初陣
昇り始めた朝日の輝きを受けて、白銀色の刀身が光る。早朝の清涼な空気を胸いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐き出すと、昨日買ったばかりの革鎧を着込んだアリスは訓練場で一人、剣を構えた。
ぶん、と空気を切り裂く音を立てて、剣を振る。今度は審査の時のように、地面を掘り返すような真似はしない。柄の握った感触を確かめて、駆け出しの戦士はかすかに口元を緩めた。革鎧同様、昨日購入したばかりの品だが、それまで使っていたものとそう変わらない感覚で使えそうだ。革鎧の重さも、さほど変わらない。もちろん、剣のわずかな違いも感じとれない自分が未熟なだけなのかもしれない。それでも、この二つを見立ててくれた武器屋の娘を、仲間たちは信頼しているようだった。ならば自分も、それに倣うまでだ。
「やあ、張り切ってるね」
通路の方から、若い女性の声がした。アリスは剣を下ろして振り向くと、掃除用具を抱えた教官──この訓練所の責任者である女性が立っている。
「教官。すみません、無理を言って開けてもらって」
店に開店時間と閉店時間があるように、この訓練所も一日中解放されているわけではない。朝早く、まだ訓練所の門が開けられる前に訪れたアリスをすこし驚いた表情で出迎えた教官は、事情を聞くと快く訓練場の使用を許可してくれた。
申し訳なさそうに言うアリスに、教官は明るく笑い飛ばす。
「なんのなんの。ちょうど朝の掃除を始めるところだったしね。それにしても、今日、初めて迷宮に行くんでしょ?」
「はい。だからその前に、鎧と剣の具合だけ確かめておきたくて。昨日新調したばかりだから」
「うんうん、いいことだ。準備はしすぎて困ることはないからね。その様子だと、特に問題はなかったみたいだね」
神経質にすら思えるアリスの真面目な行動をからかうでもなく、教官は感心したようにうなづいた。
「はい。今まで使ってたものとほとんど変わらない感じです」
「それはなにより。新しい剣や鎧は心が躍るものだけど、戦士にとって一番いいのは、使い慣れた得物だからね。それに、タックの娘の見立てならそうそう心配することもないだろうしね」
「知り合いなんですか?」
長剣を鞘に収め、盾を背負い直しながら、アリスは聞いた。今回はあくまで武具の具合を確かめるだけだ。迷宮に行く前に、疲れるまで剣を振っていては意味がない。
バケツやら雑巾代わりの汚れた布やら、掃除用具を一度床に置くと、教官は当時を思い出すように目を細めた。
「まあ、それなりにね。私が世話になってた頃は、店主の親父がまだ店番もやっててさ。これがまた顔が怖い上に愛想も悪くって。売り物の質は確かだし値段も悪くないのに、駆け出しの冒険者なんかは怖がって寄りつかなくってさ。娘が店番やるようになってからなんだよ、繁盛し始めたの」
「へえ……」
相槌を打ちながら、アリスは邪魔にならないよう地面に下ろしていた背嚢を担ぐと、通路の方へと向かう。昨日街に着いたばかりの自分にとって、この街の過去は誰かからの伝聞でしか知ることのできないものだ。時間があればいつまでも聞いていたかったが、それは今ではない。
もちろんそれも心得ている教官は表情を引き締めると、アリスを──駆け出しの後輩を、正面から見据えた。
「行くんだね?」
「はい」
「頑張っておいで。死なない程度に、ね」
ぽん、と肩を叩いて激励を送ると、教官は自らの業務へ戻っていった。
彼女にとって、いや、この街にとって、自分は有象無象の中の一人に過ぎない。それが仕事である商売人でもない限り、特別に厚く遇するような存在ではないのだ。それでもこうして気にかけ、声をかけてくれるのは、彼女の人柄ゆえなのだろう。
機嫌よく掃除を始めた先達の背に一礼して、アリスはその場を後にした。
***
「緊張してる?」
迷宮へと向かう道すがら、エリィが声をかけてきた。どうやら表情が硬くなっていたらしく、覗き込むように見てくる彼女に、アリスは苦笑しながら首を振る。
「さすがにね」
「そう。でも、そうやって気を張るのは悪いことばかりじゃないわ。迷宮に入ったら、気を緩める暇なんてないからね。緊張は体の動きを鈍くするけど、ある程度はそれと付き合っていくことも必要なのよ」
こればかりは慣れるしかないけどね、とエリィは微笑む。彼女自身、自分のことを駆け出しに毛が生えたようなものだと言っていたが、これが経験者との差というものだろうか。あるいは戦士として育てられたことによるものか──
「ああ、エリィが的確で含蓄のあるアドバイスをしている。これは午後から雨が降るんじゃないかな」
二人の一歩後ろを気だるげに歩くレティシアが、眠そうな声で茶々を入れてきた。昨日の夜、全ての準備を終えたあとパーティ結成の記念と初めての冒険の成功を祈って、三人はささやかながら乾杯をした。それも次の日──つまり今日のことを考えて、早々に切り上げたはずだったが、それでもこの魔術師はまるでついさっきまで寝ていたような顔をしている。
聞けば、朝はいつもこんな調子だと云う。迷宮に着く頃には目も覚めてるでしょ──とは、彼女をよく知る幼馴染の言だ。
「うるさいわね! あんたこそ迷宮に着いてもそんな調子だったら、その目玉に傷薬を塗りたくるわよ」
「あはは」
パーティメンバーのやり取りに、リーダーは小さく笑う。二人と出会って、一日とすこし──この二人の少女のことが、すこしずつではあるがわかってきた。優しくて、情が深くて面倒見が良くて、でもすこし頭より体が先に動きがちなエリィと、沈着冷静で豊富な知識を持ち、それを披露するのが大好きで、か弱く繊細な少女の一面を持つレティシア。
だが、それはあくまで街で暮らしている時の話だ。ひとたび迷宮へと立ち入れば、二人は気の良い友人ではなく、背中を預ける僧侶と魔術師になる。そして──自分はパーティを率いる、リーダーになる。二人を守る、戦士になる。そう、ならなければならない。
そんな想いが必要以上の重荷になって、表情に現れていたのかもしれない。返事の代わりに欠伸を返したレティシアに、エリィが文句を言っている。そんな二人のやり取りが圧し掛かっていた重圧を取り払ってくれたように、アリスはすこし晴れた表情で顔を上げた。
「まったく……ほら、見えてきたわよ」
そう言ってエリィが指差した先には、街中にはあまり似つかわしくない光景が広がっていた。衛兵の詰所らしき掘っ立て小屋と、すぐ近くには番をするように衛兵が並び立っている洞穴がある。落盤などで埋まってしまわないよう、周辺を建材で補強されてはいるものの、恐らくはこれが地下迷宮への入り口だろう。門らしきものが見当たらないのは、それだけ人の出入りが激しいためだろうか。他にも数人の薬師と僧侶らしき者たちが慌ただしく働いている、施療所らしきものもある。そこまでは、だいたい想像通りだった。冒険者でもないものが立ち入らないように、あるいは迷宮内の魔物が迷い出てこないように、その出入り口を衛兵が常に見張っているのは当然のことと言える。迷宮内の戦闘で傷つき、とても自力では教会までたどり着けないであろう冒険者のために、臨時の施療所があるのもわかる。だが──
「これは……」
「最初は驚くよね」
言葉を失うアリスに同情するように、エリィが言った。
迷宮の入り口の回りには、とにかく人が多かった。冒険者が多いのは、当然のことだ。迷宮の入り口前で待ち合わせをして、仲間を待っている者もいるだろう。あるいは探索前に持ち物や作戦の最終確認をするパーティもいるだろう。だがそれ以上に多いのは、物売りだった。それも簡単な日よけだけを作って露店のようにしている者もいれば、地面に敷いた布の上に商品と値札を並べただけの、商人とも呼べないような者もいる。中には有料で癒やしの奇跡を売っている僧侶までいた。無論、寄進という名目で、だが。
「人が集まれば、需要が生じる。需要があれば、それを供給して金銭を得ようと考える者が現れるのは当然のことさ。最初は暇つぶしの軽食や飲み物あたりだったんだろうけど……売られている商品を、よく見てみて」
ようやく目が覚めたのか、いつもの調子で言うレティシアに言われるまま、アリスは露店の前を通りながら並べられた商品を眺めた。
傷薬、水薬、毒消しの薬に携帯食料、飲み水──どれも冒険者向けの品物ばかりだが、同時に道具屋で見たものばかりでもあった。値段だけが少々割高で、わざわざここで買う必要があるようには思えない。
