パーティ結成
三人が執務室を出ると、受付前にごった返していた冒険者の数がずいぶんと減っていた。窓の外に見える空は黄昏色に染まりつつあり、一般の家庭ならそろそろ夕飯の支度をし始める頃だろう。ずいぶんと長い時間、話しこんでしまっていたようだ。
しかし、それは必要なことだったのだと今はわかる。三人が晴れ晴れとした表情で元の受付へ戻ると、腕組みをして気難しい顔をしたギルド長と、相変わらずの無表情で何事かの雑務をこなしている受付嬢が出迎えた。彼女らに気づいて表情を変えたのは、無論ギルド長だけだ。
「おお、戻ったか! ……で、どうするんだ?」
まるで世話焼きのオジサンなんだから、と小声でエリィがぼやくように言う。だがそれも、今は彼女なりの信頼の証なのだとわかる。彼女が悪態を吐いたりからかったりしていたのは、今のところレティシアとギルド長だけだ。
そのうちわたしもその中に加わることになるのかな──そんなことを考えながら、アリスは宣言した。
「中断してしまって、すみません。わたしの冒険者登録と──エリィとレティシアを、パーティメンバーとして登録してください」
「……そうか。そうかそうか!」
アリスの答えを聞いたギルド長はまるで我が事のように嬉しそうに笑って何度もうなづくと、それでも足りなかったのか傍にいた受付嬢の肩を叩いた。氷のような視線がぎろりと返されたが、まるで気にした様子はない。
「心配してたわけじゃないんだが、いやよかったよかった!」
「……では、そのように。メンバー募集の件は、いかがしますか?」
一人騒ぐギルド長を完全に無視しながら、平坦な声で受付嬢が聞く。そういえば、ギルド内の掲示板でも募集はできるという話だった。
「……どうしたらいいと思う?」
アリスは振り向き、レティシアに向けて訊ねた。早速リーダーから知恵を求められた魔術師は、満更でもない様子で答える。
「通常、迷宮に挑むパーティは六人というのが通例なんだ。前衛三人、後衛三人の、ね。これには色んな理由があるんだけど、それは追々話すとして……とりあえずあと三人、募集しておけばいいんじゃないかな」
「そうね。応募があっても問題があれば断ったっていいわけだし。とりあえず盗賊と、戦士が二人かな?」
補足するように言ったエリィの言葉に、アリスは聞き返した。
「盗賊?」
「ああ、盗賊って言っても盗みや殺しをやるような賊の類じゃないわよ、もちろん。例えば罠の判別や解除、隠し扉の発見に宝箱の解錠とか……そういう専門技術を持ってる人のことを、この街では便宜上盗賊って呼んでるの」
「大きな都市では盗賊は職業として認められているからね。組合の一員として管理された上でスリや窃盗、時には暗殺まで請け負うそうだ。もちろん、冒険者として活動する盗賊もいる。まあ、この街には盗賊ギルドなんてものはないから、本当に便宜上の呼び名ってわけだね」
「なるほど……」
なんとなく、魔物退治と言えば前線で戦う戦士と傷を癒やす僧侶、呪文を使う魔術師がいれば成り立つものだと思っていた。実際戦闘だけならそれで事足りるのだろうが、自分たちが目指すのは迷宮の奥地だ。罠や隠し扉の存在は疑ってしかるべきだし、宝箱があったとしても鍵がかかっているだろう。
「それじゃあ、盗賊を一人と、戦士を二人。それから、できれば女性のみでお願いします」
思わぬリーダーの注文に、エリィとレティシアは顔を見合わせた。受付嬢も羊皮紙に走らせるペンを止めて、顔を上げてこちらを見ている。女性のみとはどういうことか、といった視線だ。
「……アリス。気持ちは嬉しいけど──」
申し訳なさそうに言うレティシアに、アリスは振り返り、笑って首を振る。
「ああ、これは別にさっきの話を聞いたからってわけじゃないよ。わたし、元々男の人とパーティを組むつもりはなかったんだ。異性とのパーティって、問題が起こることが多いって聞いたから」
「異性との混合パーティでも、うまく機能しているパーティは多くあります。ですが、仰る通り異性であることが発端となった問題で解散するパーティが多いのも事実です」
まるで助け船を出すような受付嬢の意外な言葉にアリスは驚いて振り返ったが、目に入ったのは相変わらずフードを目深に被り、ではそのように、と羊皮紙にペンを走らせる受付嬢の変わらぬ姿だけだった。もしかしたら、彼女も事情を知る一人なのかもしれない。
