待だ。今まで何度も裏切られ、あるいは抱くことすら許されなかった卑しい願いだ。
そんなもの、期待する方が間違っている。異常なのは、自分の方なのだから──
***
まず、部品の隙間にこびりついた何かの体液や毛の塊を徹底的にこそぎ落とす。迷宮で戦っていたというから、きっとそこに現れる魔物のものだろう。こういった不純物は、時間が経つにつれてどんどん固まって厄介なものになる──自分にこの仕事を教えてくれた店主の言葉を思い出しながら、機械屋の娘は無心で作業を続けた。
いや、正確には無心ではない。なにも考えずになんて、いられるはずがなかった。点検に集中している顔をすこし上げれば、きっと相手も気がつくだろう。それほど近い距離のまま、朝までここで待つと言い放った目の前の女性のことが、気になって仕方がなかった。
仕事に集中するという意味では、預けてくれた方がよかっただろう。けれど、彼女がここで待つと言い出した時、ほんの少し──大いに戸惑う気持ちに混じって、ほんの少しだけ、嬉しく思った。
どうして? なんて、考えるまでもない。彼女が、自分を見て──この不気味なほど真っ白な髪を見ても、眉一つ動かさなかったからだ。この白い髪が何を意味するか、知らないはずはない。今まで他の機械屋の世話になってきたというのなら、知らないはずがないのだ。さりとて、取り繕っているようにも見えなかった。いつも侮蔑の目で見られ、人の顔色ばかりうかがってきた自分にはわかる。わかってしまう。それが善意に因るものであっても、侮蔑や軽蔑といった後ろ暗い感情を取り繕った表情は。
けれど、彼女からはなにも感じなかった。自分より劣るものに対する侮蔑も、自分とは異なるものに対する不審も、好奇も、なにも。ただの機械屋の店員としてしか、自分を見ていなかったのだ。それがただ、嬉しかった。なんでもない、ただそれだけのことが。
だけど──
部品を一つ一つ、慎重に、確実に検める。傷はついていないか。ついていたとしたら、それは許容できる範囲か。歪みはないか。異物が入り込んではいないか。足りない部品はないか。一つ一つの汚れを丹念に拭い取りながら、確認していく。商人は品物を売る。自分たちは技術を売る。その質に問題があれば、客は離れていく。それは表で真っ当な商いをする商人であろうと、スラム街の機械屋であろうと変わらない。──特に、それが命に関わる冒険者であれば、尚のこと。
期待してはいけない。自分を対等な、ただの人として見てくれるなんてことは──あり得ない、一方的な思い上がりだ。自分は、そういう存在だ。産まれた時から、そうなっていた。だから、余計な考えを持たずに自分はただ、機械屋としての仕事を全うすればいい。
そうわかっているはずなのに、彼女がこうして自分の間近にいて、ただ嫌な顔一つせずそこに居てくれること自体を、嬉しく思ってしまう。今日会ったばかりの、まだ互いの名前すら知らない、ただの店員と客なのに。そんなごく当たり前の扱いをされることが、嬉しかった。
「この仕事、長いのか」
突然話しかけられて、機械屋の娘は飛び上がらんばかりに驚いた。幸いにも手元が狂うことはなかったが、ばくばくと胸を叩くように鼓動が高鳴る。
話しかけてくれた。それも、ただの雑談を、だ。別段仕事にも関係のない、なんでもない話をするために、話しかけてくれた。目の奥が熱くなる。点検のためとはいえ、うつむいていてよかった。ぱちぱちと何度かまばたきして、なんとかそれがこぼれ落ちることだけは防ぐ。
彼女にとっては、ただの退屈しのぎの雑談だったのかもしれない。それでも──
「えっと……店に立つようになったのは、つい最近なんです。実は、冒険者のお客さんも初めてで」
自分でも意外なほど、すんなりと答えることができた。あとは、この熱くなった頬がばれていなければいいけど。
「ああ、それで──」
彼女はなにか納得した様子だった。きっと、登録証を見せてくれた時のことを思い返していたのだろう。それであんなにはしゃいでいたのか、と。治まりかけていた顔の熱さが、またぶり返す。
冒険者の客がこの店を訪れること自体は、初めてではなかった。店主がまだ元気に店に立っていた頃は、その助手として仕事を手伝っていたこともあったのだ。ただ、ギルド加盟店として、そして自分一人で応対するのは初めてのことだった。なにか粗相があってはいけないと、気負いがあったことは事実だ。
「あの、お客さんは──」
「シオン」
「えっ?」
「シオン。私の名前」