「事前にきっちりと準備をしていれば、ここで世話になることはないさ。でも、誰だって毎回完璧に、忘れ物の一つもなく準備を整えられるわけじゃない。迷宮の探索を何度も繰り返すうちに、やがてそれが日常になってしまうと──消耗品の補充なんかは、案外怠りがちになる。例えばアリス、キミ、毒消しの薬は買わなかっただろう?」
「あ……」
言われてみれば、昨日道具屋で購入した薬品は傷薬と水薬だけだ。経験者である二人に言われるがままに準備を整えただけなのだが、もしも迷宮でなんらかの毒を持った魔物と遭遇した場合、それは命取りになりかねない。
青ざめるアリスを安心させるように、レティシアは寄りかかるようにくっついて、ささやく。
「大丈夫、ボクとエリィが持っているよ。それに、地下一階では今のところ毒を持った魔物が出現するという話は聞かないからね。実際、ボクたちも遭ったことがないし。まあそういう風に、買い忘れというやつは往々にして起こり得るものなんだ。それが今から迷宮へ行こうという時になって発覚したら、よほどの守銭奴でもない限りはここで買ってしまうだろうね」
「なるほど……」
「ボクとしては、あの僧侶たちの方が気になるところだけどね。扱う癒しはごく低位のもののようだけど、エリィ、あれって"アリ"なのかい?」
宿なりキャンプなりで一晩ぐっすりと眠れば、消耗した魔力を回復することはできる。その日に蓄積した疲労も解消されることだろう。だが、肉体に負った傷はそうはいかない。刃物で切られた傷は一晩寝たからといって塞がったりしないし、折れた骨も治らない。それらを治癒するには、適切な治療と長い時間が必要だ。そしてそんな時間をかけていればたちまち食い詰めてしまう冒険者は、薬か癒しの奇跡に頼ることになる。
彼らが行っていることは周囲の物売りたちと同じ、需要と供給に沿ったものだ。だが、寄進という名目で金銭を受け取り、引き換えに癒しの奇跡を行使する──それは言うなれば、彼ら僧侶にとって神聖なものであるとされる神の奇跡を商品として切り売りしているようなものなのだ。不敬な行いとして神罰が下るかどうかはともかくとして、それは一見、敬虔な僧侶がすべきことではないように思えるが──
「別に、やってるコト自体は問題ないわ。寄進を受けて、傷を癒やす。それ自体は教会でも行われていることだし、傷ついた人々を神の奇跡によって救うことを是とする神は多いもの。もちろん信仰する神によっては違うこともあるでしょうけどね」
本当は受け取った寄進の何割かは教会に納める決まりなんだけど──と、眉をひそめながらエリィは言った。つまり、それを律儀に守っているものは少ないということだろう。とはいえ、彼らにも生活がある。それにこの行為で救われている者がいることも確かだ。表立って非難できる者は、そういないだろう。自らの生きる糧まで神に捧げるような者は、本物の狂信者だ。そして、信徒にそのようなことを求める存在は大抵の場合、邪神と呼ばれることになる。
彼らを非難するつもりは毛頭ないが、見ていて気持ちの良いものでもないのだろう、エリィは顔を背け、迷宮の入り口へと向けた。そんな話を振ってしまったことを後悔したのか、レティシアは小さくかぶりを振った。
「まあ、どれもこれも、今のボクたちには無縁だね。怪我もしていないし、準備も怠りはない。ただ、これから先もずっと無縁でいられるかどうかはわからないからね。そういうものだと思って、覚えておくといい」
「わかった。……じゃあ、行こうか」
パーティを率いるリーダーの言葉に、仲間たちは表情を引き締めてうなづいた。エリィとレティシアは迷宮へ何度も立ち入っているが、この三人のパーティとしては、間違いなくこれが初めてだ。
「登録証、入る時にチェックされるから。すぐ見えるところに出しておいてね」
「うん」
エリィの最後の助言を聞いて、アリスが先頭を歩き始める。今までは二人と並ぶか、あるいは先導される立場だったから、すこし面映ゆい。自分は今パーティを率いるリーダーとして、きちんと歩けているだろうか──
***
衛兵に登録証を示し、地下へと続く階段を降り──最初からそうだったのか、あとから取りつけられたのかはわからない──地面が頭の上に来るほどの距離を下ると、辺りの様子は一変した。
横長の石が無数に積み重ねて作られた石壁。そこにあるのは、それだけだった。壁も、天井も、全てが同じ材質で作られているように見える。無数の継ぎ目は模様のように整然と並んでいるはずなのに、薄暗闇のせいかまるでなにかがのたくっているかのようだ。辺りはぼんやりと薄暗く、見通せるのはせいぜい十歩先くらいだろうか。閉塞感で息が詰まりそうだった。
──薄暗い? 地上を燦々と照らしていた陽の光は当然届くはずもなく、自分たちは松明やランプの類も持っていないというのに。
どうして真っ暗ではないのか?
「この、明かりは、なに……?」
「へえ……」
気味が悪そうに言ったアリスに、感心したように声をあげたのはレティシアだ。また長話を、と渋い顔をするエリィを宥めるように手を振って、レティシアは静かに語る。
「アリス。キミは良いところに気がつくね。それとも観察眼が優れている、と言うべきかな? 不思議だろう? ここには見ての通り、松明も蝋燭もない。もちろん、ボクもエリィも明かりを灯す類の魔術や奇跡は使っていない。だというのに、こうして互いの表情すら区別できる程度の光が、一体どうやってもたらされているのか?」
「壁が光ってるのよ。ぼんやりとだけどね」
素っ気なくエリィがそう言うと、恐らくは一番言いたかったのだろう答えの部分を取られてしまったレティシアは、まるで取っておいた好物を食べられてしまった子供のように頬を膨らませた。博識な魔術師の子供っぽい仕草に笑みを誘われながら、アリスは機嫌をうかがうように聞く。
「壁が光ってるって?」
「……知らない。エリィが説明すればいいじゃないか」
そう言って、レティシアはそっぽを向いてしまう。魔物蠢く地下迷宮にはてんで似合わないやり取りだ。緊張感が欠けている、と言えばその通り。しかしパーティのリーダーは、今のところそんな注意をする気にはなれなかった。
観念したようにエリィは肩をすくめると、両手を軽く上げた。
「はいはい、あたしが悪かったって。もう口は挟まないから、教えてあげて。その代わり、あんまり長くしないでよ。話をしに来たわけじゃないんだからね」
「……わかってるよ」
まるで──というか拗ねた子供そのままな仕草で口を尖らせながら、気を取り直したようにレティシアは言った。
「エリィが言った通り、この壁そのものが微量の光を発しているんだ。床や天井もね。それがこの建材そのものの特製なのか、あるいはなにかしらの魔術でもかけられているのか。原理は今以て不明のまま。なにせ調べようにも、見た目はただの光る石壁だし、削り取って持ち帰ろうにも、どんな名剣や魔術をぶつけたって傷一つつきやしないからね」
そうでなければ魔物との戦闘で、この迷宮はとっくの昔に崩壊しているさ──と、レティシアは言う。確かに、見える範囲に限ってではあるが、ここいらの石壁は古ぼけた年季は感じさせても、戦いの爪痕らしきものはなにも見当たらない。
「その割には、薄暗い程度なんだね。どうせならもっと明るくしてくれればいいのに」
「この明るさが限界という可能性もあるけれど……おそらくは、意図的にこうしているんだろうね。この迷宮を作った誰かが、さ。見ての通り、この迷宮は明らかに人為的に作られたものだ。であれば、その目的があるはず。例えば誰にも取られたくない宝物を奥深くに隠している、とかね」
「それなら真っ暗の方が良くない? だって、入ってきてほしくないわけだもんね。わざわざ明るくするなんて、まるで進んでほしいみたい」
古い遺跡やこうした地下迷宮には、往々にして罠が存在する。それは大抵の場合、侵入者を排除するためのものだ。この明かりもその一環であるというのなら、そもそもこの迷宮自体が外部からの侵入を許容していることになってしまう。
こういった類の話が好きなのか、すっかり機嫌を直した魔術師は嬉しそうに笑った。
「アリス。キミとはボクが思っていた以上に良好な関係を築けそうだよ。でも、話はここまでにしよう。そろそろ進まないと、敬虔な僧侶が地の底から神への祈りを捧げ始めかねないからね」
「あら。その地の底とやらで講義を始めた魔術師に言われたくないわね」
「ごめんごめん。それじゃあ、先へ進もう。道順と作戦は昨日酒場で打ち合わせた通り、でいいかな?」