冒険者同士で組んだパーティが解散する理由は様々だが、とりわけ多いのが人間関係の問題からくる決別だ。例えば迷宮の探索や戦闘を伴う依頼の遂行時など、多大な負荷がかかる環境下ではふとした拍子に不平不満が噴出しやすくなる。それが平時ならば取るに足らないものだったとしても──いや、普段我慢していることが多いからこそ、極限状態に陥った際に暴発してしまうのだ。そうなれば、例え生きて帰れたとしても次にまた背中を預ける気にはなれないだろう。
もちろん、異性間の問題もそこに含まれる。魔物蠢く地下迷宮での探索、あるいは助けを求める人々の依頼に応じる日々──そういった時間を仲間たちと過ごすうちに、なんらかの絆が育まれるのはごく自然なことだ。だが、それが恋愛沙汰となるとまた話が変わってくる。二人の人物が互いに思い合うだけなら、大抵は祝福されるだろう。場合によっては他のメンバーが気まずい思いをするかもしれないが。問題はそうでない場合だ。一人の男、または女を巡って複数人が争うだけならまだいい方で、パーティ内の複数のメンバーに手を出した挙げ句、それがバレて刃傷沙汰に発展するようなケースもある。全く無関係のメンバーにとっては災難というほかないが、そうなれば解散以外に道はない。
もっともエリィとレティシアが遭遇したのはそれ以前の例であるし、同性だからといって"そういう関係"にならないとも言い切れないのが、自由奔放な冒険者というものだが──
ともあれこうして最初に互いのことを知る機会に恵まれて、良好な関係を築けているアリスたちは、ただの仕事仲間だと割り切ってパーティを組んでいる者達よりは幸運と言えるのかもしれない。
「実際のところ、そういう面倒を嫌って同性だけでパーティを組んでるやつらも少なくないからな。そう悪目立ちするようなこともないだろう」
新たなパーティが無事誕生しつつあることに満足したのか、ギルド長は最後に安心させるようにそう言うと、そろそろ仕事に戻ると言って、執務室へ引き揚げた。その大きな背中に向かってアリスたちが頭を下げると、大柄なギルドの長は片手を振って応え、扉を閉める。もちろん今度は両手とも空いていたので、ゆっくりと。
ふう、と小さくため息を吐くような声が聞こえた。アリスが頭を上げると、受付嬢は変わらず冷たい視線と表情で見つめてくる。気のせい、というわけでもなかっただろうが、聞けばさらに視線の温度が下がりそうだ。
ギルド長が初めて顔を出した時からの彼女の反応を見るに、どうもただの上司と部下というだけの関係には見えなかったが、他人の関係を根掘り葉掘り聞くのはあまり品のよい行為とは言えない。それが品性とは無縁の冒険者であっても、だ。
「後ほど掲示板にメンバー募集の知らせを張りだしておきます。志願者が現れた時はリーダーである貴方へギルドから使いを出しますので、そのおつもりで」
「わかりました」
「では──こちらが、冒険者登録最後の手順となります」
そう言って受付嬢は棚からなにかを取り出すと、それを受付台の上に乗せた。小指ほどの長さの、薄い木の棒だ。表面には呪文らしき文字が焼き印のように黒く刻まれているが、アリスにはそれがなにを意味するかわからなかった。
「これは……?」
「使用者の情報を保存する魔法の宝物だね。おっと、失礼」
魔術師としての知識欲を刺激されたのか、横合いから口を出したレティシアだったが、氷のような視線に射すくめられてすぐに口を閉じる。それを説明するのは自分の役目だと言わんばかりにお喋りな魔術師を睨みつけると、不愛想な受付嬢はその魔法の宝物を手に取った。
「……仰る通り、この魔法の宝物で貴方の情報を記録、保存します。保存したあとは二つに分け、片方をギルドで保管します。もう片方はこのあとお渡しする身分証──ギルド公認の冒険者であることを示す証と一緒にしてお渡しします」
訓練所へ行く道すがらレティシアが言っていたギルド加盟店のように、冒険者でなければ利用できない、あるいは不都合をきたすものがこの街には多くある。そんな時にギルド公認の冒険者であることを示す証明書のようなものが必要になるわけだが──