名前。彼女は、自ら名前を教えてくれた。それはただ、こうして会話を交わす上で名前も知らないのは不便だろうから。ただそれだけの理由だ。
でも──
「シオン……さん」
「さん、はいらない。……あんたは?」
「あ……」
自分の名前を聞かれているのだと理解するまで、すこし時間がかかった。
「ルビア……。ルビア、です。わたしの……名前」
初めてだった。こうしてなんの理由もなく、ただ──まるでこれから友人になろうかとするように、名前を教え合うのは。
「ルビア。……ルビア」
その名前自体も、久しく呼ばれていなかった気がする。自分が関わる人は皆、機械屋と呼ぶからだ。あるいはもう一つの──蔑称で。
だから、こんな風に何度も繰り返し名前を口にされると、困ってしまう。嬉しさと恥ずかしさが混ぜこぜになって、手を止めてしまう。こんなところを店主に見られたら、盛大に雷を落とされているところだ。
「は……っ、はい」
「あ……いや、すまない。聞いておいてなんだが、人の名前を覚えるのはあまり得意じゃないんだ。だから、確認しただけ。それで……なんの話だったか」
冒険者の女性は──シオンは、照れたように言い訳をした。初めて年相応の少女の顔を見た気がして、自然と笑みが零れそうになる。だめだ、仕事に集中しなければ。自分は片手間に仕事を片付けてしまえるような、熟練の技術者ではない。
それに──彼女の、シオンの腕を、自分のできる精一杯の技術を注ぎ込んで整備したい。そう、素直に思えた。
ただ、やっぱり普通に話をするという誘惑には、抗えなくて。
「……シオン、は……今のお仕事、長いんですか?」
緊張しながら、自分も名前を呼ぶ。彼女はどう思っているだろう。"自分なんかに名前を呼ばれることに"。
「この街にきたのは……二年くらい前だったか。冒険者になったのは前にいた街だったから……五、六年くらいになるな」
「ベテラン、なんですね」
「そんなことはないよ。私程度の奴はこの街には掃いて捨てるほどいるし……私は毎日、一人で迷宮の浅層をうろついて日銭を稼いでいるだけだ」
「一人で……?」
「ああ。誰かと組むのは、その……あまり性に合わないんだ」
恐ろしい魔物が蠢くこの街の地下迷宮は、通常なら何人かで徒党を組んで挑むものだという。それを一人で探索し、例え日銭であってもお金を稼いで生きて帰ってこられるということは、彼女は相当の手練れなのかもしれない。
それでこんなに汚れているのだろうか。部品の隙間に入り込んだ毛や凝固した体液を取り除き、こびりついた汚れを毛先の硬いブラシでごしごしとこすって落とす。これまで冒険者の客に直接整備を行っていたのは店主で、自分はその補助をしてきただけだから気づかなかったが、冒険者とは皆このようなものなのかもしれない。
それにしても──
「あの……最後に点検をされたのって、いつ頃ですか?」
そう聞きたくなるほど、この義腕は酷い有様だった。魔物との戦いというものがどういうものなのか、ルビアは知らない。だが、目立った損傷はそれほどないにも関わらず、この汚れ放題の惨状と、それをずっと放置していたとしか思えない経年劣化の痕。とっくの昔に耐用年数を超えているのが見ただけでもわかるほど劣化した動力管など、見るだけでゾっとする。こんなものでよく戦闘など──
「五日ほど前だ」
「……え?」
ルビアは耳を疑った。五日? たった五日でこんな有様になるわけがない。魔物とのあれこれは別として、動力管の劣化や装甲板の歪み方は数日でどうこうなるようなものではない。いや、そんなことがあるようでは戦闘用として実用に耐えられないだろう。
「迷宮で戦う度に、点検を受けていた。潜るのは二、三日に一度だから、その度に整備はされていた。今回は……前に世話になっていた機械屋がなくなったから、すこし間が空いたが」
「それって……」
シオンの答えを聞いて、得心がいった。彼女が世話になっていたのは、機械屋とは名ばかりの、ただの詐欺師だ。適当に見るフリをして、問題ないと言ったり、あるいは必要もない修理や加工をして、金だけをだまし取る。義手や義足を持っている当の本人ですら、機械に関する専門知識は持ってないことがほとんどだ。丁度シオンに今回の点検内容を説明した時、彼女はほとんど理解できないと自分から言ったように。
だから、簡単にだますことができる。それが原因で命を落とすようなことになってもお構いなしに──いや、むしろそうなってくれた方がありがたかったろう。いつかそれが露呈して、報復を受ける心配をせずに済むのだから。