二人の応酬に割って入るように、アリスは言った。昨日、酒場でささやかな祝杯をあげていた時に話していたのだ。
まずは今日行くべき道順。まさか初日から階層全てを歩いて回るわけにはいかない。数回に分けて、何度も探索と撤退を繰り返しながら少しずつその探索範囲を広げていくのがセオリーなのだと、思慮深い魔術師はワインを片手に滔々と語っていた。三人という少人数で行動するうちは特に慎重でなければならない、とも。
次に、陣形。と言っても三人でできることなど限られているから、戦士であるアリスと、僧侶ではあるものの、心得のあるエリィが前に出て並び、二人の後ろにレティシアがつく、というだけだ。迷宮の通路の幅はかなり広く、丁度前衛三人がそれぞれに武器を振り回して戦えるほどの余裕がある。迷宮に挑むパーティは通常、前衛三人、後衛三人の六人組だとレティシアは言っていたが、これはその理由の一つなのかもしれない。
ただ、今は前衛が二人に後衛が一人。その分通路の幅は余ることになる。前に立つ二人が敵の突破を許せば、か弱い魔術師へ凶刃が迫ることになる。それだけはなんとしても阻止しなくてはならない。逆に言えば、戦闘中に気をつけるべき点はそれくらいのものだ。敵の数や状況に応じていくつかの作戦──らしきもの──を立ててはみたものの、現状、たった三人で講じられる策など知れている。戦闘に関しては、結局はシンプルに考えた方が良い、との結論に至った。
つまり──殺されないように、殺すだけだ。
「じゃあ、進むよ」
エリィと並んだアリスはそう宣言すると、地下迷宮探索への第一歩を踏み出した。
***
こつ、こつ、こつ。三人分の履物が、石床を叩く音だけが響く。息苦しい。物理的になにかに締め上げられているわけでも、空気が薄いわけでもない。きっと、歩いても歩いても変わらない光景と周囲を隙間なく囲まれた閉塞感によるものだろう。これが方向や距離の感覚を狂わせるのだ、と酒場でレティシアが言っていたのを思い出す。
それにしても、地下に広がる迷宮というからてっきりもっと不潔でじめじめした場所だとばかり思っていた。だが実際に入ってみると、足をすべらせるような苔が生えているわけでもなければ、小さな羽虫が飛び回っているようなこともない。石壁そのものは古ぼけて見えるものの、窪みや崩れたような箇所も見当たらない。これは先ほどレティシアが言っていた、傷つかない性質のせいかもしれないが。
そう、綺麗すぎるんだ──不自然なほどに。アリスがそんなことを考えながら歩を進めていると、薄暗闇の向こうからようやく石壁以外のものが見えた。
「止まって」
後ろからレティシアが指示を出す。彼女の手には一枚の羊皮紙が握られていて、これまで歩いた道筋が書かれていた。こうした地図は通常パーティごとに自力で作成するそうで、二人も以前のパーティでは当時作成した地図に従って行動していたという。残念ながらパーティが解散した時に地図のことはうやむやになってしまったそうだが、なければまた作ればいい。幸いにもレティシアは地図の大部分を実際に歩いた経験とともに記憶していたから、こうして頭の中の地図と照らし合わせながら改めて道筋を描いていたというわけだ。
一行が立ち止まったのは、通路の曲がり角だった。目の前には、石壁にはめ込むように設置された木製の扉がある。この規則的に並んだ壁を丁度一つ分、扉に挿げ替えたような感じだ。
「ここ?」
アリスが短く聞くと、そう、と話好きの魔術師も端的に返した。
「開くと出てくるよ。覚悟はいいかい?」
「わからないけど。やるよ」
「気に入ったわ、その返事」
横に並ぶエリィがにやりと笑う。僧侶らしからぬ獰猛な笑みだったが、今ではそれが頼もしい。
覚悟とか心の準備とか、そんなものができているかなんてわからない。ただ、やるだけだ。それが今、自分にとって──パーティにとって、必要なことなのだから。
戦士は鞘から長剣を抜き放ち、盾の持ち手をしっかりと握る。同様に僧侶はメイスを構え、魔術師は仕方ないなと言わんばかりに短杖を手にした。
「いくよ」
ひと言だけ言って、アリスは扉をゆっくりと押し開けた。ぎい、と木が軋む嫌な音が響く。
扉の向こうには、小部屋とでも呼ぶべき空間が広がっていた。その気になれば六人のパーティが全員雑魚寝をしたって、足を曲げる必要はないだろう。
開いた扉をアリスが最初にくぐり、エリィとレティシアが続く。最後尾が通ったことを確認したアリスが手を離すと、扉はひとりでに元の位置へと戻り──ばたん、と音を立てて閉まった。
それが合図だったかのように、部屋の中央から円形の紋様が浮かび上がる。なんらかの呪文らしき文字が刻まれたそれは空中で光を発すると、その真ん中に黒いもやのようなものが現れた。
「召喚陣だ。出てくるよ」
レティシアが言った。事前に聞いていたことではあったが、目の前の光景に目を奪われていたアリスははっと意識を戻す。見入っている場合ではない。あそこから出てくるのは、間違いなく敵だ。
程なく、黒いもやからなにかが落とされた。ぼたっ、と濡れた布を地面に落としたような音がする。数は──三つ。地面に降り立った黒いもやが、立ち上がった。それは子供よりすこし大きいくらいの、人型のなにかだ。だが不思議なことに、それ以上はどれだけ目を凝らしても、それが何であるかわからなかった。
周りにただよう黒いもやが邪魔しているだけのようにも見える。だが同時に、それが隠しているはずの形や大きさが大まかながらも理解できる。これは一体どういうことなのか──
などと、悠長に考察している暇はない。
「大丈夫、勝てる相手よ。呪文は無し。いくよ、アリス!」
「ああ!」
戦士が遅れをとるわけにはいかない。アリスは大きく踏み込むと、"敵"との距離を一息に詰めた。まずは、自分から一番近いヤツだ。
相変わらず正体は不明なままではあるものの、大きさと形がわかるのなら、とりあえず切り伏せるのに支障はない。踏み込んだ勢いのままに長剣を掲げ、アリスは黒いなにか目がけて長剣を振り下ろした。
「っ!」
手応えがあった。どうやら盾や鎧で防がれることはなかったらしく、刀身が相手の皮膚を切り裂き、肉を切断する感触が、柄を通して伝わってくる。決して心地のよいものではなかったが、少なくとも相手に傷を負わせることができた証だ。
獣の咆哮のような悲鳴と、なにかが噴き出る音がした。体液だろうか、ひどく生臭い匂いを放つそれをまき散らしながら、"敵"は地面に倒れ伏した。同時に、エリィが反対側の一体にメイスの一撃を叩きこむ。硬いなにかが砕け散る嫌な音がして、その勢いのまま"敵"は地面に叩き伏せられ、動かなくなった。
残り、一体。残されたその"敵"は、前衛の二人を無視して駆け出した。アリスとエリィの隙間を縫うように。同時に、それが一体どんな存在なのか、アリスは唐突に理解する。
頭は狼のそれに近い。人間の子供より少し大きい体躯は獣のような体毛に覆われていて、ボロ布を服代わりにまとっている。邪妖だ。その容貌はよく立ち上がった犬に例えられるが、こうして実際に見てみるとそれがあまり正確な例えではないことがわかる。全身を覆う体毛はともかくとして、腕や足の作りは人間によく似ているのだ。でなければ二本の足で立ち上がり、武器を手に持つことは難しいだろう。
この場で誰を狙うべきなのか、本能的に察したのだろうか。コボルトが目指している先は──考えるまでもない。
手にしている武器は、ぼろぼろに刃こぼれし、根元近くで折れた剣らしきもの。それでも、ローブ一枚を羽織っただけの魔術師を傷つけるには十分すぎる。
今更剣を振り上げても間に合わない。咄嗟にアリスは体をひねり、駆け抜けていくコボルトの足目がけて蹴りを入れた。足払いでもできればよかったのだが、それでも効果は十分だ。ぎゃうん、と犬の悲鳴のような声をあげて、コボルトが石床を転がる。二回転ほどしてようやく地面にへばりついた哀れなコボルトを待っていたのは、無慈悲なメイスの一撃だった。
それがせめてもの慈悲なのか、なにかが砕ける音が一度だけ、部屋に響く。無理な体勢で蹴りを放ったアリスはなんとか踏みとどまり、今しがた自分が切り伏せた敵──コボルトを振り返る。自身の血だまりに沈んだそれは、起き上がる気配はない。当然、エリィが仕留めた二体もだ。
アリスの──パーティの初戦闘は、呆気ないほど唐突に終わった。
***
「コボルトが三体。初めての戦闘には、おあつらえ向きだったわね」
「もっとたくさん出てくる時もあるの?」
メイスを布で軽く拭って腰帯に戻すエリィを見て、慌てて長剣にべっとりとついたコボルトの体液を払うように振ってから、アリスは聞いた。