「残念ながら、自らを冒険者であると偽り、不当な利益を得ようとする輩はあとを絶ちません。そのために身分証の偽造、転売──過去にそうした事例があったため、現在はこうして一人一人専用のものとしてお作りしています」
要するにギルド公認冒険者であることを示す部分は共通だが、そこに持ち主の情報を記録したものを付属させることで単純な偽造や転売による悪用を防ぐ、ということだ。無論同じ魔法の宝物を使って同じ手順を踏めば偽造自体は可能だろう。例えいたちごっこになるとしても、対策をうつこと自体に意味があるのだ。
なるほど、これでは手数料がかかるというのもうなづける。魔法の宝物というものは、大抵が高価なものだ。
「では、先端に親指を乗せて、指で挟むように持ってください。すこし痛みを伴いますが、必要なことですのでご了承を」
「はい」
言われるがまま、アリスは差し出された薄い棒の先端に親指を乗せ、つまむ。その瞬間、親指の真ん中あたりにちくり、と針で刺されたような痛みが走った。それが合図だったかのように棒はぼんやりと光を放ち、刻まれた呪文らしき紋様がアリスの持っている場所から反対側へ向けて、ゆっくりと色が変わっていく。黒かった紋様が、赤く──血文字のような色に。
冒険者や魔術師、あるいはこういった品を扱う商人でもなければ、魔法の宝物が使用されているところなどそう見る機会はない。無論アリスにとっても、それは見たこともない不思議な光景だった。指先の痛みなど忘れ、食い入るように変色する文字を見つめるアリスに、レティシアがからかうように声をかける。
「仕組みが知りたいのなら、あとで説明させてもらうよ」
「あ、ああ……そう、だね」
冗談に付き合ってくれたリーダーに、ふふ、と小柄な魔術師は嬉しそうに笑う。刻まれた紋様が端まで全て赤く染まったことを確認すると、受付嬢に促されてアリスは手を離した。つまんでいた親指を見ると、本当に針で刺されたように、小さく出血した痕がある。するとあれは、自分の血の色だったのか──
情報を保存すると言われてもピンとこなかったが、この染み込んだ血で判別するのだろうか。あとで時間があれば、本当に聞いてみても良いかもしれない。きっと彼女なら喜んで教えてくれるだろう。
そんなアリスの感慨を余所に、受付嬢は赤く染まった棒を真ん中でぺきりとへし折った。元々そういう風に使うものらしく、綺麗に半分に両断されている。
少々お待ちを、と受付嬢は席を立って、背後の棚を探ってなにかを取り出した。先ほどの魔法の宝物と同じように台の上に置かれたそれは、金属の板のようだ。大きさは指を二本並べたくらいで、名札のようにも見える。表にして置かれた面には、冒険者ギルドを示す紋章が刻印されてあった。
「こちらがギルド公認の冒険者であることを示す、登録証となります。裏に先ほどの魔法の宝物を差し込めるようになっていますので、二つ揃っての身分証と考えていただければ結構です」
アリスが金属板を手に取って裏返してみると、なるほど受付嬢の言った通り、細く薄い板のようなものが通りそうな金属の四角い輪が二つついている。ベルトを通す金具の部分を小さくしたようなものだ。ここに差しこんで、肌身離さず持ち歩けということなのだろう。
「金属板の方は好きに加工していただいて構いません。鎖を通してネックレスやブレスレットのようにして身につける方もいますし、そのまま懐に忍ばせる方もいます。ただ、提示を求められればすぐに示せるようにだけ、気を付けてください」
「あたしとレティシアはそのまま背嚢に入れてるわ。すぐに取り出せるようにはしてるし、理由は違うけどね」
「ボクは特別な効果もないアクセサリーを身につける趣味がないってだけさ。魔術師としては、至極真っ当な理由だと思うね」
「どうするかはご随意に。ただし、紛失には気をつけてください。再発行は可能ですが、有料となりますので」
「わかりました」
「……では、これにて冒険者登録が完了となります」
そう言い、残された魔法の宝物の片割れをしまうと、受付嬢は立ち上がって居住まいを正し、初めて会った時からずっと被っていたフードを下ろした。三つ編みに緩く結んだ、淡い空色の髪が露わになる。アリスを正面から見つめる藍色の瞳にはそれまでの睨むような視線はなく、ただ真正面から相手と向き合う真摯さだけを映していた。