シオンはそのことに気づいていない。だから、なにも思わずにここへきたのだ。彼女にとっては、いつも通りの点検を受けるために。整備用の道具を持つ手に、ぎゅっと力が入る。
許せない。ルビア自身、この機械屋という仕事に別段こだわりや誇りを持っているわけではなかった。むしろ疎んでいる節すらあったのだ。それ以外に選択肢がなかったのだから。
けれど──思い上がりかもしれないけれど、シオンが騙されていたことそのものに、ルビアは怒りを感じていた。こんな自分を普通の人として扱ってくれるような人を、騙すなんて。
「……この管、見えますか? これは動力管と言って、あなたの血液を体から注入し、義腕の隅々まで行き渡らせるためのものです。そうして流された血液を媒介にあなたの魔力を通して、この腕は動きます。つまり、義腕にとっては必要不可欠なものです。でも」
ルビアが示した動力管は、白くひび割れかけていた。注入された血液の痕なのだろう、赤黒く変色したものが泥のようにあちこちで固まって、その流れを邪魔しているように見える。
「これは、明らかに耐用年数を超えています。動力管は、最低でも年に一度は交換しないといけないんです。義腕の中枢にあるものだから、直接傷ついたり切断されたりすることはほとんどないけど……絶えず血液を流すせいで、こうやって固まった血液で詰まったり、管そのものが経年劣化を起こすんです。それに装甲板も、頑丈に作られてはいるけど毎日色んな衝撃を受け続ければ、すこしずつ歪んでいきます。それが酷くなれば、フレーム……えっと、中の腕の部分に干渉、つまりこすれたり引っかかったりして動かせなくなったりするんです。わたしなら──この店の店主なら、もっと以前に交換を勧めている状態です」
「……つまり、どういうことだ?」
「騙されていたんです……。あなたが今まで点検を受けていたのは、機械屋じゃありません。なんの技術も持たず、お金だけを取る、詐欺師です」
「……ほう」
シオンの声が、一段低くなる。びく、と肩を震わせて、ルビアは後悔した。言うべきではなかったのかもしれない。怒らせてしまったのかもしれない。せっかく、話をしていたのに──
「でも、前の店もギルド加盟店だった」
「……機械屋の技術って、わかる人はほとんどいないんです。たぶん、ギルド側もそれが本物なのかどうか、判断できなかったんだと思います。どうやって認定を受けたのかは、わからないですけど……」
うちの場合は、店主がギルド長と古い知り合いだと言っていたな──と、ルビアは思い返す。だから、技術自体は信頼できると判断されたんだろう。加盟店の誘い自体は、ずっと断り続けていたらしいけれど。
「なるほどな。……それで、そう言ってくれるあんたは、その……動力管? と、装甲板の交換、だったか。それが、できるんだな?」
「え……は、はい。大丈夫……です」
「なら、任せるよ。どちらにしろ、私にはそれしかできないしな」
事もなげにそう言って、シオンはちら、とルビアの表情をうかがうように見つめてきた。その視線にどんな意味が込められているのか、ルビアにはわからない。
でも、今すべきことだけはわかる。彼女が──シオンが、自分に何を求めているのか、それだけは。
「……はい! 任せて、ください……!」
ルビアは精一杯の誠意を込めて、この仕事を請け負った。
***
何時間経っただろうか。機械屋の店内には窓こそあるものの、そもそもスラム街に陽の光が差し込む場所などほとんどない。窓が映す景色は、隣に立つ薄汚れた建物の壁だけだ。
「……終わり、ました……」
がちゃん、と手にしていた道具を作業台の上に置いて、疲れのにじんだ声でルビアは言った。あれから黙々と作業を続けるルビアに、シオンは口を挟むことはなかった。いや、挟めなかったというべきか。やはり機械屋の技術など、こうして間近に見ていても何をしているのかさっぱりわからなかったのだ。
「もう、動かしても大丈夫なのか?」
「はい……。どこか違和感がないか、試してみてください」
言われるがまま、作業台の上からシオンは己が左腕を持ち上げる。あれだけ魔物の体液やら肉片がこびりついていた鈍色の腕は、汚れを綺麗に取り除かれ、ランプの光を反射するほど磨かれていた。
「見違えるくらい綺麗になったな。これだけでも、来た甲斐が──、?」
嬉しそうに目を細めて義腕を眺めていたシオンが、ふと言葉を止めた。
「あ、あの、なにかありましたか……?」