「うーん……一番多かった時で、五体くらいだったっけ?」
「一つの集団としては、そうだね。後列も含めるともう二、三体ついてくる時もあったかな」
「そんなに……」
想像以上の答えに、アリスは言葉を失った。たった三体だった今の戦闘ですら、危うい場面もあったのに。これが三倍近い数になったとしたら、とてもではないが太刀打ちできるとは思えない。
そんな考えを見透かしたように、レティシアは殊更なんでもないように言う。
「数が多ければ多いなりにやり方もあるさ。今の戦闘は、ボクがまったく参加していなかったことを忘れないでほしいね」
魔術師の呪文や僧侶の奇跡は、無限に使えるわけではない。どちらも精神力、あるいは魔力と呼ばれるエネルギーを消耗するからだ。呪文は詠唱と魔力を注ぐことで形を成し、神の奇跡は祈りと魔力とを捧げることでこの地上に顕現する──混同されがちだが、この二つが決定的に異なる点はそこにあると、昨晩二人から熱弁されたことを思い出す。魔術呪文はあくまで人の手によって繰り出される技術だが、神聖魔法は神の奇跡を代行しているに過ぎないのだ、と。だからいくら知恵をつけようと、信仰する心がなければ神がその奇跡で地を照らすことはない──神の奇跡とはなんたるものか、あの時ばかりはエリィも雄弁に語っていた。正直、半分ほども理解できた自信はないけれど。
呪文も奇跡も、有限だからこそ先の戦闘のように"使わない"という選択肢も出てくる。温存しすぎるのも良くないが、かと言ってめったやたらに使えば良いというものでもない。本当に必要な局面というものは必ずやってくるもので、それがいつなのかを判断する力も、冒険者を志す魔術師にとっては重要な素養なのだ。
その点においては、アリスはレティシアを信頼していた。せざるを得なかった、とも言うが。なにせ呪文が必要な局面など、戦士としても冒険者としても駆け出しの自分に判断できるはずもない。
「戦利品は……ハズレみたいね」
「ハズレ?」
切り伏せられ、あるいは叩き伏せられた魔物の遺骸を眺めて、エリィは事もなげに言った。
「そう。たぶんすぐ見ることになると思うけど、戦利品がある時はこいつらの死体が消えるのよ。どういう仕組みなのかはわからないけど」
「遺骸が消えて、武具や宝物がその場に現れるんだ。召喚陣の機能の一部だとか、それを核として魔物を使役しているんだとか、色んな説があるけどね。どれも確証はなし、さ」
「で、今みたいに実入りがない時のために、迷宮内の魔物すべてに懸賞金がかかってるってわけね」
「ああ、ギルドで言ってた……」
迷宮内で魔物を打ち倒したとて、必ずしも戦利品にありつけるわけではない。しかし命がけで戦った成果が魔物の遺骸だけでは、いずれこの迷宮に立ち入る者はいなくなってしまうだろう。冒険者とて、明日の糧がなければ生きていけないのだ。領主の定めた懸賞金は、そのための施策とでも呼ぶべきものだった。
エリィは背嚢から革袋と小刀を取り出すと、遺骸の一つの傍で跪いた。小さく祈りの言葉を口にすると、コボルトの耳を切断し、革袋へ納める。
「これを持ち帰って、倒した証拠としてお金に換えるの。あまり気持ちのいいものじゃないけどね……」
「本当に申し訳ないと思うけど、ボクはこれが苦手でね。何度か挑戦した結果、こういったことはエリィに任せることにしているんだ。キミも手伝ってくれると、助かるね」
口調こそいつもの調子だったが、一歩離れてエリィの作業を見守るレティシアの顔色は明らかに悪そうに見える。地下一階を一通り巡っていたというから見ている分には耐えられるのだろうが、実際に自分の手でやるのとはわけが違うのだろう。
できることは大いに越したことはない。アリスは自分が切り伏せた一体の傍にしゃがみ込むと、丁度いい小刀や短剣の類を持っていないことに気づき、仕方なく長剣を抜いた。
「持ち帰るのは耳でいいの?」
「持ち運びしやすい大きさなら、どこでも大丈夫よ。このあともできるだけ多く持って帰りたいからね」
「さすがに体毛を一本だけとかになると難しいだろうけど、手足の指一本でも十分だよ。懸賞金に換える時、それを判別するための魔法の宝物を使うからね」
「なるほど……」
アリスはすこし考えて、エリィと同じように耳を切り取って革袋に納めた。初めての戦利品としては味気ないが、これが明日の糧になるのだ。
「皮を剥いだら売れたりしないのかな」
片耳がなくなったコボルトの遺骸を見て、なんとはなしにアリスがつぶやく。リーダーの物騒な思い付きにレティシアはぎょっとし、エリィは笑った。
「コボルトの生皮? 面白いけど、普通に懸賞金にした方が手間がかからないでしょうね。それに、探索してる間ずっと持ち歩くのよ、それ?」
「あ、そっか……。くさいよね、きっと」
素朴な返答に、エリィが声をあげて笑う。安堵か呆れか、レティシアはため息を吐くと、気を取り直したように口を開く。
「実行に移されなくてなによりだよ。……とまあ、こんな風に、この迷宮にはいたるところに魔物を呼び出す召喚陣が設置されているんだ。罠の一種とも言えるだろうけど、解除できる類のものではないから、探索する上では避けて通れないものと考えていいね。今回、というかしばらくの間はこうして召喚陣を潰して回って経験を積み、資金を稼ぐことになる。当面の宿代や食費、その他諸々の経費と、余裕があれば装備をより質の良い物に買い換えるためだね」
「そうね。もしこのままパーティメンバーが見つからなくても、あたしたち自身が強くなって装備も整えられれば、三人でももっと下の階層まで潜れるようになると思うし。実際、そうやって少人数で攻略してるパーティも多いしね」
戦闘において、人数が多い方が有利になるのは当然のことだが、それ以外の面では少人数にも利点はある。その筆頭となるのが、資金だ。稼いだ額を分配する人数が少ない──つまり一人頭の金額が大きくなるほど、より早く、より高い装備に買い換えられることになる。あるいは魔法の書物など、戦闘の手助けになる消耗品も補充しやすくなる。そしてまた、それらを駆使して多人数のパーティと同じ、あるいはそれ以上の金額を稼ぐ……というわけだ。
「まあ、そうして安定してしまうと、問題になるのがモチベーションだね」
戦闘のために床に下ろしていた背嚢を拾いながら──ずいぶん軽そうに見える──レティシアがぼやくように言う。
「モチベーション?」
「そう。ボクたち冒険者はあくまでこの地下迷宮の深奥にたどり着くことを目的として、探索を行っている……ということになっているだろう? すくなくとも、表面上は、さ。けれど、その日暮らしでも十分な額が安定して稼げるようになってしまうと、こう考えるようになるんだ」
「わざわざ危険だとわかっている深層へ向かう必要があるのだろうか? 数日に一度、慣れた道を通ってすっかり見慣れた魔物をちょいと退治すれば、日々の糧と酒場で酒をひっかけるくらいの額は稼げるっていうのに?」
芝居がかった大仰な仕草でエリィが歌うように言うと、レティシアと顔を見合わせ、二人は揃って肩をすくめた。
「そういうこと。それでも深層に向かうには、強力な、有無を言わせないほどの目的が必要だ。それがたとえ、パーティの人数が増えたためにもっと深層へ潜って稼がなければならない、なんて俗な理由だとしても、ね」
冒険者という、場所によっては職業と呼べるのかすら不確かな存在に身をやつす理由は、人によって様々だ。それこそなんらかの、"有無を言わせないほどの目的"を持っている場合もあるにはあるが、他に選択肢がないために仕方なく、という者は掃いて捨てるほどいる。そうした者が安定という名の停滞を得てしまえば、先へ進むことは難しいだろう。
それを嘆くということは、少なくともエリィとレティシアにはなにか、迷宮の深奥を目指す理由があるということだろうか。
「二人は──」
単純にそう聞こうとして、アリスは思い留まった。もっとらしい言い方を思いついたのだ。
二人が振り向いたのを見てから、言い直す。
「二人が迷宮の深奥を目指す理由。今日の祝杯をあげる時に、教えてね」
エリィとレティシアは顔を見合わせると、リーダーらしいメンバーを鼓舞する言葉に、にやりと笑った。
***
「そういえば、魔物の死体は放っておいてよかったの?」
先ほどの小部屋──ああいう部屋は玄室と呼ぶのだと、レティシアに教わった──から出て、次の召喚陣に向かう道すがら、アリスは思い出したように聞いた。