「冒険者アリス様。貴方がかの迷宮の謎を解き明かし、この街に平和をもたらさんことを、ギルド職員一同心より願っています。そして、そのために必要な支援を、私達は惜しみません」
「……ありがとう、ございます」
それまでとは一変した雰囲気をまとう彼女に圧倒されたように、アリスはぎこちなく礼を言った。こうしてフードを脱いだ姿を見てもそう年が離れているようには思えないし、背丈も自分より低い。しかしそこには、恐らくは何十人、何百人と冒険者を送り出してきたのであろう、送り出す側だからこその風格が彼女には感じられた。
だがそれも束の間のことで、ふっと無表情に戻った受付嬢はフードを被って椅子に腰を下ろすと、なにやら受付台の下をごそごそと探り始める。
「差し当たって、これが最初の支援となります」
その言葉とともに、どちゃり、と重たげな革袋が台の上に置かれた。
「支度金の500gpです。どうぞ、お受け取りください」
「……え?」
呆気にとられるアリスに、二人の仲間がくすくす笑う声が聞こえる。思わず振り向くと、レティシアはすっかり見慣れた動作で肩をすくめ、エリィは笑って、話を続きを、と手を振った。どうやら二人とも知っていたようだ。同じ手続きをしたはずだから、当然なのだが。
「先ほど申し上げた通り、私達は貴方の活躍に期待しています。そのためには、ロクな準備もせずに迷宮へ飛び込んだり、あるいは着の身着のまま街の外に飛び出して、魔物のエサになるようなことがあっては困るのです。ですので、せめてこちらで武具や薬品などの装備を整えていただければ、と」
「あ、いや、それはわかるんですけど……。じゃあどうして、最初に300gpを?」
最初に手数料として払った300gpは一体なんだったのか。最後にそのまま返すならともかく、増やして渡すのなら最初から差額分──つまり200gpを支度金として渡せばいいではないか。至極真っ当な問いに、受付嬢は微かに苦い顔をした。
「支度金の制度そのものは、ギルド創設時とほぼ同時期から存在しました。ですがただ登録するだけで資金を渡すとなれば、それだけを目当てにした食い詰め者が殺到するのは必定。ですので、一旦手数料という形で300gpを徴収することである程度の"ふるい"にかけ、登録後に改めて支援金とともにお返ししている、というのが実情です」
最近では差額目当ての金貸しなどもいるので、形骸化してはいますが──と、珍しく嫌悪を露わにして受付嬢は言った。潔癖な性格なのか、あるいはこの冒険者ギルドという組織や職務に誇りを持っているからこその反応かもしれない。
「ともかく、これで一通りの準備を揃えられるというわけだね。もう日も暮れかけているし、今日のところはしっかり準備を整えて、明日、迷宮に向かう──ということでどうかな? リーダー」
ギルドの窓から差しこむ陽の光は黄昏色に染まり、綺麗に磨かれた石床を染めている。一度の探索にどの程度の時間を費やすのかはまだわからなかったが、すくなくとも今からなにかしら行動を起こすには少々遅い時間になってしまったようだ。それに、今身につけている装備も含めてこれで準備万端かと聞かれれば首をかしげざるを得ない。なにせ、アリス自身は迷宮へ立ち入ったことすらないのだ。武器や防具以外にどんなものが必要なのかすら定かではないし、経験者のレティシアが準備をした方がいいと言うなら、今の自分の装備ではきっと不足しているのだろう。
パーティの頭脳たる魔術師の具申に、リーダーはうなづいた。
「わかった。そうしよう。それじゃあ……大切に使わせてもらいますね」
そう言ってアリスが資金を受け取ると、受付嬢はフードの裾を引っ張って顔を隠し、うつむき加減で応えた。
「……ご随意に。使い道の確認までは、ギルドではしておりませんので」
まるで照れ隠しのようにも聞こえたが、もしかしたら本当に照れ屋なのかもしれない。
まあ、そんなことを聞けばどうなるかは目に見えているので口にはしないけれど。
「たまにいるのよねぇ……思わぬ大金を手にして舞い上がって、そのまま賭場や娼館で使い果たしちゃうヤツ……」
「……我らがリーダーは慎重派のようだから、そんな心配は必要なさそうだけどね」