心配そうにルビアが聞く。自分の持てる全ての技術を惜しみなく使ったつもりだったが、どこか異常があったのだろうか、と。
しかし──
「軽い……」
「え?」
シオンは義腕を高々と掲げると、ルビアを振り返った。その表情は、まるで新しい玩具を買ってもらった子供のように輝いている。
「腕が軽いんだ! いや、軽いだけじゃない。肘や手の関節も、指の一本一本すらも動かしやすい! 力が端々まで漲るというか、まるで腕に羽根が生えたみたいだ……!」
「あ、えっと……たぶん、動力管を取り換えたことで魔力の伝達効率が上がったのと、各部の関節に詰まっていた異物や汚れを全部取り除いたせいかと……」
「そうか、いや正直よくわからないが、凄いな!」
巨大な義腕を曲げたり伸ばしたり、手を閉じたり開いたり。興奮した面持ちで、凄い、凄い、と繰り返している彼女の姿は、最初店に入ってきた時からは想像もできないものだった。
でも、喜んでくれている。わたしがしたことで、彼女が、喜んでくれている──そう思うと、自分まで嬉しくなってしまう。
「そうだ、お代は?」
「あっ……ええと、今回は部品の洗浄のほか、動力管と装甲板の交換を行ったので、すこし高くなってしまうんですが……」
「ああ、これだけの仕事をしてくれたんだ。いくらだろうと、文句なんてない。手持ちで足りなければ、宿に預けている分から取ってくるよ。それで、いくらになるんだ?」
「えっと……部品代を含めて、500gpに……なります」
「……なんだと?」
500gpと言えば、表通りの武器屋で革製の装備一式と剣を買ってもまだお釣りがくる額だ。しかし、機械屋が扱う部品は値が張るものも多く、交換となるとその部品代も請求しなければならない。
怪訝そうな声でぎろりと睨まれ、ルビアは震えあがった。端正な顔立ちも、そこに不機嫌という要素が加われば恐ろしいものになる。
「ご、ごめんなさい……あの、部品代が……」
「5000gpの間違いじゃないのか?」
「え……えっ?」
想定外の答えに、ルビアの思考が一瞬停止する。5000gp……? なんの話だろう。そんな大金、見たこともない。
目が点になっているルビアの反応に、どうやら自分が変なことを言ってしまったらしいと気づいたシオンは、すこし不安げに言い訳のように言う。
「今まで世話になった機械屋は、点検だけで1000gpはとっていたから……」
「ぼ……ぼったくりですっ! うちは点検と洗浄でも50gpなんですよ!?」
「50……」
呆然と、シオンがつぶやく。ようやく今まで自分が騙されていたことに実感がわいてきたらしい。それにしても、機械屋を騙るばかりか値段までぼったくるなんて。憤りのあまり叫ぶように言ったルビアが荒い息を吐いていると、なんとか調子を取り戻したらしいシオンが、背嚢の中から重たげな革袋を取り出した。揺れる度にじゃらりと音がするそれの中身は、問うまでもない。
「本当に、500gpでいいのか?」
「……はい。部品を交換したせいで、これでも高いくらいなんですよ」
「そうか。これだけの仕事をしてもらって、すこし心苦しいが……。あ、チップならどうだ?」
「い、いただけません! そんなことしたら、わたしが怒られてしまいます……!」
この店の店主は、偏屈ではあるが筋の通った人物だった。曲がったことが大嫌いで、この値段設定も店を切り盛りするのに必要な値段だからと、どんなに交渉されても値切りに応じることはなかったし、また上げることもなかった。こっそりチップなど受け取ったら──想像するだに恐ろしい。
「そ、そうか。それは困るな……。じゃあ、とりあえず、500gpを」
シオンは袋の中からいくつかの貨幣と宝石を取り出して、ルビアに手渡す。もちろん右手で、だ。初めて触れたシオンの手の感触にすこし照れながら、額を確かめる。
「……はい、500gp、確かに。ありがとうございま──」
「ルビア」
代金を受け取って、店員らしく礼を言おうとしたルビアを、シオンが遮った。
「その……私は口がうまくないから、ちゃんと伝えられるかわからないが、他の手段も今は思いつかないから、言わせてもらう」
真剣な表情で、真正面から、シオンは機械屋の娘を見つめる。決して怒っているわけではない。ただその真摯な視線に返し得るものをルビアは持っておらず、ただ、その琥珀色の瞳に射貫かれたように体を硬直させて、黙って続きを待つことしかできない。