「ああ、問題ないよ。しばらくすると消えるんだ。召喚陣かこの迷宮自体の仕掛けなのか、スライムみたいな魔物が"掃除"しているのかはわからないけどね」
言われてみれば、先ほどの玄室には自分たちが倒した魔物以外のものは見当たらなかった。まさかあの場所で行われた初めての戦闘というわけでもあるまいし、レティシアの言う通りなんらかの仕掛けで綺麗さっぱり消えてしまうのだろう。
「そっか。……ん?」
歩けども歩けども続く石壁。こうして他愛のない雑談でもしていなければ正気を保てないのではないかと思うほど息の詰まる空間で、アリスは床に転がるなにかを見つけた。通路の暗さを考えると見つけられるということ自体、それが近くにあることと同義ではあったが、念のために慎重な足取りで、それに近づく。
やがて足元ではっきりと形がわかるくらいまで近づいて、その正体がわかった。
「空き瓶だ」
端的に言って、ゴミである。
こんなものを警戒していたのかと肩透かしを食った気分だったが、そもそも何故こんなところに転がっているのか。
「使い終わった水薬の容器ね。おおかた、どこかのパーティが捨てていったんでしょ。結構多いのよね、自分たち以外に人がいないからって水薬や傷薬の容器を捨てたり、食べ終わった携帯食料の包み紙をその場に捨てる人。行儀が悪いったらありゃしないんだから」
「冒険者に行儀やマナーなんて代物を求める方がどうかと思うけど、ね。さっき例に出したスライムなんかも、こうした薬品が付着したものは嫌って"掃除"しないことも多いんだ」
憤るエリィを宥めるように言いながら、レティシアは地面に転がる空き瓶を拾い上げ、背嚢を探ると革袋を取り出し、それに納めた。
「持って帰るの?」
「そう。これもさっきの"戦利品"と同じで、換金できるのよ。こっちは小遣い程度の額だけど、ないよりはマシだしね」
「名目上は迷宮内の清掃として、領主からの依頼が出てるんだ。無期限かつ回収数制限なしの、ね」
そうした何人が何度でも受諾、達成できる依頼は受諾の手続きが必要ないのだという。形式上依頼という形を取ってはいるものの、実際のところは懸賞金と同じということだ。それはすこしでも冒険者たちを支援しようという領主の心遣いか──あるいは、迷宮の探索を続けるための施策、か。
自分も見つけたら拾っておこう──レティシアが背嚢を背負い直すのを待ってから、アリスは探索を再開した。
「さて、何事もなくそろそろ二つ目の玄室に到着だ」
書きかけの地図を片手にレティシアがそう言ったのが早いか、暗がりの中からまた扉が現れる。先ほどのものと同じ造りのようだ。今度は曲がり角ではなく、通路の途中にぽつんと置かれている。
「開けるよ」
一声かけてから、アリスは扉をゆっくりと押し開けた。今度は先の玄室と違い、奥の壁面に更に扉が見える。迷宮というからには当然分かれ道もあって然るべきだが、ここが最初ということだろうか。
だが、それを聞くのはあとだ。扉が閉まると同時に、やはり部屋の中央に円陣が浮かび上がった。黒いもやが広がり、そこからぼとりとなにかが落とされる。先ほどとまったく同じ──しかし、決定的に違うことが一つあった。
「数が多い──!」
現れた"敵"は、五体。運悪くと言うべきか、エリィの言っていた"一番多い"数を引き当ててしまったようだ。相変わらず黒いもやに覆われていてその正体は判然としないものの、大きさも、人型というところも、先に遭遇した邪妖と同じだ。
幸い後続らしきものは見当たらなかったが、二人では明らかに手に余る。
「呪文を──」
アリスがそう言いかける頃には、既に魔術師は短杖を手にしていた。今まで見せたことのない静かな表情で、伏せるように閉じかけられた瞳は妖しい光を灯し、その唇は言の葉を粛々と、あるいは詩のように朗々と紡いでいる。
ふわり、と風が吹いた。同時に、アリスは薫風のような穏やかな香りを感じ取る。そんなはずはない。この地下迷宮で自然の風が吹くことなど、あるはずがない。であれば、それは自然に起きた現象ではないのだ。
「眠れ──」
はっきりと聞き取れた言葉は、結局それだけだった。ローブの裾をはためかせ、魔術師は短杖を指し示すように掲げる。その先端から、色づいた霧のようなものが広がっていくのが、辛うじてわかった。その"霧"は敵の集団を包み込むほど広がると、まとわりつくように漂っている。
「いくよ!」
エリィのかけ声にはっとして、アリスは慌ててあとに続いた。呪文はこれで終わりなのか、なんの呪文を唱えたのか。聞きたいことはそれなりにあったが、彼女を良く知り、ともに冒険者を続けてきたエリィが仕掛けると判断したのなら、今はそれに従うほかはない。
手近な一体に踏み込み、斬りつける。命を奪う確かな手ごたえと、くぐもった悲鳴が聞こえて、"敵"は石床に倒れ込んだ。エリィのものだろう、派手な破壊音はすでに聞こえていたから、残りは三体だ。しかし──
「──?」
不思議なことに、残りの三体はその場から動こうとしなかった。こちらの攻撃に備えているわけでもなく、その場に突っ立っているだけだ。いや──黒いもやが晴れてその正体がやはり邪妖だと判明してからよく見ると、その場でふらふらとたたらを踏んでいるように見える。
まるで、襲い来る眠気と戦っているような──
「ボサッとしない! トドメ刺すよ!」
「あ──ああ!」
エリィに叱責されて、アリスは長剣を握り直した。ほとんど棒立ちの一体をエリィがメイスで仕留め、アリスも遅れて長剣を振るい、その命を絶つ。最後の一体になっても、やはり抵抗はなかった。コボルトは相変わらずその場でふらつきながら、ただ立っているだけだ。
アリスは手にしていた盾を地面に放ると、長剣を両手で握り直す。抵抗しないとわかっている相手に盾は必要ない。たん、と踏み込み、その勢いのまま、上段から真っ直ぐに長剣を振り下ろした。
「っ──!」
ずばん、とそれまでとは違う、明らかになにかを断ち切った音が響く。さすがに真っ二つとはいかなかったものの、頭から真っ直ぐに切り下ろされたコボルトはその一撃で絶命し、石床へ崩れ落ちた。
前々から考えていたことだ。アリスの扱う長剣は、基本的には盾との併用を目的とした片手剣としての運用を想定している。だが、その柄は両手で握れる程度の長さはあった。訓練場で何度か素振りをしてみたものの、実戦で使うにはリスクが大きいと言わざるを得ないだろう。まず、盾が使えない。それはつまり、反撃されれば剣だけでそれを捌かなければならないということだ。そして、自分はそれほど剣の扱いに熟達しているわけでもない。
だから、これは思わぬ好機だった。反撃をもらう心配のない相手──両手持ちでの一撃は思った通りの威力を発揮して、コボルトを両断してくれた。時と場合が許せば、使う価値はありそうだ。
「凄いね。敵がまるで案山子みたいだったよ」
アリスが本心からそういうと、レティシアは得意になるわけでもなく、さりとて当然のことと気取るわけでもなく、優しく微笑んだ。
「敵の集団を眠りに誘う、初級だけど有用な呪文さ。眠る、といっても見てもらった通りその場で熟睡するわけじゃなくて、強い眠気を誘うことで動きを鈍らせると言った方が正確だね」
「魔術師の呪文って、もっとこう……火の玉を発射して大爆発! みたいな感じかと思ってたよ」
「あはは。まあ、そういった類の呪文ももちろんあるけどね。あの場でボクが炎を放って一体を仕留めたとして、残り四体はキミたちが相手にすることになるだろう? なら、より確実で安全な方──つまり、全体の動きを封じて二人にトドメを刺してもらった方がいいと思ってね。もちろん抵抗される場合もあるだろうけど、その時は動くやつだけを先に狙えばいいし」
要は使い方なのさ、呪文なんてものは。事もなげに魔術師はそう言った。
「そういえば、なんだかいい匂いがしたけど、あれも呪文の効果なの?」
「匂い? いや、そんなことはないはずだけど──」
レティシアは几帳面にメイスを拭っているエリィを見るが、幼馴染は首を横に振った。
「あたしはそんなの感じなかったけど」
「そうなの? なんていうか、言葉にしにくいんだけど……穏やかで、優しい香りだったよ」
「……ああ、もしかして」
すこし考え込んだレティシアは、なにかに思い至ったように声をあげた。同時に何故か一瞬、まるでなにか恥ずかしいものを見られたように、頬を赤らめて。
「アリス……キミは恐らく、ボクの魔力の流れを感じ取ったんだ」
「魔力の……流れ?」
聞き慣れない表現に、オウム返しにアリスが聞き返すと、魔術師はうなづく。