そんな例を実際に見たことでもあるのか、ぼやくように言うエリィにレティシアは顔をしかめた。500gpといえば、それなりに大金だ。きっと豪遊気分を味わえることだろう。次の日のことを考えなければ、だが。
「ともあれ、これでギルドでの用事は済んだんだ。次へ向かうとしよう。差し当たって行くべきところは──アリス、キミは今日街に着いたばかりだと言っていたけれど、今晩の寝床はどうするつもりだったのかな?」
「え、あー……そういえば、考えてなかったな。街に入る時、門番の人に冒険者になりたいんですって言ったら、ギルドに行くように言われてそのまま来たから」
「なるほど、ね」
言われたままに真っ直ぐギルドへ向かい、手続きを始めたというわけだ。素直というのは人として得難い美点だが、行き過ぎれば欠点にもなり得る。すこし気をつけた方がいいかもしれないな──そんなことを考えながら、レティシアは言葉を続けようとした。
「ここまで時間がかかってしまったのは、ボクたちにも責任があるからね。とりあえずは──」
ごほん、と咳払いが聞こえた。もちろんそれは話している途中だったレティシアでもなく、素直に聞いていたアリスのものでもない。そしてエリィはレティシアの話を遮る時、わざわざ咳払いなどしない。
残るは──
「アリスさんの冒険者登録は完了しました。お二人のパーティメンバーの登録と、メンバー募集の方も明日までには掲示板に張り出されます。ほかに、ご用件は──?」
口から氷雪でも吐いているのかと思うほど底冷えのする声で、受付嬢はあるはずのない用件を聞いてきた。つまり、用が済んだならさっさと行けということだ。
恐らくは目的地を言うつもりだったのだろう、レティシアは開きかけた口からはあ、とため息を吐いた。
「──とりあえずは、ここを出よう。確かに受付前で用もないのに長話をするほど、迷惑なこともないからね」
「あ……そうだね」
自分たちの後ろには順番を待っている者はいなかったが、それでも居座るような理由にはならない。それに、冒険者の応対だけが彼女の仕事というわけでもないだろう。これから長く世話になるというのに、わざわざ心証を害することはない。
アリスは受付嬢へ振り向くと、軽く頭を下げて礼を言った。
「ありがとうございました。それと、これからお世話になります」
「……それが私の職務ですので。お礼を言われることはなにも」
相変わらず愛想の欠片もない返答だったが、動じないのはアリスも同じだ。気にも留めず会釈すると、新米冒険者は仲間たちとともに立ち去ろうとした。
「──アリスさん」
その背に声がかけられて、足を止める。振り向くと、受付嬢は椅子から立ち上がって迷うような素振りを見せて、言った。
「……一つだけ、忠告を。あまり恩を"買い"過ぎないように。今のような態度で誰も彼もに接していては、無用なトラブルを招くこともあります」
恩を受ければ礼を述べ、頭を下げる。平和な村であればごく当たり前のことだったろうが、この街は違う。いや、なにもこの街に限った話ではない。誰かを騙し、陥れることで利益を得る──そうしたことを生業とする連中はどこにでもいて、この街も例外ではないというだけだ。冒険者ギルドという、ある種の権力の庇護下にいる時であれば問題はないだろうが、そこから一歩外に出れば、例え冒険者とて隙を見せれば食い物にされてもおかしくはないのだ。エリィが言っていた、『加盟店なら騙されたりぼったくられる心配もない』というのは、まさにその一端だろう。
もちろん同じ冒険者にだって、同業者を出し抜こうとする輩もいるかもしれない。だから、誰彼構わず礼など言うものではない──それはギルドの職員としての職務から外れた、個人的なアドバイスとも言えるものだった。だからこそ、今まで一度も見せたことのなかった迷う素振りを見せたのだろう。
アリスは彼女の言葉をしっかりと胸に留め置き──そして、やはり頼りなくも見える微笑みを浮かべて、礼を言った。それは自分にとって、間違いなく感謝すべき事柄だったから。
「ありがとう。覚えておきます」
「……はい」
本当にわかっているのか、いないのか──だがそれ以上受付嬢はなにも言わず、一行の背を見送った。