「この店に来てよかった。君に腕を診てもらって、よかった。こんな気分は、生まれてこの方味わったことがない。まるで生まれ変わったみたいだ。ありがとう、ルビア。本当に、ここに来てよかった」
「……わ、わたし……。わたし……っ」
ルビアの瞳から、大粒の涙が溢れだす。ぎょっとするシオンに構わず、ルビアは嗚咽を漏らして泣き始めた。
「ご、ごめん……! 私、なにか嫌なことを言って──」
「……違う、違うんです……。わ、わたし、今まで誰かに、そんな風に言われたこと、なくて……っ。誰にも、感謝なんてされたことなくて……。ありがとう、なんて……っ!」
「……」
彼女の、ルビアの境遇は、おおよそ察しがついていた。こんな年端もいかない娘が機械屋で働いていること。この真っ白な髪の意味。機械の腕をぶら下げて生きてきた自分には、彼女が今までどんな扱いを受けてきたのか、想像できる。
だが、それはあくまで想像だ。自分が実際に体験したわけではない。彼女と自分は似ているが、同じではない。だから──これ以上はどんな言葉をかけても、薄っぺらなものにしかならないと思った。
哀れみは侮辱だ。表面上の共感は自己満足だ。それは自分が、よく知っていることだった。
泣きじゃくる年頃の娘の慰め方など、シオンは知らない。だからルビアが自分で泣き止むまで、シオンはただ傍でじっと待っていた。
やがて泣き声が嗚咽に変わって、それも小さくなってきた頃、ようやくルビアは顔を上げた。赤くなった目はまだ涙に濡れている。
「ご、ごめんなさい。わたし……」
「いや……こちらこそ、急に妙なことを言って悪かった。……もう、大丈夫か?」
「……はい。ごめん、なさい」
すぐに謝ってしまうのは、クセのようなものなのだろう。それを咎める気は、シオンにはなかった。
だから、代わりに言うべきことがある。それは冒険者としても、シオンという個人としても、言っておくべきことだ。
「また、寄らせてもらう。いや、これから世話になる、と言えばいいか。ルビア……私はあなたを信頼している。たった一晩、たった一度だが、こうして腕を診てもらって、そう思った。これから、よろしく頼むよ」
「は……っ、はい! こちらこそ、よろしくお願いします!」
「ああ、あと、できれば次に来る時は、その……敬語とかは、なしにしてくれると助かる。堅苦しいのは、苦手なんだ」
照れたように、シオンが言う。それはきっと本当のことだろうが、同時に明らかに使い慣れない言葉遣いを無理して使っているルビアへの気遣いでもあった。それがわからないほど、鈍いわけもない。ルビアは涙を拭うと、多少ぎこちないものの、笑顔を浮かべて答えた。
「わかりま……じゃなくて、わかった。どんなに汚しても、どんなに壊しても、きっと元通りに治してみせるから。いつでも……待ってるね」
「ああ。壊さないようにはするけど、な」
「あ、そっか……」
冒険者として、特に一人で行動する彼女にとって、義腕が壊れるなどという事態は当然避けなければならないことだ。自分なりの意思表明というか、決意を表したつもりだったが、結果的に失礼な物言いになってしまったことに気づいて、二人は小さく笑い合った。
「それじゃあ、また」
「はい。あの……冒険、頑張って、ね」
店を出ようとするシオンの背中に、控えめに声をかける。シオンは半身だけ振り向くと──嬉しそうに、笑った。
「……ありがとう」
がこん、と大仰な音を立てて、分厚い金属の扉が閉まる。同時に、ルビアはどっと押し寄せるような疲労と眠気を感じた。昨晩から一睡もせずに夜通し働いていたのだ。無理もない。店主に事情を説明して、今日は開店を昼からか、休みにしてもらおう。徹夜はするな、睡眠不足はいい仕事の敵だ──口癖のように言っていた彼には、雷を落とされるだろうけど。
作業台の上を片付けて、ルビアはシオンが出ていった扉を見やる。次はいつ来るのだろう。今まで誰かの来訪を心待ちにしたことなど、一度もなかった。二度と会いたくないと思ったことは、何度もあるけれど。
次に会った時は、どんな話をしよう。迷宮のこととか、聞いてもいいのかな──そんな、今まで考えたこともなかったことを想像しながら、ルビアは一度店を閉める。
なんのこだわりも誇りもなく、ただ生きていくためだけに必要だった、機械屋という仕事。だが、それがもたらしてくれたこの出会いが、ルビアには嬉しかった。
彼女も──シオンも、そう思ってくれていると、いいな。
店じまいの支度を終えて、最後にランプの灯りを消すと、真っ暗になった店内から、ルビアは出ていった。