「そう。昨日、呪文は詠唱と魔力を注ぐことで完成する、と話したことを覚えているかな? きっと先の呪文でボクが練り上げた魔力を感じ取ったんだろうね。先天的に魔術の才覚を持つ者には、よくあることさ。感じ方は様々だけど、キミは匂いとして知覚したんだろうね」
「そう……だったの、かな。言われてみれば、誰かが呪文を使うところを近くで見たの、初めてだったかもしれない」
「単純に、今まで機会がなかったからわからなかったんだろうね。アリス。キミには魔術の才能がある。それも、先天的な、持って生まれた才覚が、ね。これは自分ではどうしようもなく、言い換えればどれだけ欲しても得られることのないものだ」
「ええっと……」
正直なところ、突然魔術の才能がある、なんて言われても困る。なにせ今日初めて冒険者として迷宮に入り、戦士として剣を振るったばかりなのだ。ほかの職業に才能があるなんて言われたって、すぐに鞍替えを考えられるはずがない。
もちろん、レティシアもそんなことは承知の上だった。
「魔術師に鞍替えしろ、なんてことは言わないさ。才能があるってことと、やりたいかどうかはまったく別の話だからね。ただ、機会とその気があるなら、魔術を学んでみるのもいいと思うよ」
「……考えておくよ」
「それにしても、穏やかで優しい香り、ねえ? ふふ、ずいぶんと素敵な表現じゃない?」
突然の話に戸惑うアリスを茶化すように、エリィが茶々を入れてきた。が、顔を赤くしたのはレティシアの方だ。それでも虚勢を張って、表情だけを取り繕って言った。
「パーティの頭脳たる魔術師としては、もっとクールでエレガントな表現にしてほしかったものだね」
「そうかな。レティシアにはぴったりだと思うけど。とってもいい香りだったよ」
「……」
気取った表情が、どんどん赤くなっていく。アリスはまったく悪気なく言っているものだから、からかうなと怒ることすらできやしない。言い出しっぺの幼馴染は腹を抱えて静かに笑うと、逃げるように"戦利品"の処理を始めた。
***
それから二つほどの玄室を巡り、眠りの呪文を一つ使った以外は損害もなく、探索は順調に進んでいた。
「アリス。呪文は残り一回だ。そろそろ帰路についてもいい頃合いだと思うけど、どうかな?」
「同感。だいぶ時間も経ったと思うしね。宝物こそなかったけど、"戦利品"はかなりあるから、数日分の生活には困らないと思うわよ」
ずっしりと重みを増した背嚢を示すように背負い直して、エリィが同意する。陽の光もなく、ひたすら同じ光景が続く地下迷宮では時間の感覚すら狂う。入ったのが昼前くらいだったはずだから、出てきてみたら真夜中だった、なんてことはないはずだが──
「一回残ってるなら、使ってから出た方がいいんじゃないの?」
反対するつもりはなかったが、その理由は聞いておくべきだと思い、アリスは素直に疑問を口にした。聡明なる魔術師はその意図をくみ取ってくれたようで、怒るでもなく教えてくれる。
「そうだね、理想を言えばすべてを使い切った状態で探索を終えるべきだ。でも、どこかの玄室を最後とボクたちが決めたとして、それが本当に最後になるかどうかはわからない。そこから出口までの道のりが、来た時と同様、何事もないとも限らないんだ」
「……玄室以外にも、魔物が出るってこと?」
今日の探索を開始してから今まで、遭遇したのはすべて玄室の召喚陣から出てきた魔物だけだった。その間を通る通路は至って平和で、時折落ちているゴミやガラクタを拾うくらいのものだったのだ。だからこうして、話しながら歩いているわけで。
今日通路を歩いていた時の自分を思い返して、アリスは青くなった。もし奇襲でも受けていたら──
「稀に、だけどね。彷徨うものって呼ばれてるんだけど、こういう通路をうろついたり、待ち伏せしたりするやつもいるんだ」
「……そうだったんだ」
そう言うと、居住まいを正して剣を抜こうとしたアリスをエリィが押しとどめる。
「警戒は必要だけど、ずっと神経張り詰めるほどじゃないわよ。だいたい抜身の剣なんて持ったまま歩いてたら、なにかあった時逆に危ないって。心配なら、盾だけ持っておけばいいんじゃない?」
「そ、それもそうだね……」
エリィにそう諭されて、アリスは素直に従った。快勝続きの探索で増長したつもりはなかったが、本来剣を鞘から抜くのは敵の前だけであるべきだ。それは扱いを間違えれば、自分や仲間をも傷つけかねないものなのだから。自分は冒険者としても、戦士としても、未熟な駆け出しに過ぎない──それは卑下でも謙遜でもなく事実で、忘れてはいけないことだ。
それと、焦りと早合点も。幸いにして、心強い仲間が二人もいるのだから。特に迷宮内の事柄においては、自分だけで判断するべきではない。
「わかった。今日はこれで切り上げよう。来た道を戻るなら、召喚陣はなかったよね?」
今日通ってきた道筋は、通路と、それに面した玄室だけだった。玄室の奥に扉がある個所もいくつかあったが、レティシアの提言によって後回しにして、まずはできるだけリスクの少ない──つまり、敵との遭遇をコントロールできる道を通ってきたのだ。玄室さえ通らなければ、敵とは遭遇しない──そう思っていたのだが。
通路も安全ではないというなら、確かに潮時だろう。今日の探索に必要なのは、無理をしてギリギリまで粘り、すこしでも多くの成果を出すこと──ではなく。余裕をもって帰還し、初めての探索を成功のうちに終わらせることなのだから。
「そうだね。来た道を戻るだけだ」
「さっきはああ言ったけど、せっかく順調にここまで来たんだし、最後まで気を抜かないようにね」
「わかった」
ふう、と息を吐くと、アリスは改めて気を引き締める。言われた通りに盾だけを背負いから外して左手に持ち、あとに続くレティシアが示す道順を今までよりいくらか慎重に進んで──いや、戻っていく。
こつ、こつ、こつ。三人の履物が石床を叩く音だけが響く。神経を張り詰めるほどではない、とエリィは言った。しかし警戒はしておくべきだろう。それが結果的に徒労に終わったとしても、あとは街へと帰るだけだ。今さら多少疲労しようと、問題はない。
そんな律儀さが功を奏したのだろうか。もしかしたら、そうでなくてもエリィが気づいていたかもしれない。
石壁に響く足音に、三人以外のものが混ざっていた。
「待って。なにか居る」
アリスは足を止めてそう言うと、今度こそ躊躇いなく剣を抜き放つ。
「警戒してて正解ね。……足音からしてそう数は多くないはずだけど、ほかの冒険者って可能性もあるから、いきなり斬りかかるのは駄目よ」
「わかった」
そうしている間にも、足音は大きく──近くなってくる。こちらから出向く必要はなさそうだ。やがて、暗がりから人影が二つ、浮かび上がる。
人間の、男だ。粗末ではあるが革鎧を着て、手には小剣を持っている。防具をまとっていない、露出した腕や脚は浅黒く汚れていて、小汚い、と形容してもいい風貌だ。二人並んで、こちらへ歩いてきていた。
召喚陣の、あの黒いもやもまとっていない。冒険者か──と、アリスが判断しかけた時。
ふわ、と、あの香りを感じた。優しくて温かな、薫風のような香り。
「な──」
「──眠りを」
アリスがなにかを言うよりも早く呪文は完成し、目の前の男たちへ向かっていく。が──
その歩みは、止まらない。レティシアが警告の声をあげた。
「気をつけて! 抵抗された!」
「敵なの!? 人間の──」
「魔物よ! ただ人間の形をしてるだけ!」
エリィはすでにメイスを手にしている。男たちは駆け出して、こちらへ向かってきた。攻撃されたことを感知したのか、あるいはただ、自分たちを見つけたから向かってきたのか。
「ならず者! 一階で一番手強いやつよ! 気をつけて!」
言うや否や、エリィは相手の一体目がけて殴りかかる。とても僧侶のすることとは思えなかったが、本来は自分がしなければならなかったことだ。彼女は先達として、見本を見せてくれているに過ぎない。──たぶん。
アリスはもう一体の前に進み出る。目の前の男──ならず者もこちらを相手と認識したようで、アリスへ向き直った。これでエリィが二対一の状況になったり、後方のレティシアに被害が及ぶようなことはない。呪文の支援はもう望めない。であれば、自らの剣で勝利をもぎとるのみだ。
先手を取って、アリスは斬り込む。向かって右肩から袈裟懸けに、切り下ろした。意外にも防がれることなく、剣は真っ赤な軌跡を描いて振り下ろされる。くぐもった、悲鳴のようななにかが聞こえて、ローグがよろめいた。
勝った──?
いや、違う。
よろめいたローグはしかし足を踏ん張って、小剣を突き出してきた。
「っあ──!」
不意を打たれた──いや、自分が捌けなかっただけだ。小剣の切っ先は、アリスの左腕──革鎧に覆われていない、関節のすぐ近くを突いていた。
熱さに近いような痛みを感じる。流れ出た血が腕を伝って、迷宮の石床を濡らした。
ローグは追撃してくることはなかった。自身の負った傷のせいだろう、様子をうかがっているようだ。もっとも、それはこちらも同じことだが──
革鎧の上からだったために致命傷にこそ至らなかったが、痛打を与えたのは確かだ。しかし、もう一度同じ攻撃をして倒しきれるものかどうか。
左腕は動かす度に痛みが走るが、我慢できる。筋や腱が切られたわけでもないようだ。なら──
アリスは盾を放ると、長剣を両手に構えた。がらん、と石床に盾がぶつかって派手な音を立てる。それが合図だったかのように、ローグは小剣を振り上げ、突進してきた。アリスも駆け出し、その勢いのまま長剣を突き出す。騎兵が馬上槍で突撃するような恰好だ。
目指すは胴体のど真ん中。一番的が大きく、生物であれば重要な臓器が詰まっていて、それゆえに骨と、そして鎧によって守られている場所。その守りを突き崩さんと、力いっぱい、剣を突き出した。
「おおおっ!」
裂帛の気合いと共に、アリスの剣先は相手のそれよりも早く到達し、粗末な革鎧を貫いた。皮膚を裂き、肉を貫き、骨を砕き、その中にあるものを串刺しにする。振り下ろされた小剣は、懐に入り込んだせいでアリスの腕をかすめただけだった。それでもいくらか血が飛び散ったが、気にもならない。アリスはそのまま"敵"を押し倒し、深く、深く、剣を突き刺した。
ごぼ、と異様な音がして、ローグの口から赤黒い血が吐き出された。元々なにも映していなかったのだろうその目は、迷宮の天井へと向いたままだ。がらん、と小剣が地面に落ちる。弛緩した四肢は投げ出されるように、冷たい石床の上に無秩序に転がった。
──死んだ。倒した、のだ。
「っ……! はぁっ、はぁ……っ」
アリスは立ち上がって剣を引き抜こうとした。だが奥深くまで突き刺さった剣はそう簡単には抜けない。咄嗟に死体を踏みつけて思い切り引き抜くと、埋まっていた刀身から血が飛び散った。不思議なことに、人間の形をした死体の傷口からは血が噴き出すようなことはなかった。
「……勝ったわね。ちょっと危なっかしかったけど」
エリィの声にはっとして、アリスはようやく周囲を見渡す。後ろへ下がったレティシアは短杖を手にして青い顔をしたままこちらを見ている。エリィは──傷一つ負っていなかった。血のしたたるメイスを持ち、堂々としたその立ち姿は、自分よりもよほど戦士らしい。エリィの足元に転がっている死体は──あまりじろじろと観察したくはない状態だった。邪妖のように脳天を一撃、というわけにはいかなかったのだろう。体のあちこちをへし折られ、最後に頭蓋を粉砕されたと思しき死体は見るも無残な有様だ。
血のついたメイスをそのまま腰に下げると、エリィは足早にアリスの元へ向かう。その真剣な表情に一瞬、戦い方がなっていないと叱られるのかと思ったが──
「怪我、診せて」
それだけ言うと、エリィは傷口を検める。それが深手ではないことを確認すると、ほっと息を吐き、ようやくいつもの調子で微笑んでくれた。
「これくらいなら大丈夫ね。毒もないし、すぐによくなるわ。ちょっと、じっとしててね」
エリィは傷口に掌をかざすと、そっと目を閉じ、祈りを捧げる。
信徒が教会で神への祈りを捧げる時、言葉にする者とそうでない者がいるように、エリィの祈りは静寂と共に在った。やがて、ずきずきとうずくような痛みにくわえて、傷口に熱を感じる。それは温かな、例えるなら春の日差しのような穏やかな熱だった。
ふわ、と、なにかの匂いをアリスは感じ取った。それがなんなのかはもう知っている。だから──この静かな祈りを、邪魔する必要はない。
「──勇猛なる戦神よ。どうか、ひと時の癒しを」
祈りの最後を締めくくるように、エリィはひと言だけ、口にした。薄暗い迷宮の中に、清らかな光が生まれる。絶えず痛みを訴えていた傷口が、みるみるうちに大人しくなっていく。光が収まる頃には、傷はその痕跡すら残さず消えていた。
「すごい……」
「まあね。なんたって、あたしの信奉する神の奇跡なんだから」
エリィは胸を張って答えると、にっこりと笑った。
「……お疲れさま。悪かったね、結局なにも出来ず仕舞いだ」
成り行きを見守っていたレティシアが、ようやく二人に近づきながら話しかけてきた。結局残していた最後の呪文は、抵抗されてしまったのだ。
「まあ、仕方ないでしょ。そもそも、こういうこともあるから戻ろうって話になったんだし」
こだわりなく言うエリィに、アリスもうなづく。魔術のことはよくわからなかったが、必ずしも毎回同じ結果をもたらすとは限らないらしい。戦士の戦いが、そうであるように。であれば、殊更に責め立てるのは筋違いというものだ。
「こいつら……一体、なんなの? 人間……に、見えるけど……」
血だまりの中に横たわる死体を指して、アリスが言った。見た目は完全に人間のそれなだけに、こうして倒したあとになっても気味の悪さは変わらない。
「エリィが言った通り、ヒトの形をした魔物さ。外見も中身もヒトそのものの、ね。人間に擬態する能力を持つ魔物だとか、迷宮の魔力に憑りつかれて正気を失った元人間だとか、その正体については諸説あるけど──」
「真偽は不明?」
「そういうこと。ただ見分ける方法がいくつかある。一つ、人間を見つけると問答無用で襲い掛かってくること。これは他の魔物と同じだね。二つ、言葉が通じないこと。喋れないのか喋る意思がないのかはさて置き、交渉は不可能だ。三つ、同じタイプの場合は見た目が全く同じであること」
「あっ……!」
アリスが小さく声をあげた。どうして気づかなかったのか、今になって思えばこの二体の魔物は双子のように瓜二つ──どころか、顔の形から体つきまで全く同じだった。おまけに装備まで同じなものだから、見分けがつかない。これは普通の人間ならばあり得ないことだ。
「実際のところ、無事に倒せてほっとしているよ。訓練所ではああ言ったけど、ヒトの形をしたものを殺せるかどうかは……やってみないとわからないからね」
「……」
確かに、無我夢中だったとはいえ、アリスは人間と全く同じ姿をした生き物を斬り殺した。それを素直に喜ぶべきかはわからないが、こうして自分も仲間も無事でいられたことは喜ぶべき……なのだろう。
「ん……苦戦した甲斐があったわね。当たりみたいよ」
複雑な思いで黙り込むアリスを励ますように、倒したローグの死体を見ていたエリィが、嬉しそうに言った。
「当たり?」
「そう。見てて」
言われるがまま、ローグの死体を見てみると──その中央に、見慣れた黒いもやが現れていた。胴体を覆うほどのそれは徐々に大きくなって──違う。死体の方が、もやに吸い込まれるように縮んでいるのだ。ずず、ずず、と石床を引きずる音を立てながら、死体はもやへと吸い込まれていく。
正直、気味の悪い光景だ。見ていて愉快なものではなかったが──
「出てくるわよ」
死体が完全に吸い込まれ、黒いもやが残った。やがてそれも小さくなると、からん、と音を立てて床に転がった。
「ん……?」
もやが床に転がって、音を立てた?
目の前で起きた現象にまったく理解が及んでいないリーダーに、魔術師が名誉挽回とばかりに語る。
「邪妖と遭遇した時、最初は正体がわからなかっただろう? あれと同じさ。こちらの認識を歪める呪文、あるいは呪いと言ってもいいかな。そういった類のものが、今目の前にあるこれにかけられているんだ。恐らく死体がアイテムに変じる過程で、発生するものなんだろうね。迷宮で見つかる武具や宝物の大半はこういった状態で現れるから、まずはこの呪いを打ち消す必要があるんだ」
ちなみにこの状態を俗に未鑑定品と呼ぶよ、とレティシアは付け加えるように言った。要するに、正体不明のものということだ。ただ、邪妖と初めて遭遇した時がそうであったように、おぼろげながらその輪郭はわかった。剣──の、ように見える。
「ちなみに鑑定──未鑑定品の呪いを解くことを言うんだけど──は、専門技術が必要でね。ボクにもエリィにもできないんだけど」
「ふっふー。それについてはあたしにアテがあるから、任せておいて!」
いつになく嬉しそうに請け負うエリィは、未鑑定品を背嚢に放り込んで──レティシアに叱られた。
「こら、リーダーの返事を待たずに戦利品を仕舞わないの」
「あ、ごめん」
「いや、いいよ……その、鑑定? についても、正直よくわからないし……」
先ほどの戦闘で張り詰めていた糸が切れてしまったのか、アリスはどっと押し寄せるような疲労を感じていた。エリィのおかげで傷はすっかり癒えていたが、疲労までは取り除けないらしい。そんなことより早く戻って休みたい──そんな気持ちが言葉ににじんでいたのか、レティシアは苦笑してかぶりを振った。
「それじゃあ、行こう。出口までもうすこし、頑張ってね」
アリスはぐっと力を込めて、立ち上がる。エリィはそれまでと変わらない様子だし、直接戦闘を行っていないレティシアにしたって、呪文を使い切るということは精神にかなりの負荷がかかっているはずだ。それなのに、そんな様子は微塵も見せない。
この辺りは、やっぱり経験と慣れなんだろうな──疲れた体に残った気合いを注ぎ込んで、アリスは地上への道を進んでいった。
***
迷宮の暗がりに慣れた目に、陽の光は痛いほど眩しく感じるだろう。それでもやがて差し込む陽光を恋しく思いながら、アリスは全身にまとわりつくような疲労感を引きずって、階段を上る。
だが、予想に反して地上へと這い出たアリスたちを迎えたのは、黄昏時の穏やかな光だった。入り口を固める衛兵──全身鎧を着込んでいるせいで、入る時と同じ人かはわからない──に軽く会釈をして、広場に出る。時間帯のせいか、人はずいぶんと減っていた。立ち話をしたり露店を覗いたりしていた冒険者たちも、彼らを相手に商いを行っていた者たちも。
「こんなに時間が経ってたんだ……」
「結構回ったし、最後にハプニングもあったものね。それにあの中じゃ、時間なんて計りようがないし」
呆然とつぶやくアリスをねぎらうように、エリィが言った。目に見えて疲れた足取りのアリスを早足で追い抜くと、エリィは振り返る。
「リーダーもお疲れのご様子だし、あたしはこのまま"戦利品"の換金に行ってくるね」
「ああ……ごめん。お願いするよ」
アリスは背嚢を探ると、"戦利品"と回収したガラクタが納められた革袋をエリィに手渡した。結構な重量になったはずだが、敬虔な僧侶は信仰心と同じくらいあるのではないかと思うほどの体力で、それを担ぎ上げる。
「気にしないで。それより酒場の席、ちゃんと取っておいてよ。今夜はパーっといきましょ!」
にこっと笑うと、エリィは一足先に迷宮前の広場を離れた。"戦利品"の換金、つまりは領主が発行している魔物退治の懸賞金──と、ゴミ拾いのお代──を受け取りに行くわけだから、向かう場所は領主の館になる。酒場とは、ここからでは反対方向だ。
「まったく、せっかく稼いでも飲み食いで消費したら意味がないんだけどね」
軽やかな足取りであっという間に見えなくなった幼馴染の背を見送ると、レティシアはぼやくように言った。だがその言葉に反して、表情は明るい。
「パーっと、か。……ちゃんとできたんだね、わたしたち」
アリスの言葉は曖昧だった。探索が、でも、冒険が、でもない。もしかしたら彼女自身、なにが"ちゃんとできた"のか、はっきりと言葉にできないのかもしれない。それでも──
「ああ。それはもう、花丸をつけたいくらいの大成功さ。誰一人欠けることなく、それなりの稼ぎと経験を得て、無事に帰還したのだから。今日の探索で得た知識と経験は、次の探索で必ず活かされる。次はもっと良い成果を出せる。そうやって、すこしずつ進んでいくんだよ」
「うん……」
レティシアは嬉しかった。自分の話を興味深そうに聞いてくれることも、色んなことに関心を持ってくれることも、そして、知らないことや物事の選択に迷った時、まず真っ先に自分を頼ってくれることも。なによりそんな彼女と大切な幼馴染と、三人で挑んだ初めての探索を、無事に終えられたことも。
エリィの浮かれようもわかるというものだ。二人の経験からすれば、今日の成果は幾度も経験した日常の一部でしかない。しかし自分たち二人にとってなにより重要なのは、このパーティで成功することなのだから。
「さあ、酒場までもうひと踏ん張りだよ。勝利の美酒とおいしい食事が待っている。それに、ボクたちの話も聞いてくれるんだろう?」
「……そうだね。エリィも気を遣ってくれたことだし、満席になる前に、行こう」
背嚢を背負い直し、二人は迷宮前の広場を離れる。
「ああ、その前に宿で水を借りないとね。このまま店に入ったら、ママさんに叩きだされるよ」
「あ……そっか」
何度も魔物と斬り合ったのだ。当然ながら返り血や体液があちこちに染みついているし、自分では気づきようもなかったが、結構な悪臭を放っている。とても食べ物を扱う店に入る恰好ではなかった。
それに引き換え──アリスはちら、とレティシアを見る。小柄な魔術師の恰好は、迷宮へ立ち入る前とそう変わらないように見えた。彼女は常に後衛にいたし、石床を転げ回ったり魔物と殴り合うようなこともしていないから、当然だ。もしかしたら多少の匂いは染みついているかもしれないが、そもそも小奇麗で清潔な冒険者などというもの自体が矛盾しているのだ。ただ今のアリスのように、返り血を被ったままうろつくのは論外というだけで。
「……やっぱり魔術、勉強してみようかな」
疲れのせいか、宿に寄るのが面倒くさいと顔に書いてあるアリスの言葉に、レティシアは声をあげて笑った。
「あはははは! ずいぶん不純な動機だけど、その気があるなら歓迎するよ」
「……冗談、冗談だよ。戦士としても駆け出しなのに、この上魔術までかじったら、全部中途半端になっちゃいそうだし」
「まあ、そうだろうね。呪文や奇跡を操る戦士というのは珍しくはあるけど、決してあり得ない選択肢じゃない。でもそれは、どちらか一方である程度の経験を積んでからの話だ」
同じ人間が剣の修行にのみ打ち込んだ場合と、魔術の勉強を並行しながら鍛えた場合とでは、当然ながら前者の方が剣の上達は早いだろう。なにかを選ぶということは、別のなにかを疎かにするということでもある。ましてや駆け出しに過ぎない今の自分が魔術にまで手を出せば、戦士としても魔術師としても半人前の、中途半端な存在になることは目に見えている。いずれはそうした選択肢を考える日も来るかもしれないが、すくなくともそれは今ではないし、当分は来そうにない。
「……エリィから余裕で一本取れるくらいになったら、考えてみようかな」
「それはそれは。だいぶ先になってしまうかもしれないね」
「ちょっとぉ……」
あはははは、とレティシアは明るく笑う。知的で、普段は大人びて見える彼女だが、今は年相応にはしゃいでいる少女そのものだ。アリスにとって、それは好ましいことだった。普段と違う一面を見せてくれるということは、それだけの信頼を勝ち得ているのだから。それに、明るく笑う彼女は同性の自分から見ても魅力的に映った。
軽口に応じ、他愛のない話をしながら、戦士と魔術師は帰路につく。酒場で僧侶と合流してからは、一層話は盛り上がった。今日の戦果と戦利品、そして次の探索について──などと、真面目な話をしていたのは最初だけだ。運ばれてくる杯を重ねるうちに、話はどんどん横道にそれていく。そして、三人ともそれを修正するつもりはなかった。
互いを理解し、入念に準備を行って。それでもなにが起こっても不思議ではない迷宮へ赴き、全員が生きて帰ってきた。そのことが、嬉しくてたまらなかった。
その夜、三人の宴は酒場が看板を下ろすまで続いた──